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最も華麗なロシア貴族 ジナイダ・ユスーポヴァ

2016-03-31 08:23:58 | 人物
ロシア貴族でもっとも裕福な
女性相続人ジナイダ・ユスーポヴァの
栄華と革命


Zinaida Nikolaevna Yusupova
1861~1939



ジナイダ・ユスーポヴァ
ロマノフ家よりも裕福だったと言われる貴族、ユスーポフ家。19世紀末、その男系子孫の先端に存在したのは若き美しき女性相続人、ジナイダ・ユスーポヴァだった。
ユスーポフ家は16世紀からモスクワ大公に仕える一族の末裔であり、シベリア開発によって莫大な資産を築いた公爵家である。

当時のロシアで最も恵まれたその家系に生まれ育ち、その上大変美しく社交的なジナイダは当然、他の貴族や、王家からも注目を集めていた。
ユスーポフ家の財産を継ぐのはジナイダと夫の嫡男に限る、また、公爵位とユスーポフの名を名乗れるのもその長男だけとなり、夫や他の子らは夫の姓と伯爵位を継ぐきまりとなっていた。

1881年、ジナイダは20歳で結婚。
相手は5歳上のフェリクス・フェリクソヴィチ・スマローコフ=エリストン伯爵(1856~1928)。
フェリクス自身の出自も、父がモスクワ貴族スマローコフ家とスウェーデン貴族エリストン家の両家を継ぐ相続人であったが、ジナイダと結婚することで新たにユスーポフ家をも継ぐことになった。この結婚で夫婦は3つの貴族の資産を継いだことになるが、そのうちの一つは、かのユスーポフ家であり、そもそも莫大であった財産がさらに増大した。

ジナイダの幼い頃からの写真を見てみれば、常に自身にあふれたその美しさに目をみはるだろう。
芸術家のパトロンであり、自らも芸術に関心を抱いていた父ニコライの影響だろうか、ジナイダも美術に関心が高く、宝飾品も好んだが、オーストリア皇后エリーザベトのように自分の美しさに執着するようなことはなかったようだ。


















夫フェリクス・フェリクソヴィチ








ユスーポフ家の資産
当時のユスーポフ家は、ロシア内に37の所領地を持ち、その広さは10万エーカー。16の宮殿を所有し、そのうちサンクトペテルブルクに4つ、モスクワに3つの宮殿があった。
石炭、鉄鉱石、砂糖工場、レンガ、製粉、油田(カスピ海)、織物、毛皮など、ロシアの大地の恩恵に根ざした数々の事業を行っていた。
ユスーポフ家の宮殿は、規模はロマノフ家より小さくても、内部の豪華さには優れており、ロマノフの冬宮殿のようにヨーロッパに追いつこうと背伸びして建設したような、張りぼて風の宮殿ではなく、ロシアの伝統を大切にして建築された、重厚な表現がなされている。ただし、富を顕示している点では共通していて、部屋ごとに多種多様な様式が肩を並べ、消化不良に悩まされそうではある。

モスクワの宮殿内部

モスクワの宮殿外観

モスクワ郊外アルカンゲルスコエの宮殿

サンクトペテルブルク、モイカパレスの中庭
ラスプーチンが暗殺された場所


ツァールスコエのダーチャ(別荘)


ジナイダと二人の息子
1883年にニコライ、1887年にフェリクスが生まれた。父親によく似ていて精悍な顔貌の長男ニコライ、それに比して次男フェリクスは、名前は父と同じだが、女の子のようなソフトな顔立ちである。母はフェリクスのルックスをとても気に入り、小さいうちは女の子の服を着せて楽しがっていたと言われる。ただし、フェリクスはなかなかのやんちゃ者であり、コンスタンティン大公の子に手を挙げて、以降出入り禁止にされたようである。

長男ニコライ

長男ニコライ

次男フェリクス








ロマノフ家では子供達の教育にあたっては、なるべく「普通」の感覚を身につけるべく、質素な生活と厳しい躾けを授けていた。寝具は簡易ベッド、兄弟で狭い部屋を共有、毎朝水風呂、子供達だけで食べるささやかな朝食、それが子供の日常だった。他の貴族の家庭でもほとんどはそれに倣った。
しかし、ジナイダは息子たちに「貴族」の生活をさせた。息子の思うままにさせたので、躾けも教育もなかったし、どんな無鉄砲なことをしても誰も咎めなかった。さすがに父ニコライは息子に注意を与えたが、父は忙しくてあまり家には居なかった。「恐るべき子供たち」は思うままに屈折した生活に耽るようになる。

