忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「ありがとうございました」の理由

2011年12月27日 | 過去記事

今の施設で気に入っているモノが二つある。ひとつは各階毎に喫煙所があること。もうひとつは、入所者の家族さんが面会に来られて帰られる際、我々職員にさよおなら、ではなく「ありがとうございました」と言わせるところだ。

ま、細かいことを言えば、そこは「ありがとうございました」ではなく「ありがとうございます」だろう、Thank youに過去形はないだろう、となる。だから、常に説明せねば相手に通じない、疑心暗鬼、相互不理解の訴訟社会で暮らす毛唐はわざわざ、そのあとに「for」とつけて、何に対しての「Thank you」なのかを説明するという不細工になる。そんなのは真似せんでよろしい。日本人のわびさびは「ありがとうございます」だ。

それはさておき、この「ありがとうございました」であるが、これを毛唐のように「何に?」と問えば、それは「面会に来てくれたこと」となる。自分らが日頃、仕事でお世話しているジジババに会いに来てくれて「ありがとうございました」と言っている。他人の家族が他人である入所者に会いに来たことに感謝する。これは結構、優れていると思う。

入所当時、私は「お疲れさまでした」と言っていた。帰るんだから、ということで「お気をつけて」も付け加えるサービスぶりだ。それで誰にも注意されたりしなかったが、あるときから私も真似して「ありがとうございます」と言ってみた。なんか良かった。

正常な感覚ならば、年寄りが喜んでいれば自分も嬉しくなる。しかも相手は常日頃、色々と手を焼かせてくれる相手である。何より、そのジジババについては「人生の最後」を見届ける可能性も高い。「情を持つな」と言われても、頭では納得できるが心のほうはそうはいかない。月に何度か、週に何度かの面会を入所者は本当に楽しみにしているし、認知症が相当進んだ状態であっても、仮に「相手を認識していない」と思しき言動があっても、そこは我々からすれば「いつもと違う反応がある」ことくらい周知である。家族が帰った後、その入所者がとても安定することくらいは常識として知っている。だから、来てくれると「ありがたい」となる。

また、日々の面会もそうだが、我々がとくに「ありがとうございます」となるのはイベントだ。最近では「餅つき大会」だ。少し前には「文化祭」となる。今年の夏は「夏祭り」もやった。基本的にすべてが「家族参加型」なのだが、しかし、総勢70名ほどの入所者ながら、夏祭りにすら顔を出してくれたのは数家族いなかった。施設も「参加してくださいね」ということで案内も送る。面会に来た家族にもお願いするし、ポスターも作って貼付する。その理由は「入所者を喜ばせる」という部分において、我々は絶対に適わないからだ。

病気はあるし認知症だし、という高齢者のお世話は専門の知識や技術を要することもある。しかし、例えば「夏祭りを楽しむ」ということからすれば、我々など到底及ばないのが「家族」である。もちろん、それはほんのわずかな時間「一緒にいる」だけでOKとなる。笑顔になるし、人によっては前向きにもなる。それは歩行訓練を開始したり、食欲が出たりするモチベーションになる。我々が100日間かけるところを、身内ならば数十分で成してしまうこともある。その効率や効果を勘案すれば、是非とも面会に行くべき、来るべきなのだが、これがなかなか難しい。

また、良いことばかりでもなく、過半以上の「家族が来ない入所者」は、面会に来た家族と共に盆踊りを見ている入所者をじっとりと見なければならない。無論、ほとんどのジジババは知らないふりをしている。露骨に「どうせ、あたしゃひとりですよ」と愚痴るジジババは見かけない。しかしながら、そこは普段から接している我々には隠せない。明らかに気にしないように努めているし、淋しいと気取られないように明るく振舞うジジババもいる。しかし、日頃と同じく冗談を言い、笑い合うちょっとの隙間、家族と一緒にたこ焼きを食べる入所者を遠く見ている。ジジババの中には私がそう察したことを察して「あんたがおってくれるからええねん」と笑うのもいた。あまりにも悲しい、あまりにも淋しい以心伝心だ。

施設側も「せっかく家族が来てくれた」ということで、家族と一緒の入所者を写真に撮り、アルバムを作ったり、施設内の広報紙や施設案内のパンフレットに載せたりする。しかし、その明るい笑顔の向こう側には、無表情で車椅子に座っているだけのジジババがたくさんいる。

年に一度、それも1時間か2時間ほどを「忙しい」とする人は、いったい、どれほど忙しいのだろうか。子供でもそうだ。何かとヒマではない私も可能な限り、娘や倅の学校行事には参加したモノだ。それは「顔を出して立ち去る」程度のモノもあった。卒業式などは、途中から「もう飽きた。帰りたい」と文句を垂れる妻を宥めながら最後までいたが、運動会などはまさに「立ち寄る」ほどのことだった。しかし、倅の大学の入学式は「行かない」と言った。「行けない」ではなく「行かない」ということだ。その理由は、今後、倅が就職した際の「入社式」に参加しない理由と同じだ。子供ではあるが幼児ではないからだ。

