蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

昔日百貨店

2005年10月12日 04時47分50秒 | たてもの
シュトットガルトのショッケンデパートはまるで近代建築の見本のような建物だった。正面左右に階段室を設け、左側のそれは一階部分がショー・ウィンドウになっていて、夜間は内側からの照明で階段室の様子を美しく引き立てていた。デパートチェーン・ショッケンはシュトットガルト、ケムニッツのほかニュルンベルクにもあったのだが、今日ではケムニッツの建物が残っているだけだ。
デパートのオーナーであったシーモンとサルマンのショッケン兄弟は、第三帝国の時代にナチスによって財産を没収されてしまった。すでにこの名前から気付かれたことと思うが彼らがユダヤ人だったからだ。第二次世界大戦の戦火のなかでシュトットガルト・ショッケンとニュルンベルク・ショッケンが消失したが、ケムニッツの建物は戦後再び整備されて再建され東独時代にもデパートとして使われ、東西ドイツ統一後はドイツKaufhofコンツェルンによって引き継がれたが、後に再び売却されたという。
シュトットガルト・ショッケンデパートのシュタイン・シトラーセ側、つまり裏通りは路面電車の走る表通りとは異なって、ちょっと静かな感じの町並みだった。籠細工、乳母車の看板やダンス教室の看板を出した切妻屋根の家屋には、三階部分に窓風の造り付けられていたりして、昔の町並みを当時まだ残していた。
シュトットガルト・ショッケンが建設された一九二六年から二八年にかけて設計者メンデルゾーンはベルリン、ケルン、ニュルンベルク、ティルジット(ソヴィエツク)そしてレニングラード(サンクト・ペテルブルク)で多くの工場、商業建築、複合住宅そしてデパートを手がけているが、彼は一般的な当時の建築家のスタイルの方向性にはに従わなかった。彼の個人的なスタイルにおいて典型的なのは、これを彼自身は『オーガニック・スタイル』と呼んでいるのだが、水平のコンクリート仕上げの湾曲したファッサードと長い窓の壁(光のバント)なのである。つまり、メンデルゾーンは自分の建築計画を組み立てるに当たって、歴史的慣習に沿ったデザインを使うことはなかったのであって、結果として初期の建築物は彼の同時代人の多くを特徴付けているところの折衷的借用を避ける結果となっているのである。メンデルゾーンの建築に関するアイデアは「現代建築の素材の質は新しい建築を志向しなければならない」と主張する表現主義的発想とロマンチックな象徴主義から導き出されている。しかし後期のデザインにおいては、初期の表現主義的建築様式から離れて、より線形なスタイルの建築を設計するようになる。
近代建築を語るとき、ル・コルビジェやグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエにと比較して、どうも今日ではメンデルゾーンは取り上げられることの少ない作家といった印象を受ける。ここで私見を披瀝させていただくなら、たとえば神保町の明倫館書店の棚を眺めてもやたらル・コルビジェやらファン・デル・ローエやらの関連書籍はあるものの、メンデルゾーンの作品集なり研究書が一冊も無いという事態に暗澹たるものを感じてしまう。サルバドール・ダリはル・コルビジェが大嫌いだったが、わたしもあまり好きではない。ダリは「美は可食的でなければならない」という名言を吐いている。これはガウディについていっているのだけれども、この言葉はメンデルゾーンにおいても、あの曲線の美しさで有名なアインシュタイン塔には充分に当て嵌まるのではないかと思う。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst Jahrgang XXIX 11.Heft・November 1930 Julius Hoffmann Verlag Stuttgart

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