蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

羅甸語事始(二十四)

2006年01月30日 23時31分00秒 | 羅甸語
前々回で能相・現在完了について検討した。ちょっと活用を思い出してみよう。現在完了形の活用を例によって"amo"を用いて行うと、"ama-vi-","ama-visti-","ama-vit","ama-vimus","ama-vistis","ama-ve-runt"(ama-vere)ということだった。第二変化、第三変化、第四変化動詞の現在完了については、
"moneo"(忠告する):"monui-","monuisti-","monuit","monuimus","monuistis","monue-runt"(monue-re)
"ago"(行う):"e-gi-","e-gisti-","e-git","e-gimus","e-gistis","ege-runt"(e-ge-re)
"audio"(聞く):"audi-vi-","audi-visti-","audi-vit","audi-vimus","audi-vistis","audi-ve-runt"(audi-ve-re)
だった。
現在完了があれば過去完了、未来完了もあるということは、あまり想像したくないのだがじつはあるのだ。またしても六種類の活用をそれぞれの時制について憶えなくてはならないのか。まったく忌々しい話だ。しかしちょと冷静になって考えてほしい。普段何気なく使用している日本語にだって五段活用、下一段活用、上一段活用、サ行変格活用、カ行変格活用なんてのがあるが、それではわたしたちは学校で「来ない」「来ます」「来る」「来るとき」「来れば」「来い」なんてかたちで暗誦させられただろうか。たしかにわたしも中学校の国語の時間に「来ない」「来ます」「来る」「来るとき」「来れば」「来い」と唱えた憶えはある。しかしこれは日本語の使用法を習得するためにやっていたわけではない。あくまで文法知識としての未然、連用、終止、連体、仮定、命令を学習する中での出来事であったはずなのだ。つまりなにを言いたいのかというと、日本語ネイティブスピーカーであるわたしたちがその日本語を習得する過程においては、個々の動詞活用を機械的に憶えこむ訓練などしなかったということだ。これは古代ラティウム地方の人々とてまったく同じなわけで、ヴェルギリウスだってカエサルだって子供の頃"amo-","ama-s","amat"ってな具合に動詞活用、名詞曲用のお勉強をしたなんてことはなかった(はずだ)。
つまりここには古典語学習の進め方についての大きな間違いがある。現代語の学習を思い出してみてほしい。たとえばドイツ語だとしようか。教科書をめくったらいきなり"lieben"の直説法現在能動相の人称変化"liebe","liebst","liebt","liben","liebt","lieben"が出てきたら面食らってしまう。でもこれが"amo-","ama-s","amat","ama-mus","ama-tis","amant"だとなんだか有難く感じられるというのは古典語についてある種の先入観があるからではないか。古典ギリシア語だろうが、ラテン語だろうが現代英語だろうが、タガログ語たろうが、これらの言語に価値的な差異はない。もっと露骨な言い方をするならば、ギリシア語にしろ、サンスクリット語にしろ古典語を有難がるのはまったく馬鹿げたことで、要すれば学習しやすい教科書をつくれば済む話なのだ。そんなわけで最近の古典語教科書はむかしと比べて随分進歩している。例えばCambridge University Pressから出ている"Reading Latin"などは文法編とテキスト編の二冊物で文法編は六百頁ほどの分厚いものだがテキスト編は現代語の教科書のように次の会話から始まっている。
"quis es tu?"
"ego sum Euclio. senex sum."
"quis es tu?"
"ego sum Phaedra. filia Euclionis sum"
何を言っているのか、だいたい見当が付くはず。蛇足だけれど意味は次のようになる。
「お宅はどちらさんだね?」
「わしゃエウクリオ、年寄りじゃよ」
「して、あなたはどなたさんですかな?」
「あたしフェードラ。エウクリオの娘よ」
これならば"Puellae donant Dianae deae coronam rosarum"(少女たちはダイアナ女神にバラの冠を贈る)なんてアホみたような文章よりはよっぽど学習意欲が沸くというものだ。
さて気が進まないけれども過去完了、未来完了を見ることにするか。お馴染みとなった"amo"を使うと、まず過去完了は、
"ama-veram","ama-ver-as","ama-verat","ama-vera-mus","ama-vera-tis","ama-verant"
次に未来完了は、
"ama-vero-","ama-veris","ama-verit","ama-verimus","ama-veritis","ama-verint"
