名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

『荒野の40年』と「50年」ヴァイツゼッカー演説

2017-01-01 23:59:34 | 人物

「過去に目を閉ざす者は‥」
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
戦後40年5月8日演説と戦後50年日本での演説




Richard Karl Freiherr von Weizsäcker
Bundespräsident
1920〜2015


第6代ドイツ連邦大統領リヒャルト・カール・フライヘァ・フォン・ヴァイツゼッカーによる、ドイツ敗戦後40年にあたる1985年5月8日に行われた連邦議会での記念演説は、戦後70年を経た現在においても、この一節で広く知られている。

『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』

今回は、邦訳版『荒れ野の40年』(永井清彦訳)をもとに演説の内容を概括すること、ヴァイツゼッカー大統領の生涯、演説当時の背景などを書きたい。
また、連邦議会での演説から10年後に日本に招かれた時の演説で、日独の戦後の歩みが比較されており、日本の外交姿勢に示唆が与えられている。
動いている歴史の中でもう一度立ち止まって考え直すために、ヴァイツゼッカーの残した言葉に耳を傾けたい。

『荒れ野の40年』
ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説は、1945年ドイツの無条件降伏から40年の記念式典で行われたものである。当然この日は、近隣の旧連合国では戦勝記念日として祝典が行われていた。しかし、この日はドイツにとってこそ大切な日であるとヴァイツゼッカーは言う。

1985年5月8日演説

「われわれドイツ人はこの日にわれわれの間だけで記念の催しをいたしておりますが、これはどうしても必要なことであります。われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力をかりて気持を慰めてみても、それだけのことでしかありません。ことを言いつくろったり、一面的になったりするのではなく、及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんに力を備えております。

われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとがなめた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」


人びとがなめた辛酸というのは、ドイツの被害だけでなく加害も含む。事実として何が起きたのかを知り、
心に刻むこと。心に「刻む」ということ。
(心に刻む: erinnernは英語のremind、rememberに相当。inner:中へ、に接頭語er:目的・到達・達成を付けて、思い出す、覚える、思い起こさせる
ただし、"Remember Pearl Harbor"のrememberとは意識が異なる )


そして、歴史の歩みに思いをこらすというのは、起きたことの原因と、その結果として編み出された歴史および社会変革の因果を正しく解析せよ、ということであろう。

それらは、歴史家によって行われる議論によるのではなく、全ての個人が「誠実かつ純粋に」取り組むべきことだと強調される。そして、「帰結にこだわりなく責任をとる」ことが求められる。

ヴァイツゼッカーによれば、5月8日はナチズムの暴力支配からの解放の日だとみなしつつも、

「解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な苦しみが始まり、その後もつづいていったことは忘れようもありません。しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終わったところにあるのではありません。戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです」

という。それはつまりヒトラーが政権についた1933年1月30日。
そこに思いをこらせ、という。

戦いが終わった5月8日以降に深刻な苦しみが始まった、というのは、日本の終戦後とは異なる。戦後すぐ、ドイツ東部の人びとへの強制移住(ドイツ人追放)により50万から200万の死者が出た。
満州引き揚げやシベリア抑留の被害者数と比べても、桁違いの規模といえる。
無条件降伏という大きな不安だけではなく、多大なる実害に晒されたドイツ。そして分断。
暗い奈落の過去、不確実な未来。
それは、日本の戦後の比ではない。しかし、終戦の5月8日は、ナチスの暴力支配と人間蔑視から解放された日、誤った流れの終点だった。

Stunde null(零時:シュトゥンデ ヌル)から、ドイツはどんな道を歩むべきであったか。
ヴァイツゼッカーによれば、
まずは真実を心に刻むこと。

「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。当時まだ若く、ことの計画・実行に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの型がありました。戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかにしてなったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。

ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。
しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け会えるのであります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

「心に刻むことなしに和解はない」

ヴァイツゼッカーはユダヤの格言のなかにメッセージを見つけている。

「忘れることを欲するならば捕囚は長びく
救いの秘密は心に刻むことにこそ」


「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」
智と情、この二つが必ず併存することが必要だと確かに理解できよう。
二つを併せ持つことは、人生のどんな場面でも必要だろう。(そして次には勇気だろうか?)

ユダヤ人に対する罪だけではない。
戦争を通して、西側諸国への蹂躙や、隣国ポーランドやソ連ほか、東側諸国へはより深刻な損害を与えたし、勿論戦争ゆえ敵から損害を喰らいもした。
そして戦後、戦勝国も戦敗国もそれぞれに復興に立ち上がるなかで、精神面の最初の課題が与えられる。
「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れることをしないという、人間としての力」が試されている。

故郷を追われる悲しみと喪失感は、なかなか想像しえないほど深く苦しいもののようである。それは島国の日本には全く経験のないものである。政治的な混乱の中、故郷を失った人々に対し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒めを優先させる」こと、それが、ヨーロッパの平和的秩序のためになしうる、人間としての貢献であるとヴァイツゼッカーは語る。
故郷への愛が平和への愛。
それはパトリオティズムであって、ナショナリズムではない。パトリオティズムとは、自身と祖先につながる土地や共同体への帰属意識や絆といったものだろうか。自国への偏愛から、他国より髪一本でも優れていたいと考えるナショナリズムとは異なるものである。

ヴァイツゼッカーは、演説の中で、戦後40年の当時において、具体的に向かうべき方向をいくつか具体的に示している。

「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、‥

人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、‥

独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、‥

中東情勢についての判断を下すさいには、‥

東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、‥」


このうち、現在、ドイツも含めEUが直面している難民問題に絡む2番目の提起についてのヴァイツゼッカーの考えは、「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう」とある。道徳的には確かに今のドイツには引き継がれているのだが、現実的な対応は相当困難だという印象は残念ながら否めない。ヴァイツゼッカーと同じCDU(ドイツキリスト教民主同盟)に属するメルケル首相は今、この問題に直面し、道徳と政治の計りの前で苦悩している。

この他に、演説のなかではドイツの分断についてが述べられている。一民族二国家という不自然な国家形態の悲しみや軋轢は、日本にも起こりうる分断だった。
演説から五年後、だれも予想できなかったドイツ統一が成る。演説では、ヴァイツゼッカーによって絞り出す涙のように語られた分断の悲しみと統一への果てなき切なる願いは、どれほど重いものだったのかが、語られる言葉のひとつひとつによって、分断を免れた我々の心すらも打つ。


さらに演説において、40年というのが、人間の生のスパンにおいて非常に大きな意味を持つと述べられている。
旧約聖書に照らして、遠い過去の聖書の言葉から警告を聴くのである。

「暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果2対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしております。‥
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。かつて起ったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。‥
人間は何をしかねないのか、これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に反し究極の完成はありません
いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております」

若い人たちへは、他のあらゆる人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにと、年長者へは、率直さによって心に刻み続けることの重要性を若い人びとが理解できるように手助けする義務がある、と説く。「ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう」、若い人びとへの助力を求めている。

「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」

こう結んで終わる演説は、今を日本に生きる私達にも、たくさんの示唆あるいは警告をもたらしはしないだろうか。


リヒャルト・ヴァイツゼッカーの生涯
リヒャルト・ヴァイツゼッカーは1920年、外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(男爵)の三男一女の末子としてシトゥットガルト新宮殿で生まれる。父の仕事により、スイス、デンマーク、ノルウェーで育ち、ベルリンに戻る。
祖父カールは法律家で、ヴュルテンベルク公国首相を務めている。父は海軍少佐から転じて外交官に、ヒトラー政権下で外務次官、ヴァチカン駐在大使。父の弟は神経学者。
リヒャルトの長兄カール・フリードリヒは高名な物理学者・哲学者であり、第二次大戦中はドイツの原子爆弾開発をしていた。
リヒャルトは1938年(18歳)に奉仕義務によりドイツ国防軍に入営、翌年の1939年9月1日のポーランド侵攻作戦に動員された。侵攻の翌日、同じ部隊の上官であった3歳上の次兄ハインリヒが、リヒャルトの数百メートルの目前で戦死した。
ポーランド侵攻作戦後は、西方転戦、1941年からはバルバロッサ作戦など東部戦線に参加。
リヒャルトは従軍のあいだ、国防軍の犯罪にも不条理にも直面し失望する一方で、国防軍のなかの見知った者達による1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も身近で見、軍の一部には共感する部分もあったという。

手前にリヒャルト その後ろにハインリヒ 右端カール


1945年、戦後は大学で歴史学と法学を学ぶ。
しかし、父が、外務省に絡んだ一連の裁判(米軍による継続裁判で、連合国による裁判ではない)にかけられることとなり、リヒャルトは休学して弁護団の助手を務める。その際に手にし、目にしたドイツの犯罪に関する多数の報告書は、リヒャルトに大きな衝撃をもたらした。英国のチャーチルの援護を得たにもかかわらず、父は有罪となり5年拘留を下されたが、1年半で釈放された。裁判の後、父エルンストはその残りの生涯で二度と笑顔を見せなかったという。

父エルンストと若き日のリヒャルト

父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー

兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


エルンストは外務次官という立場にあり、人権犯罪を知りながらもそれを抗議しなかった。しかし、たとえそこで抗議を起こし、「殉教」したところで、誰一人救うことはできないのは明らかだった。
われわれはこういうとき、どうすればいいのだろうか。そしてそれを誰がどう裁けるのだろうか。
リヒャルトはどう考えたのだろう。
彼はのちの演説のなかで、法と裁判だけでは不十分であり、市民的勇気が必要だと説いている。
沈黙を破る勇気を一人一人の市民が持つべきだと、強い意志の言葉をわれわれは突きつけられている。


リヒャルトは裁判が終わって復学、1955年に法学博士号を取得。
その後は、西ベルリン市長を経て、国政の陰で道徳的な牽引者として信頼を集め、1984年、ヘルムート・コール首相当時に第6代大統領に就任した。
この当時、実はドイツ国内での敗戦国としての立ち位置の考え方には揺らぎがあった。経済的に発展し、世界に存在感を示してきたドイツ連邦が、その戦争責任をどう考えるのかに、コール首相はこう舵を切った。

「後から生まれた者の恩恵」と称し、敗戦時に15歳だった自分やその後の世代に戦争責任はない、と。


1984年 ドイツ連邦のコール首相とフランスのミッテラン大統領

それは、重苦しい過去から目を背けたがっていた大衆の感情に沿うところがあった。こうしたところから生まれた様々な議論の中で、他国にも目が向けられ、東欧からのドイツ人追放とて「人道に反する罪」に値する、ドイツ人も被害者である、という意見も上がった。

