忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2011.12.9

2011年12月09日 | 過去記事
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111204-00000848-yom-soci
<終末期の人工栄養補給、中止可能に…学会指針案>

<高齢者の終末期における胃ろうなどの人工的水分・栄養補給は、延命が期待できても、本人の生き方や価値観に沿わない場合は控えたり、中止したりできるとする医療・介護従事者向けの指針案が4日、東京大学(東京・文京区)で開かれた日本老年医学会のシンポジウムで発表された。

 近年、口で食べられない高齢者に胃に管で栄養を送る胃ろうが普及し、認知症末期の寝たきり患者でも何年も生きられる例が増えた反面、そのような延命が必ずしも本人のためになっていないとの声が介護現場を中心に増えている。

 そこで、同学会内の作業部会(代表・甲斐一郎東大教授)が試案を作成した。広く意見を募って修正し、来年夏までには同学会の指針としてまとめるという>



<私は、私の傷病が不治であり、かつ死が迫っていたり、生命維持措置無しでは生存できない状態に陥った場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。したがって、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります―――>日本尊厳死協会に記載されている「尊厳死の宣言書(リビング・ウイル・Living Will)」の冒頭だ。

昔の人はよく「畳の上で死にたい」ということを言った。人間はもうダメ、死ぬ、となったとき脱水状態になる。水分と一緒に失われるのは塩分、カリウムなどの電解質(イオン)だ。人間の体は水分だけを補給し続けると、血液が必要以上に薄まることになるから、ある程度になれば体が拒絶する。これが酷くなると、脱水状態なのに水分補給を受け付けない、という状態になる。生理的脱水状態だ。病気や老化、あるいは両方で布団の中で寝たきりになり、徐々に、ある意味、順調に頗る弱り果てて行くと、人間の体は飢えも感じないし、苦痛も感じなくなる。いわゆる「眠るように逝った」という羨ましい状態だ。

この状態の人間に対し、人為的に皮膚と胃に穴をあけて「瘻孔」を作成、そこにチューブを差し込んで栄養と水分を流し込む。「胃瘻(胃ろう)」だ。これをされると、人間の体は最後の最後まで「死ねない」ことを意味する。著作名は失念したが、何かの関連本では「飛行機が墜落するように」と書かれていた。布団の中で徐々に「高度」「速度」を下げて「着陸」するように死ぬはずだったが、腹に直接水分、ナトリウムやカリウム、ブドウ糖溶液、高カロリーの栄養剤を流し込まれるから、人間は高度を保ったまま「墜落」するように終わることになる。最後の最後まで感覚が残る。痛いし、苦しいし、辛いまま、だ。

私も仕事柄、「終わって行く命」を見届けることがある。畳の上ではないが、ベッドの上で眠るように逝く人もいる。明け方、見回りしていて、眠っているお婆さんの頬に触れたとき、伝わってくる体温が尋常ではないことがある。検温すると30度近くしかない。血圧は下がり、脈拍は静かになる。心臓マッサージもする。同時に然るべき連絡義務を果たすが、そのお婆さんは眠ったまま、朝までには旅立って行った。カチカチだった体はほぐれ、膝も腰も伸びる。奇妙な言い方だが、体全体がリラックスしている。表情は穏やか、まさに「眠って」いるようだった。

起きている状態の人もいた。呼吸が大きく荒くなる。いわゆる「ターミナルケア」のお婆さんだった。各種確認のため医師は来るが、とくに延命はしない。痰の吸引やら酸素吸入くらいだ。我々は何人かでベッドを囲み、頭を撫でたり、手を握ったり、声をかけたりしながら、呼吸が弱く、そして消えていくのを見守る。しばらくすると、その人も静かに、安らかに、ほっとしたような表情で眠った。

施設には「胃瘻」の人もいる。もう何年も「生きて」いる。呻き声を上げ、明らかなる苦悶の表情のまま「生きて」いる。その介護や看護をする職員の意見は共通している。



―――――――「ああまでして生きたくはない」



「胃瘻」は「第二の口」とも言われる。とんでもない。歯もなければ舌もない。アレは「穴」だ。それも意思疎通が不可能、というレベルではなく、もはや、意識不明という状態の人もいる。しかし、確実に生きている。体温もあれば脈拍もある。大小便はするし風邪も引く。家族は月に何度か面会に来る。わずかな時間、お爺ちゃん、とか、お婆ちゃん、と声をかけて帰って行く。また来るよ、と言葉を残して。


私なら、もう勘弁してください、となる。だから、いまの内に妻にも倅にも頼んである。絶対に延命治療だけは勘弁してくれ、余計なことはせず、死を受け入れてくれ、私はちゃんと「虹の橋」でウサギとカナリア、カメとハムスター、それに昔飼っていたコリー犬や雑種の雌犬と一緒に待っている。先に行った婆ちゃんやツレと一緒に、草原の真ん中でバーベキューの用意をして待っている。先にちょっと、ビールくらいは開けて飲んでいるかもしれないが、肉を焼くのは家族が揃ってからにする。だから頼むと。

