蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ソーカツ

2006年01月28日 10時42分45秒 | 言葉の世界
だめだ。完全に頭の芯まで凍りついてしまっている。だから何も見えないし何も書けない。
昨日は代休がとれたので久方ぶりに金曜日の古書展を見ることができた。初日なのでそれなりに品物はそろっていたものの、筋金入りの書痴どもは開場と同時になだれ込み目当ての品物を掻っ攫っていくので、午後にはもう目玉商品はなくなっている。もっともわたしの興味ある分野には大方の書痴は見向きもしないので、午後だろうが二日目の土曜日だろうが影響はない。
今回は趣味展だった。昨年七月の趣味展では十五冊ほど購入したものだが、今回は控えめの四冊で内容的に古本の王道を行くようなものだった。中でも特筆すべきは禅学辞典で大正四年八月二十日に東京府巣鴨の無我山房から刊行されたもの。著者は神保如天、安藤文英の両氏。かなり使い込まれていて、引かれていない頁は恐らくまったくないだろうと思われるほどに各頁に手油が染込んでいる、というほどのもの。こうなってくるとさすがのわたしでも少々触るのを躊躇してしまう。まあそれほど黒っぽい本なのだ。惜しむらくは皮装の背を透明フィルムで補強してあることか。これじゃあ普通は二、三百円が相場なのだが、さすが「禅宗辞典」だけあってなんと八百円の値が付けられていた。ついでに書いておくと戦後の版は東陽堂で九千円で売っている。
それから寺川喜四男、日下三好による『標準日本語發音大辭典』なんてのがあったので買った。五百円。実はこの本、昭和十九年六月二十日に初版が三千部出ているが、わたしが購入したのは昭和二十年三月十五日刊行の再販で二千部出たうちの一冊にあたる。しかしそれにしても昭和二十年という時期によくも出版されたものだと思って中身を読んでみて納得した。
「方今、内には皇國正統の國語を醇化し培養し、外には斯の醇化國語を遠く海外に宣布し昂揚し、弛緩なく假借なく、勇往すべきこと、すでに最近の帝國議會に在りて、橋田文部大臣も問者に對して明快なる應答をせられたるが如くである」(新村出の序より)。
「『言靈のさきはふ國』日本の『ことば』は、大東亞諸民族の團結を象徴して、幸ひに幸はうとしてゐる。『共榮圏日本語』は、口から耳への『ことば』として、その據るべき基準をもとめられてゐる。」(寺川喜四男のはしがきより)。
「今次大戰勃發の動機は、澎湃たる國民的自覺を促し、延いては我が國語學界にもこの著しい現象が觀られて、語學史上一新時代を劃したものといふべきである。」(日下三好のあとがきより)
「惟ふにこれは、八紘為宇の大精神に貫く民族史の辿るべき、大和語の輝かしき歸結であって、この時代史的脚光を浴びて世に浮かび出たのが、我が「標準日本語發音大辭典」」(同)
つまり言語によってもアジア圏を支配しようという国策が背後にあったわけだ。なお山田孝雄も序を寄せているが、新村や著者たちのような勇ましいことは書いてない。ごく当たり障りのない文章になっている。
事ほど左様にそんなわけだから、この大辭典には「自由主義」という単語は出ていてもさすがに「共産主義」や「独裁」はない。まあこれは何時の時代でも形を変えて現れることだからそれほど騒ぎ立てるはなしでもない。ところで『標準日本語發音大辭典』の出版が政治性、党派性を孕んでいるのは確かなのだけれども、一般にイントネーションそのものに政治性や党派性はあるのだろうか。わたしはあると思う。たとえば「総括」。「ソーカツ」はわたしとしては"下中中中(平板)"イントネーションで発音されねばならないと思っている。それを"上中中中(頭高)"と発音されるとどうしてもあの連合赤軍事件を思い出してしまう。これなどはれっきとしたイントネーションにおける党派性ではないだろうか。ところが近頃ではこの「連合赤軍」的イントネーションが随分と幅を効かせてしまい、とうとうNHKのニュースアナウンサーまで"上中中中(頭高)"で「ソーカツ」と読み上げる始末だ。これを聞くたびにわたしはそのアナウンサーが党派的に感じられてしかたがない。


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