そんな中でむかえた1985年だった。
戦後40年の大統領演説は、その羅針盤になる重要な機となるのは、予期されていた。

その中で、コール首相より10歳年長かつ実戦経験も持つヴァイツゼッカー大統領によって、あのような演説が国民に届けられたのであった。

「歴史の真実を直視せよ」

さらに、戦争を知らない若い世代にも過去にたいする罪はなくても責任はあると説いた。

演説内容を事前に知った議員のうち、保守派のおよそ30人は賛同できないとして欠席した。議場の反応も薄かった。社会もすぐに絶賛したわけではなかった。しかし、言葉の力は深く響き続け、ドイツ国民ばかりでなく、世界に広く静かに反響を及ぼした。




日本においてもこの演説から省みるべき視点はいくつも浮かぶ。しかし、ヴァイツゼッカーはあの演説からさらに10年を経た1995年、戦後50年の折に来日し、各地で講演を行っている。そこでは、日本の立場を斟酌しつつ、ドイツの歩んだ道と比較しながら卓抜な評価を与えてくれている。それは、第三者による「真実の直視」という得難い視点である。充分に配慮された丁重な表現で、しかし厳しく核心を突いたものとなっている。それを以下に抜粋する。


ドイツと日本の戦後50年
この二国に共通している立場は、20世紀前半、ほとんどの近隣諸国と戦争状態に陥り、最終的に無条件降伏をしたということだ。
そもそも、地理的に遠く、文化も宗教も異なるにもかかわらず、たまたま戦争を介して、ソ連を挟んで牽制する目論見で同盟関係を結び、共に降伏したのだった。
ヨーロッパ大陸の中央に位置し、永年、隣国と密接に関わってきたドイツと異なり、島国日本はドイツにとってのイギリスのように、独自性を強く維持する伝統を、その国民感情に露わにしている、というのがドイツから見た日本の印象のようだ。
19世紀から20世紀へ、ヨーロッパではネイションという、本来は理性的な理念がナショナリズムへと膨大化し、二度の大戦による疲弊でイギリスすらも威信を失い、米ソのエルベ川の邂逅がその決定的な終止符になった。
今、EUとして存在することがヨーロッパの構成国ドイツの立場である。ネイションの理想は胸に、形態として求められるのはヨーロッパという国家理性(レゾン・デートル:存在理由、raison d'être)である、とヴァイツゼッカーは定義した。
ここから引用を挟んでいきたい。

しかし、過去の解釈は歴史家だけのものでしょうか。われわれ政治家や精神的指導者たちも参加する責任があるのではないでしょうか。
私は「ある」と確信しております。
仮に責任ある立場のドイツの指導者が

自国の戦時中の行為を歴史的に評価する用意がなかったり、あるいはそうできないとすれば、

戦争を始めたのがいったい誰であり、自国の軍隊が他の土地で何をしたのかについて判断を拒むようなことがあれば、

さっさと戦利品に手をだしておきながら、他国に対する攻撃を自衛だと解釈するようなことがあれば、

そんなことがあると、道徳的な結果はまったく論外としても、現在のわれわれにとって外交上の重大な結果をもたらすことになるでしょう。隣国から政治的・倫理的判断力に欠けるという評判をとったり、まだまだ何をするのか分からぬ危険な国だとみなされる、そんなことを望んだり、したりする余裕がドイツにあるものでしょうか。」

「自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場、なぜそこに居るのかが理解できません。そして過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を冒しているのです」


ドイツではまず、暗い歴史を振り返る公の議論のきっかけは教会から起こった。キリスト教の告解の慣習が底流にあったと考えられる。それが、戦争の原因と結果をタブー視することなく直視する必要が認識される機会になったのだった。

「しかしながら、死、追放そして不幸の原因は戦争の終結にあるのではなく、戦争へと通じていった、あの暴力支配の開始にあったのだという事実を無視してはなりません。
戦いの終局はドイツの悪の一章の誤った道の終末でした。この終末の中にはよりよい未来の浄福への希望の芽が秘められており、だからこそ解放だったのです」


ここを読んで、私は戦慄した。
「ドイツの悪」、「誤った道」という言い方にである。これまで、日本国内で戦争を振り返るときに、はっきりと「日本の悪」「誤った道」と言い切ったのは聞いたことがない。日本は日本の悪を認めようとしてこなかった。

ドイツでは、フランスやポーランドとも共同して統一教科書委員会を持っている。
さらに、ドイツは東西統一にも慎重だった。統一されたドイツで、再びナショナリズムが起こり他国に脅威をふるうという心配を近隣国に起こさせないよう、EUの構成である立場を優先する態度を示し、慎重に理解を得ていった。

演説では次に、日本に視点を移す。

「わたしには日本の歴史の動向を解釈する資格は有りませんが、外国から観察する者の目にはいくつかの歴史的連関が印象的であります。アジア太平洋地域で日本は、西側の影響を受けながらもそれに従属することのなかったアジア太平洋地域の唯一の国になりました。こうした方向に歩むことによって日本は、格別強力となり、つねに国民としての自らのアイデンティティを保持し、強化する術を心得て、19世紀末以来は精神的な意味でアジアの隣人たちにある程度背を向け、同時にこの地域で軍事的・政治的な権力を拡大したのでした

こうしてさまざまな種類の重大な軍事的紛争が起こり、日本ではその解釈をめぐって論争が行われております。ただ日本軍が進出したアジアのすべての国の民衆が、戦争と占領の時代の日本の役割についてかなりの程度まで一致した見方をしていることは疑いありません。これは過去の意味ではなく、きわめて今日的な意味をもつ事実なのです」

「12年にわたるナチズムの支配はドイツの歴史における異常な一時期であり、断絶であったのに、日本の場合はむしろある程度の歴史的な連続性を確認することができます。
たしかに日本は戦後、軍事行動に完全に背を向け、市場経済と民主主義を基盤とする活動で、歴史に新しい時代を開きました。しかし、宗教的な基盤、天皇制、そして国家体制は大幅に維持されてきたのでした。」


ヴァイツゼッカーはここで改めて、明暗双方をもつ過去の全遺産を受け入れ、ともに責任をもってこれを担うことが重要だと説く。

さて、このあとヴァイツゼッカーは、戦争のもろもろの事件、結果との対立が、敵であった諸国にとっても重要な問題なのだとして、二つの例を上げる。
まずはドイツとチェコの関係において、戦後2年にわたって300万と言われるドイツ系民族を非人道的に追放したチェコでは、ハヴェル大統領が、ヒトラーの犯罪は避難しつつも、チェコ人も重大な不正を行ったと告白した、ということ。その勇気と誠実さをたたえている。

「勝つために、あるいは勝利のあとに用いた手段、これが正当であったかどうかについては、戦勝国も自らと世界に対して釈明する責務があります。勝者にとって最大の道徳的誘惑は、自己の正当化であります。
ハヴェル大統領は、自国民をそうした誘惑から守り、そうすることによってドイツ人とチェコ人との間の和解による平和に貢献することを、自らの責務といたしました」


第二の例はアメリカだ。
「無防備の日本の一般市民に原子爆弾を投下した」理由をめぐるアメリカでの議論についてはもう、年来変わることなく我々も聞かされていて承知している。

「ワシントンのスミソニアン博物館で企画されていた展示をめぐる激しい論争を通じてわれわれが知ったことは、一方で退役軍人の名誉を守りつつ、他方で恐るべき原子爆弾の投下の動機に真実に即した迫り方をすることが、アメリカ人にとってどんなに困難かということでした。しかし、一点とくに強調しておきたいことがあります。わたしがアメリカとチェコの二つの例に言及致しましたのは、相手の側に自らの免責の理由を求めているからではありません。われわれは事件の歴史的な順序を否定してはなりませんし、相手側の犯した不正が言い訳になるわけでもありません

「戦争での罪や不正を公平に判断するには、歴史の真実に目を閉ざしてはなりません。この真実は不正を克服し、新たに相互の信頼を打ち樹てるという目的にして役立ちます。これが可能なのは、すべての側が独善を排している場合であります。

「過去を川のように流してしまえ」(水に流す)という原則にしたがっていたならば、何も解決できず、外交面での孤立を長引かせ、内政面では硬直状態を助長していただろう、ということです。‥ときには謝罪が必要ですが、信じてもいない謝罪なら、むしろ止めておくべきでしょう。本気でなければ、謝罪などしない方がましです。ドイツでの経験では、謝罪と償いの行動には特段の意味があり、ときには単なる言葉よりも大切であり効果的でさえありました」



「人間が歴史から学べるという証拠はありません」

それは率直だと思う。学べる可能性はあるものの、必ずしも学べるとは限らない。当たり前だが、歴史を経験さえすれば何もしなくても全自動でなにがしかを学べるなどというものではないし、真剣に日夜考え続けたとしても、それでよい結論へと導かれる保証もない。
しかし、誠実に歴史と向き合う姿勢が、人と人との間で手を取り合って平和に生きる大切なステップであり、それは必要なステップである。

ヴァイツゼッカーの日本へのメッセージは、改めて今に照らせば、現在、政治的に明らかに退行していることを示すインジケーターになっており、この先を思うと暗雲が空に立ち込めてくるような不安に襲われる。

日本はドイツに比べれば、戦争への反省は消極的なばかりでなく、一方的に水に流そうと、忘れようとしている。大衆の多くは、ヒロシマナガサキの原爆被害のことは大抵がわかっていても、戦時中に中国大陸で、太平洋の国ぐにで、日本が何をしてきたかを知らない。「そんな話、終戦記念日でもないのに‥」と、関心を示さない。そんななかの、米大統領のヒロシマ訪問や日本の首相の真珠湾訪問は、それ自体が中身のない外交なのを反映して、誰の心にも響かない。政治家の心は空き樽で、むなしく響くか、何の音も返ってこない。


改めて読むヴァイツゼッカーの演説に、まずは真実を知ることから始めたい。真実を直視する勇気と誠実さを、人は誰でも備えている。


ヴァイツゼッカーは信仰心の篤かった母親の影響により、自身の根底に聖書(特に旧約)の教養を敷いていて、演説においても引用することが多い。政治家として活躍する一方で、道徳家として一目おかれた人物であったのには、軸足が必ず信仰の世界にあったためであろう。
ただし、信仰心がそのまま人々の心を動かしたり世界を良くするというわけではなく、信仰する人の誠実な姿が周囲によい影響をもたらすのだと考えていた。それで彼は、信仰心を養い、言葉という媒体を駆使し、政治という形に落としていった。

