蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

回憶正法眼蔵

2005年07月12日 02時48分21秒 | 不知道正法眼蔵
昭和十六年釈宗演の弟子鈴木大拙が師の遺言にもとづいて北鎌倉は東慶寺内の後丘に創立した施設がある。これを松が丘文庫という。
大拙の後この文庫長を務めていらっしゃったのが古田紹欽先生で、わたしに正法眼蔵に接するきっかけを作ってくださった。先生としては仏教のブの字も知らぬ若造相手なのでかなり詳細に説明していたことと拝察する。が、それでもわからなかった。ぽかんとした顔の学生達を見まわして先生いわく「どうだ、わからないだろう。あはっはっは」と爽快に一笑された後「一年や二年ではなかなか判るものではないが、読んでいくうちにだんだんと判ってくる」ともおっしゃっていた。わたしは永久に判らないと思った。その講義に出席していた学生の多くは仏教専門ではなかったので、わたし同様の感慨だったにちがいない。古田先生の講義を一年聞いたが結局そのときは『正法眼蔵』はわたしにとって意味不明理解不能な奇書でしかなかった。
そもそも『正法眼蔵』の理解を難しくしているものな何なのか。第一の壁は時代とそれに相即する言語の問題がある。日本で初めてのかな書きによる仏教書であるということは鎌倉時代中期の都の貴族が用いた言語がベースとなっている。ということはまず古語文法の知識はこれを読むにあたってかならず必要なはずだ。平安朝のたとえば紫式部や清小納言の書いた文章よりは読みやすいとしても、古語で書かれていることに変わりはない。第二の壁は道元禅師の個人的な用語法というのもある。つまり簡単にいえば個人の癖。そして三番目の壁は当時の文化といったらよいか、社会的慣習があるだろう。当時道元禅師のような身分の高いものが当然心得ていた規範とか慣わしなど。そして宋代中国の言葉。道元禅師は今日の学者が外国語を引用するように気軽に当時の中国語を引用する。それほど禅師は中国語に通じていたわけだ。
しかしこれらの壁は、越えるのが困難というほどではない。ほんのちょっと努力して勉強すりゃ容易に習得できる知識ばかりだから。難しいのはこのあとにくる第四以降の壁。まず四番目の壁。これは仏教一般の知識。当時の学僧が学ぶ経論釈の知識を今日において修めることは、できなくはないけれどもむずかしいように思う。街の新刊書店にいけば仏教書コーナーがあるが、そこに並べられている本はいわば「ハウ・ツー仏教」物で、おおよそ経論釈にはほど遠いものだ。いっそふんばって『大正新修大蔵教』でも紐解くか。この浩瀚な集成には道元禅師時代の学僧が学んだ経典はすべて網羅されているに違いない。違いないが、それじゃあいったいどれがその経典なんだ。そもそも『大正新修大蔵教』の経典はすべて白文ときている。これをすらすらと読むのはそれほど簡単ではない。要すればこのレベルになってくるともう独学では対応できなくなってくる。それなら、というので何処か仏教学科のある大学に入学するなり、聴講生になるなりしてそのあたりの知識を吸収することとなる。だから「できなくはないがむずかしいように思う」と書いた。
仮にこれらをクリアしたとする。第五の壁がある。それが修行、具体的には座禅。道元禅師は「只管打座」という。ひたすら座れというのだ。これは理屈ではない。正師に就いてとにかく自分で座禅を実際におこなわなくてはならない。しかも、一回や二回の座禅で悟りが開けるものではない、いやそもそも坐禅とは悟りを開くためのものではない。座禅の目的をしいていうならば、それは坐禅そものもだと禅師はいう。しかしこの体験がないかぎり道元禅師の説く仏道は見えてこない。これはきびしい。だから『正法眼蔵』がわたしにとって永久に意味不明理解不能な書でありつづけるのは目に見えているのだ。「あわれむべし、かなしむべし」

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1 コメント

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正法眼蔵・・・ (真山)
2005-07-27 12:44:07
はじめまして。お邪魔させていただきます。2ヶ月ほど前から、私も正法眼蔵と格闘しはじめたのですが、結果は予想通り挫折。

先に宝慶記と随問記を読んでから、あらためて正法眼蔵に取り組む事にしました。

で、宝慶記と随問記を一応、形ばかりは読み終えたので、もう一度正法眼蔵に戻ってみたのですが、むむむ・・・。



生死の巻には「仏となるに、いとやすき道あり」とありますが、「いとやすし」などとは、到底思えない今日この頃です。



失礼しました。
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