先ほど、夕飯をいただきながらNHKの「新日曜美術館」を見ておりましたら、
久しぶりにどど~んと衝撃を感じました。
「志村ふくみ」さんという人間国宝の織作家の方のお話でした。
今でも現役でお仕事なさっていて、ふくよかな人間としてのおおらかさ、
そして、凛とした仕事への厳しさの備わったお顔をした、
かわいいおばあさまでした。
彼女は、植物からしか染め物をしないということで、
植物の話しがいくつか出ていたのですが、
植物からストレートに染めると、
本来の目で見る植物の色「緑」には絶対に染まらないそうです。
ゲーテの色彩学によると、色は光と闇で成り立っているとのこと。
光=黄色
闇=藍色(青)
光(黄色)+闇(青色)=緑色
つまり、光と闇が結合すると緑になるわけで、
緑はホントはすべての始まりの色であり、
目には見えてない色なのかもしれないというお話が出ていました。
そして、植物から染めるということは、
花から染めるということではなくて、
幹や葉、根やつぼみや実をつかって色をだしていくということだそうです。
花からは色は染まらないということですね。
志村さんがおっしゃるには、
花というのは、その植物が元々持っている「色」のパワーの最終段階だと。
我々の目にあらわれて見えるという段階で、すでに完結して終っているのだと。
だから、花で染めても色は出ないのではないかということでした。
さらに、そういう染料を使うということは、
植物の命を全うさせずに、早い段階で切ったり、つまんだりしてしまうわけで、
残酷以外の何ものでもないと。
だから、その残酷さに頭を下げつつ、
それ以上のものにして命を吹き込むことが使命であると。
衝撃を受けたのは、その志村さんの植物や色への考え方です。
「緑は目に見えていない色かもしれない」
この言葉は衝撃的でした。
緑がないと人工的な印象になってしまうことは事実です。
アレンジに緑を入れない時は、デザインとしてアレンジをとらえたい場合です。
花本来の美しさを見せるには、緑は欠かせないと思っています。
あまりに自然で目に入っても、気にもしない色が緑なんです。
だから、目に見えないくらい自然にアレンジすることが、
「緑」を使うある種の方向性なのかとちょっと考えたりしたわけです。
また、「花は植物の持っているパワーの最終段階だ」という言葉。
確かにそうなのかもしれません。
つぼみのふくよかさを、始まりととらえていましたが、
花が生命力の最終段階だとしたら、その花が美しさを持っているのは当然で、
その美しさこそ、私たちが魅了されているものなのです。
だから、花が美しいと思っているそのことは、つまり、
その植物が持っている生命力すべてを美しいと感じている、ということなのだと思います。
そして、「植物の命を全うさせられない残酷な仕事をしている」という認識。
これは、花の仕事をしている方なら、誰でも感じたことのある罪悪感でしょう。
つねに、懺悔の気持ちというか、多少なりともの罪の意識というか、、、。
以前にもブログ上で書きましたが、私もいつもそのもやもやした罪悪感を感じています。
その罪悪感があるからこそ、自分の手でよりいっそう、
その花がきれいになるように、他の花と組み合わせたり、アレンジしたりすることで、
お客様の手にわたってもらいたいと、心の底から思うのです。
その罪の意識を背負って、ひたすら前へ進むのが、植物に関わる仕事の原点かもしれません。
最後に志村さんが「自分が変われば、自然も変わる」とおっしゃっていました。
そうなんですね。
自分が変わらない限り、目に見えることは一定方向の凝り固まったものになりがちで、
自分がちょっとでも変わることが出来れば、
周りはすーっと変わってくれるものなんだとも思いました。
久しぶりに見たテレビから、たくさんのことを学んだように思います。
明日の市場では、どんな生命力を感じさせてくれる花と出会えるでしょうか。
久しぶりにどど~んと衝撃を感じました。
「志村ふくみ」さんという人間国宝の織作家の方のお話でした。
今でも現役でお仕事なさっていて、ふくよかな人間としてのおおらかさ、
そして、凛とした仕事への厳しさの備わったお顔をした、
かわいいおばあさまでした。
彼女は、植物からしか染め物をしないということで、
植物の話しがいくつか出ていたのですが、
植物からストレートに染めると、
本来の目で見る植物の色「緑」には絶対に染まらないそうです。
ゲーテの色彩学によると、色は光と闇で成り立っているとのこと。
光=黄色
闇=藍色(青)
光(黄色)+闇(青色)=緑色
つまり、光と闇が結合すると緑になるわけで、
緑はホントはすべての始まりの色であり、
目には見えてない色なのかもしれないというお話が出ていました。
そして、植物から染めるということは、
花から染めるということではなくて、
幹や葉、根やつぼみや実をつかって色をだしていくということだそうです。
花からは色は染まらないということですね。
志村さんがおっしゃるには、
花というのは、その植物が元々持っている「色」のパワーの最終段階だと。
我々の目にあらわれて見えるという段階で、すでに完結して終っているのだと。
だから、花で染めても色は出ないのではないかということでした。
さらに、そういう染料を使うということは、
植物の命を全うさせずに、早い段階で切ったり、つまんだりしてしまうわけで、
残酷以外の何ものでもないと。
だから、その残酷さに頭を下げつつ、
それ以上のものにして命を吹き込むことが使命であると。
衝撃を受けたのは、その志村さんの植物や色への考え方です。
「緑は目に見えていない色かもしれない」
この言葉は衝撃的でした。
緑がないと人工的な印象になってしまうことは事実です。
アレンジに緑を入れない時は、デザインとしてアレンジをとらえたい場合です。
花本来の美しさを見せるには、緑は欠かせないと思っています。
あまりに自然で目に入っても、気にもしない色が緑なんです。
だから、目に見えないくらい自然にアレンジすることが、
「緑」を使うある種の方向性なのかとちょっと考えたりしたわけです。
また、「花は植物の持っているパワーの最終段階だ」という言葉。
確かにそうなのかもしれません。
つぼみのふくよかさを、始まりととらえていましたが、
花が生命力の最終段階だとしたら、その花が美しさを持っているのは当然で、
その美しさこそ、私たちが魅了されているものなのです。
だから、花が美しいと思っているそのことは、つまり、
その植物が持っている生命力すべてを美しいと感じている、ということなのだと思います。
そして、「植物の命を全うさせられない残酷な仕事をしている」という認識。
これは、花の仕事をしている方なら、誰でも感じたことのある罪悪感でしょう。
つねに、懺悔の気持ちというか、多少なりともの罪の意識というか、、、。
以前にもブログ上で書きましたが、私もいつもそのもやもやした罪悪感を感じています。
その罪悪感があるからこそ、自分の手でよりいっそう、
その花がきれいになるように、他の花と組み合わせたり、アレンジしたりすることで、
お客様の手にわたってもらいたいと、心の底から思うのです。
その罪の意識を背負って、ひたすら前へ進むのが、植物に関わる仕事の原点かもしれません。
最後に志村さんが「自分が変われば、自然も変わる」とおっしゃっていました。
そうなんですね。
自分が変わらない限り、目に見えることは一定方向の凝り固まったものになりがちで、
自分がちょっとでも変わることが出来れば、
周りはすーっと変わってくれるものなんだとも思いました。
久しぶりに見たテレビから、たくさんのことを学んだように思います。
明日の市場では、どんな生命力を感じさせてくれる花と出会えるでしょうか。