名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ニコライ2世 父と子の悲しみ

2015-06-30 01:07:33 | 人物
革命の犠牲になったロシア皇帝
皇帝としての不幸 父としての不幸





Nicholai Aleksandrovich Romanov
1868~1918








1. ニコライと家族
1868年、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフはアレクサンドロ・アレクサンドロヴィチすなわち後世のロシア皇帝アレクサンドル3世の長子として生まれた。







ときは16代皇帝アレクサンドル2世、ニコライの祖父の治世時代。
ニコライは、父アレクサンドルにスパルタ式の厳しい教育を受けて育った。早朝に起床、冷水浴、ベッドは軍用の簡易ベッド、質素な朝食。
3歳下のゲオルギーと部屋を分け合っての生活、学習。


左から ニコライ、父アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ、クセニア、母マリア・フョードロブナ、ゲオルギー


ニコライとゲオルギー




穏やかで生真面目、子供の頃は物腰に女性のようなところもあったニコライと、活発でユーモアがあり、健康的で頭脳明晰でもあった弟ゲオルギーは、対照的な性格ながら大変仲が良かった。宮廷生活のなかでは唯一の身近な友でもあった。


ゲオルギー、ニコライ、クセニア、オリガ、母、ミハイル






もう一人の弟ミハイルはニコライから10歳も離れていたので、ゲオルギーほど心は通わなかったようだ。ミハイルはさらに天真爛漫。ニコライとゲオルギーなら、こわい父におそろしくて絶対できないようなこと、例えば上階の窓から水をかけることなどを平然とやってしまうところがあった。ふざけたポーズの写真(大人になってからのものも含む)も後世に数多く残っている。


右 ミハイル


ニコライが13歳のとき、祖父アレクサンドル2世が暗殺される。
足元を爆破されたために、両足はちぎれ、顔もひどく損傷したが、皇帝は宮殿で死にたいといい、急ぎ運ばれ、ニコライと父アレクサンドルは早馬車で駆けつける。変わり果てた祖父の傍らに立ち、ニコライは怯えていた。
アレクサンドル2世は程なく薨去、父が即位し、ニコライは13歳で皇太子となった。



父アレクサンドル3世の戴冠式でのニコライ(中央)


ギリシャ出発で世界半周旅行。日本で大津事件が起きて世界旅行は取り止めになった。ニコライは決して日本嫌いなどではなく、むしろ日本をたいへん気に入っていて、特に人々が礼儀正しく笑顔で話すことと街が清潔なことに感動していた。事件後も日本側に過度に心配をかけないよう心配りをしている。ニコライとしては日露戦争開戦にも消極的だった




皇太子ニコライは、水色の瞳で優しい眼差し、穏やかでどんな時も声を荒げることはない。
フランス語、英語は完璧(オックスフォード大学教授がネイティヴと間違えるほど)、デンマーク語、ドイツ語も堪能。敬虔な正教徒。並外れた記憶力を持つ。
歴代のロシア皇帝はおろか、当時のヨーロッパの王侯のなかでも、教養の高さ、品性ともに最も優れていたという。

しかし、ニコライの生きた時代は、どんな賢帝でも治めようがないほど、困難な時代だった。
彼は、父帝のような残酷かつ冷徹な統率力は持たなかった。巨熊と言われた父帝は身長193センチで眼光鋭く、ニコライは169センチで、風貌もおとなしい。
そんな「巨熊」と呼ばれた父帝があっけなく病気で薨去、彼は26歳で即位しニコライ2世となる。
皇帝になりたくない、なりたいと思ったことすらない、何も準備かできていないと言って泣いていたニコライ。幼いときの話ではない、すでに26歳、父が他界して、即位が決まってからの話である!