崇高な道徳心は孤峰の花にせず、すべての人々のために、誰もが手に取れる身近な花のように、わかりやすい言葉のかたちで説いていく。

2015年1月31日に他界。94歳。
笑顔を取り戻すことのなかった父とは違い、晩年の穏やかな笑顔と屈託ない笑い声が、安心を与えてくれる。




執務机にて




少し長い動画だが、さわやかなオーラを放つヴァイツゼッカーに触れていただきたく、お勧め。

Richard von Weizsäcker - Für immer Präsident





こちらは1985年のドイツ連邦議会における演説の動画↓

Die Rede des Bundespräsidenten Herrn Richard von Weizsäcker



幼き日の甘い思い出 ルーマニア王女イレアナ

2016-12-15 21:47:18 | 人物

ルーマニア王女イレアナ
果たせなくなった
ロシア皇太子アレクセイとの可愛い約束




Princess Ileana of Romania
1909〜1991


以前の記事で、ルイス・マウントバッテンがマリア皇女に片想いしていたことを書きましたが、アレクセイ皇太子も可愛い思い出を生前に残しています。
ルーマニア王女イレアナは、ロマノフの皇帝一家がルーマニアを訪問した際、王家同志の交流を通して、子供らしい自然な好意から、4つ上のロシア皇太子と楽しい思い出を作りました。
5歳と9歳ですからもちろん恋とは違うでしょう。
しかし、ルーマニア滞在を終え、帰国するとき、アレクセイはイレアナに、「また会いに来る」そして「結婚を」と約束したと、イレアナの遠く甘い記憶に残されていました。
1914年春、ヨーロッパが戦争に突入するごくわずか前の、最後の煌めきの時。
子供が子供らしさを謳歌する。
美しく健康的なイレアナには、病気に、かけがえのない子供時代を中断させられてきたアレクセイには眩しかったことでしょう。この時は、アレクセイも健康で、ヨットの旅とルーマニアの国土を精いっぱい楽しんだことでしょう。
運命が決めた二人の行く末、
「生きる」ほうの運命を生きたイレアナの生涯を追います。


最後のロシア皇太子アレクセイ


1. ルーマニア王国
1859年に独立したルーマニア公国は、1881年にルーマニア王国となり、1947年にソ連共産党によって王が廃位させられ、1989年まで社会主義国家でした。ルーマニアの浅い歴史のなかで、現時点でもっとも長かったのは王国時代であり、現代でもなお、帰国した元国王は、権限は持たないものの旧王室として保護されています。

イレアナ王女は第二代王フェルディナント1世の3男3女子のうちの第五子三女として誕生。
母はイギリスのサクス=コバーク=ゴータ王女マリアです。

母、兄ニコラと









2. 母マリア
母マリアについて、マリアの父はヴィクトリア女王の二男エディンバラ公アルフレート、母はロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナです。この辺りについては過去記事「デンマーク王女アレクサンドラ」をご参考下さい。

婚約時のマリーとフェルディナント




マリアの兄弟姉妹は、
❶アルフレート 1874〜1899
②マリー(マリア) 1875〜1938
③ヴィクトリア・メリタ 1876〜1936
④アレクサンドラ 1878〜1942
❺男子 夭折
⑥ベアトリス

ヴィクトリア・メリタについては、過去記事「ヘッセン大公家」と「ロマノフ大公 アレクサンドロヴィチ」をご参考下さい。
ベアトリスについては、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ」のなかで、最初にミハイルが相思相愛の上結婚を希望したものの従兄弟関係のために許しを得られなかったのが、この方です。
また、スペインのアルフォンソ13世とも関係があり、問題になっていました。

サクス=コバーク=ゴータでは、エディンバラ公アルフレートの長男アルフレートが自殺してしまい、オールバニ公レオポルドの遺児が引き継ぎました。「王室の血友病」をご参考下さい。

マリーは従兄弟のジョージと相思相愛となり、兄弟である父親達は歓迎したものの、イギリスを心底嫌う母に猛反対され、縁談はあきらめることに。このくだりは「ジョージ5世」をご参考下さい。

マリーは結局、王家(イギリスを除く)に娘たちを嫁がせたい母に勧められるままに、ルーマニア王太子フェルディナントと結婚しますが、彼をすぐにひどく嫌い、「大嫌いな男」と周囲に公言していました。
マリア(結婚後にマリアと改名)には6人の子供がいます。そのうち、上の2人はフェルディナントとの子のようですが、真ん中の2人はロシア大公で従兄弟のボリス・ウラディミロヴィチとの子、下の2人は愛人バルブ・シュティルベイの子だと言われています。つまり、マリアとヴィクトリア・メリタ姉妹は、それぞれ従兄弟のキリルとボリス兄弟と浮気をしていたことになります。
温順で、波風立つのを嫌うフェルディナント王は、子供たちは全て認知しています。

❶カロル
②エリザベータ
③マリア
❹ニコラ
⑤イレアナ
❻ミルチャ

カロル1世、フェルディナント、マリアと上から4人までの子供達




王も王妃も青い眼であるのに、ミルチャにいたっては瞳が茶色だったため、明らかに怪しまれていたそうです。
それにもかかわらず、王妃マリアは国民に信頼され、尊敬されていました。
結婚してルーマニアに来てからは、熱烈な愛国者となり、ともすると流されやすい王に代わって実質的に統治していました。また、第一次大戦中には、赤十字の下で活動、積極的なボランティアを行うとともに、勇敢にもドイツとロシアの両方と戦う英断をし、ヴェルサイユ講和会議には王の代わりに出席。各国王室とのパイプもあり、講和では領土を4割も拡大する、見事な手腕で国民の期待に応えました。


マリア王妃

3. 少女時代の思い出
イレアナは、とても大きくて美しい青い瞳を持って生まれてきた女の子。マリア王妃はとりわけこの青い瞳の娘を愛しました。年上の子供たちの名は、王族のならいの通りに付けただけでしたが、外国へ嫁いできて年月も経ち、自分の考えを通すことにも自信を持ちつつあった王妃は、最愛の娘に、音楽的な響きのイレアナという名を自ら授けました。イレアナの弟ミルチャも同じでしたが、チフスで夭折しました。

夭折したミルチャ

母の教えねばならないことも、イレアナはすでに天から具わっている。
母の愛を、静かに、拒むことなく受け容れる。
健康でエレルギーに満ち、周囲を魅了してやまないイレアナを、尊い存在のように感じる。
マリアは晩年、娘を賛美する手記をのこしています。『The Child with the Blue Eyes』、母が我が子に向けるまなざしが、美しい表現で描かれている素晴らしい文章です。

母マリアとイレアナ

年上の兄姉とは歳が離れているため、イレアナの少女時期に、すでに姉たちは嫁いでいました。尚更、側に置いて愛でたい娘だったことでしょう。
エリザベータはギリシア王妃に、マリアはユーゴスラビア王妃になりました。





兄カロルとイレアナ

母マリアとエリザベート

次女マリア(愛称ミニョン)



4. 二つの戦争
第一次世界大戦は、だれも予想もしていなかったし、それゆえ、どんな戦いになるか、予測もできませんでした。
1914年春、まだ大戦の風の気配もない頃、皇帝専用ヨットはルーマニア、コストロマに寄せ、ルーマニア王室と親睦のときを持ちました。着艦から挨拶までの映像が残されています。










この旅は、オリガ皇女とカロル王太子のお見合いも兼ねていたのです。オリガはカロルを好ましく思わず、会話することすら不愉快なようでした。一方、ルーマニアのマリア王妃は、オリガの寡黙なところ、あまり美しくない顔立が気に入らなかったようです。オリガはこのあと、ロシアから離れたくないという理由で、他国の王室からの申し入れは断りました。イギリスのエドワード王子も候補だったそうです。

この気まずい雰囲気の中にありながら、純真に子どもの世界を楽しんでいたのは、アレクセイ皇太子とイレアナ王女、イレアナの兄のニコラ王子です。
3人で手をつなぎ走っている映像もありました。
この、たった一度の出会いが、きらきらと忘れがたい思い出を刻んで、大国の皇太子の可愛い約束が残されたのでした。
まもなく大戦が始まりましたが、遠い未来の平和なときに、再び出会えることを心の隅で信じていたかもしれません。でもそんな未来は来なかったのです。4年後、アレクセイは銃殺され、約束は永久に果たされなくなってしまいました。

アレクセイとオリガ 最後の写真




5. I Live Again
気丈で、高い精神力と行動力を持つイレアナは、戦時中、7歳のうちから赤十字の通訳をつとめたり、母とともに病院で看護をしたり。できることは躊躇せず、すすんで奉仕しました。
やがて戦争は終わります。
ルーマニア王室では、信頼を失うような出来事が起きます。イレアナの16歳歳上の兄カロルは、父と以前から折り合いが悪かったのでした。
その上、1918年、突然、ジジ・ランブリノという平民女性と勝手に結婚し、子供ももうけます。この結婚は王室法に反するとして無効にされ、1921年、母が苦心して決めてきた相手、ギリシャ王女エレーニと結婚、ミハイ王子が生まれます。ところが、たちまち別の女性マグダ・ルペスクとの醜聞。彼女はユダヤ系で離婚歴もあります。反ユダヤのルーマニアにおいて、国民は激怒。1925年、カロルは、国王の面前で王位継承権放棄の声明を出します。
1927年、カロルの子ミハイが、幼い王として即位。1928年、エレーニ王妃と正式に離婚。ただし、エレーニはルーマニアに王母として残りました。さらに、あろうことか、マルティーニという女子高校生との間に一男一女が生まれます。

カロルとジジ

正式結婚したエレーニとカロル

カロルと息子ミハイ

この破廉恥な王父、政治家にクーデターに利用され、1930年、突然帰国し、国王宣言します。傀儡の王は、第二次大戦の攻防で失敗、退位を迫られ、ポルトガルに逃亡しました。またしても父の残した混乱を、ミハイは復位して引き継ぎますが、すでに青年となっていたミハイ1世は、1947年にソ連の共産党に追われるまでを治め続けました。
カロルは逃亡するとき、王室の財宝をごっそり持ち出し、逃亡先で売って、生涯裕福に暮らせたそうですが、ルーマニアには2度と戻れませんでした。

