忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

忘憂之物 2

2013年06月27日 | 過去記事




江戸末期に日本に来た外国人はいろいろと驚いているが、その中でも食事については不思議だったようだ。なにしろ相撲取りでも肉をあまり喰わない。タンパク質は魚、大豆で十分接種していたし、そこに穀物を合わせ摂るから問題なかったわけだ。

乳酸菌もそう。市販されているヨーグルト500グラムなら「たくあん一枚」で補えた。ただ、外国人にそれを勧めても「塩辛い」としてダメだった。彼らは「ご飯と一緒に」食べることをしない。いわゆる「口内調味」を知らなかった。

先日、テレビを見ているとそれをやっていた。何人かの外国人にハンバーグ定食を喰わせる。すると彼らは一品一品、コースのような順番で食べていく。「ごはん」にはマヨネーズをかけたり、ジャムを載せたりと苦戦していた。

我々はハンバーグを口に入れ、それを咀嚼しながら適量のご飯を合わせて喰う「美味さ」を知る。カツ丼を食べる際も「カツだけ」を先に食べたりしない。どちらが良いかではなく、日本人は太古から「合わせる」のが得意だった。例えば日本語がそうだ。

日本語は漢字と仮名、そこにカタカナが入る。これは世界的に観てもかなりの特殊だが、その所為で日本人は活字を読む際、表意文字と表音文字を同時に読みながら理解する。だから日本人の場合は「ちゃんと読めないけど意味はなんとなくわかる」が可能になる。これは普通、言語における理解というルールでは有り得ない話だ。

また、英語圏では10%の発症率と言われるディスレクシア、いわゆる「難読症」も日本には少ない。もしなった場合でも「漢字は読めないけど仮名は読める」みたいな特殊な事例になる。使っている脳の部分が違うからだ。これが英語だったら全部が読めなくなる。

そういえば朝鮮もそうだ。せっかく総督府がハングルを復活させ、福沢諭吉の弟子だった井上角五郎の尽力も空しく、漢文訓読体は普及しなかった。井上は福沢諭吉が「やめとけ」と止めるのを聞かず、活字職人を連れて朝鮮半島に戻っている。よせばいいのに、だった。

ともかく、日本が「合わせる」とか「受け入れる」という文化なのに対し、アメリカやヨーロッパは「分ける文化」だった。よほど分けるのが好きらしく、職場や学校はもちろん、アメリカでは公園の水飲み場、バスの座席まで分けていた。白人様が「カラード(有色人種)」と一緒の空間にいるなどありえない、というのが彼らの公共心だった。

そんな彼らだったが、さすがに具合が悪いと気付く。色があるかないかで差別、区別していたら、また、日本人みたいなのが「ゼロ」に乗って戦争するかもしれない。ならば日本のように「人類皆兄弟」とすればいいのに、それは彼らの優越感が許さない。だから大学には黒人をこのくらい、無理矢理にでも放り込みましょう、というのをやった。逆差別だ。

人種差別など止めよう、みんな同じ人間じゃないか、というなら日本人みたいに「普通」にすればいい。「違い」だけを認めていれば、わざわざ優遇する必要もない。「分け隔てる」というのは冷遇ばかりのことでもないからだ。

また、少し前から日本でも「女性の管理職の%はどのくらいか」とかやり出した。その数値が高いほど「男女平等」ということらしいが、いまではその数値も義務付けられるとか。福島瑞穂なども「女性の国会議員が少ない」と怒っている。もっと女性の社会進出を、は安倍さんも言ったが、なにもそんなに「分け隔て」しなくても、と思う。

そもそも女性を弱者扱い、というのもどうだろう。企業には障害者を全体の2%雇用しなさい、という努力義務が課されているが、これと同じようなものである。女性は怒るべきだし、実は凄まじいまでのナンセンス、差別感覚が含意されてはいないか。



我妻はもうずっと長年、しっかり仕事して稼いでいるが、古参になりこそすれ、べつに管理職目指して、などいわない。それでもちゃんと向上心もあるし、責任ある仕事を果たしているから、働き先からの信頼度は高いものがある。

妻は店長などの管理業務は「独身の人がやったらいい」とあっさりしたものだ。だって「現場」から仕事に慣れたパート・アルバイト、準社員やらがいなくなったら商品やサービスの質に悪影響する、と断言する。それに自分は「犬の世話」もしたいし、まだ倅も家にいるし、お父さんのことも手がかかる、だから夜中に会議とか困るし、休日に用事もあるし、家の所用がたくさんある。だから「やれない」のだということだが、そんな妻に「もっと社会進出したほうがいい」と言えば阿呆だと思われるだろう。社会とは会社だけではないからだ。

また、外勤が内勤を馬鹿にしたり、営業や製造が経理や総務に対して「もっと会社に参加しろよ」とも言わない。ちゃんとそれぞれに役割があって、そのどれが欠けても「社会の歯車」は円滑に回らないと知るからだ。

日本社会における女性の役割はちゃんとある。また、家事が嫌いとか、旦那のメシ焚くなんて、と言う女性がいれば、一生独身で生きる自由もある。どこのだれも福島瑞穂に「家族解散式」とか、阿呆なことはやめなさいも言わない。田嶋洋子に結婚すれば、も言わない。ちゃんと受け入れて合わせている。そんな人もいるのだと。

それによく注意して社会を観ると、ちゃんとした会社や家なら女性が強いモノだ。巷に溢れるビジネス本の類、パートさんを上手く使う方法みたいな本でも「機嫌を取りましょう」「基本的に褒めましょう」「ときには甘いものを差し入れしましょう」と平然とある。これが出来ていない男性管理職は憂い目に遭うのも決まりだ。彼女らの機嫌を損ねると現場が機能しないからだ。

とある飲食店店長にも聞いたことがある。女性アルバイトの勤務態度などを指導する場合、彼女の仕事が終わってから数十分だけ、店のパフェでも喰わせながら細心の注意を払いつつ行うのだとか。男性アルバイトならその場で「おい、ふざけんな」でお仕舞いだが、客席で人気者の女性アルバイトには気を使うそうだ。16、7歳の小娘でも「恥をかかせたら復讐してくる」という怖い話も聞いた。独特のネットワークを駆使して、どうすれば店と店長が困るかを研究して実行してくるのだそうだ。いまなら「セクハラ」とかもある。私も大いに共感したモノだ。女性は怖いのである。

そして日本人女性は「合わせる」「受け入れる」の天才でもある。ご近所や旦那の親に平気な顔で「合わせる」も可能だし、人生における様々なトラブル、ハプニングも「受け入れて」強く生きる。だから日本の男は武士道だけでよく、白人の男みたいな「ジェントルマン」はいらなかった。白人は過去の長きにおいて女性を差別していたから、いま、レストランのドアを開けて先に入れるとか、ちゃんと優先していますよ、と体現せねばならなかった。

しかし、日本の男は知っていた。彼女ら優遇してあげるべき弱者でもないし、逆差別なんかすれば怒りだすほど誇り高かった。日本の女性は男を「主人」と呼びながらも「亭主なんて女房次第」と斬って捨てていた。私を含む男はそれを喜び、女房がいなければどうなっていたかわからない、と頭を掻いてまた、仕事でもなんでも必死でやる。

実に健全な社会だと思う。支那朝鮮は無理かもしれないが、欧米も真似すればいいのに。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。