忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

DDTとTTPはどう違うか

2011年03月08日 | 過去記事
角界の「八百長問題」から春場所もなくなり、相撲ファンには寂しい季節となったわけだが、私が愛するプロレス界は、ずいぶん前から冬の時代に突入。たまにテレビで格闘技をやっていると思えば、いわゆる「総合格闘技」と呼ばれるものばかりだ。ラリアットもない、ブレーンバスターもない。バックドロップもなければコブラツイストもない。

いまの学校では健康な男子生徒が「プロレスごっこ」もしないのだろうか?と疑問に思い、我が倅に問うと、奴は買ったばかりのスーツに合うネクタイを探しながら、実にあっさりと「ンなこと、誰もしない」と言われた。その前に、そのネクタイの山は全て私のモノだ。なんで私の「勝負ネクタイ」である「赤いシリーズ」を馬鹿にしながら物色しているのか。

罰当たりめが。貴様、その「赤いネクタイ」のお陰で、どれほど我ら家族が救われてきたのかを知らんのか。この父が緊張を伴う仕事の日、気合を入れて挑まねばならぬ会議の日、警察に叱られたあの日、仕事もせずにドラクエに没頭したあの日、夕方から飲み過ぎて眠りこけ、真夜中のパチンコ屋で独り目覚めたあの不思議な日、それらを乗り切ってきたとき、その「赤いネクタイ」はいつも私と共にあったのだ。つまり、貴様の大学進学の費用を捻出した我々「親のがんばり」は、その「赤いネクタイ」に支えられてきたと言っても大袈裟ではない。それをなんだ、ピンクやんかぁ~wとは。罰当たりめが。「好きな色」が黒とピンクのブッチャーに謝れ、と言いたい。

私はこの罰当たりに対し、すかさずバックに回り込んでリバースDDTでも喰らわせてやろうかと思ったが、今の私は橋本真也と同じく、あるいは阪神タイガースのアニキ金本と同じく、右肩が痛いのだった。首まで痛くなった(泣)。

http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110307/mrt11030706350000-n1.htm
<橋本Jr.大地がデビュー 蝶野相手に壮絶ギブアップ>

今朝も美容と健康のため、民主党の批判記事を読もうと産経新聞を(ネットで)開いたら、なんと、あの「破壊王」の息子が蝶野相手にデビューしていた。18歳とのことだ。





<1万人近い超満員のファンの胸を熱くした。亡き父の入場曲「爆勝宣言」で登場した大地は「ハシモト!!」の大コールに包まれた。
 
「緊張はしなかった」と、蝶野へ突進してキックを連発。蹴りを返され、脳天くい打ち2発でグロッギーとなったが、叫びをあげて立ち上がる。最後は締め上げられて無念のタップとなったが、蝶野からは「きょうからがスタートだ。おやじという大きな山を登り切って、自分の山を作れ!」と激励された。解説者席からリングに上がった武藤も「次は俺だ!」と名乗りを上げた。
 
父が死んだ中1の夏から5年8カ月。かつて父が見た同じ景色をリングから見つめ「父が聞いてるか分かりませんが…、やっと僕はここまで来ました」と空へ呼びかけた。父を目指す険しい道のりが今、始まった>







感想はひとこと。





なんて、うらまやしい。





デビューが蝶野で、武藤が「次はオレだ!」である。私なら悶絶して失禁して、焼き肉屋から献金される。それに私は橋本真也が大好きだった。デブは鉢巻をして印を切ると、誰でも破壊王になれたし、デブなのにデンジャラスな雰囲気をまとった橋本真也は魅力的だった。橋本が親日を辞め、新たに起こした団体「ZERO-ONE」は橋本の死去後に「ZERO1-MAX」として生まれ変わり(現在はZERO1)、日本プロレスが行っていた靖国神社での「奉納プロレス」を復活させている。これに支那人が「中国の人々の心が傷つく」などという意味不明のクレームを出したシーンはビデオにもあるはずだ。記憶を頼りに書けば、試合後の橋本に怪しげな支那人が面会し、そこで喚き散らして抗議するも、最終的に橋本真也は「うるせぇ!このやろう!」と一喝する。当初は「あなたは誰ですか?」と冷静に問いかけていた橋本だったが、喚くだけの支那人にキレてしまったのだ(笑)。

