蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

まち

2006年02月19日 08時22分38秒 | 言葉の世界
かなり以前のこと、地下鉄銀座線上野駅のホームで「この電車はしぶたに行きですか」と尋ねられたことがある。すぐに「しぶたに」が「しぶや」のことだと判ったのは、関西の人は「渋谷」を「しぶたに」と読むということを聞いていたからだ。たしかに言われてみれば思い当たることがある。もう亡くなってしまったが松竹新喜劇に「渋谷天外」という役者がいた。藤山寛美と親子の役をよく演じていたものだ。わたしたち関東の人間はこの芸名を「しぶやてんがい」と呼んでいたけれど、本名は渋谷一雄と書いて「しぶたにかずお」と読む。松本清張の自伝『半生の記』によると、戦後の生活難を凌ぐため彼が小倉から関西方面へ箒の行商にいっていたが、そのとき関西人が「小倉」を「おぐら」と発音していたということが書かれている。
東京日本橋人形町を「にんぎょうまち」と読む人は、最近ではかなり少ないのではないだろうか。いろいろなメディアが発達している昨今では、東京の地名もかなり知れ渡ってきており間違って読まれることはほとんどなくなってきている。ところが数日前、朝の地下鉄車内でどこかのネエチャンが迷惑にも携帯電話でどこかの誰かさんと会話していたのだが、そのなかでこのネエチャンから「にんぎょうまち」という言葉が出てきたので、わたしは思わず仰け反ってしまった。これは紛うことなく「人形町」のことに違いない。いったいこのネエチャンはどこの山から出てきたのかと彼女のことを眺め遣ったが、そこいらにいるごくありふれた普通の若い女だった。この物知らずめ、とそのときは感情に任せて彼女を軽蔑したものだったが、職場に到着して一息ついて考え直してみると、なんだか自分のほうが軽率に感じられてきた。
わたしは子供の頃から「人形町」を「にんぎょうちょう」と呼んでいて、これに何の違和感も感じてこなかったのだけれども、あらためて「にんぎょうまち」と「にんぎょうちょう」の響きの差というものに注目すると、「にんぎょうちょう」ってなんだか硬い感じがする。一方の「にんぎょうまち」はというと、こちらはとてもしっとりとしていて時間が二百年ほども遡行した気分になる。違いがひとえに「ちょう」と「まち」の差に負っていることは明からだ。「まち」は和語だけれども「チョウ」は呉音、つまり外国語の音だからだろうか。因みに漢音では「テイ」となる。さらに「まち」は「坊」とも書く。『和漢三才図会』に「坊者村坊也、説文云、坊邑里之名、町田區畦将也」「按今多用町字訓萬知、用坊字代房字、竟難改」(注1)と載っている。しかしこのあたりの議論をし出すと泥沼にはまってしまうのでもう止めておく。
つまりわたしが思ったのは、「にんぎょうまち」というのもちょっと風情があってよいのではないかということ。住人が皆人形の、なんだかとても幻想的な世界を想像してしまう。「まち」という言葉の柔らかさが、ある種の懐かしさに満ちているからかもしれない。「ちょう」と聞くと、これはせかせかした感じで、神田多町、神田司町、神田神保町と、どれもこれも気忙しい気分にさせられるけれども、神田小川町(おがわまち)と聞けば、ちょとほっとする。なんだか美味しい食べ物屋でもありそうな雰囲気になるじゃあないですか。萩原朔太郎の短編に『猫町』というのがあるけれど、これが「ねこちょう」だったらもう台無しだし、逆に「番町皿屋敷」を「ばんまちさらやしき」なんて読んだ日にはおどろおどろしさなんか吹っ飛んでしまう。

(注1)『和漢三才図会』(下)1149頁 寺島良安編 東京美術 平成2年10月1日第15版


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