蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

続昔日百貨店

2005年10月13日 07時45分22秒 | たてもの
メンデルゾーンは一八八七年五月二十一日東プロイセン、アーレンシュタイン(現在のポーランドOlsztyn)にユダヤ人商人ダヴィッド・メンデルゾーン、エンマ・メンデルゾーン(旧姓Jaruslawsky)の息子として生まれている。一八八七年は井上円了が哲学館、現在の東洋大学を設立した年にあたる。アーレンシュタインの人文ギムナジュームのアビトーア合格、それに引き続くベルリンでの商人修行の後、彼はミュンヘンの国民商業学校で学び、一九〇八年には再びベルリンに戻り、シャルロッテンブルクの技術高等学校(資料によっては工科大学ともなっていますが、なにぶん今日の日本と学制が異るので翻訳が難しい)で建築の勉学を開始し、一九一〇年二十三歳のときミュンヘンの技術高等学校に転学し、そこで『青騎士』や『ブリュッケ』の芸術家たちと接触している。一九一二年二十五歳で学士試験を通過して建築の勉学を終了した。
一九二一年三十四歳のおり、表現主義的な施工の重要な実例であるポツダムの宇宙物理学研究所のいわゆるアインシュタイン塔の設計、建設をてがけることとなる。この施設は多分中央ヨーロッパにおける彼の最も有名な建物であり、近代建築史の本には大方これが紹介されているはずだ。コンクリートの切株のように森の中にうずくまっているこのタワー、そして初期作品の多くがその典拠としている彼のスケッチからは、しかしながら彼の活躍した時代のクールなモダニズム以上に、建築へのより植物的なアプローチが見て取れる。このことが、メンデルゾーンがけっして本当にモダニストの理想に専念していなかったのではないか、という疑念の残る原因ともなっている。
一九三三年、ユダヤ人であるメンデルゾーンはナチスドイツを逃れて英国に亡命し市民権を得、建築家にしてインテリア・デザイナー、そしてかつて社交ダンサーでもあったゼルゲ・チェルマイェフの設計パートナーとして、パレスチナに移る一九三九年まで活動している。一九三三年はCIAMのイギリス支部、MARSが設立された年でもあるが、渡英三ヶ月のうちに、彼は小さな南海岸のリゾートであるベックスヒルの革新的市長であった九世伯爵デ・ラ・ヴァールによって組織されたこの国で始めてのモダニズム建築コンペティションに優勝した。二百三十名の応募者の中にはメンデルゾーンの亡命仲間であるマルセル・ボイアーのほかヴァルター・グロピウスなどもいて、これはイギリスのモダニズム運動がいかにドイツモダニズム運動から恩恵を蒙っているかという事の証左となった。
さてこうしてでき上がった有名なデ・ラ・ヴァール・ベクスヒル-オン-シー、近代建築の成果の最先端技術を持ち込もうとしたデ・ラ・ヴァール伯爵の意図を実現した、際立った娯楽施設は、メンデルゾーンとチェルマイェフのオリジナルプランよりはずっと小規模なものとなってしまったが、現存するこの作品はイングリッシュ・ヘリテージとテレビ局「Channel Four」による、英国の最もモダンな建造物の評価においてコンベントリー聖堂、リバプールカトリック教会に続いて第三位にランクされている。この施設のバー、レストラン、テラス、そして屋上のゲームセンターはベックスヒルの住民には身近で大衆的なものでしたが、それにもかかわらずメンデルゾーンにたいする英国民の感情はあまり芳しくはなかたようで、この「侵入者」である彼の作品を採用したことに関して不満を訴える「建築雑誌」への投書の対象となってしまった。
メンデルゾーンは一九四一年五十四歳のおり、個人的問題を理由に仲間とともにアメリカに亡命することとなる。一九四三年にはプリンストン、イェール、ハーバードなどの大学で講演、一九四五年サンフランシスコに居を定める。一九四六年には再びフリーランスの建築家として仕事を始め、一九四七年からはバークレー校での教職を引き受けている。以降、アメリカの各地で彼は幾つかの大型建築と並んで、とりわけシナゴーグを建設した。そのほかニューヨークにナチスの犠牲となったユダヤ人の碑を計画するがこれは実現していない。一九五三年九月十五日サンフランシスコにて死去。享年六十六。
一九二〇年代においけるエリッヒ・メンデルゾーンはヨーロッパで仕事をしている大変多作な建築家の一人だったが、彼の評判は当時彼の同時代人であったル・コルビジェやルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエよりは低いものだった。そして今日においてもなお、彼はこのモダニズム運動における二人の巨人の高く聳え立った影の内にいる。 しかしわたしとしては、メンデルゾーンがもっと評価されてよい存在ではないかと思っている。残された多数のスケッチからギーガーのエイリアンを連想するのも一興だが、しかし彼の出発点であるこれらの幻想的ともいえるスケッチこそが、今日彼の類稀な才能を証しているのではないだろうか。
建築学者ヴォルフガンク・ペーントはその著書で次のように述べている。「メンデルゾーンは当時革命家の名をほしいままとした唯一の人物であった。すなわち彼に比べれば他の建築家はあくまで付焼刃の革命家にすぎなかったのだ」(注1)

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst Jahrgang XXIX 11.Heft・November 1930 Julius Hoffmann Verlag Stuttgart
(注1)『表現主義の建築』下巻 245頁 Wolfgang Pehnt著 長谷川章訳 鹿島出版会 昭和63年10月20日

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