しかし、ニコライはかねてから熱望していた、ヴィクトリア女王の孫であるドイツ公女アリクスとの結婚に力を得て、革命の火種くすぶるロシアにおいて専制君主としての統治に臨んだ。
アリクスとの結婚には多くの反対があり、生前のアレクサンドル皇帝も認めていなかった。しかし、ニコライはこの件に関してだけは恐い父に抗議して、どうにか許しを取り付けた。病床のアレクサンドルに対し、結婚を認めてくれなければ皇帝を継がない、といって弱らせたのであった。


のちに妻になるアレクサンドラとの出会い。このときブローチをプレゼントしたのだが翌日返してきたので、がっかりしたニコライは近くにいた妹クセニアにあげてしまった。ニコライの意志は堅く、しばらくはバレリーナのクシェシンスカヤと交際したが結婚相手はアリクスしか考えていなかった


皇后アレクサンドラ・フョードロブナ

婚約後、アリクスは正教に改宗し、名前もロシア風にアレクサンドラとする。アレクサンドラはドイツヘッセン大公女であるが、幼い時に母を亡くし、祖母エリザベス女王に教育を受けた。
イギリス式の質素倹約の精神、信仰心厚く教養高い女性で、気位が高く、あまり笑顔を見せない新皇后。
ロシア語で話したがらず、ニコライとは英語で会話した。そんな彼女はあっという間に宮廷で嫌われ者になり、孤立していった。社交的な皇太后とも折り合いが悪かった。
あまり社交術に秀でていないニコライだが、彼の方は持ち前の品格と、魅力的な青い目、穏やかな性格で、周囲から好かれていた。
しかし、内向的なアレクサンドラに合わせるために、晩餐会なども減り、次第に宮中の人々とは疎遠になってしまった。
しかしアレクサンドラは本来はとても細やかな心配りのできる人であったようで、バルチック艦隊のロジェストヴェンスキー中将と家族のために温かい取り計らいをしたこともあり、中将に絶賛されている。

2. 皇女、皇太子の誕生
ニコライはなかなか男子に恵まれなかった。
ロシアはエカテリーナ2世以降、女帝は認めない法律があった。
生まれてくる子が4人続けて皇女ばかりで、アレクサンドラはそのたび落胆し、精神的に不安定になっていった。
想像妊娠したり、まじないを受けに行ったりして、ようやく生まれた皇太子は、重度の血友病だった。それが皇后の家系に由来するものであることは明白であった。


皇太子アレクセイ誕生

目尻を下げるニコライ 穏やかさがにじみでている




皇太子の病名は当然極秘である。
皇帝と皇后は、突発的な息子の死の恐怖に苛まれながら日々を送ることになり、皇后はますます心を閉ざしていった。また、美しかった容貌は皇太子誕生以降、急激におとろえていったとともに、体調を崩しがちになった。そしてますます周囲から人々を遠ざけ、そのことでさらに孤独を深めていった。
不安から解放されるため、祈りの部屋にこもる時間が長くなり、私室の壁はたくさんのイコンで隙間もないほどになっていった。
母として、息子をいつ何時失うか知れない恐怖。その息子はロシアの唯一の皇太子なのである。またそのゆえに、誰にも相談できず、極秘を貫かねばならない。さらに苦しいのは、その病を愛しい息子に、そしてロシアの国にもたらしたのは自分の家系なのだということ。だれに責められるまでもなく、彼女自身が深く苦しんだことには心から同情する。あまりにも重い運命の重責だ。


4人の皇女と皇太子




皇太子アレクセイはたびたび発作を起こし、数週間から数ヶ月間を病床で過ごすことはあったが、そのたびどうにか回復して、元気な少年らしい生活を楽しむこともできた。
二人の水兵を見守り役につけて、彼が転んで出血することのないよう計らった。遊び相手は主に見守り役の水兵の息子たちで、水兵の監視のもとに安全に遊ばせていた。王族間のバカンスで従兄弟たちと一緒になっても、母は活発すぎる従兄弟たちと息子が遊ぶことを嫌い、アレクセイは遊びに参加できず、ただ見ているだけだった。

ニコライは歴代皇帝の中でロマノフ朝2代「温厚帝」アレクセイを最も尊敬していたため、我が子にその名を授けたのだが、意に反して、その子アレクセイはいたずら好きで乱暴、叱られると逆上して相手を叩いたり、大声で泣きわめいたりする手に負えない子に育ってしまった。
病を抱えた子ゆえに、あるいは唯一の皇太子であるがために、母は甘やかしてしまったようだ。アレクセイは父以外の誰の言うこともきかなかった。また、たびたびの発症による中断によって学問も滞りがちになり、本人の意欲も続かなかった。かなりの怠け者であったそうだが、頭の回転は速く、理解力は優れていたとのことだった。皇帝皇后共に大変教養が高かったにもかかわらず、皇女も皇太子もきちんとした教育が授けられていなかったと言われている。英仏文学には親しんでいてもロシア文学には疎かった。皇太子は12才の時点でロシアの地理をあまり把握できておらず、ロシアの名数がきちんと言えなかったらしい。


