忘憂之物

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             渋沢栄一

「日英の深い友情さらに」 両陛下、復興支援者に感謝のお言葉(産経新聞)>2012.5.20

2012年05月20日 | 過去記事

    



「日英の深い友情さらに」 両陛下、復興支援者に感謝のお言葉(産経新聞) - goo ニュース


< 【ロンドン=芦川雄大】英国を訪問中の天皇、皇后両陛下は、東日本大震災で被災地を支援してくれた人々に対し、感謝の思いを伝えられた。17日午後(日本時間18日未明)の日本大使館。陛下は英語でお言葉を述べられた。

 「皆さんの思いやりあふれ、実効性に優れた救援活動は、これまで日英両国民の間で長きにわたって育まれてきた深い友情を、さらに強めるものであったことと感じております」

 集まったのは、日本で救援活動に関わった人たちのほか、復興祈念のイベントを開催した団体や芸術家、寄付を募った企業の関係者ら約100人。岩手県などで緊急援助隊活動を行ったハートフォードシャー消防救助当局の首席消防官、ロイ・ウィルシャーさん(49)は両陛下から「ありがとう。あなたたちのおかげで早く復興することができ、感謝している」と声をかけられた。

 人気ファッションブランドのデザイナー、ポール・スミスさんは震災直後に来日して被害を目にし、動画投稿サイト「ユー・チューブ」などで被災者を励ましたほか、Tシャツの売り上げを義援金に充てるなどしてきた。陛下は謝意を示され、スミスさんは陛下の手術後間もない訪英に感謝。陛下の印象を「美しいスマイルだった」と語った>





昭和17年3月1日。インドネシア沖海戦にて同日一三一〇(午後一時三〇分)。日本海軍駆逐艦「雷」は英国海軍重巡洋艦「エクゼター」に対し101発の連続猛射を仕掛ける。巨大な水柱が上がる。エクゼターは機関室、及び、缶室に被弾。「雷」の艦内放送では「沈みゆく敵艦に敬礼」の声が響く。エクゼターは艦尾から静かに沈んでいく。

その少し前、エクゼターの艦内では士官が兵士に告げていた(当事者の証言)。

「万が一のときは日本艦のほうに泳げ。必ず救助してくれる」

「雷」はそのまま、単艦で英国の駆逐艦「エンカウンター」や米国駆逐艦「ポープ」と一戦交えるはずだったが、続いて艦内に響いた命令は「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」だった。英国海軍士官だったグレム・アレン氏やピーター・アンソン氏は、救助のために迫ってくる「雷」のマルチ機銃が目に入った。「機銃掃射がくる・・・」と覚悟を決める。それが普通のことだった。しかし、甲板に上がった英国兵には機銃掃射の代わりにミルクと乾パンが振舞われた。「雷」は午後5時まで必死の救助活動を行い、捕虜としてパンジェルマシンに届けた。拷問でもされるのかと怯えていたら、そのままオランダの病院船に乗せてくれた。

同日の午後2時には「エンカウンター」も沈没していた。海に放り出されたのは戦後、日本にも来て「日英友好に役立ちたい」と言った元英国海軍士官サミュエル・フォール氏など400名以上の英国兵士だった(救助されたのは422名)。エクゼターのときは沈没後、すぐに救助されているから重油に塗れることもなかったが、このときは夜が明けてしまうわけだ。ほとんどの兵士は重油により目が見えなくなっていた。食料もなく飲料水もなく、浮船に数名単位で掴まりながら、海面から首だけ出して絶望していた。

連合艦隊の船は見えない。陸地からは150カイリ以上離れている。オランダの飛行艇が来るだろうと期待したが、そのころのオランダ軍は日本軍に蹴散らされてそれどころではなかった。フォール氏が死を覚悟し「これで祖父に会える」と思っていた同年3月2日午後2時頃、ビリントン島東南70キロの地点で反転する日本海軍の駆逐艦があった。「雷」だ。

「雷」はパンジェルマシン付近で行動する主力部隊に合流するため進路を変更していた。午前9時50分。反転してから112カイリほど航走した「雷」の左舷二番見張りの持つ「固定12センチ双眼望遠鏡」に「何か」が見える。二番見張りは「左三〇度、距離八〇〇〇、浮遊物発見」を報告する。工藤艦長は味方艦船が敵潜水艦に撃沈された直後かと察し、艦内に「総員戦闘用意」を令する。続いて二番見張りが「浮遊物は漂流中の敵兵らしき」と報告、更に続いて四番見張りが「漂流者四〇〇以上」を報告、工藤艦長は「潜望鏡を確認せよ」と見張りと探信員に再確認させる。