フェリクスとジナイダ



ニコライは外界に飛び出し、派手に遊び、金を撒き散らして夜も帰らない。フェリクスは12歳頃には、家では母のガウンを着たり、女装も楽しんでいた。そのうち兄は弟を面白がって夜の街へ連れ出す。フェリクスは、兄とそのガールフレンドの遊びごごろにもてあそばれ、12歳にしていわゆる初体験をしたそうである。兄弟は夜な夜なレストランやカフェに現れ、年齢に似合わぬ世界に溺れていた。

手に入らないものは何もない。
ずっとそんな世界で生きてきたニコライの、手に入らないものがあった。
人妻との不倫、それだけならまだよかったのかもしれないが、彼はその女性を手に入れようとしたため、怒った夫がニコライに決闘を申し込んだ。
2発目の対決でニコライは致命傷を負い、ユスーポフ家の後継者はあっけなく死んだ。
1908年6月22日のことである。

ニコライ



決闘した相手

マリナ・フォン・ハイデン
この女性を争って決闘となった



当然、ジナイダはこのスキャンダルと息子の死に痛手を受け、悲しみに暮れた。しかしまだ次男のフェリクスがいたことが、ユスーポフ家が転覆するような事態にはならなかった。フェリクスは相続人になり、ユスーポフ公を名乗る権利も得た。

1909年から1913年、フェリクスはイギリスのオクスフォード大学へ留学。ここでも彼はユスーポフ家の御曹司らしかった。お供に、ロシア人料理人、フランス人運転手、イギリス人従者、家政婦を連れ、広大な邸宅に暮らし、三頭の馬を所有し、オウムとブルドッグもペットとして持ち込む。学問よりもパーティーに励み、ドラッグにも耽った。


フェリクスと大公女イリナの結婚

ある日、フェリクスは公園で出会った女性に一目惚れ。その後、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(通称サンドロ)公に通りがかりにお茶に呼ばれ、行ってみるとそこには公園で会った女性が居たのだった。それは皇帝の唯一の姪で、皇帝の妹クセニアとサンドロの一人娘であるイリナ大公女だった。

イリナと母クセニア大公女

イリナ・アレクサンドロヴナ

イリナとフェリクスは結婚を望み、周囲は驚いたが、当時は親交があった皇后とジナイダは二人とも歓迎し、婚約は受け入れられた。
しかし、イリナと同令で、幼い頃から従姉妹として親しんできた皇帝の長女オリガはフェリクスに対しよからぬ印象を持っていたため、この婚約を喜ばず、父である皇帝に手紙の中でそれを吐露している。
この結婚でフェリクスがロマノフ家に繋がったことで、のちのラスプーチン殺害においてドミートリ大公の関与と並び、ロマノフ家の内部からの亀裂という印象を助長することとなったのは否めない。ラスプーチンが民の手によってではなく、身内によって排除されたことが、革命家に付け入るきっかけを与え、民衆にラスプーチンを糾弾する機会を奪ったことは、ロマノフ家に逆に不利をもたらす勇み足になったといえる。

ジナイダの膝にはたった一人の孫娘となるイリナ(母と同じ名)


ジナイダ、革命を経て
次男のフェリクスが幸福な結婚を果たし、ユスーポフ家は安泰ではあったが、時代の空気は革命を匂わせていた。
小さな戦争に勝利して国内を活性化させようと臨んだ日露戦争での予想外の敗北と、第一次世界大戦の泥沼により傾きかけたロシアは、その責任を皇帝に問い、帝政を壊すことで解決を目指そうとしていた。特に、出身が敵国ドイツであったことから皇后へ非難が集中し、民衆も宮廷人もこぞって非難した。
ジナイダもそうだった。ジナイダは当初、非社交的な皇后とも親しくし、皇后の姉エリザベータ(エラ)とは特に親しかった。

エリザベータ・フョードロヴナ大公女

エラとジナイダはロマノフの行く末を思うにつけ、皇后の振舞いに問題があると考え、エラは姉として皇后に忠告を与えようとしたが皇后のプライドが一切弾き返した。エラとジナイダによる皇后批判は当然、フェリクスも共有した。
そもそも政治に関心がなく、ロマノフ家にゆかりも感じないフェリクスがラスプーチン殺害に政治的な意図をもって臨んだという後代の説は、実際とずれているのではないかとも言われている。
おそらくは、母を通じてのエラの意向と、陰の主謀者と言われるドミートリ大公の影響だったのではないか。
事は革命を早めた感がある。孤立した皇后は一層頑になり、議会も内閣も機能しなくさせた。ボリシェヴィキはそこに根を下ろし、台頭した。

