ロマノフ家 皇位継承の迷走
ウラディミロヴィチ家の動き
1913年 ロマノフ300年記念祭
1912年
1917年
ニコライ2世退位時の皇位継承順位 生年
1.大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 1904
2.大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 1878
3.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
4.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
5.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
6.大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1860
7.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
8.大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
9.公イオアン・コンスタンチノヴィチ 1886
10.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
11.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
12.公コンスタンチン・コンスタンチノ 1891
13.公イゴール・コンスタンチノヴィチ 1894
14.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
15.大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 1860
16.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
17.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
18.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
19.大公ニコライ・ミハイロヴィチ 1859
20.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
21.大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 1863
22.大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1866
23.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
24.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
25.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
26.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
27.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
28.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907
29.大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 1869
ロマノフ皇族のうちで、ニコライ2世退位時に皇位継承権を持つ者が上記29名。赤字は処刑された者。
ただし、8位のニコライ・コンスタンチノヴィチは廃嫡されて皇位継承権は剥奪されている。
処刑された者
1918.6.12-13 ペルミ近郊
大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 39歳
移動中処刑の通告ないまま銃殺
1918.7.16-17 エカテリンブルク
大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 13歳
処刑通告後その室内で直ちに銃殺
1918.7.18 アラパエフスク近郊
公イオアン・コンスタンチノヴィチ 32歳
公コンスタンチン・コンスタンチノ 27歳
公イゴール・コンスタンチノヴィチ 23歳
大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 48歳
処刑通告なし、森の廃坑に落とされる
1919.1.29-30 ペトロパブロフスク要塞
大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 58歳
大公ニコライ・ミハイロヴィチ 59歳
大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 55歳
大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 58歳
処刑通告なし、独房から移動させられ、一般の受刑者とともに銃殺
大公7名、公3名が処刑された。
もちろん、ボリシェビキは全員を殺害する計画だったが、国外脱出した者には手が及ばなかった。
唯一、釈放されたのはガヴリール。
彼は、ニコライ・ミハイロヴィチ大公らとともに拘束され、同じ運命になるはずだったが、ゴーリキーのとりなしと、もともと病気だったためすぐ死ぬだろうという判断で、フィンランドから亡命することを許された。
最年少はアレクセイ・ニコラエヴィチの13歳、最年長はニコライ・ミハイロヴィチの59歳。
1903年 ロマノフ王朝の歴代の衣装で仮装晩餐会
生き残った者 皇位継承順
