忘憂之物

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「あの河野氏だって真榊」 伊吹議長が靖国問題で首相擁護

2013年04月27日 | 過去記事

「あの河野氏だって真榊」 伊吹議長が靖国問題で首相擁護

<伊吹文明衆院議長は25日、出身派閥の自民党二階派の会合に出席し、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領有権を中国が主張していることを念頭に「領土とか国益の問題がぶつかるから、媚中派の人たちに中国との交渉を任せてはダメだ」と述べた。中国との太いパイプを持つ二階俊博総務会長代行の名前を挙げ「大いに期待する」とも述べた。

 伊吹氏は議長として春の例大祭にあわせ靖国神社に真榊を奉納したが、「真榊を出したから中国や韓国が反発したということはない。あの河野洋平元衆院議長も真榊を奉納したが、韓国や中国は非常に親近感を持っている」と強調した。

 安倍晋三首相が24日に、中韓両国とも、いわゆるA級戦犯が合祀(ごうし)されたときの首相参拝に抗議していなかったと指摘したことについては「首相は当然の答弁をした」と語った。

 伊吹氏は会合で、24日付の産経新聞に掲載された「憲法議論 政党は逃げるな」との自身のインタビュー記事のコピーを配布。「しっかり読んでおいてもらいたい」と求めた>






まったく季節外れだが―――「鏡餅」というのは文字通り「鏡」を表す。なんの鏡かというと、これはもちろん「八咫鏡」だ。上に橙を乗せる。あれが「八尺瓊勾玉」。串柿は「天叢雲剣」になる。これで「三種の神器」が揃うわけだ。

「門松」も「正月飾り」の意味だけではなく、元々は「歳神の依代(よりしろ)」と呼ばれる神様の休憩所みたいなモノだが、今の日本人はこれらを知らずとも、年末になると「門松」はともかく「鏡餅」は買ってくる。とはいえ、普通の日本人なら市役所や商店街にある「門松」に「なにこれ?」もない。詳しく説明はできなくとも、門松は門松だとわかる。つまり、普通の大人は知っている。

テレビでも「これは門松と呼ばれるモノです」とかやらない。たぶん、やるのは「外国のテレビ」になる。だから安倍総理が靖国神社に奉納した「真榊」も、日本のメディアがいくら靖国を嫌いでも「安倍内閣の閣僚3人が靖国神社に参拝しました。安倍総理は真榊を奉納しました」と報じる。もちろん、これも「五色絹の幟の先端に榊を立てて~」とか説明はしない。真榊は真榊、そんなことは河野洋平でも知っている。

でもNHKをみていたら驚いた。アナウンサーは<安倍総理大臣が「真榊」と呼ばれる、鉢植えの供え物を奉納したことについて>と言った。これは日本人視聴者相手に「安倍総理は官邸に『鏡餅』と呼ばれる、餅を重ねたモノを置いたそうです」と言うに等しい。相手は日本人だ。「鏡餅を置いた」「真榊を奉納した」でわかる。妙な付け足しはいらない。また、知らない日本人がいれば調べるか人に聞く。少なくとも当たり前を「知らない」ままにしない。いらぬ気遣いというか、NHKの「知らなくて普通」の感覚が不気味だ。

そしてこのあと、やっぱり<韓国外務省は>と続く。<これに抗議する論評を発表し外相の訪日も止めました>とか。もちろん、支那も忘れない。ちゃんと丁寧に<また、中国も外交ルートを通じて日本に抗議したことを明らかにしました>と付け加える。要するに「真榊を説明せねばならない相手」を意識して報道している。

その筆頭が朝日新聞だ。社説も<靖国問題―なぜ火種をまくのか>とイラついている。その所為で韓国外相が訪日を止めた、北京も怒ってると紹介して、日本はいま、中国と韓国と緊張関係にある、それに安倍総理は<大局的な観点から関係を進める>と言ったじゃないか、とヒステリーを起こす。それを馬鹿民主党の議員とかコメンテーターが読み、そのまま社会で口にして恥をかく。

朝日社説の癇癪は収まらず<それを、靖国問題でことを荒立てるのでは、方向が逆ではないか>と叱りつける。一読、普通の読者は脊髄反射で「荒立ててるのはどっちだ」となる。いわゆる「靖国問題」で発作的に反応して「冷静さを欠く」対応をしているのはどちらか。