血友病でも安心なアレクセイ専用三輪自転車


いたずらっ子アレクセイのかわいいエピソードがある。
アレクセイは食事のマナーも悪く、ある時、テーブルの下に潜って女客のスリッパを脱がせ、トロフィーのように掲げて父に見せた。父に叱られると、片手に隠していた熟れた苺をこっそりスリッパに入れて返した。
靴を履いた女客は悲鳴を上げることになってしまった…

宮殿で姉達は自転車に乗っていた。アレクセイも乗りたがったが、禁じられていた。怪我が致命的になるからである。理由はわかっていても泣きわめいて抗議したこともあった。
そこである日、こっそり自転車を拝借して宮殿の庭をよろよろと走っていた。
ある角を曲がると、ちょうど父帝が閲兵しているところに飛び出してしまった。父帝の「捕まえろ」の号令で、彼はとうとう取り押さえられた。
ニコライのΣ(゜д゜lll)な顔がありありと目に浮かぶ、かわいいエピソードだ。



8歳頃 当時は手がつけられない悪戯者だった



3.血友病
1912年夏、8歳の皇太子はポーランドの狩猟場スパラでのバカンス中に最悪の事態を迎える。
皇后と皇太子は馬車で街に出かけようとしたのだが、馬車がひどく揺れるせいで、一度軽快したはずの内出血がみるみる悪化していき、急ぎ狩猟場のコテージに戻った。コテージにはたくさんの来賓も従者も宿泊している。
呻き声を上げる子を奥に隠し、普段通りの社交生活を続けねばならない父母。
パーティの合間、皇后は隙を見つけてはアレクセイのもとへ駆けつけ、また会場へ戻り、目で皇帝に様子を伝える。パーティーでは、何事もないように笑顔で談笑した。

しかし、数日もすると、周囲も皇太子が急に姿が見えなくなったことを怪しみ、あらぬ噂も立ち始めた。フランスの新聞では、爆殺未遂とまで報道された。
皇帝は皇太子が重病であることを公表せねばならなかった。ただし病名は公にせずに。

一方で、病状はもはや手に負えないほどになり、いよいよ最期の終油の儀式と、首都への「皇太子薨去」の電報を準備することになった。そこへラスプーチンの電報が届く。

「その子は死なない」と。

絶望していた皇后が落ち着きを取り戻すと、翌朝、皇太子の出血は止まった。ラスプーチンのことば通りとなったのである。


この騒動の最中に、駆け落ちして国外逃亡していたニコライの弟のミハイルは、新聞で皇太子の危篤を知り、慌てた。アレクセイが死ねば、自分が皇太子になり、そうすればロシアに連れ戻されて婚約者と引き離されることになる。とにかく大急ぎで結婚式を挙げねばならない、ということで、ロシアからの追跡者を振り払い、まんまと結婚式を挙げたのだった。
息子の重病でまいっているところへミハイルの手前勝手な行動を知り、さすがのニコライも激怒し、ミハイルを国外追放にし、皇太子の摂政の権限も剥奪した。


さて、ここでもう一人の弟ゲオルギーはどうしたのか、それを書こう。
あの、明るくて皆を喜ばせる存在であったゲオルギー。彼は18歳で海軍に入隊する直前、結核にかかってしまい、ひとり遠い地で暮らさねばならなくなった。父帝の葬儀にも参列できず、結婚もできず、のこり9年の余生を寂しく過ごす。
ある日、ひとり自転車で散歩に出た途中に喀血して倒れ、通りすがりの農婦に介抱されながら亡くなった。農婦はそれがまさか皇太子だとは思いもせず、哀れな男性を救おうとしたのである。
1899年のこと、ニコライに男子アレクセイはまだ生まれていない。その当時、ゲオルギーは皇位継承権第一位の皇太子(ツェサレーヴィチ)であった。ロシアという大国の皇太子にして、あまりにも孤独な死であった。



ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公(皇太子)
慣例では皇帝は自分の子にのみ皇太子(ツェサレヴィッチ)の称号を与えるのだが、ニコライは男子が生まれていなかったためもあり特別に弟ゲオルギーに与えた。しかしゲオルギーの死後は、もう一人の弟ミハイルには称号を与えず、アレクセイ誕生まではツェサレヴィッチ称号は空白だった

もしも、ゲオルギーがもう少し長く生きていたのなら、ラスプーチンに心酔する皇后の乱脈に皇帝が振り回されるのを阻止できたかもしれない。
次々に押し寄せる国難、戦争、革命に的確な判断と行動を下せない兄皇帝を、理性的に助けることができたかもしれない。
もちろん、持ち前の愉快な性格で宮廷や皇帝家族を明るくしてくれたかもしれない。
皇后とともにずるずると宿命論に陥ってゆくニコライに、ゲオルギーなら明るい光をもたらすことができたかもしれない。
つまりは革命は回避できたか、遅らせることができたか?

ニコライはゲオルギーの珠玉ジョークをカードに書き留めて小箱にしまってあり、のちの幽閉中、気分が塞いだ時などに時々取り出しては読んで懐かしんでいたという。








ロマノフ王朝300年記念





4. ラスプーチン
皇帝は1911年、自身の側近で優秀なストルイピンを暗殺により失い、のちに内大臣ウィッテをもラスプーチンの陰謀で失った。誰にも国政を相談できずに皇后に投げ出し、1914年の第一次大戦開戦後は、求められてもいないのに最高司令官として息子アレクセイを伴って、モギリョフの本営(スタフカ)に向かった。


ニコライとラスプーチンとの関係について。
さきのスパラでの一件以来、皇后はアレクセイのためにと、宮廷にラスプーチンを迎え、崇拝する。
ラスプーチンはその後、何度かアレクセイの危機を救う。しかし、ラスプーチンの存在は皇后にとって、アレクセイのためというより、寧ろ自分のために必要だった。ラスプーチンは巧みに彼女の望みに口裏を合わせ、取り入った。
もともと皇后は信心深いだけでなく、結婚前から神秘主義傾向があり、ラスプーチン以前にも呪詛まがいのものにすがっていた。宮廷で孤立する皇后がラスプーチンに寄りかかるほど、皇后に対する非難が増幅し、それは宮廷内にとどまらず、為政者や民衆の反感をかった。それまで民衆に慕われていた皇帝にまでも敵意が向けられるようになった。
ニコライとしては、アレクセイのことももちろんあったが、愛するロシア農民の偶像として、素朴なラスプーチンとの対話は貴重で、民衆を愛する皇帝としての彼なりのロマンを感じていた。
しかしともすると行き過ぎて、ラスプーチンの言いなりになる、あるいは共同戦線を張る皇后をたしなめることはあったが、しかし皇后に言い返されたり泣かれたりすると、たちまち自分が皇后の言いなりになるのだった。
ニコライにとっては、この時期はアレクセイの突発的な病気の恐怖以上に、恒常的に体調不良で情緒不安定な皇后のことを心配せねばならなかった。今の病名で言うなら、不安神経症とかうつ病のような病状だったようだ。
ニコライはあわれな皇后を愛するあまり、皇帝として盲目になり、国政に、愛するロシアに、ひいては自分の命に、そして自分の命をかけて守るべきはずの皇太子の命にまでもじわじわと致命傷を刻んでいった。




5. スタフカ
モギリョフのスタフカ(本営)にてアレクセイと過ごす日々は、ニコライにとって最も幸せな日々だったに違いない。
狭い部屋で息子と過ごす喜び。その成長には人一倍の切なる願いがある。ロシア唯一の皇太子を守る皇帝として、重病の子の父として。







スパラでの発病以来、アレクセイは他者を思いやることのできる優しい子になった。いたずらは相変わらずであったそうだが。

兵達は皇太子が一兵卒の格好であるのに驚いた。兵の体験話に食い入るように耳を傾け、そして宮廷風の食事を拒否し、兵士と同じ黒パンを食べようとする皇太子は、スタフカの皆の光となり、皇帝にはそれが心から嬉しかったようだ。
勲章を一つもらったときはとても誇らしく立派になった気分を味わった。その分、いたずらもエスカレートしたようである。各国駐在武官らがよく遊び相手になってくれたようだ。水かけ遊びを楽しんだらしい。無邪気に振舞う映像がいくつも残されている。社交的と言えば社交的、ただまだ人懐っこいほんの子供であった。