〈アレクサンドロヴィチ家〉
1.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
2.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
3.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
4.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
〈コンスタンチノヴィチ家〉
大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
5.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
6.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
7.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
〈ニコラエヴィチ家〉
8.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
9.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
10.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
〈ミハイロヴィチ家〉
11.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
12.大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1897
13.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
14.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
15.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
16.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
17.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
18.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907
19名。大公9名、公10名。
革命勃発時の年齢で、最高齢はニコライ・コンスタンチノヴィチ67歳、最年少はフセヴォロド3歳。
結婚年順 没年ピンクは貴賎結婚
1889 大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1931
1891 大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1929
1894 大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1933
1905 大公キリル・ウラディミロヴィチ(貴賎?) 1938
1907 大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1929
1917 公ガブリール・コンスタンチノヴィチ 1955
1918 公アンドレイ・ミハイロヴィチ 1981
1919 大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1943
1921 大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1956
1921 公ロマン・ペトロヴィチ 1978
1922 公ニキータ・ミハイロヴィチ 1974
1926 大公ドミトリ・パヴロヴィチ 1942
1928 公ロスチスラフ・ミハイロヴィチ 1978
1931 公ドミトリ・ミハイロヴィチ 1969
1931 公ヴァシーリー・ミハイロヴィチ 1989
1939 公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1973
上の通り、革命後に結婚した者は皆、貴賎結婚だった。
ロシアでの皇位継承に関する基本国家法によれば、
⑴君主はロシア正教徒
⑵帝室に男子の有資格者がいる限り、男子でなければならない
⑶男子の君主の母と妻は、結婚時においてロシア正教徒でなければならない
⑷別の有力な王家出身の女性と平等の結婚をしなければならない(貴族は該当しない)
⑸将来の君主は、現在の皇帝の許可を得た場合に限り結婚することができる
貴賎結婚をした場合、当人の皇位継承は維持されるが、その子には継承されない。
1989年にヴァシーリー・ミハイロヴィチが亡くなったあとは、皇位継承者は絶えたことになる。
もっとも、帝位そのものが今は存在しないので、誰も何も継承するものはないのだが。
これが、自然の成り行きであり、ロマノフの時代は静かに昇華していくのがよい、と勝手ながら私は思う。
しかし、懐古主義的な亡命ロシア人を取り込んで、皇帝のかたちを真似てそのつもりになったキリル大公の、常軌を逸した行動が、ロマノフ皇統の終わりに泥を塗ることになった。
亡命後、執務中のキリル大公
キリル大公の動き
1922 皇位を保護する者であることを公言
1924 皇帝を自称
その後、本来称号を得られないような貴賎結婚相手に皇帝の権限で称号授与を乱発、人気取りも兼ねて、皇帝の立場をアピール。
本来、国を統治するのが皇帝なのであって、政ごとを一切せず、そもそも統治するものもないのに、称号をプレゼントしたり、亡命宮廷をつくったりしても、ただの戯れでしかない。
特に、彼がそれをするということに反感を抱かれる理由は、革命が起きたときの、彼の皇帝に対する裏切り行為に由来する。