朝日は<高い支持率で、緊張感が薄れているのではないか。閣僚の言動も含め、自制を求めたい>と真上からの皮肉で〆るが、自制を求められるのは支那朝鮮側であると、民主党支持者以外は知っている。

「冷静ではない」というのは、例えば米韓軍の合同開催で行われる「親善コンサート」で「独島はわれらの土地」を演奏しようとして、びっくりした米軍が演奏を辞退するようなことをいう。国家間同士の問題をして意図的に他国を巻き込む。こういうのに対して「冷静になれ」とか「自制しなさい」と言うのが大新聞の常識かと思う。

そういえば民主党の馬鹿議員も参院予算委員会で「靖国参拝の所為で尖閣諸島に不法侵入された」みたいなトンデモ論を述べていた。これも今までの「メディアの論調」そのままだ。大阪の剛腕市長も<敬意を表する問題と外交の問題はきちっと分けなければならない>とコメントした。要するに「外交的配慮は必要」というスタンス、それからやはり「日本=加害者」という観点からの発言だった。「ボロが出た」と批判する声もあるが、これはそういう問題でもない。民主党の原口と同じく、元来、その場その場でスタンスをくるくる変えられる、つまりトリックスターなのだ。がっかりした、という人は「騙されていた」だけだ。橋下にではなく自分に「がっかり」したほうがいい。ま、気をつけたい。

それにしても未だ、日本の国会で「靖国参拝の是非」が問われるこの異常状態だ。支那朝鮮が騒ぐのは勝手だ。国際社会から馬鹿にされるのも勝手だし、いつまでも三流国なのも勝手にすればよろしい。つまり、先日の衆院予算委員会における西村眞悟議員の「ほっとったらいいんです」には噴き出したが、それはあまりにも正論過ぎたからだった。

理屈からすれば日本の国会、つまり1952年12月9日に行われた第15回国会、衆議院において「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が提出されて賛成多数で可決されている。もう日本に戦犯はいません、abcもヘチマも関係ありません、と日本の国会が決めている。100歩譲ってもいま、靖国神社に祀られている英霊に戦犯はいない。それを日本の国会議員が税金を食みながら国会でやる。「外交問題になりますよ」と質問することで外交問題化させている。西村氏の言う「(外交問題は)日本国内でなっとるんです」だ。

日本は戦後、ちゃんと「戦争指導者」の免罪もした。「敗戦国」として「戦勝国」と交渉もした。「主権」は7年ほど奪われたが「国家」として機能していた。これはドイツと違う。

ドイツはナチス政府がなかった。先の大戦でナチス・ドイツ軍はボロボロにされた。フランクリン・ルーズベルトは「無条件降伏」を迫った。ヒトラーはこれを拒否する。ゲルマン人を全員殺されても屈しない、という他なかった。「無条件で国を差し上げる」などあり得ないからだ。ナチス・ドイツは「国として」敗北はしていない。つまり「敗北する政府」がなかった。ナチス・ドイツの場合は戦亡、いわゆる「デベラチオ」になる。戦争の結果、それまでのドイツが「亡くなった」。政府が滅んだのだ。戦争責任やら賠償責任を負う政府がない。だから連合国は仕方なく「市役所」と交渉スタートさせている。敗戦を決定する政府がない。各種取り決めを行う機関がない。決定するシステムがない。そんな混乱と無秩序の中、ソ連は相変わらず、火事場泥棒と強姦をやった。いまのうちに、ということだ。

日本がポツダム宣言とか、最終的に「国体護持」を勝ち取れたのは偶然ではない。戦勝国の「武士の情け」ではない。欧米列強は日本を許す気など毛頭なかった。白人様に対して「差別するな」とか言ってくる、いちばん危ない連中だ。しかも白人じゃない。だから冗談ではなく根絶やしにするつもりだった。しかし日本はちゃんと「交渉」をした。悲惨ではあったが「負け方」を考えることもできた。この真因はなにか。

もちろん、フランクリンが死んだ所為もあろうが、それだけでは決してない。例えば「万歳突撃」。これも戦後左翼は馬鹿にするが、真似できるか?と問うてみたい。これほど理不尽な命令を守り、本当に敵の弾の中、向かって行くことができるのか。これは「やらない」の前に「できない」のである。だって確実に死ぬ。死ぬための命令だ。なぜ、当時の日本兵はそれでも、逃げも隠れもせず、上官を殺して投降するわけでもなく、唯々諾々と命令に従って死んでいったか。左に巻いた頭と心からは「狂信的な天皇崇拝者だったから」とか「洗脳されていた」とか言うんだろう。ちょっと賢い左翼は「イスラムのテロと同じく」とか分析するかもしれない。しかし、そんなのとは決定的に違うと言い切れる。