この間の1930年、イレアナはスペインで出会ったハプスブルク=トスカーナ大公アントンと恋に落ち、翌年、ルーマニアで結婚します。






当時の国王カロル2世は、当日国内で自分よりも、慈善事業などを通して国民に愛されているイレアナにかつてから嫉妬しており、この結婚相手がハプスブルクであることに目をつけ、ルーマニアがハプスブルク家に支配される恐れがあると焚きつけて、2人を国外追放しました。
さらに、弟のニコラは、イギリス海軍のキャリアを捨てて、ミハイの摂政となるために帰国していましたが、兄カロルの帰国復帰の際に、離婚経験のある平民女性との結婚を望んでいることを相談します。兄は始めは優しく、先に既成事実を作ればあとで同意するとなだめておきながら、既成事実化したところで非難に転じ、ニコラの称号剥奪、国外追放を命じました。こうして、国内から弟妹を追い払い、母マリアも他界して、国はカロル1人の思うようになりました。
しかし1940年、国土を割譲しなければならない原因を作ったとしてカロル2世は退位させられ、ミハイ1世が復位することになりました。

ニコラ




カロル2世に国外追放されたアントン大公とイレアナはウィーン郊外に住まい、アントンはドイツ軍の航空隊に入隊していました。6人の子供に恵まれます。
戦時中は居城を病院として開放、近隣の村でも、孤児や貧困者を救うための施設を運営しました。
ドイツが降伏した1944年以降、ルーマニアに戻り、ブラン城に住みます。除隊した夫アントンも合流しました。ここでも、The Hospital of the Queen's Heartという病院を開設します。この名は、愛する亡き母を記念しています。

ブラン城
ドラキュラの城と言われているが実際はここにすんでいなかったらしい



ところが、ミハイが退位させられたあと、イレアナと家族も国外退去をせまられました。
一家は、ウィーン、スイス、アルゼンチン、アメリカへと身を移して行きました。
かつての王女は、いまは下僕も料理人も持たない、家庭の主婦になりました。キッチンに立ち、何をどうすればいいのか途方にくれたのは最初だけ。ジャムを作り、飼っている羊からホームスパンを編んだり、開拓精神でなんでも自分の能力に獲得しました。「子供たちを飢えさせないこと」に心血を注ぐ、積極的な主婦の生活を、アメリカで築いていきました。

アメリカで『I Live Again』というエッセイが書かれています。親しみやすい表現で、身近に彼女を感じる、優しさにあふれたエッセイです。

アメリカではミセス・ハプスブルク




6. 再び、I Live Again
子育ての手が離れてからは、アメリカの地で、共産党反対運動や正教会保護活動に尽力しました。
一方、家庭では、1954年、長く連れ添ったアントンと離婚。ひと月たたぬうちに再婚しましたが、11年後に再び離婚しました。その間、フランスに渡り、正教会で修道女になり、1967年、シスター・アレクサンドラとなってアメリカに戻りました。その後、1991年に亡くなるまで、正教会の修道女として祈りの生活を続けました。





王女から、居住を転々とし、晩年は静謐な祈りの中で穏やかに過ごしたイレアナ。天使のような子供時代も、老修道女の笑顔も、どちらもとても魅力的です。日本だったら、朝ドラのヒロインでしょう。

むかしむかしに、もうすでに残りわずかな人生しか残されていなかったアレクセイに、明るい楽しい時間を与えたイレアナ。20世紀を生き抜いてきたその手に、失われた皇太子の手の感触が時折よみがえることはあったでしょうか。育て上げた6人の子供達の手の記憶に混じりながら?
その手が彼女の時計を止めるまでのあいだに。








『I Live Again』『The child with Blue Eyes』などは英語版ウィキペディアのリンクから、閲覧していただくことが可能です。



アレクシエーヴィチ 『死に魅入られた人びと』

2016-11-12 23:55:05 | 読書
Зачарованные смертью
Светлана Алексиевич,1998


いずれの写真も著書には関係なく、tumblr投稿から選んだものです



『死に魅入られた人びと ソ連崩壊と自殺者の記録』2005


スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作は、当事者のインタビューをそのまま読者に差し出す。敢えて自身の印象や所感を述べない。
ある事態に直面した本人の、感情に直結する生の言葉を通して、あるいは言語化される過程そのものも通して、受け手個々にリアルに考えさせることが目的と思われる。

現在、日本では絶版となっているこの本を、ようやく手に取ることができた。
これは、自殺に失敗した本人、または自殺した当人の関係者による、「その死」を検証する書である。

副タイトルからは、ソ連崩壊に失望した自殺を連想するが、自殺に至る理由は必ずしもそれだけではない。しかし、いずれも変化する社会の分断や歪みがその死の遠因にあると考えられる死である。
自殺した身近な者の、その死によって、残された者がソ連崩壊の中に自身が呑み込まれている姿をまざまざと見るのである。自己の存在を否定することも肯定することもできない。否定されたのは『偉大な思想』、かわりに突きつけられたのは自由放任、結果として、世代間の断絶と差別化。思想も人生も変えさせられる不自由さが、具に記されている。


この本でインタビューを受けているのは17人。
ロシアの大きな転換は、ロシア革命→レーニンやスターリンの時代→第二次大戦→冷戦期→ペレストロイカを経たロシア連邦。およそ80年の間の社会の振り子の振れは大きかった。どのタイミングで生まれ、どんな教育を受けたかによる世代間の相違が、社会や家庭で亀裂を生み、自死に逃避する。その葛藤は戦勝国でありながら、戦敗国日本よりも、重く暗い複雑な社会関係をもたらした。

例えば、公園で若者に取り囲まれ、「どうして戦争に勝ちやがった」と袋叩きにされた初老の元軍人。悲惨を生き抜き、苦しんで勝ち、祖国を、身を粉にして復興させてきたという誇りや価値観は、若者には共有されないどころか、消したい歴史にしかならない。人生の終わりを迎える頃になって、存在を全否定されることの絶望感はいかばかりか。ただし、これを、若者の単なる無理解と言い切ることもできないのである。

ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世
ロシア革命後に処刑された


ヴラジーミル・イリィチ・レーニン(本名ウリヤノフ)

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(本名ジュガシュヴィリ)




87歳、ヴァシーリィ・ペトローヴィチ(「1 ゲートル、赤い星、夢みていたのは地上の楽園」より」も、首吊り自殺に失敗した。
ヴァシーリィは1920年から70年間、共産党員。1917年のロシア革命からの内戦に赤軍兵として戦った。その後は共産党員として、勤倹に党に貢献した。一度、逮捕され、党を除名されたことが人生最大の苦しみであったが、のち名誉回復された。そのとき、同時に妻の死も知らされたにもかかわらず、喜びのほうがまさったことに、驚きとかすかな罪悪感を抱くも、正当だと思っている。
時代は変わった。
すでに老齢の彼にとっては、新しい社会への驚きはあっても、抵抗も絶望もさほどではない。むしろ、老いと孤独のなかで、一心不乱に生きてきた過去を振り返るとき、なぜだかカシャッという音とともにいくつかの場面がよみがえり、心に引っかかってくる。

白軍の少年将校の遺体、
セミョーンおじさん、
最初の妻の写真‥


「‥もう忘れたと思っていた。不可解なことだ、実際に覚えていなかったのだから。白軍の将校がころがっていた‥少年だ。はだかで。腹が切りさかれ、そこから肩章がつきでている、腹に肩章がつっこんであった。しかし、以前なら、あなたにこんな話はしなかっただろう。私の記憶もどうかしてしまった。頭のなかでカシャッカシャッと音がする、カシャッカシャッと。カメラのように。私はもう棺おけに片足つっこんでおる。去りゆく者の目でみる時には、うそやごまかしはもう許されない。時間がないんだ。
いいや、私たちの人生、それは飛翔だった。革命の最初の数年間は、私にとって最高の年月で、すばらしく美しかった。レーニンがまだ生きていた。私は誰にもレーニンをわたすまい、この胸にレーニンをいだいて死んでいこう。‥」


死んだ少年将校の映像がフラッシュバックでよぎる。それを告白しつつも、すぐさま、人生を曇りなき美しきものだったと肯定する。
しかし、語りの続きでもう一度問い直される。

「アイスキュロスのことばだったかエウリピデスのことばたったか、最近みつけた。「もし神々が人間に忘却という力をさずけなかったら、人間は生きることができなかったであろう」。私はこの力に見放されてしまった。ふと自分に問うてみる(昔は一度も問うたことがない)。なんだっておまえは、切りさかれた腹に金色の肩章をつっこまれていたあの少年が不憫じゃなかったのか?そりゃあ、たしかに白衛兵だ、ブルジョワのせがれだ‥それでも、おまえと同じ少年じゃないか‥。いやいや、理屈や科学で私たちを裁いちゃならんのです。私たちを裁いていいのは宗教の法だけだ。私は不信心者ですがな。」

その遺体を見たときからずっと、本当に忘れていたのだろうか?その場で感情を、底の方に押しやって消したつもりになっていただけ。それが、70年もたってふたたび浮かんだ、ということだろう。死体が水底から時間をかけて浮かび上がってきたようだ。

肩章は絢爛豪華な帝国時代の象徴として赤軍派には嫌悪された。逆に白軍兵士の誇りでもあり、それを遺体の腹に突き刺すというのは侮辱行為を表わす。

セミョーンおじさんは、ヴァシーリィ自身がコムソモールの頃に密告したために銃殺された人だ。自分の密告のせいで、初めて人が銃殺されるところを見た。同じ村の住人だ。ヴァシーリィは父親に追い出された。

「私は眠れずに‥明け方、眠りにおちた。夢をみた‥赤ん坊はもう大きくてずしりと重い。私は赤ん坊を抱っこしている。楽しい。赤ん坊の顔をまぢかで見る、イコンの聖母がおさなごの目を見つめるように。私の腕のなかにいるのは、セミョーンおじさん‥。さけびだしたような気がする。夢のなかではいつも声をあげずにさけぶ、戦闘の時のように。戦闘の前のように。自分の声は聞こえない。私は軍刀で戦ったこともある、‥」