キリルは海軍にてキャリアを積んできたが、沈没を経験して以来、軍艦への乗艦を拒み、皇帝専用ヨットに乗船する水兵の隊の隊長を務めていた。革命直後、アレクサンドル宮殿に軟禁された皇后や皇太子や皇女らを警護していたのはこの水兵たちだった。水兵たちは多くがヨットで同行して、皇帝一家とは顔なじみでもあった。皇后は寒い夜空の下この水兵達一人一人に感謝を伝え、スープや紅茶を自ら振舞った。宮殿の周りに暴徒が増え、彼らしか頼りになるものがなかったからだった。ところが、ある朝、水兵たちは消えてしまったのである。キリルが命令を発して引き揚げさせたのだった。
皇帝専用ヨット シュタンダルト号
艦上でお味見する皇太子
そのうえ、自分の宮殿のうえに赤旗を立て、革命支持を示す赤い帽子を手に、国会のロジャンコに会いに行く。皇帝が正式に退位する前であり、皇帝への忠誠を破るごとき発言をしてロジャンコにさえたしなめられた。
新聞のインタビューでは、皇后を、カイザーヴィルヘルムの共犯者であるかのように語る。
こうした行動が他の皇族にはのちのちにも許せず、その行動から、キリルは皇位請求者にふさわしくないといわれた。
また、そもそもキリルとその弟達は、上の⑶の条件が適っていないので、皇位継承権そのものを持たないとする意見、そのうえ、帝政崩壊以前に結婚したキリルは⑸についても適っていない。結婚を皇帝に認められず、ドイツで秘密結婚し、国外追放処分されている。いとこ同士の結婚は正教では禁じられているので、この点に関しても皇帝の許可なしでは済まないものである。
しかし、父ウラディミルが亡くなったときに皇帝に赦され、キリルは復権した。その際に、結婚問題も皇帝に承認されたということなのだろうか。
キリルと同じような問題を起こした、ミハイル・アレクサンドロヴィチの場合と比較するならば、ミハイルは離婚経験ある平民と秘密結婚し、同じように帰国を赦されたのだが、身分違いのため、ミハイルの子には皇位継承権はなく、妻子はミハイルの居住する宮殿に入ることは許されなかった。パーヴェル・アレクサンドロヴィチの場合は、同じく離婚歴ありの平民女性だが、同居は許された。キリルの妻は離婚歴はあるけれど、王女であるため、さすがに別居にはさせないだろう。ただし、うえの2人の女性と違い、キリルの妻ヴィクトリア・メリタは、結婚した時点では正教に改宗していなかった。それは不問にされたのだろうか。あるいは、ニコライ・ニコラエヴィチの結婚をニコライ2世が承認したとき、まだ存命だったウラディミル・アレクサンドロヴィチが、キリルの結婚も認めるよう圧力をかけたらしい。そのタイミングで、皇帝は承認したのだろうか。
キリルの結婚相手ヴィクトリア・フョードロヴナは、アレクサンドラ皇后の兄ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと不仲で離婚したヴィクトリア・メリタであり、皇后は非常に嫌っていた。
キリルとヴィクトリア・メリタは幼なじみで結婚を望んでいたが、ヴィクトリア女王の勧めでヘッセン大公と結婚した。ヴィクトリア・メリタは、離婚理由にエルンストが男色だったからとも言っているが、ヴィクトリア・メリタはヘッセン大公妃であるうちから、月の半分をロシアのキリルのところで過ごす生活をしていたとのこと、こちらも非難されてしかるべきかと思われる。ただし、この時代、妃でありながらこのように振る舞う者はめずらしくはなかったかもしれない。
革命直後、フィンランドに亡命し、白軍がボリシェビキに勝利するタイミングでロシアに入り皇帝に担ぎ出される、その時をキリルは待っていたが、白軍は敗れ、キリルは家族とスイスに亡命した。
その過程で、1917年、キリルには男子ウラディミルが誕生していた。自称皇帝は息子に希望を託して1929年に亡くなった。
キリルの息子ウラディミルの動き
キリル大公と子供達 マリー、キーラ、ウラディミル
ウラディミルは父のように皇帝を自称はしなかったが、皇位請求者として周囲に認知させようとしていた。ソ連が崩れていく中で、ロシアから尊敬を集める契機も訪れた。
ウラディミルの心配事は、男子が生まれなかったことだった。
男子の元皇族はまだ数人生き残っているが、自分が彼らより長生きできなかった場合、皇位はそちらへまわってしまう。まさか暗殺でもしない限り、彼らの誰よりも長生きできるかどうかは不確定である。確実に自分の子孫に皇位を引き継いでいくためには、奥の手を。皇帝(皇位継承筆頭者?)として、娘マリアに継承する、と宣言をしたのである。
これが、他のロマノフ達を憤慨させた。これまで、キリルやウラディミルを支持してきたフセヴォロドもこれには怒り、ロマン・ニコラエヴィチらの側につくようになった。
マリアは1953年生まれ。宣言は1969年。1978年にマリアは、ホーエンツォレルン王子と結婚。1981年、長男ゲオルギ誕生。
1992年、ウラディミル亡くなる。
上の没年と比べれば、結局、ウラディミルがもっとも後まで生き残ったので、あの宣言は必要なかったばかりでなく、かえって波紋を広げただけだった。しかも、キリルの結婚ももちろんだが、ウラディミルの結婚についても非正統性を指摘されることになる。ウラディミルの結婚相手は、元グルジア王家由来の単なる貴族であるから、ウラディミルやマリアが他のロマノフの結婚を貴賎結婚だと言うなら、ウラディミルの結婚も同じ、つまりその子孫に皇位継承権がないというのも同じだ、と口撃されるに至った。
元グルジア王家というのは、バグラティオニ家。タチアナ・コンスタンチノヴナの結婚の時には認められたが、そのときそれが多くの人に意外だったように、一般的な認識として王家とは認識されてなかったのだろう。(タチアナは大公女ではなく公女であり、貴賎結婚をうるさく言うほどでもなかったからかもしれない。しかしながら、この結婚で生まれた子への皇位継承権は放棄するよう、署名させられた上での結婚承認だった。女性でも、男系が絶えた場合はその子(男子)に皇位が巡ってくる可能性があるためである。)
ただし、時の皇帝が認めればよい、という伝家の宝刀で、父が皇帝の役になるのだから、ウラディミルの結婚の正統性は全く気にすることはないようだ。