こういうことは自分で決めておく他ない。そして、それを尊重すべきである。家族とはいえ「死なせてやってください」は恐ろしくて言い難い。だから医師に勧められるまま「胃瘻」を行う高齢者は全国で40万人もいる。驚くのは誤嚥の危険がある、という理由で胃瘻にしてしまう場合があることだ。医療というものは何より生命を重んじる。「活発だが危険で短命」なら「寝たきりだが安全で長生き」を優先させる。口からメシを喰えていた高齢者が、誤嚥性肺炎などで入院して戻れば「胃瘻」にされていることがある。明らかに弱る。なんというか、専門的なことはともかく、命として細る。

たしかに誤嚥は怖い。介護する側からしても、とても怖い。だから時間も手間もかける。点滴のようにぽたぽたと勝手に流れる胃瘻はリスクが少ない。それに楽だ。決まった時間に白湯を流し込み、決まった量の栄養液を流し込むだけだ。事故も少ない。しかし、もはや、口からプリンが喰えない。食の細る末期の高齢者でも、メシは喰わなくとも、プリンやゼリーは口が動くことがある。甘いモノ、は最後の最後、いや、最初から最後まで人が「美味い」と感じる類の喰いモノなのかもしれない。


先日、施設でホットケーキを焼いた。イベントに燃える青年職員がホットプレートを用意し、厨房の職員が3名ほど、夕方の段取りを変更してまで付き合っていた。企画書には「ひとり1枚」とあった。小さめのホットケーキを焼くのだが、相手は高齢者、それも全員が何らかの病気だったりするから、それほど喰えないだろうということだった。結局、なぜだか私がぜんぶ焼かされた。厨房のおばさんから「明日からおいで」と言われるほど、見事な手つきで同じ大きさのホットケーキを量産したからだ。ジジババらはひとり1枚、を嘲笑うかのように喰っていた。ンなもん、足りるかい。生クリームや粒あん、ハチミツやチョコレートを用意して、バリエーション豊かにすれば、おかわり、こっちももう1枚、ちょっと隣の人の分は喰ってはダメだろと、これがまあ、大盛況だった。

ターミナルケアのお婆さんも1枚喰った。細かく、本当に細かく切ったものだったが、これをミキサーにかけるかどうか、という看護師に頼み、小さく少しずつだから様子を見てあげてください、とイベント青年が頼んでいた。せっかくですから、とのことだった。

自宅から「たいやき機」を持参した職員もいた。コレも私が焼かされる。汗を流しながら焼いた。イベント青年も片づけやらなんやらで大変だ。厨房の人らも時計を見ながら、慌てて引き返して行った。つまり、全員が職務外の仕事だった。本来なら、ヒマならヒマでやることもあるし、気が向かねば知らぬ顔して仕事しているふりも出来る。事実、いままではそうだった。しかし、職員らが何人か、それに看護師などが協力すれば、簡単だがそれくらいはできる。だからチューブを穴から突き刺す前に、家族はもう少しだけ考えてあげてほしい。お医者さんが悪いのではない。医者は「病気ではない状態」を維持するのが無理なら「死んでいない状態」を保つのが仕事なのである。その道のプロなのだ。


最近、妻の知り合いが舌癌で全切除した。60代男性、料理人だ。しかし、もう喰えない、どころか話すことも出来ない。携帯電話も持っていなかった男性だったが、そういう事情だから携帯メールを今更覚えた。妻にメールが来る。そこには「切らねば良かった」という後悔が綴られているという。そして恐れていた通り、癌細胞はリンパ液や血液を流れて全身に転移もしていた。末期癌だ。中でも舌癌は他の臓器の癌と比して転移しやすいことも既知だった。可能性は低くなかった。それでも男性の妻も切除を受け入れた。完治して欲しい、喰えなくとも、話せなくとも、長生きして欲しいと、わずかな希望に賭けた。

「どうせ死ぬなら、美味いモノ喰って、最後まで話せるほうが良かった」

と嘆いてみても、もう、口の下半分が効かない。それは結果論だ。また、医師から病名を告げられ、自宅療養しているということは、余命半年を切っている可能性が高い。残酷な結果だが、コレはある意味、仕方がない。誰でもあと十数年以上生きることができる(かもしれない)ならば、少々のリスクは天秤にかからない。もしダメなら・・・などとは思えない。男性の妻が覚悟を決めたのも理解出来る。そして、その結果に対する後悔の念も。