話はすぐに武勇伝やスターリン崇拝に切り換えられる。
あとは、老人の孤独。

「みな死んでしまった。ボリシェビキ世代は大理石の墓石のしたに横たわっている」

「二度目の妻が死んだ時、私には自分以外にだれも残っていないことを悟った。私の友は自分、私を裁くのも自分、私の敵も自分だ。
信じていたんだ。頭から信じていた。私たちは革命の熱狂者だった、私の世代は。すばらしきわが世代よ!ただ、夜ごと眠れないのが‥。いや、わが世代には感服する、その熱狂ぶりには、感服する。死ぬことができるのはだれか。死を覚悟している者のみだ。もしわれわれの熱狂がなかったならば、われわれは耐え抜くことができただろうか。やめよう。たまにふっと考えるんです、私は自分を相手に語っているのではなく、いつもだれかの前で一席ぶっているんだと。そんなとき自分にそっとささやくんですよ、「さあ、演壇からおりな」。きっと、いまも、演壇からおりなくちゃならんのです。そうですな?」


過ぎ去った時代はほんとうに、過ぎ、去った。
演説をぶちたい衝動、おりねばならない敗北感。歴史のまわりの寂寥。

「年をとりすぎた。私には身を守ってくれるものがない。私の時代は終わった。時代というのは宿命なんですよ、古代ギリシャ人が言ったように。」


怒濤の人生を邁進してきたなかで、捨ててきた、あるいは消してきた記憶の、底に沈んでいた片鱗を再び見る。否定してきたものと肯定してきたもの、それを人生の終わりに天秤にかける、そして自死。


「先日、死のうとしたとき‥。古い写真を、破りすてた。最初の妻の写真だけは破ろうにも破れなかった。ふたりで写っている、若くて、笑っておる。そうそう、日が照っていたんだ‥森の草地、妻のひざ枕。妻の腕のなか。そうそう、日が照っていたよ。」

美しく幸せなひとコマ。
時代も社会も問わない、幸福が止めた時間。
ここに生きる。ここに生きていたかったのではなかったか。

ヴァシーリィはこのあと再び自殺し、今度は完遂した。遺書があった。


「私は兵士だった、私は一度ならず殺した。私は殺した、信ずるままに、未来のために。過去を擁護するはめになろうとはおもいもよらなかった。わが老いた心臓をもって過去を閉じよう」


革命で荒らされた冬宮殿内部

革命では教会の破壊や聖職者の虐殺も横行した

赤軍兵の誇りは赤い星のバッジ

第二次世界大戦、独ソ戦の熾烈を極めたスターリングラード




55歳、建築家アンナ(「17 羽ばたき一回とシャベルひとふりのあいだ」より)はある日、ガス栓をひねって自殺した。
その日は朝早く起き、あえて片時も手があかないようにさまざまな仕事をした。ハンバーグを焼き、洗濯、繕い物、生活用品の始末、部屋に花束を買ってきて、香水も香らせる。

「私は、部屋のガス栓をあけた‥
ラジオをつけた‥。
私は自由だった。自分にこんなことができるなんて思ってもみなかった。
生きるのがいやなんだろうと、そう思ってらっしゃるんでしょう?とても生きたいの。まだ人生を心ゆくまでながめて楽しんでいませんから。」


アンナは自殺に失敗した一人だ。過去を振り返ってインタヴューに答えるなか、突然、幼児期に克服したはずの吃りが始まる。自分の誕生日のとき、少女時代の思い出を話し出したところで、息子に言われたことを言及し始めると、吃りが止まらなくなった。

両親は第二次大戦期に逮捕され、アンナは収容所で生まれ、孤児院で育った。10代後半になってようやく母が出所、母や姉と暮らしたが、一緒に暮らした経験のない者どうしでは、家族らしい関係を築けなかった。
やがて家庭を持ち、息子と娘が生まれたが、夫は家を出て別の女性のところへ行った。夫は去ってもまだ愛しているが、息子や娘には自分は必要とされてないと感じていた。
誕生日に息子が彼女に浴びせた言葉はこうだ。


「なんのためにママはぼくらにそんなことを話すんだ?なんのためか白状しろよ。恥ずかしいったらないよ。ママたちは、非人間的な実験の材料にされたんだ、カエルみたいに。屈辱的な。いいかい、屈辱的な実験なんだよ。それなのに、ママたちは耐えぬいたことがご自慢なのかい?生き残ったことが?死んだほうがましだったんだ。こんどは同情を期待している。感謝を。なんに感謝しろってんだよ?昔の人たちはなんていった?人間は考えるアシである‥。考えるどころか、肥料なんだ、堆肥なんだ。砂粒なんだよ、共産主義を建設するための資材なんだよ。ぼくは奴隷制度のなかで生みおとされ、奴隷制度のなかで生きろと教わった。収容所の塀のなかで。まわりじゃ生きることを楽しんでいたのに、ママたちはそこに加わろうとしなかった。ママの世代は‥。ママたちは、檻だかコンテナだかに閉じこめられていたんだ。ままったら、ぼくにそんなことを覚えておいてほしいのかい?ママはけっして自由な人間になれっこないんだ。ぼくのなかにもママの奴隷の血が流れているとのを感じるよ。輸血で家をいれかえたいくらいだ!細胞だってそっくりとりかえてしまいたいよ!ここから逃げだすチャンスがあったって、ぼくはこんなじぶんをつれていくしかないんだ。ママの血もいっしょに。ママの細胞もいっしょに。虫唾がはしるよ!」


息子のなじりには社会への憤りが半分だとしても、母親を傷つけるには余りある暴言だ。苦労して育てた、その結果は残酷。
ほんとうは生きたい。けれど死をえらぶ。
自死に直面してのみ、自由を感じられたというのはなんたることか。ただ、ほんとうは生きたい。それでも、「自由に死ぬ」ではなく、「自由に生きる」ことが、彼女にできるのかはわからない。










ペレストロイカを経てロシアが最終的に獲得した自由。その自由は、万能でも明るくもない。

27歳、パーヴェル・ストゥカリスキィ(12 アエロフロートの窓口で航空券を買って行った戦場」より)は傭兵。自殺した彼のことを語るのは、傭兵仲間の親友。アフガニスタンで知り合い、意気投合したという。

「そうだよ、おれは傭兵だ、殺しという自分の能力が売りものだ。‥かつてわが国には傭兵はいたためしがない、われわれは祖国の守り手を誇りに思っていた、なーんて、そんな高学年むきのおとぎ話なんかよしてくださいよ。男というのは戦争が、気に入ってるんです、ただそれを正直に言わなかった、秘密にしていただけだ。」

傭兵とはいえど、彼らはお金のためにやっていたのではない。

「あのぴりぴりした感覚、撃ってるのはおれじゃねえ、おれが撃たれてるんだというときの。この世とあの世にいっぺんに足をかけているんです、両方に。」

やがてアフガンから国に戻った彼らは、ユスリ屋をやったが、再び今度はナゴルノ=カラバフの戦場に行く。アエロフロートのチケットを自分で買って。
戦場では強い者、すなわち武器を持っている者が全てを手に入れる、と彼はいう。
人の妻を幾人も犯し、殺した。花摘みしていた少女も犯した。悪びれることなく、強者の当然の実力行使であると。

とうとう国へ帰る。戦場の喧騒に疲れたため、身近だった人のもとへ、あたたかい言葉を期待して帰る。アエロフロートに乗り、ソチなどの保養所帰りの人に席を囲まれ、ともに日焼けして満ち足りた顔をしての空の旅。
空港で二人はそれぞれ家族へ花束を買った。

「あいつが服を脱ぐとき、おれは、初めてのガキのようにブルブルするだろうぜ」
と、パーヴェル。
しかし、帰宅したパーヴェルは銃口を口にソファの上で自殺した。女はべつの男のもとに走り、家はもぬけの殻だった。

彼らは、強制ではなく、自分たちの意志で戦場に行き、自由に撃ちまくり、略奪しまくった、犯しまくった、殺しまくった。
他人の命をさんざん自由に始末してきたものの、自分のオンナの心は自由にならなかった。
自由とは何なのか。壁も天井もわからない空虚な部屋に置き去りにされるような心地だろうか。


アフガニスタンでのソ連兵スナイパー
アフガニスタン難民




14歳、イーゴリ・ポグラゾフ(「2 紺色の夢のなかへ消えていった少年」より)は自宅のトイレで夜中に首を吊って自殺。父母と3人暮らしだった。

幼い頃から、友人たちと戦争ごっこするときはいつも死ぬ役をやっている、と祖母が心配した。墓地にいると落ち着く、と。端っこ、へりに立つのが好きで、母を冷や冷やさせた。
インタビューで彼の死を語るのは、哲学専門の講師でもある母である。母は、戦争に勝利した経験のある母に育てられ、国家の理想を体現して生きてきた自負のある人だ。
息子イーゴリは、新しい時代の空気の中で、特に不都合なこともなく、思うように生きてきた少年である。ただ、詩作を愛し、死の世界に魅入る傾向があっただけだ。

私にはよくわかる。特別、不自由なことがないにもかかわらず、少年期は死に憧れたものだ。
自殺こそ、もっとも理想的な死と信じて疑わなかった。
死の、その先にはなにが見えるか。
のぞいてみたい。
美しい世界、陶酔、透明性、静謐‥
しかし、その先になにかがあるはずもなく、何も見えず聞こえず触れず、つまり世界は無い。
どんなに底を覗いても、塵ひとつも無い、
そう思い至り、憧れの死の夢は一遍に色を失ったのだが。

それでも、イーゴリの遺した詩の断片には、当時の私の心が共振する。


「だれかが死んだ、音楽が聞こえる
窓のした、運ばれていくのはぼくじゃないのか
最後の審判へむかう道で
揺れているのは、ぼくの頭じゃないのか」



「銀色の雲よ、ぼくはおまえたちのものではない
空色の雪よ、ぼくはおまえたちのものではない」


「ああ 底からのほうがぼくにはたくさん見える
高みからよりも。ぼくには昼間、星が見える
草のにおいも井戸の底のほうがかぐわしく
そのなかでは音もはるかにやさしい」



母が語る。
あの子は海や川や井戸が好きだった。水のとりこだった、と。


「水をのぞくと、そこは闇」
「そして水だけが流れている、静寂」



一方で、イーゴリはある少女と恋をし、その後別れたようだった。そのせいなのか、突然、髪を丸坊主にしたという。


「あなたは見ることができない
ぼくが白いおおいに身をかくし
たそがれのかすかな光を身にまとい
紺色の夢のなかへ消えていくのを」


「そして緑の夜は神秘的に遠のき
そして庭の場所を占めるのは昼」



イーゴリは14歳になったばかりで自ら消えた。
しかし、母の苦悩はここから始まり、永遠に続くことになるのである。
母は夢を見る。

「雨が降りはじめる。でも、私は、それが雨じゃなく土がぱらぱら落ちているように感じるのです。砂だわ。雪が降りはじめる。でも、さらさらという音で私にはわかる、これは雪じゃなくて土なんだと。砂だと‥。墓掘り人のシャベルが音をたてる、心臓のように、ざっく、ざっく、ざっく。‥」

