蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

判断能力批判

2005年04月03日 21時59分03秒 | 彷徉
「科学的」とはよく使われる言葉なのだけれども、そもそも何をして「科学的」いうのだろうか。それは方法(方法論ではない。方法論とは方法一般を論ずることだから)において「科学的」なのか、あるいは対象においてそうなのか。「科学的」であるならば当然「非科学的」な方法あるいは対象もあるはずだ。そもそも「科学」なる言葉の使用法があいまいだから混乱が生じるのであって、おそらくごく普通に「科学的」「非科学的」という言葉を使用する場面を想像するに、そこでは社会的合意に至っている任意の理論から演繹可能な現象が「科学的」なのであり、すなわち演繹の手続きが「科学」だと把握されているのではないだろうか。逆をいえば社会的合意に至っている任意の理論からの演繹が不可能な現象は「非科学的」であり、演繹の手続きが無効な対象は「非科学的」ということになる。この場合、社会的合意に至っている任意の理論そのものの有効性は何によって担保されるのかといえば、それはアウトリテートつまり権威に他ならない。
なぜこんなことを書きはじめたかというと、いわゆる「心霊現象」に関連して少々考えるところがあったからだ。最近テレビの心霊特集なんぞで「オーブ」なるものが写り込んだ写真が紹介されているのを目にするが、実はそのような写真をわたしも撮影した経験がある。場所は江ノ島と横須賀の猿島。猿島の写真はそれほどはっきりとは写っていないが、それでも球体状の物体が空間にただよっているようには見える。一方江ノ島で撮影した写真でははっきりと発光している様子がわかるものだ。心霊現象マニアはこれを超常現象だとしてその方面からいろいろな説明をつけようとしているが、ある本によるとこのいわゆる「オーブ」は綿埃が光を反射した結果発生した現象に過ぎないということらしい。まあ、いわれてみれば幽霊屋敷なんて埃が舞っているだろうし、「オーブ」現象が起こっても不思議はない。わたし自身も自宅で撮影した写真に「オーブ」が写ったことがあるが、これは無精者のわたしが掃除を怠った結果であると素直に納得できる。しかしでは江ノ島や猿島の写真をどう解釈したらよいのだろう。こちらも「埃」説で説明がつけられるのだろうか。綿埃ではない別の物が綿埃の機能をはたしている、と解釈する道もある。多分この解釈は大方の人々に受け入れられるに違いない。精神的にどちらが楽かといえばこのほうが、つまりアウトリテートに従ったほうが遥かに楽なのだ。
楽は楽なのだが、それではアウトリテートの正当性は何が担保するのだろう。要すればアウトリテートといえども無謬ではないということ。となると最終的にはやはりわたしたち自身の判断力が問われることになる。

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