人類は様々な病気を克服してきた。死に至る病を打倒してきた。その結果、日本は世界でトップの長寿国となり、世界で最も早く「超少子高齢化」を体験せねばならない国となった。脳梗塞は死ぬ他なかった時代から、例え半身が麻痺しても、あるいは「息をしているだけの状態」であっても、絶命、死亡は免れる時代になった。様々な病の予防も発達し、医療を受ける際における一連の行動も、手続きも、手段も、困難や煩雑から逃れ、世界で最も貧富の差なく平等に治療してもらえる国となった。その代わり、日本を代表とする長寿国には例外なく、認知症という新たな問題も出現し始めてしばらく経つ。

命を持て余す、と言えば反論もあろうが、重要なことは健康体のとき、若いとき、意思表示が可能な状態なとき、様々な判断が可能な明朗なとき、人は誰も「チューブに繋がれて寝ているだけの状態」を望まない、ということだ。少なくとも、私の周囲でそういう意見は聞いたことがない。老年期の入り口で重度の認知症を患い、これから20年も30年も「生きて行かねばならない」という事実は、決して「長生きしたい」という条件付きの願望を果たすものではなく、ある意味では「生命至上主義」に対する痛恨極まる皮肉でもある。

悪戯に「命だけが大事」としてきた大いなる矛盾は、いま、その「いのち」に喰い潰されようとしている。医療がさらに発達して、人間が寝た切りのまま数十年「死なない」という時代が来れば(10年以上は実現している)、地球上は「人間の命」で溢れかえる。また、世界には人類普遍の価値観、ヒューマニズムの根源である「命は平等」「命の重さは同じ」が真っ赤なウソだと教えてくれる国もある。支那のように漢民族(共産党員は更に優先される)の命が優先される国もあれば、アメリカのような金持ちが優先される国もある。北朝鮮などはもっと露骨だ。偉大なる将軍様の家系は多くの人民の命と比べられはしない。

死を自覚し、それを受け入れることができる生物は人間だけだ。だから「尊厳死」という。自分自身が自分の命に責任を持って、もういいよ、ありがとう、と「死を決定」する。老衰であれ病死であれ、ある日突然、日常の空間から「眠るように」逝く人はそれでよい。それが50歳でも80歳でも、100歳でも150歳でもいい。それは天寿というものだ。しかし、非日常の中(高齢者施設は日常生活の場である)、自らの意思表示が不可能なまま、生命の与奪を他者に依存したまま「眠るように」眠っているのは残酷に過ぎる。その証左に誰も羨望しない。誰も望まない。誰も希求しない。

そして、おそらく、この難題に解決策はない。人類が全て「尊厳死協会」の会員になるわけもない。これからも延命治療は発達するし、ピーナツの皮から抽出した成分から認知症の進行を緩和する薬も開発された。つまり、人類はいずれ、認知症も克服するかもしれない。皮肉なモノだ。様々な困難を乗り越え、克服してきた人類の繁栄を阻害する最終的な要因は人類の繁栄となるのかもしれない。しかし、それもまた自然の摂理、シーシェパードが「クジラの命」だけを喧伝して金を稼ぐのが愚かなように、人類は人類の命だけを優先させてきたツケが回るのかもしれない。だからせめて、私個人は延命治療を拒否するし、死ねば臓器でも角膜でも切り取って良い、と意識明朗なうちに公言しておくのである。


2 コメント

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Unknown (あきぼん)
2011-12-16 23:21:31
尊厳死・・深いですね
貴殿の様に直面している現場での発言は
リアルですね・・・

私も入院生活で生きると言うことは少し
考えたことが有ります


以下は超個人的意見です

私は例の事故で
痛みで目覚めて痛みで気を失う・・・・

手首につながっている
ボタンを押したら何だかわからない
薬が体に回ってまた気を失うという
生活を何カ月か繰り返しました。

この痛みから解放されるなら
殺してほしいと正直思いましたし、
嫁にも言いました・・
ですがあの怪我で
自分は自分だけの物では無いということにも気付かされました。

自分が生きることを誰かが望むなら、
辛くても悲しくても
自分は生きなければならないと・・・
自分は自分の為だけに
生命を維持しているのは
は生きているとは言えなく

自分は他人の為に生き、
他人の為に死ぬべくして生かされていると言うことが生きると言うことと・・・

ですので私が老人になって、ベットに寝たきりになって、体中パイプが刺さって二度と目覚めなくても、貴様がたまに見に来てくれたり・・
嫁がそれでも私に生きていてほしいと思ってくれたら私は生きていきますw

まぁ貴殿の様にモノが書けないのと
女の子を口説く以外の口が下手なので
うまくは言えないですが
今度ベロベロに酔っぱらった私の話につきあって下さいw


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Unknown (久代千代太郎)
2011-12-28 18:37:22
>あきぼん殿

ですな。久しぶりに差しで飲りますか。

年明けでも。
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