それにしても、あの「爆殺キック」は圧倒的だった。一発くらい喰らいたかった。





ちなみに、この写真で蹴られているのは「トニー・ホーム」だ。結局、橋本はシングルで2度やったと思うが、1度も勝てなかった。トニー・ホームはペインキラーと酒を一緒に飲んで頭が狂い、最後は拳銃で自殺したが、格闘サイボーグと呼ばれた彼はリアルに強かった。

こうしてグダグダと書いていると、頭と心が熱くなってくるが、それでも日本の「プロレス人気の低迷」を思うと泣けてくる。理由は「猪木の後に猪木なし」と言われたりもするが、もちろん、アントニオ猪木という存在感は強烈だったものの、その他のレスラーもカッコ良かったのだ。とくに「イケ面」とかでなく、いまみたいに「シュッとした」男前ばかりが派手、且つ、危険な技を披露せずとも、日本のプロレスファンは熱くなれた。

アメリカでは1999年、WWFがニューヨーク証券市場に上場している。いまでもマジソンスクエアガーデンでは数万人規模のプロレス興行が行われる。人気レスラーがサイン会をすると、タイムズスクエアに人だかりが出来る。日本では駅前の「タイムズ」すら埋まらないかもしれないが、アメリカでは相変わらずプロレス人気が高い。

その理由は一つだけだ。「わかりやすい」からだ。WWFのプロレスでは「ブック(試合の演出・結果)」だけではなく「アングル(ストーリ作成・遺恨試合や団体抗争など)」や「ギミック(役付け・悪役など)」も非常にわかりやすい。アントニオ猪木のように「本当に」警察が出てきたり、会社の人間ごと騙してしまう「ブック」はみられない。

だから、アメリカのプロレスには「サダム・フセインの側近」やら「ナチスの残党」やら「旧日本軍」やらが悪役として活躍する。それは今も昔も変わらぬ、アメリカ人の性だ。

ところで、何かの「プロレス本」で読んだ話だが、私の好きな話がある。


その昔「グレート・東郷」というレスラーがいた。当初、アメリカ人からすれば「軍国主義の悪魔」とされた東条英機から「グレート・東条」としていたが、大東亜戦争で日本軍に息子を殺された親の世代がまだ元気な時代だったから、さすがに試合の度に観客から襲われるので「東郷」に変えたという逸話がある。「世界で最もアメリカ人を殺した悪魔の軍隊」のボスの名は客も呼べたが、毎試合後に囲まれて、いつかナイフで刺し殺されてはたまらないとのことだった。

本名はジョージ岡村、日系アメリカ人である。戦後間もないアメリカの反日感情も手伝って、絶大な人気を誇る悪役レスラーだった。168センチ100キロ、いわゆる「あんこ形」の体駆で股引を履き、白人レスラー相手に反則攻撃を行い、相手が怒ったら膝をついて謝るフリをする。アメリカ人はこれを「パールハーバー攻撃」だとして喜んだ。

相手の股間を蹴り、塩を使ったサミング(目潰し)はアメリカ人を怒り狂わせ、その後、白人様の華麗なプロレス技に倒されてしまう「グレート・東郷」のファイトスタイルは、大東亜戦争の勝利に酔うアメリカ人を狂喜させた。試合前にはリングの四隅に塩をまく、という、なにやら適当な儀式をみさせて「日本式の悪魔の呼び出しだ!」とバカな白人らを喜ばせた。

ただでさえ「反日感情」が強い時代、アメリカの日系人団体などからクレームもあったそうだが、それでも「グレート・東郷」はビジネスとして割り切り、アメリカ人の反日を利用して金儲けをしていた。しかし、ある日、とある田舎の会場での試合、いつものように卑怯な反則を行い、怒った白人のテレフォンパンチを受けて膝を折り、華麗なフォール技を受けて派手に負け、いつものようにひと仕事終えて引き上げる際、一人の老女が通路に引き上げるグレート・東郷の頭を傘で叩いた。反日感情丸出しの白人の女性、硫黄島で息子でも串刺しにされた母親かと思いきや、なんとも、その老女も日系アメリカ人だったという。その老女は「恐怖の悪役レスラー」であるグレート・東郷に毅然と言い放った。

