名のもとに生きて

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前世紀のウィリアム王子 墜落の涯

2015-09-22 00:12:26 | 人物

忘れられたもうひとりの
美しきプリンス・ウィリアム
William of Gloucester




His Royal Highness Prince William of Gloucester 1941~1972

現在、王位継承権第2位のウィリアム王子(ケンブリッジ公)は1981年生まれです。父であるウェールズ公チャールズは1948年生まれで、チャールズの母は現女王エリザベス。
一方、ウィリアム・オブ・グロスターはエリザベス女王(1926年生まれ)の従弟にあたります。
つまりチャールズはウィリアムの甥なのですが、7つ年上のウィリアムに幼い頃から憧れていたチャールズは、初めて誕生した息子に、亡きウィリアムの名を授けたのです。
43年前に30歳で早逝したウィリアム王子について記します。







15歳年上の従姉エリザベスと





ウィリアムとグロスター公夫妻、ルイス・マウントバッテン夫妻
ルイスとヘンリーは同い年




父グロスター公ヘンリーは、英国王ジョージ5世(在位1910~1936)の第3王子。ジョージ5世の次代は第1王子がエドワード8世として即位、しかし離婚歴のある女性との結婚を認められなかったため、1年足らずで王位を破棄するというハプニングがあり、そのあとは第2王子がジョージ6世として即位(1936年)。1952年からはジョージ6世の死去に伴い、その第1王女がエリザベス2世となり、現在に至っています。

ジョージ5世には5男1女があり、第4王子はケント公ジョージ(1942年、第二次大戦中空軍パイロットとして自ら操縦していた機体が墜落して死亡)、自閉症や癲癇の持病のため隠棲させられていた第5王子ジョンは12歳で病没しました。
成人した4人の王子の中で、ヘンリーは目立たず、兄弟たちと比べて容姿が劣っていることがコンプレックスだったようです。他の兄弟が皆海軍学校に進んだのに対し、ヘンリーは陸軍でキャリアを積み、最終的にオーストラリア総督を務めました。
周囲にあまり好感を持たれないヘンリーでしたが、妻アリス王女の人柄がそれを補っていたようです。

若い頃のヘンリー

後列左からジョージ6世、エドワード8世、ヘンリー
前列左からジョン、メアリー、ジョージ





グロスター公には1941年にウィリアム、1944年にリチャードが生まれ、リチャードは現グロスター公です。
ウィリアムは出生の時点では、王位継承順位第4位です。
ウィリアムは1947年にエリザベス王女とフィリップ・オブ・マウントバッテンの結婚式で、同い年の従弟マイケル・オブ・ケントとともにページボーイを務めました。



エリザベスとフィリップの結婚式



左はマイケル・オブ・ケント
マイケルの名はニコライ2世の弟のロシア大公ミハイル・アレクサンドロヴィチに由来しているとのこと。マイケルの祖母エレナはミハイルの叔父ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の娘であり、ロマノフ家系であることを誇示した。孫の名をミハイルに紐付けたのもそうした狙いがある。皇后や皇太后がそれを知ったら頭から湯気を出して怒ったことだろう。
ミハイル同様、マイケルもその後、離婚歴のある女性と結婚して王位継承権を放棄した


王太后メアリー妃とウィリアム、リチャード

右下にウィリアム、その斜め後ろにチャールズ皇太子

















一般に王室の子息は軍の経歴を持つべく、海軍学校や陸軍学校に進むのですが、ウィリアムは1960年にイートンを卒業した後、ケンブリッジ大学マグダレーナカレッジに進学します。ウィリアムはふつうの学生として学生生活を送っていたため、周囲の人たちは彼が王子であることほとんど知らなかったそうです。
1963年卒業後は、スタンフォード大学で政治学、アメリカ史、ビジネスを学びました。









帰国後、ウィリアムは原因不明の発熱などで数ヶ月苦しみました。詳しい検査の結果、ポルフィリン症という血液の難病を持っていることが判明しました。
ポルフィリン症は、英王室やハノーファー家などの家系にたびたび現れる遺伝病です。王室の遺伝病といえば血友病が有名ですが、血友病がヴィクトリア女王時代から出現したのに対し、ポルフィリン症はかなり遡った時代から脈々とあらわれています。なかでもジョージ3世が罹患していたことが有名ですが、メアリー・スチュワートもポルフィリン症であり、ウィリアムの両親ともにメアリー・スチュワートの血を引いています。
治療は対症療法しかなく、重症化すると死に至ることもありますが、全ての保因者が発症するわけではありません。生後すぐ発症する場合もあれば、思春期後に発症する場合もあります。激しい腹痛と皮膚疾患、場合によって鬱や発狂に至ることがあります。日光に当たることで増悪します。
ウィリアムの場合は小康を保っているので、ひとまず日焼け止めを使って普通の生活をしていました。ポロやスポーツカードライブ、軽飛行機操縦や長期のバックパック旅行を楽しむアウトドア派のウィリアムなので、発症して暗闇で生活せねばならないとなれば耐え難かったことでしょう。













大学卒業後は王室のものとして外交に関わる仕事を始めます。1968年からは日本の英国大使館で従事しました。そこでウィリアムは運命の出会いをしました。Zsuzsi Starkloffとの出会いです。
スタルクロフは労働者階級のユダヤ系ハンガリー人で、16才で最初の結婚をしたが娘を連れて離婚、数年後再婚、アメリカ人パイロットの夫とともに日本で暮らしていました。スタルクロフ自身はレブロン化粧品の日本のモデルの仕事をしており、日本語も上手に話したといいます。
1968年、ウィリアムは当時27才、友人がパーティーを企画し、そこでスタルクロフと初めて会いました。簡単に紹介されただけでしたが、スタルクロフは手紙を書いてウィリアムのいる大使館に届けさせます。

"Dear Prince Charming. We heard a party is not a party without you, and besides I'm missing a slipper."

