名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

20世紀の殉教者 エリザベータ・フョードロヴナ・ロマノヴァ

2015-11-23 15:44:35 | 人物

夫を暗殺したテロリストを赦し
自らもロシア革命で暗殺された元皇女
Sister Elisabeth Feodorovna




Holy Martyr 新致命者
Elisabeth Alexandra Luise Alice of Hesse by Rhine
Елизавета Фёдоровна Романова
1864~1918




誕生~幼少
エリザベータ、通称エラ(Ella)はヘッセン大公ルートヴィヒ4世の次女。エラの母アリスは英国ヴィクトリア女王の次女である。アリスは2男5女を生んだ。
長女ヴィクトリアはバッテンバーグに嫁いだ。ルイス・マウントバッテンの母であり、エディンバラ公フィリップの祖母である。
三女イレーネはプロイセン皇帝ヴィルヘルム2世の弟に嫁ぎ、四女アリクスはのちにロシア皇后アレクサンドラとなる。
長男エルンストがヘッセン大公家を継いだが、次男フリードリヒは血友病で早逝した。姉妹のうち、イレーネとアリクスは息子に血友病が出現したため血友病保因者であったとわかる。
五女マリーは4歳のときに、不在だったエラを除く家族皆が同時期に麻疹にかかり、幼いマリーは命を落とした。その翌月、看病による過労と麻疹により母アリスも亡くなった。

母アリスとエリザベス

母のアリスは英国での質素な生活を家庭にもたらし、部屋は英国風にしつらえ、子女にも自分の部屋の床磨きをさせ、服は母が縫った。子供達は母とは英語で、父とはドイツ語で話した。

母の生前、ボン大学に通う従兄のヴィルヘルム(のちのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)が週末に叔母であるアリスのもとに訪ねてきた。ヴィルヘルムの母はアリスの姉で、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアである。ヴィルヘルムは5つ年下で14歳の美しく賢いエラに想いを詩に書いて送り、求婚したが、エラの心には響かなかった。傷心のヴィルヘルムは学業も捨て、プロイセンへ帰った。ヨーロッパ随一の美女と囁かれたエラに求婚したのは、他に、シャルル・モンタギュー、マンチェスター公の息子、バーデン大公フレデリック2世、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ等。特にバーデン大公はヴィクトリア女王が強く推したが、エラは断った。





結婚
以前からロシア皇后マリア・アレクサンドロヴナが息子セルゲイとパーヴェルを連れて度々ヘッセンを訪れていて、エラと息子たちは顔見知りではあったが、お互いに興味はなかった。しかし、セルゲイは母の死後、母と似ている性質を持つエラを求めるようになり、エラの方もかつて母を亡くした自分に照らして彼のことを理解する。信心深く、几帳面な気質が2人には共通していた。セルゲイの2度目の求婚にエラは応じ、20歳でロシアに嫁いだ。


若い頃のヴィルヘルム2世

セルゲイ・アレクサンドロヴィチとコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ(KR)



1884年6月、ロシアのエカテリーナ宮殿での2人の結婚式で、16歳のロシア皇太子ニコライはエラの妹アリクスに初めて出会った。数年後に求婚されたアリクスは正教への改宗を拒み、求婚を受け入れなかったが、当時既に正教に改宗していたエラが促し、アリクスは結婚を決意した。

ロシア皇太子ニコライ

大勢での集合写真でアリクスとニコライが手をつないで写っている
ニコライの右側に母皇后マリア、弟ミハイル、弟ゲオルギー


ロシア皇女として
美しく聡明なエラは、ロシア宮廷においても人々を魅了し、誰からも慕われた。1892年にモスクワ総督となったセルゲイに連れ添って、クレムリン近くのモスクワ総督官邸に住み、夏にはイリィンスコエの邸宅で過ごした。
セルゲイの弟パーヴェルの妻で元ギリシャ王女のアレクサンドラ・ゲオルギエブナとエラは親しかった。しかし、事故により早産した後急死したアレクサンドラに代わって、エラとセルゲイはパーヴェルを助けて子供達を養育した。

アレクサンドラ・ゲオルギエブナとエラ

モスクワ総督官邸

イリィンスコエにて
セルゲイ、エラ、マリア、ドミートリとユスーポフ夫妻
ラスプーチンを暗殺したフェリクス・ユスーポフの母ジナイーダ(写真右端)はエラの親友


エラとジナイーダ

イリィンスコエへは子供たちを招いて、ひと夏を過ごすのが常だった。のちにパーヴェルが離婚歴のある平民女性と再婚して国外追放になると、セルゲイとエラが後見人となり、2人の子供たちもモスクワで共に暮らすことになった。マリア・パヴロヴナとドミートリ・パヴロヴィチ。2人には代父母セルゲイとエラはどう映ったのか。マリアの著作に記されている。
セルゲイは何につけても全て自ら管理し、エラは黙々と従う。幼いマリアの目にも、エラが感情も考えも押し殺しているのが映る。そのためか、エラは冷ややかであり、その冷たい視線に竦む思いをマリアは何度もしている。エラは身を飾ることに細心の心を配り、自らドレスをデザインし修正を重ね、宝飾品も合わせて誂えていた。付き人が付いて身支度するときは、ピリピリした空気が漂っていた。
セルゲイが養父として厳格な愛情を押し付けてくることに、マリアもドミートリも戦慄した。