「あなたにも日本人の血が流れているのでしょう。負けてもいいですから正々堂々とおやりなさい」

言うまでもなく、アメリカは自由と平等の国ではない。合理主義と拝金主義と差別主義の国である。日本が戦争に負けたあと、米軍として戦った日系アメリカ人の多くも差別を受けた。日系アメリカ人の老女の眼には涙が浮かんでいたという。グレート・東郷は不覚にも「素」に戻ってしまう。移民の子とはいえ、流れる血は大和民族の血である。流血と反則でアメリカンプロレスを席巻したグレート・東郷だったが、「血はリングに咲く花」と残した座右の銘の「血」とは日本人の血であった。

「卑劣なジャップ」として売り出したグレート・東郷は、同じ会場で行われた次の日の試合だけ「岡村一夫」に戻ってしまう。この日は「塩まきの儀式」も行わない。コーナーポストを使って体をほぐし、試合開始からも反則攻撃は一切なし、馬鹿みたいに右手をぐるぐる回して「さあ、オレ様のパンチを受けてみろ!」とする相手の白人レスラーを閃光放つクワガタタックルが襲った。

ボディビルしか知らない対戦相手は面食らった。まったく歯が立たなかった。グレート・東郷こと岡村一夫はその日、いわゆる「セメント(真剣勝負)」をやった。観客は騒然、怒り狂ったプロモーターからは「ブック破り(筋書き通り試合をしないこと)」の咎で干されてしまったが、わかったことは空手の大山倍達、柔道の遠藤幸吉とも交流のある岡村一夫は、白人が侮れるほど弱くなかった、ということだった。




日本のプロレスファンは奥が深い。恐怖の首折り殺法・ウエスタンラリアートで猪木や藤波、鶴田や天竜をぶっ倒すスタン・ハンセンも大好きだが、巡業のバスを降りて日本人選手らに缶ジュースを配るスタン・ハンセンも好きなのだ。リングでは血塗れの抗争を繰り返しながら、オフには家族ぐるみでキャンプに行くプロレスラーが好きだった。プロレスを愛するファンは、そういうこともちゃんと知っていた。だから好きだった。

ハッスルで「ポーク」と呼ばれて愛された橋本真也も、あの日の藤波戦やあの日の小川戦で「ちょっと本気になっちゃった」橋本真也も愛されていた。場外乱闘をするブッチャーにキレて、ホンマに蹴ってしまって叱られて干された橋本真也もそうだった。

橋本大地か。いいじゃないか。ちゃんと喰って、もう少し肉をつけたら良い選手になるはずだ。「受け身」の上手いレスラーになって欲しいものだ。お父さんは、ちょっと下手だった(笑)。


橋本真也: 破壊王 Bakusho Sengen!! RIP 1965-2005




2 コメント

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Unknown (鷹侍)
2011-03-09 00:16:58
橋本の蹴り一撃で死ぬ自信がある私は、プロレスは詳しくないけど同期のあの三人の結束や思い入れのあるエピソードは大好きです。
しかし、武藤は相変わらずかっこええなー。
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Unknown (久代千代太郎)
2011-03-13 10:06:50
>鷹っちゃん


私のリングネームは「ハンマー・山田」だったね。小学校のとき、近所の風呂屋のおっさんがつけてくれた。

あのまま新日本プロレスに入団していたら、私は天山と同じ年だから「三銃士」のすぐ後輩だね。つまり、武藤や蝶野、橋本とも何度も試合できたね。橋本とは「タッグ」組んだかもね。

小川は橋本を引退まで追い込んだけど、そのあと、私にやられているはずなんだ。あの当時の小川の蹴りや突きも問題ないし、柔道技は私には通じないしね。負ける要素がない。

決め技は「パロ・スペシャル」だね。


はっするはっする。

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