あるとき、ヒステリーを起こして母(祖母)をなじる。
「かあさんはクズよ!クズのトルストイ主義者よ!自分そっくりのクズをつぎつぎに生んだのよ。かあさんのこどもたちは一生クズで、できそこないだったのよ。だって、かあさんったら教えてくれなかったじゃないの、自分のために生きろとか、自分の人生のために生きろとか。だから私だって同じようにイーゴリを育てたんだわ。かあさんが教えてくれたのはなんなの。ささげよ、全身全霊を祖国に、偉大なる思想に!みんなクズよ。かあさんだってわかってるくせに、まわりでなにが起きてるか。ちゃんと見えてるくせに!なにもかもかあさんのせい、かあさんが悪いんだわ!」


思うに、イーゴリが死んだのは誰のせいでもない。彼は自由に生きて、死んだ。
たとえ、母親自身が自由な思想に生き、息子に偉大な思想をまとわせようとはしなかったとしても、息子はまるで自然に巣立つようにして自死しただろう。死の世界に魅せられたため。

時代のせいではない。しかしせめて時代のせいにしたかっただろうか。むしろ過去の時代のせいというより、今の時代の自由のせいとみなすべきか‥。

自由とは、実は寄る辺なく、孤独で、気がつくと置き去りにされることに恐々としていなければならない側面を持つ。白霧に立つような。




(所感)
世界、社会が変われば、自分の人生の解釈も価値も一変、誇りは踏みにじられ、略奪され、場合によっては逮捕、処刑の列に並ばされることもありうる。
また、どの時代でもどの世界でも、家族間の慈しみは不変だと思われるだろうが、それも憎悪に変わることもある。その点では、社会変革は戦争よりも辛辣な分断を起こすおそれがある。


今、グローバル社会は遠のき、そろって右傾化しつつある世界。この先を考えるのはとても恐いが、絶望してはいられない。子供達をどうしたいのか、真剣に考える必要がある。






Pueri Continite

平家物語 修羅の最期 〜重衡・六代

2016-10-24 01:06:46 | 人物
六. 散り残した命
壇ノ浦/
「見る程の事は見つ。いまは自害せん」
平清盛の四男、入道相国最愛の息子と言われた知盛。清盛の死後は、兄で平家の総大将、大臣殿宗盛とともに、崩れゆく平家の主人であった。
先帝はすでに海の下の都へ旅立ち、女君たちも源氏の手にかからぬよう次々に海に入水。
一ノ谷で父を庇って討たれた息子知章に、背を向けてまで逃げてきた知盛も、乳母子の家長とともに、鎧二両をつけて入水した。
「見る程の事は見つ」と。

清盛の弟、教盛と経盛は、碇を担いでともに沈んだ。経盛の子、経正、経俊、敦盛は皆、一ノ谷で既に討ち取られた。教盛の子、通盛、業盛はすでに一ノ谷で、強弓の次男教経すら、獅子奮迅の末この同じ海底に消えた。

亡き重盛の次男資盛、四男有盛、重盛の弟行盛の子で、重盛が息子同様に育てた行盛、若人三人は、浮かぬよう共に肩を組み沈んでいった。
行盛は歌に優れ、ちょうど忠度のように、都落ちの前に、藤原定家に歌を包んで託し、のちに新撰和歌集に遺された。

総大将宗盛は遅れた。
宗盛の子、右衛門督清宗も同様だった。
船の縁に立つもののなかなか海に降りられず、時を潰しているのを、周囲の者は見かねて、通りがけにぶつかったふうにして宗盛を落とすと、清宗は自ら続いて飛び込んだ。
父子はお互いの様子を伺い、いよいよ死ねず、敵の手に落ちる。
宗盛の乳母子は果敢にも、宗盛らを引き揚げた船に乗り移り、さんざんに戦ったが首を取られた。目の前で乳母子が首を取られるのを、父子は見ているだけだった。

「海上には、赤旗や赤標が、切り捨てられ、かなぐり捨てられて、さながら竜田川のもみじ葉が、嵐に吹き散らされたかのよう、ために汀にうち寄せる白波も、うす紅に色を変え、主のない空船が、潮にひかれ風に流されどこをさすともなく、ゆられ漂いゆく姿は哀れをつくしている」

命をかける死闘といえど、ほんの一瞬のことでしかなく、夢のように流れ去る。
流れてゆくもみじ葉も、
咲いては散る沙羅双樹の花も。



平重衡/
平氏の悲劇は壇ノ浦で終わりではない。
散り残った花は、源氏の手によって散らされる。

重衡は清盛の五男で、容姿は牡丹のように美しく、父母の寵愛を受けた。なまめかしくきよらかでありながら、冗談などもいい、女房達に怖い話をしてキャーキャー言わせたり、強盗の真似をして幼い天皇を面白がらせたりなど、さまざまに心遣いのできる人物であったという。武将としても才に恵まれていたらしい。
にもかかわらず、重衡は戦で敢闘して散ることはできなかった。一ノ谷で捕虜になってしまうのである。

重衡もまた、一ノ谷の生田の森から、乳母子の後藤盛長と主従二騎で落ちていく。大将軍と見た梶原景季と庄高家は追い、矢が重衡の馬の尻に刺さった。盛長は、主人が自分の馬に乗り換えるかと思い、馬の速度を上げ、平家の赤布ももぎり取って逃げ去った。
乳母子の非情な仕打ちに、仕方なくその場で腹を切ろうとした重衡だが、追いついた高家が制止し、馬に乗せて連れ帰った。
重衡は人質となり、平家の持ち去った三種の神器との重衡の身柄との交換を迫られたが、宗盛は応じなかった。重衡も納得だった。平家の者達は生け捕りにされた重衡を恥と思い、憎んだが、鎌倉に下された重衡は、源氏の武将達には一目おかれる存在となった。
梶原景時に伴われ、鎌倉で頼朝と対面した重衡は、

弓矢とる身の常として、敵の手にかかり命をおとすのは、恥のようであって決して恥ではありません。この上は芳恩をもって、ただすみやかに私の首をはねてください」
その後は一切物をいわない。景時はこの重衡の言葉に、「立派な大将軍だ」といって涙をながした。座につらなる人々も、みな袖を濡らした。


頼朝は重衡を狩野介宗茂に預けた。情けある狩野介は、心を尽くして重衡の世話に務めた。狩野介は千手の前を伴ってささやかな宴をひらき、重衡も琵琶をとり、見事な朗詠が一夜響いた。立聞きしていた頼朝の心にも清く響いたようであった。

重衡はかつて、清盛の頃の南都焼討の際の大将だった。奈良の寺院を焼き払うつもりはなく、暴れる僧徒を鎮めるための出兵だったが、不手際から火が伽藍に燃え移り、寺も仏像も灰塵にしてしまった。南都では重衡を憎み、鎌倉に重衡の身柄を渡すよう執拗に催促するため、重衡はとうとう引き渡されることとなった。

道中、身をやつして一人生きながらえていた妻に会うことができた。結局、木津川の河原で斬首されることとなると、大勢の見物が見はった。そこへ、元は重衡に仕えていた侍が見届けるべく現れ、重衡の望みを聞き、近くの里から仏像一体を借り、砂の上に据え、自分の狩衣の紐を外し、片端を仏の手に掛け、もう片端を重衡に握らせた。重衡は最後の念仏をし、首を差し出す。
その様は見物の心を打った。
首は、般若寺の大鳥居の前に釘付けにされた。
焼き討ちの際、ここをくぐっていったのである。

妻は骸と首を引き取りに行き、火葬してのち、生涯をかけて供養した。真夏のことゆえ、傷みの激しい亡骸を引き受けたのは気丈な心映えだと思う。
重衡には子がなく、妻も母もあれこれ苦労して祈祷なども施したが、このような運命になってみれば、
「それで宜しかったのだ。子供がありでもしたら、どんなに切なかったことであろう」と思ったようである。

壇ノ浦で宗盛が潔く海に飛び込めなかったのは、そもそも優柔不断なせいもあっただろうが、息子清宗と離れることに未練があったからだろう。
宗盛も、重衡と前後して鎌倉に下され、首を落とされた。


平宗盛/
「たとえ、蝦夷千島にても命さえあらば‥」
清宗とともに鎌倉へ送られる道中、宗盛は付き添いの義経に、命を助けてほしいと哀願する。
とうとう鎌倉で頼朝と対面したが、その態度には助けて欲しさに媚びる姿勢が痛々しく、居並ぶ武将たちは、大将軍としての覚悟のなさはおろか、一武士としての誇りすら持ち合わせぬ宗盛には、皆たいそうあきれた。
京に帰されることになり、もしや助かるのではと淡い期待をいだく父。道中で処されることを確信していた息子は、そんな父を労わりつつも、ひたすら念仏を勧めた。
最後、篠原の宿で父子は引き離され、まず父が斬られる。念仏の途中、「右衛門督もすでにか」と聞いた。死の間際にもやはり、頭の中は息子のことでいっぱいだったのだろう。
続いて、息子は、

「さて、父の御最期は、いかがでございましたか」
ときくと、聖は、
「おりっぱでございました。御安心なさりませ」
と答えた。すると右衛門督は、
「いまは憂き世におもいのこすことはない。さらば、斬れ」
と首をさしのべた。


清宗こそ最後まで、父のことを心配していたのだ。父の命よりも、父の尊厳を。きっと、幼い時分から父の欠けるところを知り、気にかけていたのかもしれない。
父知盛の盾となった知章、そしてこの清宗、ともに十六の若さにもかかわらず、それぞれのやり方で父を支えたのは、立派なことであった。

このあたりを描いた能演目には、『知章』、『碇潜』、『千手』、『通盛』、『小督』がある。



七. つまれる蕾
『平家の子孫は、男子であるかぎり、一人残らず亡き者にせよ』


六代/
「あまりかわゆくいらっしゃるので‥」

六代とは、平高清である。
平維盛の息子。六代という幼名は、平正盛から、忠盛、清盛、重盛、維盛、そしてこの高清が嫡流の六代目であることに由来する。
壇ノ浦で平家が排除された後の、幼い生残りの者達の運命を追っていく。