スタフカの夫と息子を訪ねたアレクサンドラ

しかし、戦況が苦しくなる一方で、首都では皇后が壊し続けた内閣も議会も、そしてついには帝政も、革命によって粉砕されようとしていた。アレクサンドラは敵国ドイツの出身だからと、「ドイツ女」「スパイ」などと中傷されていた。戦況の悪さが内政崩壊に拍車をかけた。


スタフカでのあたたかなエビソードがある。
1916年12月のある夜、英国の駐在武官ウィリアムズ将軍は、英国陸軍士官でフランスにいた長男が負傷して死んだという知らせを、イギリス本国から受け取った。
将軍が、かれの飾り気のない小さな部屋で悲しみに沈んでいると、ドアが静かに開いた。
それはアレクセイであったが、彼はこう言った、

『パパが、あなたは今夜淋しくお感じになっておられると思うので、行って一緒にいておあげなさい、と私に言いました』

この父子のこうした優しさが、ロシアにまだ残っていた時代はもう、すぐそこで消えてしまう。このあとの革命は全てを残酷に踏みに荒らし、血で血を洗う時代をもたらすのである。
アレクセイはこのあとクリスマスのため宮殿に戻り、2度とスタフカに姿を現すことはなかった。革命が起きたのは翌年の2月だからだ。


ロシア革命



6. 帝政崩壊
1917年3月12日、ロシア帝国政府が崩壊、過激化する首都は臨時政府によって抑えられた。
紳士的な立場を強調したい臨時政府は、暴力による退位ではなく、皇帝の自発的な退位を求めた。
ニコライ2世の退位及び新皇帝アレクセイ2世の即位を迫られ、ニコライは熟慮の末、署名をする。
しかし、署名の手続きのための数時間のうちに、医師に血友病のことを相談したニコライは、アレクセイへの譲位は取りやめることにした。
医師によれば、血友病を抱えているとしても、長く生きることもあり、即位には問題ないこと。ただ、ニコライ皇帝は退位後はアレクセイのもとを離れねばならなくなること。アレクセイが成人するまで手許において養育できると考えていたニコライは困惑した。
そうなればアレクセイは他の者たちの手に渡ることになる!
不安な病をかかえているのに!

そこで、ニコライは恩赦によって既に帰国させていたミハイルに譲位することとした。
しかし、臨時政府が望んでいたのはミハイルではない。

『幼い皇帝の即位によって、国民や軍隊から同情を集められる』
と想定して、アレクセイの即位を求めていたのだ。いかに父子であっても、皇帝が未成年者に皇帝継承権を放棄させる権利はなく、完全な違法あった。
さらにミハイルにはかつてスキャンダルもあり、アレクセイの摂政に就くことにさえも反対する者が多かった。

ミハイル大公

結局、そうこうしているうちに臨時政府は共和制を望むソヴェートを抑えることはできなくなり、新皇帝ミハイルに対し、新政府は『命の保証はできない』と告げる。ミハイルは落涙し、しばしの沈黙のあと自ら退位する。たった一日の即位、これでミハイルで始まったロマノフ朝はミハイルで終わることになった。
そして。「イパチェフ」で始まったロマノフ家はのちに「イパチェフ」で果てることになる。
あの華々しい300年祭からたったの4年、王朝はあっけなく散った。
のちにミハイルは皇帝一家殺害に先立って銃殺された。ロマノフで最初に殺害されたのがミハイルである。



この経緯を、12歳の皇太子アレクセイはどう受け止めたのか。

『・・ベビー(アレクセイを父母はこう呼んでいた)に知らせる役は、教育係のジリャール(フランス語教師)が引き受けさせられた。

『ニコライ2世とアレクサンドラ皇后』
ロバート・K・マッシーより


「ねえ、あなたのお父さまはもう皇帝であることを望んでいないのですよ」

少年はびっくりして彼を見つめた、そして何があったのか彼の顔から読み取ろうと務めた。

「パパはひどくつかれているんだね、この頃たくさんむずかしいことがあったから。あっ、そうだ!ママが言ってたよ、パパがここへ戻ろうとしたら、列車が止められたって。でもパパはまた皇帝になるんだよね、あとで?」

ジリャールは、皇帝がミハイルのために退位したが、ミハイル叔父が帝位を拒否したことを説明した。

「それなら、いったい誰が皇帝になるの?