なんだそうだ。いずれも完了幹"amav"から構成されていることに注意願いたい。ところでここでなにか気付かないだろうか。つまり活用する語尾部分。わたしは気を持たせるのが嫌いなので早速種明かしをしてしまうのだが、"sum"の未完了過去直説法能動相の活用"eram","eras","erat","eramus","eratis","erant"と未来直説法能動相の活用"ero","eris","erit","erimus","eritis","erunt"をそれぞれ過去完了、未来完了の活用語尾とくらべてみる。ほとんど同じなのだ。「ほとんど」といったのは同じではないものがあるということで、未来完了の三人称複数形の活用語尾は"erint"であって"erunt"ではない。以上が第一変化動詞についての過去完了、未来完了の活用だったがこの他第二変化、第三変化、第四変化動詞についての活用もある。しかしそれらも完了幹に上記の活用語尾を付ければ出来上がってしまうのでたいした問題ではない。
それでは"sum"の過去完了、未来完了はどんなことになるかというと、まずは現在完了の活用を確認する必要がある。たぶん今まで"sum"動詞の完了形についてはまったく触れてないはずだ。そこで"sum"動詞の現在完了形はというと、"fui-","fuisti-","fuit","fuimus","fuistis","fue-runt"("fue-re")。まずびっくりするのは"sum"の完了幹が"fu"ということ。わたしたち日本人には"sum"と"fu"の間に限りなく大きな隔たりを感じてしまう。このあたりの事情を突き詰めてゆくと、それだけで一冊の本が書けるくらいの議論になってしまうので、ここではもうこれ以上は触れないことにする。そこで"sum"動詞の過去完了、未来完了の活用はというと、まず過去完了は
"fueram","fuera-s","fuerat","fuera-mus","fuera-tis","fuerant"となる。活用語尾はあくまで"sum"の未完了過去直説法能動相の活用なのですよねえ。そして未来完了については、もう大方想像できると思うのだけれども、一応上げておくと、
"fuero-","fueris","fuerit","fuerimus","fueritis","fuerint"
これは大層判りやすい。ラテン語ってなかなか規則的なんだなあ。何十年か前の某国立大学のラテン語初級講座では、文法事項の説明もそこそこにいきなり『アエネイアス』を読んだって話を聞いたことがある。教える側の先生にしてみれば文法説明なんてあまりに単純すぎて退屈でたまらなかったんだと思うのだけれど、それにしてもねえ、いきなり『アエネイアス』はないんじゃあないだろうか。とにかくむかしはこのような乱暴な教授法が幅を利かせていたわけだが、これじゃあなかなか西洋古典語の力なんてつくわけがない。よくできた教材が多く出回るようになった今(といっても、外国語の教科書ばかりなのだが)、もしわたしが学校に通っていたならトマス・アクイナスの"Summa Theologica"くらいだったなら読めるようになっていたかも知れないと思ったりした。
もうこのあたりにしておこう。あとは冷えたビールが待っている。ところで今回の自分への課題は次のようなお話。
"Jupiter, postquam terram caede Gigantum pacavit, homines novum genus, in eorum locum collocavit. Hos honimes Prometheus, Japeti filius, ex luto et aqua finxerat. Prometheus autem, misericordia motus, ubi paupertatem eorum et inopiam vidit, ignem e caelo terram secreto deportavit. Principio enim homines, ignari omnium artium, per terram errabant, famem grandibus et baccis aegre depellentes. Propter hoc furtum Jupiter iratus Prometheum ferreis vincuis ad montem Caucasum affixit. Huc ferox aquila quotidie volabat, rostorque jecur ejus Ianiabat. Denique post multos annos Hercules aquilam sagitta transfixit, et captivum longo supplicio liberavit."(注1)

(注1)『新羅甸文法』111頁 田中英央 岩波書店 昭和11年4月5日第4刷


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