しかし、中学の卒業式すら「母親だけ」と思しき家族がいた。もしかすると片親なのかもしれないが、それでも多すぎるだろうということだ。圧倒的にオッサンの数が少ない。父親の顔すら知らぬ私からすれば、せっかく両親が揃っているのにもったいない、と思うしかない。自分が子供のころを思い出すがいい。「親に見てほしい」という感情はなかったか。「親に知ってほしい」という願望はなかったか。くだらぬテレビゲームのエンディングさえ、意味もわからぬオカンに「これ見てみー」と言った記憶が私にもある。中学の運動会。デブでも足が速かった私はリレーの選抜、グランドを2周走ることになった。中学生レベルではない瞬発力でロケットダッシュ、あっという間に前を走る数名をゴボウ抜きにした。風圧を纏いながら猛然と追い越すとき、なんだあのデブは?という驚きを伴った歓声と、多くの雑音の中から、私のオカンが叫ぶ「ひろく~ん!!(幼少のころの私の呼び名)」という黄色い声援が聞こえたモノだ。2周目、完全にバテた私がまた、何人もの走者に追い抜かれるときの「あぁぁ~~~・・・」という悲痛なオカンの声も聞こえた。私には今も昔もペース配分などないのであった。



ジジババに話を戻すと、多くのジジババはやはり、とても淋しいし不安な日々を送っている。それはどのような設備でも、どのようなイベントでも埋まらぬモノだ。つまり、我々には対策不可能な領域にある。わけのわからぬ孫が走り回るだけでもいい。子供嫌いな私も許そう。ともかく、来てあげてほしいのである。

また、面会に来たは良いが、何を話してよいやら、テーブルに座っているだけでどうすればよいやら、家族もジジババも困っている様子が窺えるときもある。元気な頃に何かあったのか、元々、ウマが合わないのかは知らんが、少しだけ早いお通夜みたいになっている。

我々は基本的に「面会の邪魔はしない」というルールがある。もちろん、家族が来てくれた貴重な時間、我々が不用に介入する愚は避けたいところだ。しかし、その家族が帰り際、すれ違う私が軽く手を振ると、ジジババは満面の笑顔で手を振り返す。目撃した家族は例外なく驚いている。自分の母親か祖母か知らんが、この人はこんな表情をするのか、こんな態度をとるのか、と驚いている。ジジババもいつもより愛想が良い。いつもより笑顔だし、いつもより大きく手を振る。これは私の憶測だが、その理由はおそらくこうだ。





家族が観ている―――ほら、わたしは上手くやっているよ、わたしは気に入られているよ、わたしは楽しくやっているよ、わたしは認められているよ――――



――――すごいでしょう





見てほしい人がいる。知ってほしい人がいる。わかってくれ、とは言わない。ただ、見てほしくて知ってほしいだけなのだ。無愛想かもしれない。無表情かもしれない。しかし、それはその対象が「見てほしい人・知ってほしい人」だからである。世代も性別も違う私と言葉を交わさず、笑顔で手を振り合うことによって、ウチの婆さん、施設で上手くやってるなぁ、と感じてほしいのである。そして勘違いしないでもらいたい。家族が「あんなに楽しそうなら自分らが行かなくても・・」となるのは大間違いだ。いま、そこで笑顔を振りまき、両手で大きく手を振っている婆さんは昨日、眠れない、と何度もナースコールを鳴らした婆さんだ。もちろん、残念ながら私はひとりだ。30名以上のジジババを相手にせねばならない。その婆さんのベッドの横で手を握り、眠れないなら起きていても良いじゃないですか、と語りかける時間はない。だから、その婆さんは一晩中、天井の染みを見ていることになる。ファイルにもちゃんと書いてある。睡眠導入剤が効かない理由があるのだ。家族は家族だからこそ知ってほしい。

あなたの爺さん婆さんについて、ケアプランに書いてあることは我々がする。食事も排泄も入浴も任せてくれれば結構だ。我々にはその知識があるし技術もある。その報酬も得ている。だから安全で快適はお約束しよう。しかし、家族にしか出来ぬことがある。それは簡単なことだ。ちょっと「立ち寄る」程度のことだ。「顔を出す」程度のことだ。

しかしながら、その威力は我々が100名いても埋まらない。だから、我々は言う。


「ありがとうございました。どうぞ、お気をつけて。(また来てあげてくださいね)」

2 コメント

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思い出 (柿本篤弥)
2011-12-28 23:41:41
祖父母との思い出がよみがえりました。
入退院を繰り返し、最期は病院で息を引き取った祖父。
「お前だけが一番の頼り」そう書いて渡してくれたメモは今も財布にしまってあります。

祖父亡き後15年近くふたりきりで暮らした祖母。最後の6年間は介護生活でしたが、懐かしい思い出がいっぱいです。

ブログを拝読して、祖父母との生活を思い出し、祖母の笑顔が浮かんできました。

孝行したかった・・・・・

今でもそう思います。

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Unknown (久代千代太郎)
2011-12-31 13:32:20
>かいちょ

すればするほど足りないと感じるもの、でしょうかね。まったくやっていないと、足りないことすら気付かないわけでありますな。

私は祖母に何もできませんでしたから、オカンにしてあげようと思います。プロですからw


足りない、と感じるほどできればいいですな。
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