最前列 皇帝、皇后、皇女
次列 セルゲイ、エリザヴェータ
後列 マリア、ドミートリ




1893年に嫁いでロシア皇后になった妹アレクサンドラ(アリクス)と
アレクサンドラの内向的な性格ではロシア皇后に不向きであると誰もが心配した



セルゲイ暗殺
1905年1月、ペテルベルグで血の日曜日事件が起き、ロシア帝政は下り坂を転がり始めることになる。
1905年2月4日、クレムリンの元老院広場で待ち伏せしていた社会革命党員イワン・カリャーエフがセルゲイの乗った馬車に爆弾を投げ、セルゲイは一瞬でばらばらに散った。爆音を聞きつけ、もしやと思ったエラが駆けつけたとき、飛び散った遺体に誰かがコートをかけて覆っていた。エラはまだ息のあった馭者に、偽って主人の無事を告げ安心させた。自宅から出るなと言われたマリアは窓辺に張り付き、怯えていた。帰宅したエラは放心していて、椅子に身を預けたきり一点を空虚に見つめ動かなかった。教会に安置されたセルゲイの遺体は首から下が布で覆われていたが、腹部辺りに厚みがなく、相当部分が失われているのが一目瞭然であり、遺体の下にはまだ血が滴って血溜まりがあった。数日間、教会で長時間の祈祷が続いた。この祈祷や葬儀に出席するために皇族がモスクワへ行くことは危険であるとし、見合わせるよう文書通達があった。しかし、パーヴェル、エラの兄エルンスト、マリア・アレクサンドロヴナらは危険を冒してでも参列した。

埋葬の前日、エラは拘留されている暗殺者のもとへ行き、面会する。以下、ラジンスキーの著作より。


「何故あなたはわたしの夫を殺したのです?」

「わたしがセルゲイ・アレクサンドロヴィチを殺したのは、彼が暴政の道具だったからです。わたしは民衆のために復讐したのです」

「あなたの自尊心に従ってはいけません。
懺悔しなさい。あなたに命をたまわるようわたしから陛下にお頼みしましょう。わたし自身はもうあなたを許しております」

「嫌です。わたしは後悔しません。わたしは自分の仕事のために死ななければなりません。わたしは死にます。わたしの死はセルゲイ・アレクサンドロヴィチの死よりも役に立つでしょう」



暗殺実行直後のイワン・カリャーエフ

カリャーエフは死刑宣告を受け、それを喜び、宣告と処刑の公開によってこの先の革命を見据えることを望んだ。5月、絞首刑。
カリャーエフは暗殺実行の数日前にも実行するべく潜んでいた。しかしその時は、馬車の中にエラやドミートリらの姿があったため、犯行を断念していた。子供達を巻き込みたくはなかったのだった。
エラは夫の墓碑に、
「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」
(ルカ 23-34)
というキリストの言葉を刻んだ。


修道院創設
セルゲイの死後、喪服に身を包み、ベジタリアンとなったエラ。1908年にはマリアを追い立てるようにスウェーデン王子と結婚させ、ドミートリはツァールスコエの皇帝一家の所に住まわせ、1909年には宝石に婚約指輪まで売り払って修道院を創設し、自ら長になった。
Covent of Saints Marta and Maryは、無料の病院、教会、薬局、孤児院、看護師養成学校を併設し、貧者、病者、寡婦のためにモスクワ最貧のスラムを頻繁に訪れ、世話をした。
多忙でほとんど家に帰らなくなったエラは自邸を処分し、病院のそばの3室を質素に設え、昼も夜も献身的に患者に尽くした。


総督邸のエラの執務室



マリアと婚約したスウェーデン王子と





それまでセルゲイに従い、自分を殺すように過ごしてきたエラは、積極的に自分の理想を現実化し、神に導かれるまま、為すべきことに身を尽くし、充実した人生を過ごした。


革命下の転変
血の日曜日事件以来、ロシアの首都にはじわじわと革命の不穏が拡がっていった。たとえラスプーチンが皇后の側に現れなかったとしても、革命が皇帝を倒したにちがいない。1914年の戦争突入で、はっきりその針路が差されていたはずだ。
しかしながら、戦争によって外から崩され始めた皇帝の神威はまた、内からもラスプーチンを盲信する皇后が崩し始めた。最も皇帝の神威を望む皇后が、はからずもその手で崩していたのである。悲しき母アレクサンドラは、命に不安のある唯一の皇太子のために、強く不安のないかたちでロシアを受け渡したかっただけだったのに。

