蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

心をオフするには

2006年01月21日 20時31分37秒 | 彷徉
このブログでは何度か商店街を取り上げてきている。わたしが訪れた商店街はどこも皆で一所懸命に盛り上げようと努力している様子が伝わって来てとても好感が持てた。そういうところには自然と客も集まってくるもので、たとえば集客ポイントとなるような大規模小売店など必要ない。そのような商店街の一つが横浜の弘明寺商店街なのだ、とここまで書いて自分の大きな間違いに気が付いた。弘明寺観音っていう(江戸時代には)超有名な集客ポイントがあったではないか。ってなわけで今回は弘明寺商店街について。
横浜市営地下鉄の駅を出ると商店街の入口のまん前が横浜国大附属中学なのでこれは目印代わりになる。もっともそんな目印がなくたって初めてここを訪れたお客さんでも決して迷うことはない。商店街のアーケードがいやが応でも目立つからだ。一般には寺社仏閣にいたる商店街を「仲見世」という。だいたいどこでも一直線に進めば目的の社に到達するものだが、例えば川崎大師はちょっと変わっていて、京急川崎大師駅からの参道を入っていくと、ある地点で百八十度転回して仲見世に入ってい行く仕掛けになっている。平間寺(川崎大師)が東向きということと、京急川崎大師駅が大師様よりもずっと西寄りという位置関係のおかげでこんな風になってしまったのだ。しかしここ弘明寺はそんなややこしいロケーションではない。この商店街、というか「仲見世」をひたすら真っ直ぐに進んでゆけばよい。
なぜわたしが敢えて「仲見世」と書いたかというと、これは行ってみればわかるのだけれども、先ず和菓子屋が目に付くこと、酒屋が目に付くこと、食い物屋が目に付くこと、これに尽きるのです。門前町はこれでなくっちゃあいけません。参拝者にとってここは「ハレ」の場所なのですから。とにかく飲んで、食って、お金を使う、これが普通の人々にとっての取りも直さず精進の実践にほかなりません。仏教の難しい教えはこの際わきに置いておいて、とにかく救われればそれでよいのです。その救いの現成が「今」あるならなおさらよい。ここがキリスト教的終末論とまったく異なるところで、だから島原に隠れキリシタンの伝統が在ったとはいえ、これが未だに我国にキリスト教が普及しない原因にもなっているわけだ。最近では幾分減って来ているとはいえ、繁華街で大音量のスピーカーで聖書の朗読を垂れ流す某キリスト教団体を見かけるにつけ、わたしには彼らが本気で日本にキリスト教を布教する気があるのかと疑ってしまう。
仲見世的商店街の辿り着いた先が板東観音三十三カ所十四番札所瑞応山弘明寺蓮華院。こじんまりとしたお寺だが山門は立派なものだ。本堂まではちょっとした石段を登らねばならない。高さにして建物四階分ほどだろうか。しかしこれがまたなんともよい。宗教施設に赴くにはなにかしらハードルを越えてゆかねばならないというのが古来からのおきまりなのだから。で、やっとこさ本堂前に到着するとここがまた田舎のお寺って雰囲気で心和むんですねえ。「心和む」ってのが弘明寺のキーワードかもしれない。このお寺は真言宗だそうだが、真言宗の教義というのが実に派手というか煌びやかというか、あの道元禅師の禁欲的仏教世界の対極にあるもので、しかしこちらの方がよほど宗教的なのかも知れない。参詣の後はもちろん買い物と食い物。というわけで、和菓子屋でお菓子を買って酒屋で「弘明寺」銘柄のお酒を買って救われた気分になり、ついでに古本屋のブルボンをチェックした。古本屋にしてはちょっと愛想がよすぎるのが気になったが、町の古本屋さんは愛想が良くてもいいじゃないか。とかなんとか思いながら無事帰宅した。
どうも今回はもろ観光案内になり、少々文章に締りがなくなってしまった。恥ずかしいのだけれども、たまにはこんなことがあってもよろしいのではないでしょうか。


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