「今は誰もいません」

アレクセイは真っ赤になって、しばらく黙っていた、だが自分のことは尋ねなかった。
それからぽつんと言った。

「それなら、もうツァーリがいないなら、いったい誰がロシアを治めるの?」

この問いかけが善良なスイス人には無邪気で子供っぽいものに聞こえた。
それも「幼子の口調で」。
彼は数百万の人々と同じように聞いた。
誰がツァーリになるのか、いつもツァーリがいた国の新しいツァーリに。

革命は専制君主を撲滅することができなかった。それは国民の血の中に生きているからだ。だから彼はまた来る。新しいツァーリが。革命のツァーリだが、やはりツァーリだ』
『皇帝ニコライ処刑』
エドワード・ラジンスキー


新しいツァーリ。
それはレーニンやスターリンであり、そして今はプーチンである。

皇太子が血友病であることは公表はされていなかったが、推測はされていた。1912年11月9日ニューヨークタイムズで「Czar's heir has bleeding disease」のタイトルで報道されている。





ニコライがアレクセイの即位を放棄したことは非常に残念に思える。血友病のことは政府はもちろん把握していなかったが、医師は、今後怪我を避けられれば長く生きることは可能、即ち即位は可能だともニコライには伝えている。
ニコライにとって、アレクセイへの譲位拒否は、自分の親としての心配を優先したからなのだ。成長するまでは自分のそばで教育したい、見守りたい。当初それが叶うと思ったらしいが、退位となれば自分が国外追放になるだろうと聞かされ、願いが叶わないことを知った。それでアレクセイは即位させないことにしたのだった。
彼は皇帝として、自分がロシアのために犠牲になるのは厭わないとしつつも、愛児を差し出すことは拒んだ。
しかし、たとえこれほどの艱難の時代であっても、皇帝は、自分が帝位を去るのであれば皇太子にあとを継がせるのは義務だ。
命が保証されなくても差し出さねばならない。
ロシアの民衆たちは皆、戦争に子供を差し出しているではないか。戦争に踏み切ったのはニコライ自身だ。
ここでアレクセイが幼帝として即位しても、いずれ過激なボリシェヴィキが台頭すれば、幼帝だろうが殺害されたかもしれない。のちに皇帝を銃殺したのもボリシェヴィキであり、娘たちも、まだ子供のアレクセイも、容赦無く処刑している。
アレクセイは当時12歳。親元を離れ、皇帝になることなどイメージもできない様子だ。
26歳で即位したとき、ニコライは泣いていた。
そしてこれまで、自身がどれほど苦しんできたか。それでも最後まで自制心を失わず、気品を失わなかったニコライ2世。
失礼な相手にも礼を欠かない節度を持ち、退位する皇帝の立場からの、素晴らしい名文の詔書をも遺した。臨時政府の代表が、自分の持参した声明文を恥ずかしく感じたという。

退位後の、民衆によるさまざまな侮蔑的な態度にも耐えて、ようやく宮殿に戻り、家族に会い、安堵したニコライは、一度、妻の前でだけ号泣し、あとは宮殿内での軟禁生活を家族とともに過ごした。
静かな人生を望んでいたニコライにはむしろ、貴重な時間であったろう。悔しい思いは心にしまい、、、。


退位後 宮殿で軟禁中
宮殿の雪かきを自ら行う
ニコライは本当によく体を動かす



7. トボリスクからエカテリンブルグへ~銃殺

このあと、臨時政府は次第にソヴェートに押され、皇帝一家にも危険が迫り、ツァールスコエセローからシベリアのトボリスクに移送される。


トボリスクのガバメントハウス





ここでもニコライは積極的に薪を切ったり、野菜を育てたり。家族の誰よりもよく働いた。

このころはアレクセイも健康であり、元気すぎるほど元気な時期を過ごした。有り余った元気で、彼はとんでもない遊びを考えた。ボートにソリをつけて、階段から外まで滑り降りるというものである。
どう考えても怪我は避けられなそうな遊びだが….。
果たして彼は怪我をする!
家中のものが、びっくりする大音響とともに。
そして、当然のように、その日から血友病の痛みにもがき苦しむことになった。