皇帝は内政を皇后に託し、皇太子を連れて戦地を廻っていた


しかし、崩れそうなロマノフの帝政をみすみす内から崩すのを、皇族は黙って見ているわけにはいかなかった。民衆にさえ、政治をかき乱す根源と目されたラスプーチンは追い払わねばならない。説得に訪れる親類を、皇后はことごとく追い返した。元々、ロシアに嫁いで来た時から親しみを抱くこともなかった者たちがほとんどだった。だが、実の姉であるエラが訪ねてきても、アレクサンドラは拒絶した。
エラがラスプーチンのことを話し出すと、とたんにアリクスは口を閉ざして、話を打ち切り、使用人に客が帰ることを告げた。これは1916年のこと。1916年12月のラスプーチン暗殺は数ヶ月前から十全に計画が練られ、主謀者とされるドミートリはその間、エラに会いに来ている。ユスーポフの母ジナイダはエラの親友であり、ユスーポフ自身もエラを慕い、信用している。つまり、エラはこの殺害計画を事前に知っていたと思われる。皇后との面会のあと、エラは皇帝に手紙を書き、ドミートリとジナイダに電報を送っていた。

1917年2月革命で皇帝一家が逮捕された後、ロマノフ家の多くの者は身を案じて亡命した。10月革命でボリシェビキが主導するようになってからはより一層危険になった。周囲から亡命を勧められても、エラはそのまま修道院に残った。スウェーデンからの使者が訪れた時も、彼女は、自分はロシアとその民と運命を共にしたいと話し、丁重に断った。

最後の写真といわれている

1918年、とうとうエラはレーニンの命令により逮捕された。当初はペルミへ、その後エカテリンブルグへ送られた。エカテリンブルグで皇帝一家に会えることを期待していたが、許されるはずはなかった。同行していた修道女バーバラだけは、イパチェフ邸の窓越しに偶然に皇帝と顔を合わせただけだった。5月20日には、アラパエフスクに送られ、夫セルゲイのいとこのセルゲイ・ミハイロビッチと、いとこのコンスタンチン・コンスタンチノヴィチの3人の息子のイオアン、コンスタンチン、イーゴリと、パーヴェルの再婚後にできた甥ウラディミル・パーレイと合流した。
エラは、監禁されたアラパエフスクでも自由に教会に行くことを許され、菜園で野菜や花を育てることも許された。民から励ましの言葉が刺繍されたハンカチをもらうこともあった。エラは修道院に手紙を書き、自分が不在の修道院で働く者達を励ました。

1918年7月18日、エカテリンブルグの決定に基づき、エラ達は処刑された。エラが一番最初に連れて行かれ、処刑された。廃坑に突き落とされるときまで、エラは賛美歌を歌い続けた。
廃坑は20メートルほどの深さだったが、エラとイオアンは一部浅くなっていた辺りに落ちたため、即死しなかった。廃坑の底からしばらくは賛美歌が聞こえていたらしい。また、遺体が発見された時イオアンの額に布が巻かれていたが、おそらくエラが手当てしたものと思われる。
およそ一ヶ月後にアラパエフスクは白軍に制圧され、遺体はコルチャークによって引き上げられ、埋葬された。その後再び、ボリシェビキが襲い、混乱の中、エラの遺体は生前の望み通り、ゲッセマネの丘にある聖マリアマグダレーナ教会に英王室の手により埋葬された。





先に殺害された皇帝一家とエラ達は在外ロシア正教会によって新致命者として聖別された。また、エラはウェストミンスター寺院西扉に掲げられている「20世紀の殉教者10人」にも列せられており、キング牧師やボンフェッファー牧師らの聖像とともに並んでいる。











先週、パリのテロ事件で妻を亡くした人のFBへの投稿が感動したと話題となり、世界に拡散しました。「君たちにわたしの憎しみはあげない」というこの全文を読み、不謹慎かもしれませんが私には残念な思いが残りました。
以下はその全文和訳(転載)です。


 金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。


暴力に対して暴力で応酬すれば憎しみの応酬は止むことなく繰り返す。
憎しみを憎しみで返さないこと。
その決意に至った心は強く、正しい。

ただ、どうしても引っ掛かることがある。

君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。

無差別テロという非情極まりない行為を犯したのも、信じたくないかもしれないが同じ人間である。母がいて、父がいた(あるいはとうにいなかったか?)自分の命も諦めることになるテロを断行するのにはどれほどの決意が要るものだろうか?なぜ最低限の良心に踏みとどまることすらもなかったのか?
どんな抑圧にさらされると人がそうなるのか、想像を絶することを、想像しなくてはならない。

パリで一夜に120数人の無辜の命が犠牲になった。空爆の一回の出撃で、平均して何人の命が犠牲になっているのだろう?
憎しみは後手に隠した。次は相手を知ること。


幼い彼の人生が幸せで自由であり続けること

これが世界の誰もが求めていることのはず。
もちろん投稿者の息子1人のことではない。
そして幼い日々が一度も幸せであったことのない子供達に対しても。

まさにこのために世界に諍いが起きていると私は思う。





英王室について書いている途中ですが、急にエリザヴェータ・フョードロヴナを割り込ませたのはこの件に思うところがあったからです。
ジョン王子も予定外で入れてしまいましたので、次は順番通りにバーティーを書きたいです。