ドミトリ・パヴロヴィチ大公とウラディミル・キリロヴィチ
ドミトリはキリルの皇位を支持
キーラの結婚式
花嫁キーラの横、眼鏡の男性はフセヴォロド公
その他、元皇族多数
ロマノフ家協会
マリア・ウラディミロヴナ以外にも、ロマノフ家筆頭者を名乗る者がいる。
ウラディミロヴィチを除く3家で築くロマノフ家協会の代表者、現在はドミトリ・ロマノヴィチ公。
コンスタンチノヴィチは男子が絶え、ニコラエヴィチのロマンの2人の男子のうち、長男ニコライは最近亡くなり、次男のドミトリが筆頭である。
ただし、ドミトリにも男子がいないため、このあとはミハイロヴィチに受け継がれることになる。
ロマノフ家協会の主張は、基本国家法で定めるところの貴賎結婚の規定は、大公に求められるものであり、公にすぎない者には、結婚相手が貴族であっても貴賎結婚とみなされない、よって自分達の結婚は正式なものであり、子孫の皇位継承権は維持されうる、というものである。そのうえで、男系優先で継承していく場合、筆頭者がマリアであることはありえないと主張する。
曲解ともいえるが、法の規定の異常な厳しさを思えば、抜け道も必要かもしれない。時代も変わっていて、王室は身近で存在しなくなっている。
ロマノフ家協会の態度は、ロマノフ家の筆頭者として名乗りをあげるが、要請が無い限りは皇帝として名乗りをあげることはしない、というもののようだ。
現実的に、ロシアが皇帝をすえることは今後ありえないと誰もが今は思っている。ロマノフ家協会でもそう認識している。
もしも、なにかのきっかけで、ロシア国民の総意として、再び皇帝を望むのなら、そのときの国民がふさわしい人を選べばよい。ただ、そのときに万が一、ロマノフ家から選びたいということになればその意に応えられるようでありたい。
そういう姿勢なのだそうだ。
しかし、マリアのほうでもほぼ同じ考え方のようである。違うとすれば、今の立場においても尊敬を集めたいというところだろうか。ロマノフ家の他の者たちと自分とを、はっきり線引きするよう
周囲に求める。
こういう分裂すらおさめられないで、あの大きなロシアを治める皇帝に君臨するのはどうにも無理だろう。できれば、非現実的な皇位に固執することなく、和解して、革命の犠牲になった先祖のために祈りを捧げていただきたいと私は願う。
なお、ウラディミロヴィチ家の継承を支持しつつ、ロマノフ家協会とも良好な関係を持ち、皇位継承権は放棄し、ロマノフの名前も使わず、一アメリカ市民として暮らす、アウトローな末裔もいる。パーヴェル・ドミトリエヴィチ・ロマノフスキー=イリンスキーである。
キリルから与えられたロマノフスキーの名を捨て、ポール・イリンスキーと名乗る。
ドミトリ・パヴロヴィチの一人息子。
資産の相続も辞退。自分で築いたアメリカ市民としてのステイタスがあるので不要だと。
なんとも颯爽としている。
糸の切れた凧を思わせる自由さは、ドミトリ譲りなのかもしれない。
マリア大公と息子ゲオルギ
ロマノフ家協会代表 ドミトリ・ロマノヴィチ公 作家
ウラディミロヴィチ家の動き
1913年 ロマノフ300年記念祭
1912年
1917年
ニコライ2世退位時の皇位継承順位 生年
1.大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 1904
2.大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 1878
3.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
4.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
5.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
6.大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1860
7.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
8.大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
9.公イオアン・コンスタンチノヴィチ 1886
10.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
11.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
12.公コンスタンチン・コンスタンチノ 1891
13.公イゴール・コンスタンチノヴィチ 1894
14.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
15.大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 1860
16.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
17.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
18.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
19.大公ニコライ・ミハイロヴィチ 1859
20.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
21.大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 1863
22.大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1866
23.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
