忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

しんぼる

2010年12月03日 | 過去記事
パキスタンでイスラム教の女性から「キリスト教徒が汲んだ水は飲めない」と言われたアーシア・ビビさんという女性が言い返した文句の中に、預言者「ムハンマド」を冒涜する言葉が含まれていたとしてビビさんは逮捕、起訴された。裁判官の下した判決は「死刑」だ。

パキスタンではムハンマドだけではなく、聖書である「コーラン」を冒涜しても捕まって極刑を喰らう。そんな「コーラン」を燃やして捨てるどころか、トイレで使ったアメリカ人は、もう、何をしても許してもらえないと知っているから、全世界を巻きこんで「テロと戦うのだ」と言わざるを得なくなった。ま、アメリカも他国、他民族、他宗教の「象徴」を汚したんだから、それも本望だろう。



もちろん、日本の心の象徴といえば御皇室である。これを左翼みたいに言うと「象徴天皇制」となる。「天皇家」というバカもいる。「磯野家」みたいにしたいのだろう。また、御皇室の話をすると未だに「単なる象徴」と言う馬鹿がいるが、これは民主党にもたくさんいて、ならばイスラム教における「コーラン」も象徴のひとつ、キリスト教における十字架も象徴に過ぎないとして「もっと現代風の物に代えても良いんじゃないか?」と言ってみるがいい。管直人のように「国歌はもっと派手で、元気が出る感じのほうがいい」という阿呆もさることながら、象徴というものに対する見識において「象徴に過ぎない」という感覚が包含されていること自体異常者だとわかる。

象徴とは「シンボル」である。

日本の国旗を引き裂いて「党のマーク」を作って「神聖なマークだからちゃんとせねばならなかった」というスカタンを抜かすボンクラがいる政党にはわかるまいが、日本以外の国で通る理屈ではない。象徴とはそれほどのものである。

また、私のような者にも御皇室関連の質問をしてくる人がいる。最近では御皇室における「男系・女系論争」がある。WILLなどの雑誌では賑わっているのも知っている。双方の論文にも目を通しているし、私にも私なりの「考え」はある。しかし、御皇室に関する話題から私の意見を問われた際、私は卑怯ながら「わからない」と答えることにしている。

私は先ず「畏れ多い」と思う。御皇室を論ずるには論ずるだけの「資格」というものがあると思っている。私はまだ不勉強だ。論ずる資格はない。御皇室だけは「適当な知識」で論じてはいけない。さらに現在の私の国籍からして、そこは差別ではなく「区別」をお願いしたい。もちろん、私個人として御皇室に対する敬愛の念を表明することに何ら抵抗はない。むしろ、日本人でありながら御皇室というものに感謝の念がない人に出会うと、心の底から「地上にはつまらん人間がいるものだ」と気持ちが冷めてしまうことがある。

告白すると、どんなに人格者であっても、どんなに優しい性格でも、日本人でありながら「御皇室に対する敬愛」を感じられぬ言動があったとき、私はその人物を心の底から見下している。そういう人物との付き合いはすべてが社交辞令だ。一ミリも尊敬できない。


また、言論の自由、表現の自由、自由の自由、なんでも結構だが、如何なる理屈を持ってしても、それこそ「今の日本の官房長官をしているような立派な弁護士先生」であっても、例えば「伊勢神宮に落書きした」ことを正当化できる弁士はいまい。靖国神社に参拝反対を唱えるクズどもであれ、誰も大鳥居を破壊したり、大村益次郎の銅像を引き倒したりしないが、それは「単なる象徴」とか「象徴に過ぎない」という概念がないからだ。また、これが単なる目印とか看板、あるいは「マーク」でもよいが、要するに「識別するための記号」ではないと本能的に知っているからである。

例えば、反日デモなんかで日本企業が襲われる。引き摺り下ろされたり、叩き割られて燃やされるのは「屋号」が書いた看板だったりする。社名であれ屋号であれ、それはその創始者が築き上げ、たくさんの社員や顧客に支えられて現在にあるものであるから、反日デモをする連中は、それを壊せばさぞかし悔しい思いをすることだろうと踏んで嬉々として行う。企業にもブランド意識があり、それを「象徴」するシンボルマークもある。反日デモなんかでは、それらが真っ先に狙われるのは周知の通りである。