六代についての前に、まずは六代の父、維盛について。
父清盛よりも早くに亡くなった重盛は、権威を笠に着がちな平家一門のなかでは穏健で、法皇の信頼も厚く、源氏方によっても、若き頼朝を救い、庇護する助けとなった重盛の家系、小松方は特別視されていた。
しかし、宗盛以下の弟らとは母が異なることと、重盛自身の妻と、嫡男維盛の妻が、鹿ノ谷の陰謀で流罪となった藤原成親の縁者だったということもあり、平家のなかでは孤立しつつあった。
清盛亡き後、嫡孫の維盛ではなく、弟宗盛が権力を握ることになった。宗盛の嫡男の清宗に、昇進を先に越されるという屈辱もあった。
更に、小松家においても、資盛以下の弟とは母が異なり、維盛は長男ではあるが、女官の産んだ子であったため、十三で立嫡するまでは立場が明確でなかった。
しかし、維盛の美しさは飛び抜けており、先述の通り、青海波の舞を披露したのは十六の春、「かざしの桜にぞことならぬ」ほどで、日頃は平家を憎む者ですら、その容姿の優れたる様は賛美したという。
成年後、政治の表からは外され、大将軍として戦地に赴くことは多いものの、不運が多く、侍大将らと対立しがちで、その度に戦局は足並みが乱れ、大敗をもたらしてしまった。
富士川の戦いでは、当時まだ存命だった清盛に、なぜ骸を晒してでも戦ってこなかったかと激怒され、京に入れてもらえなかった。
また、西国へ都落ちするとき、維盛は妻子を伴うのは不憫と思い、泣く泣く京に残して行くが、別れに手間取り、やや遅れて合流したことを、宗盛や知盛は怪しんだという。維盛だけでなく、小松方は平家の集団の中では、居心地の悪い思いをしていたことだろう。
そんなことから、維盛は病がちになり、一ノ谷の前後に密かに逃亡する。妻子に会いたい思いを堪え、高野山で剃髪、熊野三山を巡礼したのち那智沖にて入水。二十七歳。

歌人・建礼門院右京大夫は、かつての維盛の青海波を瞼に浮かべて、その死を悼む。

春の花の 色によそへし おもかげの
むなしき波の したにくちぬる

驕れる人々のなかに数えられても、孤独に苦しみ、水づく生涯もあった。


さて、六代の、父維盛との別れは十歳のとき。二つ下の妹と母と、大覚寺の菖蒲谷というところに潜んでいた。頼朝は平定の後、平家の男子子孫全てを滅ぼしにかかった。しかし、肝心の嫡流六代は見つけることができず、子孫抹殺を任されていた北条時政は、鎌倉へ帰ろうとしているときに、ある女の密告で六代の居場所がつきとめられた。外から様子を伺っていると、美しい若君が子犬を追いかけて庭に飛び出してきたのを目撃する。翌日、引き渡しを求めた。十二の六代は大人びて十四、五より上にも見え、大変美しい容姿容貌。気丈に振舞おうとすれど、涙が押さえる袖からこぼれ落ちてしまう。
捕らえられ、連れていかれた六代は、すぐには斬られないでいた。子孫抹殺の命を預かっている北条時正によれば、
「あまりかわゆくいらっしゃるので、まだそのままにしてございます」
とのこと。そこへ、鎌倉殿とはかつて共に助け合った仲だという文覚上人が、助けるために弟子として保護しようかと、六代の様子を見に来た。上人はその様子、姿、人品の、この世の人とは思えぬ有様に、殺すには忍びないと感じたため、自ら鎌倉へ行き、頼朝に命乞いに行くと決心、時政には二十日の延命の猶予をもらった。
しかし、約束の二十日が過ぎても、便り一つもなかった。それでも、北条はすぐに斬る事はできず、途中で上人と会える可能性もあるからと、御輿に六代を乗せ、京を離れて東にゆっくりと進んだ。いよいよ、今日かと思ううちに、虚しく時が過ぎ、駿河国の千本松原で六代は降ろされた。足柄を越えることは、どうにも許されないと判断したためであろう。
覚悟をされた若君は、首を差しだし、声高に念仏を唱え、ふと肩にかかっていた髪を美しい手で前にかき寄せる様に、武士たちは涙を流した。
そんななかで、だれも斬る事ができず、押し付けあっているところに、馬に乗った僧があらわれ、土地の者に話を聞くと、あわや若君が斬られそうだとのこと。僧は声を張り上げ、鎌倉殿からの書状を差し出す。書状には確かに鎌倉殿の花押もあった。その場にいた者全ての涙が、喜びの涙に変わった。
文覚上人に預けられた六代は、十四で剃髪、妙覚と名乗り、修行する。頼朝は、助命を許したものの、六代が成長するにつけ、気になって仕方なく、様子を文覚にしつこく尋ねるが、文覚は意気地なしだから安心するようにと、ごまかしていた。しかし、六代が二十一の歳に鎌倉で頼朝に謁見、頼朝は一目でその聡明さ見破り、危険を感じた。
その後まもなく頼朝は亡くなり、文覚が謀反の計画で流罪になると、六代は捕らえられ処刑されてしまった。没年には二説あり1199年または1205年、享年は二十六あるいは三十一。

平家の嫡流中の嫡流でありながらも、抹殺の命令ののち、15〜20年も保護され続けた六代は、不幸中の幸いというべきなのか、人に、彼を死なせたくないと思わせ、守りたくさせる魅力に恵まれていたのだろう。「助けてほしい」などと一言も言わなくても。それは、容姿の魅力だけでなく、その人の備える清らかな心が、誰彼の心にも打ち響いたからではなかったか。
若君として、僧として、そのような素養がまさに、より良く彼を生かしていたのだろう。不思議にも、世には稀にそういう人が居るものなのだ。

六代の死によって、平家の男子の子孫は絶えた。


なお、六代の他の幼き子孫の運命を振り返ると、
宗盛の次男義宗、幼名副将は、宗盛が鎌倉へ送られる前に、ひととき父と面会したあと、河原に連れて行かれ斬首された。八歳だった。

重盛の六男、忠房は、屋島の戦いのあとに陣を抜け出した。兄の維盛と一緒だったのかもしれない。紀伊の湯浅氏に保護され、のちに湯浅宗重、藤原景清ほか平家残党と三ヶ月の篭城。ところが、頼朝より、「重盛には旧恩があり、その息子は助命する」とあり、鎌倉へ出頭。しかし頼朝が助命するなどとは嘘にすぎず、京に帰る途上で殺された。1186年1月のこと、年齢は不明。

重盛の七男、宗実も同様に、頼朝により、助命するから出頭するように要請があった。宗実は、重源の弟子に志願し、東大寺に身を潜めていたのだったが、鎌倉へ行っても助命されるはずはないと思い、然れども寺に残れば迷惑がかかると考え、奈良を発つ。しかし、それは死を覚悟の旅のこと、旅立ちから飲食を断ち、足柄を越えた関本あたりの宿で衰弱死した。1185年、十八歳。

知盛の末子、知忠は、都落ちのときにはまだ三歳。都落ちには同行せず、紀伊為教が引き取り、匿っていた。しばらくして、九条河原法性寺の一の橋のほとりの邸に隠れ住むようになった。清盛がかつて、いざという時の城郭になるように、二重の堀を備え、四方は竹で囲んだつくりになっている。ここに平家の者が潜んでいるとのうわさに、鎌倉方が攻め入った。
応戦しているうちに知忠は傷を負い、自殺。
しかし、首実検では知忠の顔を知る者はなかったため、壇ノ浦で生き残っていた母、治部卿の局が呼び出された。三つの時に別れて以来、生死も行方も不明だった我が子との、惨い形の再会。

「ただ面影にどこやら、故人の中納言を偲ばせるところがございますので、やはりこれが知忠であろうと思われます」

1196年10月、知忠は十六だった。





革命、平定、クーデターは何かをもたらすけれど、それはよいものばかりではない。そして、必ず失われるものはある。歴史はそうやって、看板を塗り替えてきた。
その渦中の者達の壮絶な生死のなかに、人としての心がつぶさに映ってみえる。
平曲として、能の修羅物として、現代にも受け継がれているのは、彼らの悲しみが、どういうわけか今を生きるわたしたちにも、心に沁みるから、
崩れていく状況のなかでも精一杯に生きる姿が、心を打つからである。



この文を書いていた間に、鳥取の地震があった。平家物語にもあるが、壇ノ浦の戦いのあった同年の1185年7月9日正午、大地震が起こり、多くの寺社の倒壊することになったのも平家の祟りなのではないかと怖れられた。
被害は近畿だけでなく、遠国にも及んでいたとのこと。土に埋まる人々のこと、また、津波も記録に窺える。南海トラフ地震であった可能性もあるらしい。
物語には、
「四大元素中の三種、水と火と風とは、常に災害をひきおこすけれども、大地にかぎって、異変をなすことはないのに、これは何とした事であろう‥」
とあるが、今の私達にしてみれば、大地は不動のものではないことは、近年は特に身につまされて承知している。
過去の時代の人々と違い、天災はいっときの大地の暴れだけでは済まない、ということにも私達は肝を冷やしている。
稼働している原子力発電、放射性廃棄物が、むき出しになってしまったら‥
その恐怖も受け入れなければならない。
いや、それは大地に、私達が終わりをもたらすことに他ならない、贖うことのできない重い罪を数万年も負う絶望である。


平家物語 修羅の最期 〜実盛・教経

2016-10-16 21:52:05 | 人物
五. 名乗り
さて、一ノ谷では、平家の名のある人物が討たれている。平忠度だ。

平忠度/
「私は味方の者だ」
紺地の直垂、黒糸縅、黒馬に乗った忠度は、源氏方の岡辺忠純に名を尋ねられるとそう応じた。
落ち着き払った様子、しかし岡辺は兜の内に黒く染めた歯を見とめ、平家の公達だと確信し、組みついた。
「憎い奴であるわい。味方だというのだから、そうしておけばよいではないか」
忠度は岡辺を馬上から刀で刺すが朝傷、そこでさらに首をとろうとする忠度の腕を、岡辺の小物が追いつき、斬り落とした。
もはやこれまでと思ったか、
「念仏を十遍唱える間、のいておれ」
忠度は岡辺を片手でつかんで投げとばし、念仏十遍、念じ終わるより早く、岡辺は忠度の首を落とした。
ふと箙を見ると文が結び付けられている。
そこには、