24.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
25.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
26.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
27.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
28.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907
29.大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 1869
ロマノフ皇族のうちで、ニコライ2世退位時に皇位継承権を持つ者が上記29名。赤字は処刑された者。
ただし、8位のニコライ・コンスタンチノヴィチは廃嫡されて皇位継承権は剥奪されている。
処刑された者
1918.6.12-13 ペルミ近郊
大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 39歳
移動中処刑の通告ないまま銃殺
1918.7.16-17 エカテリンブルク
大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 13歳
処刑通告後その室内で直ちに銃殺
1918.7.18 アラパエフスク近郊
公イオアン・コンスタンチノヴィチ 32歳
公コンスタンチン・コンスタンチノ 27歳
公イゴール・コンスタンチノヴィチ 23歳
大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 48歳
処刑通告なし、森の廃坑に落とされる
1919.1.29-30 ペトロパブロフスク要塞
大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 58歳
大公ニコライ・ミハイロヴィチ 59歳
大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 55歳
大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 58歳
処刑通告なし、独房から移動させられ、一般の受刑者とともに銃殺
大公7名、公3名が処刑された。
もちろん、ボリシェビキは全員を殺害する計画だったが、国外脱出した者には手が及ばなかった。
唯一、釈放されたのはガヴリール。
彼は、ニコライ・ミハイロヴィチ大公らとともに拘束され、同じ運命になるはずだったが、ゴーリキーのとりなしと、もともと病気だったためすぐ死ぬだろうという判断で、フィンランドから亡命することを許された。
最年少はアレクセイ・ニコラエヴィチの13歳、最年長はニコライ・ミハイロヴィチの59歳。
1903年 ロマノフ王朝の歴代の衣装で仮装晩餐会
生き残った者 皇位継承順
〈アレクサンドロヴィチ家〉
1.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
2.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
3.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
4.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
〈コンスタンチノヴィチ家〉
大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
5.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
6.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
7.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
〈ニコラエヴィチ家〉
8.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
9.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
10.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
〈ミハイロヴィチ家〉
11.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
12.大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ 1897
13.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
14.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
15.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
16.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
17.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
18.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907
19名。大公9名、公10名。
革命勃発時の年齢で、最高齢はニコライ・コンスタンチノヴィチ67歳、最年少はフセヴォロド3歳。
結婚年順 没年ピンクは貴賎結婚
1889 大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1931
1891 大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1929
