月下、飲んだり読んだり

~何はなくとも一杯の酒~

『校正のこころ』

2010年04月07日 10時49分55秒 | 日本語
『校正のこころ』積極的受け身のすすめ(大西寿男著・創元社)
http://www.sogensha.co.jp/book/2009/10/post-153.html

「はじめに」のところに著者はこう書いている。

>私たちはこれから、どういうふうに言葉をつきあっていけばいいのでしょうか。
>そのことを考えるひとつのヒントが、「校正」という仕事のなかにあります。


現代は今までになく活字が氾濫している。
インターネットの普及はいうまでもないが
子どもを育てていると特に思うのは携帯やDSの普及がすごいということだ。

近頃の子どもは小学校の低学年から
本当に多種多様な電子活字を読んでいると思う。
それも、同じものを繰り返しというよりは、次から次へと違う活字を。

私の祖父母世代はテレビよりもラジオ、一冊の古本を何度も何度も読んだ時代。
私の親世代にはテレビや雑誌などから情報が溢れ始め、
私たち30~40才代は情報がたくさんあるのが当たり前という時代に育った。
それでも、目にするほとんどの活字は「プロ」の書いたモノだっただろう。

しかし今、子供たちは「素人の書いた活字」を読むのが当たり前となった。
私が書いている拙いブログも小学生の宿題検索にヒットするかもしれない。
素人の調べた文献を平気でレポートに引用する学生がいるかもしれない。
恐ろしい世の中だと思う。

いま、私は子供たちに「名作」を与え、「調べ方」を教えるようにしているけれども
そのうち自分のチョイスで文字を読むようになるだろう。
未来の子供たちのためにも、世の中の活字が美しい言語で形成されることを願う。

まずは自分の言葉から美しくしないと。
学ぶことはまだ、山のようにある。


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2 コメント

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Unknown (koneco)
2010-04-07 23:47:38
櫻さんも読まれたんですね。
ほんとに丁寧に編集された本ですよね。
品格があるというか。

私もアナログ人間なので、手に持って重さや厚みや手触りを感じて、指でページをめくる行為も含めて読書だと思っていて、とても共感できることの多い本でした。

思い出したのは、「書く」の語源は「引っ掻く」ではないかという説があると何かで読んだこと。
石や木を引っ掻いて文字を刻んだことを指しているのかもしれないけど、「書く」という行為は、自分自身を掻きむしるような思いなしにはできないものなんだ、と思ったんですね。

パソコンを使うようになってから掻きむしるような思いで書けなくなって筆を折った(って大げさな)ものだから、これはたしかに著者が自分の手で掻きむしってつくった本だ、という印象が強烈でした。
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Unknown ()
2010-04-08 09:07:41
よい本をご紹介いただきありがとうございました。konecoさんの筆にはいつも助けられています。

掻きむしるような思いですか。そうですね。私は「言葉を紡ぐ」という言い回しがとても好きなのですが、何かかたちになるものを創造するのはきれい事ではなく、捏ねくり回し搾り出し汗みずくになり…という、がむしゃらな過程が必要なのだろうなと思います。

本の重み、同感です。例えば『文藝春秋』はやっぱりあのサイズあの重さじゃなきゃ。エコだとか言って電子ペーパーが間近に迫っているようですが…紙の無駄遣い、ダメかなあ。いろいろな本の手触りを感じて生きていきたいんですがねえ。
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