フェリクスは皇帝により、都市部から排除され、遠い領地に蟄居を命じられた。ジナイダも革命を恐れ、フェリクスとともにクリミアのユスーポフ家の宮殿に逃れた。

クリミアのユスーポフ家宮殿

皇帝退位後、首都に戻ったフェリクスらは危険を感じ、ユスーポフ家の財産のうちでとりわけ失いたくないものをわずかに持ち出し、再び首都を後にした。事が収まってから再び宮殿に戻れる可能性を考え、持ちきれない宝飾品や芸術品は壁の内部に隠したが、革命後宮殿は荒らされ、壁の中の財産は全てボリシェヴィキに押収された。
持ち出せたのは、レンブラントの作品数点と、世界に名だたる宝飾品など。
イギリスの働きにより、ヤルタからマルタ島、イタリア、ロンドン、そしてパリへと国外逃亡。フェリクスはパリに暮らし、ジナイダと夫フェリクスはローマに暮らした。1928年に夫が亡くなると、ジナイダはパリに移住した。








フェリクスとジナイダ



ジナイダは1939年に亡くなった。
ユスーポフ家は息子フェリクスの後は男子が絶え、フェリクスが最後の当主のまま途絶えた。
フェリクスはことごとく事業に失敗したが、執筆した回顧録のヒットと、ラスプーチンの映画の製作者に名誉毀損を訴えた裁判の、勝利で得た賠償金により、裕福な生活を全うし、1967年に80歳で亡くなった。


秘匿されたジナイダの妹、タチアナあまり、知られていないが、ジナイダには妹タチアナ(と、早世した弟ボリス?)がいた。タチアナと思われる肖像画や、ジナイダとともに写った写真も存在するが、その生没年もはっきり記されたものがない。おそらくは、ジナイダの7歳下で1868年生まれ、1888年20歳で他界した。墓地はモスクワ郊外西のアルカンゲルスコエのユスーポフ家の宮殿近くの寺院に存在する。

タチアナの墓碑に刻まれた生没年

フェリクスの叔母にあたるこの人のことを、回顧録では触れていないらしい。定かではない話だが、その謎の死についてはこう語られている。

タチアナの日記の、死の前の最後の数週間のページが破り取られている。
公には腸チフスで亡くなったと言われているが、身近な人によれば溺死だった(川で?)、あるいは殺害されたとも言われている。
後年、ボリシェヴィキが略奪目的で墓をあばいたところ、棺の中に小さい子供の遺骸もあったとのこと。
タチアナは晩年、首都郊外に住むPaul(ロシアではパーヴェル)という見目良い男性に焦がれていたと言われる。(パーヴェル・アレクサンドロヴィチではないかとの説も。パーヴェル大公は1889年にギリシャ大公女と結婚しているが)

タチアナ肖像







ジナイダはクリミアの宮殿の自室に、妹の肖像画を置いていたようだ。タチアナの死はなぜ、こうも語られず、封じられたのだろうか。
上記から邪推するなら、身分の高いパーヴェル大公と実らぬ恋をし、不義の子を抱いて川に身投げをしたが、ロマノフ家のスキャンダルが暴露しないよう、日記は破られ、死因も隠蔽された、ということだろうか。当時の皇帝はアレクサンドル3世であり、パーヴェルは弟である。
あまりにも不確かなのでこれ以上の推察は憚られる。



晩年、ジナイダはよく教会で長時間祈っていたという。もちろん、息子ニコライや夫を悼み、親友エラを悼んでのこととも考えられるが、若くして亡くなったタチアナに、どのような祈りで向き合っただろうか。


母ジナイダを息子フェリクスはこう偲ぶ。

My Mother was lovely. She was slim and had
wonderful poise;
She had very black hair, a soft olive
complexion and deep blue eyes as bright as
stars.
She was clever, cultured and artistic, and
above all she had an exquisitely kind heart.


一方、こんな描写もある。

Her now gray hair, beautiful waved,
fascinating me. It gave her stark face a
young appearance with the clear chiseled
features of Botticelli.
and I remember accompanying Maman
to one of the Princess's days
in her sumptuous rooms at the Moika.
Despite all her grace and charm this
beautiful woman seemed as cold as ice.

これはニコライが決闘で争った女性、マリナ・フォン・ハイデンによるものである。



氷のように冷たい気配。

その深奥に、どうしても温まらない芯を隠していたかもしれない。
それでもジナイダの凜とした視線が美しく心魅かれるのである。









http://19-20centuries.tumblr.com/post/141940494772/lesyoussoupoff-koreiz-1880s-koreiz-was-a