1894 大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1933
1905 大公キリル・ウラディミロヴィチ(貴賎?) 1938
1907 大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1929
1917 公ガブリール・コンスタンチノヴィチ 1955
1918 公アンドレイ・ミハイロヴィチ 1981
1919 大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1943
1921 大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1956
1921 公ロマン・ペトロヴィチ 1978
1922 公ニキータ・ミハイロヴィチ 1974
1926 大公ドミトリ・パヴロヴィチ 1942
1928 公ロスチスラフ・ミハイロヴィチ 1978
1931 公ドミトリ・ミハイロヴィチ 1969
1931 公ヴァシーリー・ミハイロヴィチ 1989
1939 公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1973
上の通り、革命後に結婚した者は皆、貴賎結婚だった。
ロシアでの皇位継承に関する基本国家法によれば、
⑴君主はロシア正教徒
⑵帝室に男子の有資格者がいる限り、男子でなければならない
⑶男子の君主の母と妻は、結婚時においてロシア正教徒でなければならない
⑷別の有力な王家出身の女性と平等の結婚をしなければならない(貴族は該当しない)
⑸将来の君主は、現在の皇帝の許可を得た場合に限り結婚することができる
貴賎結婚をした場合、当人の皇位継承は維持されるが、その子には継承されない。
1989年にヴァシーリー・ミハイロヴィチが亡くなったあとは、皇位継承者は絶えたことになる。
もっとも、帝位そのものが今は存在しないので、誰も何も継承するものはないのだが。
これが、自然の成り行きであり、ロマノフの時代は静かに昇華していくのがよい、と勝手ながら私は思う。
しかし、懐古主義的な亡命ロシア人を取り込んで、皇帝のかたちを真似てそのつもりになったキリル大公の、常軌を逸した行動が、ロマノフ皇統の終わりに泥を塗ることになった。
亡命後、執務中のキリル大公
キリル大公の動き
1922 皇位を保護する者であることを公言
1924 皇帝を自称
その後、本来称号を得られないような貴賎結婚相手に皇帝の権限で称号授与を乱発、人気取りも兼ねて、皇帝の立場をアピール。
本来、国を統治するのが皇帝なのであって、政ごとを一切せず、そもそも統治するものもないのに、称号をプレゼントしたり、亡命宮廷をつくったりしても、ただの戯れでしかない。
特に、彼がそれをするということに反感を抱かれる理由は、革命が起きたときの、彼の皇帝に対する裏切り行為に由来する。
キリルは海軍にてキャリアを積んできたが、沈没を経験して以来、軍艦への乗艦を拒み、皇帝専用ヨットに乗船する水兵の隊の隊長を務めていた。革命直後、アレクサンドル宮殿に軟禁された皇后や皇太子や皇女らを警護していたのはこの水兵たちだった。水兵たちは多くがヨットで同行して、皇帝一家とは顔なじみでもあった。皇后は寒い夜空の下この水兵達一人一人に感謝を伝え、スープや紅茶を自ら振舞った。宮殿の周りに暴徒が増え、彼らしか頼りになるものがなかったからだった。ところが、ある朝、水兵たちは消えてしまったのである。キリルが命令を発して引き揚げさせたのだった。
皇帝専用ヨット シュタンダルト号
艦上でお味見する皇太子
そのうえ、自分の宮殿のうえに赤旗を立て、革命支持を示す赤い帽子を手に、国会のロジャンコに会いに行く。皇帝が正式に退位する前であり、皇帝への忠誠を破るごとき発言をしてロジャンコにさえたしなめられた。
新聞のインタビューでは、皇后を、カイザーヴィルヘルムの共犯者であるかのように語る。
こうした行動が他の皇族にはのちのちにも許せず、その行動から、キリルは皇位請求者にふさわしくないといわれた。
また、そもそもキリルとその弟達は、上の⑶の条件が適っていないので、皇位継承権そのものを持たないとする意見、そのうえ、帝政崩壊以前に結婚したキリルは⑸についても適っていない。結婚を皇帝に認められず、ドイツで秘密結婚し、国外追放処分されている。いとこ同士の結婚は正教では禁じられているので、この点に関しても皇帝の許可なしでは済まないものである。
しかし、父ウラディミルが亡くなったときに皇帝に赦され、キリルは復権した。その際に、結婚問題も皇帝に承認されたということなのだろうか。
キリルと同じような問題を起こした、ミハイル・アレクサンドロヴィチの場合と比較するならば、ミハイルは離婚経験ある平民と秘密結婚し、同じように帰国を赦されたのだが、身分違いのため、ミハイルの子には皇位継承権はなく、妻子はミハイルの居住する宮殿に入ることは許されなかった。パーヴェル・アレクサンドロヴィチの場合は、同じく離婚歴ありの平民女性だが、同居は許された。キリルの妻は離婚歴はあるけれど、王女であるため、さすがに別居にはさせないだろう。ただし、うえの2人の女性と違い、キリルの妻ヴィクトリア・メリタは、結婚した時点では正教に改宗していなかった。それは不問にされたのだろうか。あるいは、ニコライ・ニコラエヴィチの結婚をニコライ2世が承認したとき、まだ存命だったウラディミル・アレクサンドロヴィチが、キリルの結婚も認めるよう圧力をかけたらしい。そのタイミングで、皇帝は承認したのだろうか。
キリルの結婚相手ヴィクトリア・フョードロヴナは、アレクサンドラ皇后の兄ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと不仲で離婚したヴィクトリア・メリタであり、皇后は非常に嫌っていた。