旅宿花

行きくれて木の下陰を宿とせば
花や今宵のあるじならまし

忠度

今討った相手が、歌人として名の聞こえた忠度卿であったと知る。
忠度を討ち取ったという岡辺の大音声を耳にした者は、敵も味方も、文武に優れた尊い人物の死を嘆いたという。
敦盛が腰に差していた笛、忠度がしたため箙に結んだ自作の一首。戦場にアイデンティティを取り戻すよすがを身元に、やはり悲しく散り果てて行く。海に逃げることはかなえられず、海辺に屍をさらした。

名乗り。
敦盛も忠度も、討ち取られるときに名を名乗らず、無抵抗のまま斬らせた。
前に書いている今井兼平は、死闘に斬り込む前に名乗りを上げている。熊谷直実も名乗っているが、この場合は50パーセントの勝利に賭ける斬り込みであって、兼平のように、生還の見込みのない死闘とは違う。

忠度は四十一歳で名乗らずに死ぬ。彼は自身の存在を歌に乗せていた。

一方、今井のように死闘に斬り込みながらも、敢えて名乗らずにいた者もある。


斉藤実盛/
篠原の戦いに戻る。
木曾に惨敗し、総崩れになった平氏軍。敗走する軍のしんがりとして戦い防いでいた中に居たのが、平実盛である。
木曾方の手塚光盛が進み、声をかけた。

「殊勝なり。いかなるお方なれば、味方の勢はみな落ち行きたるに、ただ一騎踏みとどまって戦わるるとは、さてもゆかしいお心ばえと見えたり。いかなる人にて渡らせたもうぞ。名乗らせたまえ」
「そういうわどのはたれぞ、なんと申さるる」
「信濃の国の住人手塚太郎金刺光盛」
「さては、たがいによき敵なり。ただし、わどのを見下げるのではないが、ぞんずる旨あって、名は名のらぬ。寄れ、組もう、手塚」


割って入った手塚の部下を討ち取ったものの、その間に脇へまわった手塚に組み伏せられた実盛。
義仲は差し出された首を見て、それが実盛だと気づく。しかし、実盛ならば、その昔、義仲が幼い頃、父が討たれたとき義仲を信濃の国へ送り、命を救った恩人であり、当時既に白髪の初老であったが、実検の首は髪が黒い。そこで、実盛と付き合いのあった樋口を呼んだ。樋口は涙ながらに、実盛であるとし、そのわけを話す。

「斉藤別当(実盛)がつねづねの話に、『六十すぎて戦場へ向かう時は、鬢や髪を黒く染めて、若がえろうと思っている。白髪頭を振りたてて若殿ばらと先がけを争うのも、おとなげなし、また、老武者と人に侮られるのも、口惜しい』という理由からでありましたが、はたして染めてまいりました」

首を洗ってみれば、確かに白髪だった。
戦となれば致し方ないことではあるが、義仲は恩人を死なせてしまったことを悲しみ、ひどく泣いたという。

もしも斉藤別当と名乗れば、木曾方には敵でも、義仲にとっては恩人、それを聞いて討ち取ったとなればその者はどうなるかわからない。それはともかく、年齢も知れることになる。
実盛はそれで名乗りをしなかった。
十六の敦盛。七十の実盛。
『実盛』も能の代表的な演目として継承されている。

この名乗りの慣習は悪用され、剛の者と名の聞こえた平盛俊は、まさに首を取ろうとする敵にせめて名乗らせてもらいたいと頼まれ、時間を稼ぐとともに命乞いまでした敵を許し、言葉を交わしている間に斬られた。名を明かしておいて、このように許しがたいことをする者の卑属さ。スポーツではない、いくさはいくさでしかない。


持論をここでくだくだ述べるとすれば、私はこの「名乗り」というものは、至極神聖なものと思っている。ブログタイトルも「名のもとに生きて」としている。人の命とその名は1対1で結びついており、命が終わってもその結びつきは切れない。肉体は失われても、最後に唯ひとつ残るものはその名のみである。
その名が、いよいよ死に向かって落ちていく、その人自らによって名乗られる。
生まれて、名が与えられ、常に自分の耳まわりに聞こえ、ともに存在してきた「その名」と、「その人」との別れとなるかならないか、名と命の愛着が最高に高まる、名乗り。

過去記事では、ケーテ・コルヴィッツの息子ペーターは従軍して識別番号になり、オスカー・ワイルドも勾留されて、自分は番号と影になってしまったと落胆する。名を失うことの疎外感。
名は誇り。ただ一つの自分の鍵。
命を自ら絶とうとする人がいるなら、ひととき、ぜひ自分の声で自分の名を呼んでほしい。自分で自分の命を抱きしめることだって大切だ。生きて、ぜひ我が身我が名を大切にしてほしい。


六. 義経、教経
平氏軍の大将軍のなかで最も勇ましいのは能登守教経。能登殿。京一番の強弓の者。誰もが避けたがる難所の防衛でも進み出でて任された。教経は、清盛の弟教盛の次男。大臣殿宗盛の従兄弟である。物語読者には教経ファンも多かろう。
もしも教経が宗盛のポジションにあったならば、というIFは、もしも小松殿(平重盛)が清盛より先に死んでいなければ、というIFと同様、深い興味がわく。


平家は一ノ谷の戦いから屋島、長門で立て直し、海峡での海戦に最期を賭けた壇ノ浦。
教経はここに沈む。

一方の源氏方のかしらは義経。
遡って屋島の戦いで、義経と教経が向き合う場面があった。

「船戦は、こうするものぞ」
とばかり能登守が、鎧直垂を身につけず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧を着て、怒物づくりの太刀をはき、二十四本差した鷹うすびょうの矢を負い、滋籐の弓を持って現われた。京いちばんの強弓であったから、その矢おもてに立って、射抜かれぬ者はひとりもなかった。なにとぞして源氏の大将軍、源九郎義経を、ただ一矢で射落とそうとねらったが、源氏のほうでもそれと知って、奥州の佐藤嗣信、四郎忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一騎当千のつわものどもが、馬首を一面に立て並べて、大将軍の矢おもてに立ちふさがったので、なんともねらいうちにしようがない。いたしかたなく、
「矢おもての雑人ばら、そこをのけい」
と叫んで、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射ったので、鎧武者十数騎ほどがやにわに射落とされた。なかでも真っ先に進んだ奥州の佐藤三郎嗣信は、左肩から右の脇へかけてぷっつり射抜かれ、馬上にたまらずまっさかさまにどうと落ちた。能登どのの童に、菊王丸という大力の剛の者がいて、三郎の首をとろうと、走り寄ってきたのを、弟の佐藤四郎が兄の首を取らせまいとして弓をしぼり、ひょうと放った。菊王は腹巻の引き合わせを背中にかけて射抜かれ、四つんばいになって倒れ伏した。能登守はこれを見ると、船から飛んでおり左手に弓を持ちながら、右の手で菊王丸をつかみ、船へどうと投げ入れたので、敵に首はとられなかったが、深傷であったため、そのまま息たえた。菊王丸はもと越前の三位通盛卿の童であったが、三位が討たれてより、弟の能登守に仕えていたのである。生年十八歳ということであった。能登どのは童を討たれて気落ちしたのか、それなり退いてしまった。判官(義経)は佐藤三郎嗣信を、陣の後ろへかつぎ込ませ、馬からおりてその手をとり、
「三郎兵衛、いかに」
ときけば、
「今はこれまでとぞんじまする」
「思い残すことはないか」
「なんの思い残しがございましょう。ただ君の世にあらわれいでたもうを見ずして、死ぬことばかりが残念でございます。さもなければ弓取る身の敵矢に当たって死ぬるは覚悟の前、ことにも『源平の合戦に、奥州の佐藤三郎嗣信と申す者が、讃岐の国屋島の磯べで、主君の御命にかわって射たれた』と、末代までの物語にされることは、今生の面目、冥土の思い出、これに越す誉れはございませぬ」



義経はだれか僧を呼び寄せ、死んだ嗣信を託し、一日経を書いて弔うよう、自分の愛馬を僧に差し出した。

義経も教経も、このときは部下を失うことになり、消沈して対決することをしなかった。自分と敵の間で、負傷し命を落とす身近な者たちのあわれな立場は苦い涙を落とさせる。あのときの妹尾のように、「先が暗くて見えない」という有り様かもしれない。


さて、壇ノ浦の戦い。
午前は平家軍が押していたが、午後には海峡の潮が変わり、源氏方が優勢になった。もはやこれまでと、先帝も波間に消え、平家の者たちは男も女も戦いから外れて、海に次々に沈み、姿を消していく。
能登殿はこの日を最後と覚悟の上か、源氏の者をさんざんに射殺し、矢が尽きれば、大太刀と大長刀を両手になぎ切っていく。
その後、大将軍に組もうと数々の源氏方の船を、義経を探して回る。顔を知らないため、それらしき者に次々に襲いかかる。その様子をうかがっていた義経は、気づかれないように身を交わしていた。
しかし偶然か、とうとう義経の船に教経が現れ、義経に飛びかかった。
身軽な義経は、味方の船にひらりと飛び移り、間一髪、八艘跳びで逃げ果せた。追うことはかなわぬと思った教経は、両刀を海に捨て、兜も鎧の袖も草摺りも脱ぎ、大手を広げ、

「源氏方にわれと思わん者あらば、寄って教経と組んでとれや。鎌倉へ下って、兵衛佐に、一言もの申すことあり。いざ寄れや寄れ」

なかなか寄っていける者はいない。そこへ、土佐の住人安芸太郎実光とその弟、郎党の三人、剛力の者が船を寄せて進み出た。
三人同時にかかっていったところ、教経は、真っ先に向かってきた郎党を海に蹴落とし、安芸の兄弟を両脇にかいこみ、

「いざ、おのれら、わが死出の旅路の供をせよ」

瞬く間に海におどりこみ、消えた。
能登殿は二十六歳であった。
ただでは死なぬ、こんな剛毅な者も平家にいた。
教経が涙を流す場面など、おそらく、物語には一つもなかったと思う。
はかなさとは無縁だからだろうか、義経の能はいくつもあるが、教経のものはない。

壇ノ浦で、義経は、戦に勝つべく、教経から逃げ、敵の船の梶取を射るよう命じるなど、作法に反する手をも使い、ようやく平家との戦いを終わらせることができた。
しかし、梶原との内部対立は深刻化、義経の不運もすでに始まっていた。






長くなりすぎてしまったので、ここで切ってもう一回平家物語を書きます(小声)( ̄▽ ̄;)