しかしながら、その企業の社員らは自社のシンボルマークが引き裂かれたとしても、その場で泣き崩れるような愛社精神の権化はいない。「やれやれ」と言って新しい看板を発注するだけだ。無論、少々腹は立つだろうが、それでも何千年の御神木が台風で薙ぎ倒されたりしたわけではなく、いわゆる「企業の象徴」が描かれた看板が破壊された程度であれば、実はそれを直せばよいだけであって、とくに企業に与えうるダメージはない。もちろん、日本の企業であるからといって、日本国に対するダメージにもならない。被害は「看板だけ」と言って大過ない。しかし、だ。

日本人ならば、ハラワタが煮えくりかえらねばならないことがある。御皇室に対する侮蔑だ。反日デモで日本企業の看板を壊したり、日本の政治家の写真を燃やしたりされても、それらは所詮が「日本人が作ったモノ」に過ぎない。すなわち、極論すれば、いつでもまたつくればよい。しかし、御皇室は「日本人を創った」わけであり、現在も「創っている」のである。これを侮蔑することは言語道断、許されてはいけない。日本の保守と呼ばれる人らが、無邪気な支那朝鮮人のデモで顔色を変えるのは、電化製品メーカーや車メーカーの看板を壊されたり、小泉さんや安倍さんなどの写真が燃やされることではなく、御皇室に関する侮蔑行為である。無知であれ、無邪気であれ、犬畜生であれ「許されてはならぬ限度」があるとすれば、それはまさに「そこ」である。そこに対して怒ることに理屈はいらない。

そしてもちろん、異常な事態ではあるが、現在まで支那朝鮮人のデモは日本国内で発生することがあった。その中に含まれる「反日日本人」も多数、御皇室を侮蔑したパネルやら横断幕やらをぶら下げて、日本の土地を踏んで歩いた。無論、これらは「表現の自由」の悪用で罷り通っている次第であるが、しかし、どうせならば、だ。

なぜ、皇居前に行ってやらぬのか。靖国反対でもいいが、なぜに大鳥居に赤いスプレーを吹きかけないのか。遊就館にも800円支払えば誰でも入れるが、どうして「靖国神社を解体せよ」と書いた横断幕を持って入らぬのか。

例えば、拉致被害者奪還デモを行えば、必ず、最終的には最寄りの(笑)総連施設に辿り着く。訴える相手はそこにもいるからだ。政治家に文句があれば事務所に行けばいいし、国会に文句があれば国会に行けばいい。靖国に文句があるなら靖国に行くべきだし、堂々と大鳥居をくぐり、そこに「参拝反対!日中友好!」と張り紙でもすればいいのだが、それはやらない。なぜか?

それは先ず「逆効果」だからだ。あくまでも「日本人を起こしてはならない」わけだ。それに靖国神社の駐車場でメガホン持って「はんたい!」とやるだけでも根性がいる。つまり、本気じゃないとやれないから、奴らはやれない。中に入って本当に大鳥居に落書きしたりすれば、器物損壊で捕まるなどどうでもいいが、それこそ日本人は本気で怒るだろう。奴らはそれが本気で怖いのである。クソ馬鹿な「ど左翼」でも、それくらいは知っている。外で小さく騒ぐぶんには言論の自由、表現の自由、まあ、そんな馬鹿が何人かいても仕方がないと、日本人はその懐の深さで許容できる。


―――――しかし、これはもうダメだろう。虎の尾を踏む、というやつだ。日本人はこれを絶対に許さないし、許してはならない。


http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101130/plc1011302110030-n1.htm
<非礼の極み 民主・中井前国家公安委員長が秋篠宮ご夫妻に不平…「早く座れよ」 議会開設120年記念式典>


また、これについての本人の言い抜け、民主党連中の反論が酷い。しかも、自民党の携帯電話を切り忘れた議員と相殺させる作戦らしい。本人が「完全に自分のミス」だと陳謝した「電源切り忘れ」と、たかが数分の式典の最中、起立させられていることに対して不満を「その場」で垂れるバカモノと同列に扱うことは不可能だ。また、こういうとき、普通ならば官房長官、党のほうでは幹事長などが事態の収拾のために知恵を出すのが当然だと思うが、この民主党という政党はマトモな人材がいないから、実に不細工極まりない、非常識に過ぎることを平然とやる。民主党にも世間を知る一廉の大人はいると思われるが、さぞかし頭が痛いことだと思う。来年か、もうすぐ先、必ず訪れるであろう「無職」の憂い目を予測、自認し、速やかに離党して出直すことを勧めたい。もはや、世間は「民主党」という語呂自体に抵抗を感じるほどになっている。安易に政権交代させた咎を認める人も少なくない。「誰がやっても一緒」と言っていた日本人が「政治」というものに興味を抱き始めている。どこの国でも経済状況が悪化すれば投票率が上がるのと同じく、どうしても政治の世界に目が向いてしまう。結果、冷静に自分らが選んだ政権を吟味することになってしまった。日本中、あちこちの地方選挙で民主党がボロボロになっているのがその証左だ。そして、その理由こそが「民主党という政党の性質そのもの」なのである。