彼の病歴はなかなかすごい。
椅子の上に立ち上がって落ちて発病、
ボートに飛び乗ってオールを支える金具で股をうち発病、
乱暴にくしゃみをして鼻出血で発病、
椅子から落ちる真似をして本当に落ちて発病、
そしてこの自爆的ソリ事故、
その後ソリ事故の怪我が軽快してから父母が先行して移送されていたエカテリンブルグへ到着し、初日はしゃいでハンモックに飛び乗って膝を打ち発病。
この件、ニコライも日記に「わざと?」と書いている。
しかしとうとうこれ以降、アレクセイは歩くことができないまま銃殺のときを迎えることになった。

膝を打撲したり、関節に強い力がかかると脚が曲がったまま伸ばすことができなくなり、矯正するのに半年ほどかかる。
例のスパラの事故の4ヶ月後にロマノフ朝300年祭があったが、アレクセイはまだ回復せず歩けなかったため、護衛兵に抱かれて参列した。
周囲では、未来の皇帝の頼りない将来を案じて、ため息がもれた。
この時期の記念写真が多数あるが、アレクセイは曲がった左足を段にのせたり、椅子に座ったりの姿で撮影されている。





1918年7月17日、最期のとき、処刑の部屋に向かうときに彼を抱いて運んだのはニコライだった。
アレクセイは背がかなり伸びて、父と変わらないほど。とても痩せてしまっていたが。

幽閉先エカテリンブルグでの最後の日々は、ニコライは病気のアレクセイを移動ベッドに乗せて部屋から部屋へ動かしていたという。
そのころアレクサンドラは、自分の頭痛と闘うのが精一杯であった。
彼女はエカテリンブルグへの移動のときも、息子が病気で呻き、母の名を呼んでも答えず、夫について先に行ってしまった。皇太子ではなくなった息子の病気に、付き合う力すら無くしたのか。
徐々に、彼女にはニコライを支えることが生きがい、いや使命となり、そして最後は自分の尊厳を保つことに必死だったと思われる。



エカテリンブルグ イパチェフ館
皇帝ミハイルに始まってミハイルで終わったように、ロマノフの歴史はイパチェフ修道院での戴冠式から始まりイパチェフ館での銃殺によって終わった




8. ヨブの日に生まれて
エカテリンブルグに迫りつつある白軍に助けられることを密かに望みながらの、絶望的な監禁生活。
ニコライは5月6日、聖ヨブの日に生まれている。
ヨブは神に試されて、非常に困難な人生を送らされる、旧約聖書中の人物である。
ニコライは、自分がヨブの日に生まれたことを子供の頃は不安に思い続け、さらに皇帝になって困難に直面するほど、またアレクセイの病気に接するほど、宿命論に陥り、悲観的になりながら、全てを甘んじて引き受けようとするようになった。
しかしその判断停止が軍や国民を道連れに巻き込んでしまう。妻の妄言を、理性では認められなくても許してしまう。信心深く、忍耐強い性格ゆえに、宗教に絡め取られてしまう。

温厚帝として治めたい理想はあったが、時代がそれを許さず、血の日曜日事件、日露戦争など不幸にも悪いイメージを植え付ける事態を起こし、温厚帝ニコライは幻となった。




アレクセイは、生まれながらに皇太子であり、痛み苦しみながら生きてきて、12歳で将来をうばわれ、自由もうばわれ、13歳で銃殺に。
13歳、それはニコライが皇太子になった歳だ。
ベッドの脇で震えて見ていた祖父帝の死。
アレクセイは、その歳で、傍らに立ち自分を持たれかけさせていた父が撃ち抜かれ、母も姉達もそして自分も殺される。そして、最も残酷なことに、父も母も即死だったのに、歩けないアレクセイは椅子に身をかがめたまま、たくさんの銃弾を受けてなお死ねず、家族らの血の海の床でもがき苦しまねばならなかった。皇帝と皇后が身を削って守ってきた最愛の息子に、最期に最もむごい恐怖と苦しみを授けてしまうことになった。たった13の子がこの恐ろしい現実をどうして受け止められようか。最後のひとりになってしまって。


