蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

シュトットガルトな意外

2006年01月15日 13時29分17秒 | 言葉の世界
日本経済新聞一月十四日付朝刊の二十九面に多和田葉子という作家の文章が掲載されていた。「溶ける街透ける路」の題で連載されていて今回が二回目になる。シュトットガルトの演劇活動を主に取り上げたもので大して面白い読み物ではなかった。だから普段ならそれきりになってしまうところだったのだが、この文章中次の一節に目が留まりちょっと考え込んでしまった。
「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」。わたしはこの文を軽く素通りすることができなかった。そもそもシュトットガルトは今も昔も文化の香り高い街であることは、少しでもドイツに興味ある者なら誰でも承知している。ドイツ在住のしかも小説家のセンセイであってみればまさかそれを知らないはずはないと思う。もし本当に「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」とこの作家が感じたとすれば、そのナイーブさはある意味で驚嘆に値するほど微笑ましくさえある。いっぽうこの文を読者がシュトットガルトをドイツの工業都市の一つくらいにしか思っていないという前提に立ったうえで書いているとしたならば、それは随分と読者を見縊ったものだと思う。穿った見方をするならこの作家の意識のどこかにヨーロッパ語を解することへの優越感があるのではないか。ヘーゲルを知らなくたってシュトットガルト管弦楽団ならご存知の読者諸賢も多いはずだ。そもそもドイツの都市で「文化の盛んでない町」なんてあるものだろうか。
以上が前口上でここからが今回の本題。
「シュトットガルトは意外に文化の盛んな町でもある」。何度読んでもどうもしっくりとこない表現だ。「意外に文化の盛んな町」というこの部分が引っ掛かって仕方がない。
「意外に」はどう考えても形容動詞「意外だ」の連用形にしか思えない。したがってたとえば「意外に少ない」といった表現ならば連用形+用言ということですんなりと受け入れられる。ところが「意外に文化の盛んな町」では形容動詞「意外だ」が名詞句「文化の盛んな町」を修飾する構造となっている。そうであるならばここでは「意外だ」は連体形をとり「意外な文化の盛んな町」とすべきではないだろうか。しかしこれだと「意外な」が名詞「文化」を修飾しているのか、それとも名詞句「文化の盛んな町」を修飾しているのか曖昧になってしまう。そこでこれを解消するためには「文化の意外に盛んな町」とでもするほかないだろう。「意外と」としても大方耳障りではないが、しかしこれは文語表現における曲用なので使わないほうがよいと思う。
誤解しないでいただきたいのだけれども、わたしはなにも文法規則に則った文章を書けと主張しているわけではない。そもそも始めに言葉という現象が在るのであり、文法とはこの現象を便宜的に体系化した構成法則のはずだ。だからわたしは先ず聞いて、話して何だか違和感を感じてしまう、というところからその違和感の源を確認しようとして文法を参照しているにすぎない。たしかに言葉というものは時間空間的に変化するものであり、江戸時代の言葉を日常的に使用している個人なり集団は今ではないだろうと思う。わたしだって標準的日本語を使っているとはとてもいい難い。しかしそんなわたしをしてさえ不愉快にさせる言葉と出会うこと再三なのだ。「何気に」なんぞ聞いただけで虫唾が走る。そういえば「ちなみに」も同断でこれがやたらと使われ出したのは、あの萩本欽一という客を弄ってしか笑の取れない三流芸人がバラエティー番組で使ってからだと記憶している。


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