中井は昨日、「秋篠宮様に言ったのではなく、副議長に言ったのだ」と弁明した。これも大概な阿呆だが、翌日になると「隣の席の人間に“お座りになられないのか”と言った」などと発言が変容した。これに対して普通、慌てて火消しにかからねばならない幹事長や官房長官は相変わらず「問題ない」と開き直る始末だ。周囲の声や、その向こうにいる国民の感情など、もはや、どうでもいい、と割り切れる根拠があるのだろうか。もうとっくに「国売り」は終わっているのかもしれない。「(支那による日本の)属国化は今に始まったことではない」と官房長官が自民党の丸山氏との電話で語ったとあるが、これはまさに「本音」として危惧されているところ、実は既に「事実」として認識すべきときなのかもしれん。

奴らからすれば、日本国民からの「売国奴!」という今更ながらの誹りなど、その心の中では「今頃、何を言っているのかw」と嘲笑するべき呑気なことではあるまいか。そうでなければ、だ。いくら世の中には一定数のアレがいるとしても、ソレばかりが民主党に集まっているとしか思えぬダメっぷリはどうしたものか。この政治状況をして、官房長官も幹事長も揃って「野党の所為」と人前で述べられる精神状態とは、もはや、既に「事が成った」というメッセージではないかとすら思う。支持率が低下したら「マスコミの所為・国民の所為」で、政治状況が混乱したら「野党の所為」で、合わせて想像を絶する閣僚の舌禍、あるいはスキャンダル、違法献金に虚偽記載、マニュフェスト無視の売国路線、馬鹿丸出しの自作自演、日本人を全員敵に回すかの如き御皇室への侮辱行為なども総じて「誰も責任を取らない」という姿勢は、明らかに日本人から評価されぬスタンスなのである。

兎にも角にも前代未聞だ。まるで誰かが「政治的実験」をしているのではないかと思うほど、現在の民主党政権のカスぶりには我が目、耳を疑うほどだ。自民党は「言っていることとやっていることが違う」と叩かれたかもしれんが、この民主党政権は「言っていることと言っていることが違う」のである。これはもはや「叩く」レベルではなく、介護を要するレベルなのだ。そして、現在の日本は呑気な状況にない。隣の国では砲弾が飛び交うことになった。我々は思い出さねばならない。そう、また、朝鮮半島なのだ。

「9条の会」はよく韓国に行くが、それでも大統領は北朝鮮に「話し合おう!」とは言わない。明日から始まる日米合同演習にも「反対~!」と叫ぶ集団はいるのだろうが、それでも先月、ジョージワシントンはとっくに黄海に向けて出港している。砲撃乱れ飛ぶ戦場で「9条」が馬鹿みたいなのと同じく、支那朝鮮が蠢きだしたこのときに、日本の政治中枢に売国奴がいるという現実こそ、日本の戦後骨抜き政策の堂々たる成果であろう。日本はまた大国のエゴに巻き込まれて国益の一滴まで失うことになるのか。

ならば次が最後、65年前よりも甚大、且つ、致命的なダメージを喰らうことになろう。まさにもう「立てぬ」ように。

2 コメント

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Unknown (karasu)
2010-12-03 07:37:11
今回の件は、不快を通り越しています

ミンスな連中の中には、連合国軍の軍事裁判で纏めて処刑したかったのにできなかった御方がいると、いまだに腹の底で思ってる奴らがいるのではないかなどと、感じてしまいましたね!

学生運動にかまけて、歴史と正対して真面目に勉強してないと、こんな馬鹿ができるんでしょうかね

もっとも、天下国家と大上段に構える以前に、社会人としての常識を持ち合わせていないだけだった!としたら、これはまた酷い話しですね

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Unknown (久代千代太郎)
2010-12-04 22:44:21
>からす さん

たまらんすねー

酷いとは思っていたけど、まさか、これほどとは・・という人も多いでしょうね。

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