そこにこうサインしました。

"Cinderella" と。

そして彼はパーティーで、彼女のいるテーブルにやってきて

“May I borrow Cinderella for a dance?”


これは今でも彼女の中の最高の思い出だと、現在も存命の彼女が語っています。
6歳年上で2度の離婚歴と2人の子供の母でありながらシンデレラを気取るとは、私にはどうにも理解不能です。しかし彼らは惹かれ合い、東京近郊に家を借りて同棲を始めました。



次第にこのスキャンダルは周囲に知られることになり、当然のごとく反対されました。スタルクロフはたちまち「第2のシンプソン夫人」とあだ名されることになります。
ウォリス・シンプソンは2度の離婚歴のあるアメリカ女性で、まだ離婚していないうちから公然と国王エドワード8世の妻のように振る舞い、このことからエドワードは退位していました。スタルクロフの場合、プリンスの王位継承順位は低かったので(当時9位)その点では影響は少なかったものの、年上で子供もいて、外国人で、カトリック教徒のため異教徒の扱いになり、公には指摘されないまでもユダヤ人であることまで含め、あらゆる意味で王室に相応しくありませんでした。そんな中、ウィリアムの父ヘンリーが脳卒中で倒れ、ウィリアムは帰国しました。
数ヶ月後、スタルクロフはイギリスにやってきます。ウィリアムは意を決し、病気の父に気遣いながらも家族に彼女を紹介し、女王にも結婚の意思を表明しました。
家族も女王も表面上は温かく接したものの、結婚はいま一度よく考え直すように諭しました。
ウィリアムは塾考の末、一度、関係を“on hold”することにし、スタルクロフは娘のいるニューヨークへ行きます。
近年、スタルクロフが言うことには、その後もプリンスとはたびたび会っていて、死の直前にウィリアムから、結婚を成就できる可能性を見つけたので近いうちに会おう、という電話があったとのことです。しかしそれは、彼女の言葉以外に物的な証拠は何もないため定かではありません。
スタルクロフはその後アメリカに住み、再婚はしませんでしたが、愛人の勧めで軽飛行機のパイロット資格を取り、スクールを運営しているそうです。






ウィリアムの死は突然やってきます。
1972年8月28日。
かつて、悪天候下の16時間飛行も経験したベテランパイロットであるウィリアムは、パイロット仲間と二人組でレースに出場しました。
事故は離陸後すぐに起こりました。
高度がどんどん低下し、翼が木に接触したあと、観衆の視界から消え、その後爆発が起こりました。ウィリアムも同乗者も即死でした。

事故の原因を調査したレポートによれば、原因はいくつか考えられ、離陸時のエンジン出力不足あるいはほぼ同時に離陸した他機による妨害あるいは急激な旋回が、原因であった可能性が高いとのことです。ひとつ、専門的な分析で判明したのは、機体の落下状況からの推察によると、本来なら村の上でクラッシュしたはずのところを、彼らは最後に最大限の努力をして被害を避けた、ということです。

ウィリアムの死の報を受けて、オリンピックや各国への外交に出かけていた王室の人々はロンドンに急ぎ戻り、9月2日に葬儀が行われました。当時、病気が重かった父親ヘンリーに、母アリスは息子の死を知らせませんでしたが、父はテレビの報道でその死を知っていたのでした。
















30歳での早すぎる死。
切断された彼の未来は、どんな未来だったのでしょう。
その死から9年後、チャールズ王太子は将来の国王となるべき直系の息子の名をウィリアムとしました。
ウィリアムは、母ダイアナの離婚や事故死を乗り越え、現在33歳。
望み通りの結婚を果たし、世継ぎの愛児にも恵まれ、幸せな王子としての時を刻んでいます。
40数年前に絶たれたウィリアム王子の未来を、繋いでいる。時を超えて、顔貌のよく似た2人のウィリアム王子が手を携えて未来を歩む、あたたかな幻が見えるようです。

ケンブリッジ公ウィリアム 幼少時



ウィリアムと弟ヘンリー

ケンブリッジ公ウィリアム

ウィリアム・オブ・グロスター




haemophilia and porphyria

⬆︎王室に伝わる遺伝病の血友病とポルフィリン症をリポートしている番組です。
ビデオ前半が血友病、後半がポルフィリン症になっています。
レオポルド、アレクセイ、アルフォンソ、ジョージ3世、メアリー・スチュワート、ウィリアムが取り上げられています。





画像は感謝してお借りしました








2 コメント

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返信 (geradeaus)
2016-02-28 00:57:39
写真の解説について、ご指摘どうもありがとうございました。
ポルフィリン症を受け継いだことが、王子の生活スタイルの方向性に何がしかの影響を与えたかどうかはわかりません。事故との関連もわかりません。ただ、ご家庭が背負ったものも重かったと思われます。
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Unknown (ヘロ)
2016-02-27 23:24:12
まず、ジョージ5世の成人した息子4人が写っている写真の説明で、ジョージ6世とケント公が逆だと思われます。
私も最近この方に興味を持ち、調べたりしていますが、現在もしご存命なら74才、どんな方になっていたのかなという興味もあります(その点不吉な名前と言えなくはないかもしれませんが)。あまりお父上には似ず、おじのエドワード8世やケント公のようなプレイボーイ気質だったという印象ですね。
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