暗殺から数日後のニュース
ニコライは処刑されたが家族は無事だと書かれている。ソビエトの偽りの公式発表のとおりである




『1917年 アレクセイ13歳 現在の苦難の時に神が彼に健康と忍耐と心身の強さを与えたまわんことを』
1917年7月、父はアレクセイの誕生日に、日記にこう記していのだった。


たまたま見つけたものだが、聖書の「イザヤの預言」(イザヤ50 6-7)より、「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。」ニコライは退位後にさまざまな屈辱的な嫌がらせを受けたが、まさにこの書に記されているとおりの態度であった。そうしたようすを見るとアレクセイは悔しがり、悲しんだ。しかし一度、司祭の告解を受けた時に、ニコライはこの苦しみを語り、家族が可哀想だと涙を流していたという。



9. 森の中で
皇帝一家の遺体が発見されたのは70年後、あろうことか道路の下に埋められていたため白軍の調査員も発見できなかった。
しかしそこにアレクセイと皇女ひとりの遺体がなく、その発見にはさらに20年待たねばならなかった。
最後の二人は、森の白樺に囲まれたところ、そこで90年間、埋められていた。

「ぼくが死んだ時は、小さなお墓を森の中に建ててよね」

スパラでの苦しみのとき、死を覚悟したアレクセイは、痛みのない比較的平静なときに静かにこう言った。
ときのツェサレーヴィチが亡くなるとなれば、森にお墓を、なんてことは望んでも不可能だったと思うが、はからずも彼の過去の望みのとおり、森に眠ることになった。









ガラクタと、犬と

ガラクタのこと。
1919年1月になって、白露政府は皇帝一家銃殺事件を徹底的に調べることにした。
先述の通り、1997年の遺体発見に至るまでには、赤の時代、第二次大戦も経て70年後になるのだが、最初に遺体を運んだと思われる廃坑周辺には、数多くの遺留物が見つかっている。
ブローチ、十字架、留め金、軍帽の破片。酸に溶け、斧や鋸の跡がある骨片。
調査に立ち会った元家庭教師ジリャールが、それぞれ誰のものなのかを報告した。
そのなかで、釘、錫箔、銅貨、小さな錠が一塊りになって発見され、調査員を困惑させていたが、ジリャールに見せると、それは皇太子のポケットにいつも入っているガラクタだと確認した。
ふつうの民衆の男の子のポケットにも入っていそうなもの。
男の子のお守りみたいなもの。
誇らしく肩章や勲章を付けた軍服のポケットに、こんなものが入っていて、時々手持ち無沙汰に握りしめたり、こっそり手のひらに出して眺めたり。
皇太子とはいえど、こんな素朴な少年が、新しい国の形を築くための犠牲となった。

今では皇帝一家全員がロシア正教における新致命者として、列聖に準じるかたちで祀られている。
それよりも、少年アレクセイも少年ニコライも、森や海に帰れれば、もっと幸せかもしれない。
もう皇帝でも皇太子でもなく。

犬のこと。
アレクセイは赤毛のスパニエル犬、ジョイを飼っていた。主人が殺害された翌日、閉ざされたドアの前で寂しそうにクンクン泣いていたのを警備兵が見つけ、「食べ物がなくて死んだらかわいそう」と、連れ帰り飼っていた。他にもアレクセイの私物をいくつか持ち帰っていたが、アレクセイと犬の写真は当時、世界中に出回っていたため、たちまち足が付いた。のちにこの犬は近くの英国大使館員が本国に連れ帰り、すでに目が弱っていた老犬は丘を駆け回って数年を生きたという。トボリスクに軟禁中、アレクセイは元家庭教師への手紙のなかで、ジョイは好き勝手に塀の外へ抜けて出て、町の犬たちと遊んで帰ってくるし、ゴミを食べてきたりするので太っています、と書いている。こまっているような、しかしそれ以上に羨ましい気持ちが優っているのではないかと思われる。

かつて、この犬とアレクセイの映像を、映画館のニュース映画で流そうという話が持ち上がり、アレクセイに聞いたところ、「犬のほうが賢そうに見えてしまうから」というので見送られたという。微笑ましい話。