アメリカは「神風特攻隊」で精神を病む前、この「万歳突撃」に震え上がった。理解不能なのだ。「命を粗末に・・・」など誰でも言える。要するに「本気でやれるかどうか」だ。この「本気」がまさに眼前にいた。昨日、近代的な砲撃戦をした同じ軍隊が、今日は「とつげき」と叫んで斬りかかってくる。支那兵みたいに鎖で足枷されてもいない。逃亡兵を殺す「督戦隊」もいない。ナチス・ドイツでも武装親衛隊や指導将校がいた。逃げる兵は「敵前逃亡」として殺してもよかった。ソ連には「スメルシ」があった。これはソ連の督戦隊だ。

じゃあ米軍は日本軍と同じく、人道的かといえば、そこはさすが、アメリカはフィリピン人でやる。要所に機関銃を持たせたフィリピン人を木に縛り付けて置いた。イギリスはインド人でやった。やってることは毛沢東と同じだが、自国民でやるだけ毛沢東もスターリンもマシだった。つまり「日本軍が人命軽視」はもう、馬鹿みたいだから止めたほうがいい。本物の「人命軽視」とは次元が違う。

悪名高い「憲法9条」だが、見方を変えると、これは半分だけ「押し付けられた」。もう半分はアメリカが米兵に血を流させてでも「日本は軍を持つな」としたかった。要するに怖かった。イヤだった。また、こんなのと喧嘩するのは御免だった。

戦後、日本の経済的復興は目覚ましいどころではなかったが、良いか悪いかはともかく、この要因として「軍備に金を使わずに済んだ」は歴然としてある。あくまでも結果として、だ。また、戦後長らく米軍の睨みを利用して、自分はさっさと奇跡の経済成長。いま、まだ軍隊もないのに「2012年の軍事力世界ランキング」ベスト10入り(9位)とか、ちょっと憲法さわったらどうなるかわからない。つまり、平和平和と知らん顔、どっぷりと金や技術を溜めこんでから「国防軍にします」とか、周辺の反日国家がぴりぴりするのも無理はない。しかも友人がまだ、いまのところ「世界最強の軍隊」を持つアメリカ。これはロシアや支那からすればイヤだ。


そして、忘れてはならないのが、今の日本の繁栄を築きあげた英霊だ。あの「万歳突撃」で敵は震え上がった。「神風特攻」に心底凍りついた。それが先帝陛下の一声でぴたりと武装解除する。日本はここに交渉の余地を得て国体護持を勝ち取った。連合軍、とくにアメリカはその「秩序」こそを恐れた。権力しか知らなかった白人が、はじめて権威にふれた瞬間だった。脅威に感じ、そして感動もした。

また同時に日本は尊敬も得た。世界各国の日本を讃える言葉は枚挙に遑ない。浅薄な連中は「自爆テロ」と同じにしたがるが、単純明快な「恐怖・テロル」ではない。特攻隊はボストンマラソンを襲わない。無防備な無辜の民を犠牲にしない。万歳突撃は機銃の雨の中、神風特攻は砲弾が飛び交う敵艦だった。自分よりも圧倒的な戦力に対して鬼神と化した。だからこそ「畏れ」られた。



正月、日本人の家庭で「鏡餅」を飾るように、日本の政治家は靖国神社に参拝せねばならない。とくに総理大臣をはじめとする閣僚は必ず、春と秋、それから4月28日や8月15日にも参拝せねばならない。それはその日、靖国神社に参拝できない日本人のためにも、だ。時の政府与党とは「国家の代表」である。政治家とは「国民の代表」である。参拝すべき日、何らかの都合で靖国まで行けぬ国民は、最寄りの神社か神棚に二拝二拍手一拝かもしれないが、国家の代表者はきちんと参ってもらわねば困る。

安倍政権に戦々恐々の支那朝鮮はこれからも騒ぐだろうし、日本国内の反日メディアもネガティブキャンペーンを開始するだろうが、たぶん、今回の第二次安倍政権には通じない。

もういい加減、当たり前のことを当たり前にできる日本になるようだ。嬉しいとか、喜ばしいとかじゃなく、とりあえず、ひとつだけでも「普通」に戻る。だから河野洋平は真榊なんぞ奉納せんでもよろしい。英霊が「嫌がらせか」と思う。




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