蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ドロップスのイデア

2006年02月14日 23時48分17秒 | 彷徉
実念論、唯名論と聞いて何のことだかすぐにわかる人は、まあそれほど多いとも思えない。もちろんこんなことを知らなくたって日常生活に困るようなことはまずないのだから、どうでもよいといえばどうでもよいようなものだが、要すれば概念は実在するというのが実念論(つまり概念実在論)で、いやあそんなものは言葉の言い回しに過ぎないよってのが唯名論なんですね。気取ってrealism、nominalismなどと言ったりすることもあるけれども、これは西洋中世のスコラ哲学におけるいわゆる普遍論争として有名な議論のこと。実念論の立場に立ったのがアンセルムスやアクイナスで、一方の唯名論的な立場の学者がアベラールやウォッカムといったところになるのだそうだ。今日のわたしたちの感覚に照らせばどうみても唯名論を支持したくなる。しょせん概念なんてえものは頭の中で作り出された符号に過ぎないというわけだ。
ある時期スコラ哲学は不当に低く評価されて、哲学プロパーはこれを真正面から論じることさえ憚られることがあった。たしかに低い評価をせざるを得ない馬鹿馬鹿しい議論があったことは事実だが、上に名前を上げたアンセルムス、アクイナス、アベラールやウォッカムといった大御所はそんなくだらない連中とはわけが違う。なんといったら良いか、彼らは今でもそしてこれからも宗教的枠を超えてインテリゲンチアであり続けるに違いない。それはそうとしても、わたしたちは素朴に唯名論的立場をとっていることはたしかだと思う。
ところでしかしちょっと考えてみると、ことはそれほど単純でもないようなのだ。もし概念がわたしたちの頭の中で作り出されたものであるとすれば、これは当然あなたやわたしといった諸個人の頭の中で作り出されたことになる。さてそれではわたしの頭の中で作り出された「犬」という概念とあなたの頭の中で作り出された「犬」概念は、はたして同じものなのだろうか。もし同じものだと主張するのであればその「同じ」であるということはいったい何によって保証されるのだろうか。経験によって保証されるといった弁証法的唯物論の楽観主義的議論は勘弁してください(これは冗談のつもりで書いています。一応断り書きをしておかないと、野暮な議論をふっかけてくるバカがいるものですから)。わたしは子供の頃の体験を思い出す。女の子とままごと遊びをしていたとき、ドロップスを紙でこしらえることになった。わたしは紙を飴玉の大きさに切り抜いて色を塗ろうとしたのだが、一緒に遊んでいたその女の子は紙にドロップスの缶の絵を描いて「はい、できあがり」。つまりこのとき「ドロップス」概念はわたしと彼女でそのように異なっていたわけだ。これは明かにドロップスについての日常経験から生じた相違に違いない。わたしにとってドロップスとはあくまでも一つ一つの飴玉だったのだが、彼女にとってのドロップスはというとドロップスを入れた缶がすなわちドロップスだったわけだ。
「ドロップス」概念程度だったら日常経験を共有することで、あるいはお互いの経験を評価しあうことによってこの溝をかなり埋めることができるだろう。なぜなら少なくともここには評価の基準となるドロップスが実在していて、さらに両者の感覚はこの実在物による刺激を受容しうるからである。ところでこれが「正義」「真理」「愛」といったものになるとはなしはぐっとややこしくなってくる。これらについての評価基準となる実在物がないからだ。しかしこれをあるのだと主張した人物がいる。つまりプラトン先生。イデアを「理想」などと訳すから誤解が生じる。プラトンの言っているイデアの世界というのはかなりリアルなものとして理解しなくてはならない。だから「善のイデア」も「美のイデア」もけっして空想的な産物などではない。これがつまり実念論の始まりということになる。ドロップスにしてからが「ドロップスのイデア」を認識できればわたしと女の子はお互いに間違うことなく同じ「ドロップス」概念を持つことができたはずなのだ。
「ドロップスのイデア」を認識できなかったわたしはその後すっかり唯名論的日常に埋没してしまっている。いっぽう彼女はというと大人になって某テレビ局のアナウンサーになったということを風の噂で聞いた。


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