キリルとヴィクトリア・メリタは幼なじみで結婚を望んでいたが、ヴィクトリア女王の勧めでヘッセン大公と結婚した。ヴィクトリア・メリタは、離婚理由にエルンストが男色だったからとも言っているが、ヴィクトリア・メリタはヘッセン大公妃であるうちから、月の半分をロシアのキリルのところで過ごす生活をしていたとのこと、こちらも非難されてしかるべきかと思われる。ただし、この時代、妃でありながらこのように振る舞う者はめずらしくはなかったかもしれない。
革命直後、フィンランドに亡命し、白軍がボリシェビキに勝利するタイミングでロシアに入り皇帝に担ぎ出される、その時をキリルは待っていたが、白軍は敗れ、キリルは家族とスイスに亡命した。
その過程で、1917年、キリルには男子ウラディミルが誕生していた。自称皇帝は息子に希望を託して1929年に亡くなった。
キリルの息子ウラディミルの動き
キリル大公と子供達 マリー、キーラ、ウラディミル
ウラディミルは父のように皇帝を自称はしなかったが、皇位請求者として周囲に認知させようとしていた。ソ連が崩れていく中で、ロシアから尊敬を集める契機も訪れた。
ウラディミルの心配事は、男子が生まれなかったことだった。
男子の元皇族はまだ数人生き残っているが、自分が彼らより長生きできなかった場合、皇位はそちらへまわってしまう。まさか暗殺でもしない限り、彼らの誰よりも長生きできるかどうかは不確定である。確実に自分の子孫に皇位を引き継いでいくためには、奥の手を。皇帝(皇位継承筆頭者?)として、娘マリアに継承する、と宣言をしたのである。
これが、他のロマノフ達を憤慨させた。これまで、キリルやウラディミルを支持してきたフセヴォロドもこれには怒り、ロマン・ニコラエヴィチらの側につくようになった。
マリアは1953年生まれ。宣言は1969年。1978年にマリアは、ホーエンツォレルン王子と結婚。1981年、長男ゲオルギ誕生。
1992年、ウラディミル亡くなる。
上の没年と比べれば、結局、ウラディミルがもっとも後まで生き残ったので、あの宣言は必要なかったばかりでなく、かえって波紋を広げただけだった。しかも、キリルの結婚ももちろんだが、ウラディミルの結婚についても非正統性を指摘されることになる。ウラディミルの結婚相手は、元グルジア王家由来の単なる貴族であるから、ウラディミルやマリアが他のロマノフの結婚を貴賎結婚だと言うなら、ウラディミルの結婚も同じ、つまりその子孫に皇位継承権がないというのも同じだ、と口撃されるに至った。
元グルジア王家というのは、バグラティオニ家。タチアナ・コンスタンチノヴナの結婚の時には認められたが、そのときそれが多くの人に意外だったように、一般的な認識として王家とは認識されてなかったのだろう。(タチアナは大公女ではなく公女であり、貴賎結婚をうるさく言うほどでもなかったからかもしれない。しかしながら、この結婚で生まれた子への皇位継承権は放棄するよう、署名させられた上での結婚承認だった。女性でも、男系が絶えた場合はその子(男子)に皇位が巡ってくる可能性があるためである。)
ただし、時の皇帝が認めればよい、という伝家の宝刀で、父が皇帝の役になるのだから、ウラディミルの結婚の正統性は全く気にすることはないようだ。
ドミトリ・パヴロヴィチ大公とウラディミル・キリロヴィチ
ドミトリはキリルの皇位を支持
キーラの結婚式
花嫁キーラの横、眼鏡の男性はフセヴォロド公
その他、元皇族多数
ロマノフ家協会
マリア・ウラディミロヴナ以外にも、ロマノフ家筆頭者を名乗る者がいる。
ウラディミロヴィチを除く3家で築くロマノフ家協会の代表者、現在はドミトリ・ロマノヴィチ公。
コンスタンチノヴィチは男子が絶え、ニコラエヴィチのロマンの2人の男子のうち、長男ニコライは最近亡くなり、次男のドミトリが筆頭である。
ただし、ドミトリにも男子がいないため、このあとはミハイロヴィチに受け継がれることになる。
ロマノフ家協会の主張は、基本国家法で定めるところの貴賎結婚の規定は、大公に求められるものであり、公にすぎない者には、結婚相手が貴族であっても貴賎結婚とみなされない、よって自分達の結婚は正式なものであり、子孫の皇位継承権は維持されうる、というものである。そのうえで、男系優先で継承していく場合、筆頭者がマリアであることはありえないと主張する。
曲解ともいえるが、法の規定の異常な厳しさを思えば、抜け道も必要かもしれない。時代も変わっていて、王室は身近で存在しなくなっている。
ロマノフ家協会の態度は、ロマノフ家の筆頭者として名乗りをあげるが、要請が無い限りは皇帝として名乗りをあげることはしない、というもののようだ。
現実的に、ロシアが皇帝をすえることは今後ありえないと誰もが今は思っている。ロマノフ家協会でもそう認識している。
もしも、なにかのきっかけで、ロシア国民の総意として、再び皇帝を望むのなら、そのときの国民がふさわしい人を選べばよい。ただ、そのときに万が一、ロマノフ家から選びたいということになればその意に応えられるようでありたい。
そういう姿勢なのだそうだ。
しかし、マリアのほうでもほぼ同じ考え方のようである。違うとすれば、今の立場においても尊敬を集めたいというところだろうか。ロマノフ家の他の者たちと自分とを、はっきり線引きするよう
周囲に求める。
こういう分裂すらおさめられないで、あの大きなロシアを治める皇帝に君臨するのはどうにも無理だろう。できれば、非現実的な皇位に固執することなく、和解して、革命の犠牲になった先祖のために祈りを捧げていただきたいと私は願う。
なお、ウラディミロヴィチ家の継承を支持しつつ、ロマノフ家協会とも良好な関係を持ち、皇位継承権は放棄し、ロマノフの名前も使わず、一アメリカ市民として暮らす、アウトローな末裔もいる。パーヴェル・ドミトリエヴィチ・ロマノフスキー=イリンスキーである。
キリルから与えられたロマノフスキーの名を捨て、ポール・イリンスキーと名乗る。
ドミトリ・パヴロヴィチの一人息子。
資産の相続も辞退。自分で築いたアメリカ市民としてのステイタスがあるので不要だと。
なんとも颯爽としている。
糸の切れた凧を思わせる自由さは、ドミトリ譲りなのかもしれない。
マリア大公と息子ゲオルギ
ロマノフ家協会代表 ドミトリ・ロマノヴィチ公 作家