「探信儀異常なし」「敵潜水艦なし」を聞いた工藤艦長は逡巡する。そのとき工藤艦長の頭の中には父親が歌っていた「上村将軍」が浮かぶ。明治38年の軍歌、3番の歌詞だ。


蔚山沖(うるさんおき)の雲晴れて
勝ち誇りたる追撃に
艦隊勇み帰る時
身を沈め行くリューリック
恨(うら)みは深き敵なれど
捨てなば死せん彼等なり
英雄の腸(はらわた)ちぎれけん
「救助」と君は叫びけり
折しも起(おこ)る軍楽の
響きと共に永久(とこしえ)に
高きは君の功(いさお)なり
匂うは君の誉(ほま)れなり



昭和17年3月2日午前10時。工藤艦長の「救助!!」の声が響く。

午前10時10分。フォール氏から距離200ヤード地点(約180メートル)に「雷」がみえる。漂流している仲間は軍医に「自殺用の薬をくれ」と言い始めていた。赤道の真上、重油に汚れた兵隊は限界だった。しかし、フォール氏もやはり「銃撃される」と恐怖する。その瞬間だった。「雷」のマストには「国際信号旗」が上がった。「只今救難活動中」だ。

これがどのくらいの「決断」か。

この日、この海域では輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受けて沈没、工藤艦長の兵学校時代の教官が戦死している。言うまでもなく、ここは激戦海域であった。この勇敢なる英雄的行為が「武士道精神」でなくなんだというのか。これを誇らず何を誇るのか。

戦闘詳報で「敵潜水艦合計7隻撃沈」と残される危険海域のど真ん中、工藤艦長は日本海軍史上、極めて異例中の異例の号令をかける。「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」。

戦場の真ん中で武装を解いて敵兵を救助せよ、ということだ。「戦後平和教育」とやらをするなら、こういう話をしたほうがよろしい。結果、残した一番砲も敵兵重症者のために「日よけの天幕」を張ったがために使用不可能となっている。丸裸になったわけだ。

「雷」は「自力で上がれる者」を優先して引き上げようとするも、さすがは騎士道精神の国である。彼らはそれを断り、秩序を保ったまま、先ずは艦長、そのあと負傷兵、高級将校、下士官、青年士官と続いた。彼らは甲板に上がると敬礼した。

しかし、その状況は困難を極めた。浮遊木材にしがみついた英国兵士は必死で泳ぎ、ようやく「雷」の日本兵が差し出した竹竿に触れると力尽き、次々と海面に浮かんだ。日本兵は涙声で「がんばれ」「あと少しだ」を叫んだ。声を枯らして叫んだ。

突然、二番砲塔の斎藤光一等水兵が海に飛び込んだ。この秋田県出身の日本兵は独断で海に飛び込み、立ち泳ぎしながら英国兵をロープに掴まらせた。先任下士官が怒号を発する。「貴様、命令違反だ、海に入るな!」この言葉を合図に次々と日本兵は海に飛び込んだ。「貴様ら飛び込むなよ、絶対に飛び込んで溺れている敵兵を竹竿に、ロープに掴まらせると承知せんぞ」というダチョウ倶楽部よろしく、日本兵、いや日本人は汚物と重油で汚染されている危険な海に自ら飛び込んだのである。これが我々の父、祖父なのである。

救助された英国兵士には食糧と飲料水が配られる。貴重な真水は3トンが消えた。日本の駆逐艦には「造水装置」が積まれていた。真水はコレで作るわけだが、当然、これはガソリンで動く。だから日本兵は洗顔、飲料水には細心の注意をして節約していた。「石油の一滴は血の一滴」の時代だ。それを惜しげもなくじゃぶじゃぶ使って敵兵を洗う。それから日本兵は敵兵の体をボロ布とアルコールで清拭した。フォール氏は籐椅子に座って熱いミルク、ビスケットで接待されて、自分の手の甲をつねっている。さっきまで自分は地獄にいた。やはり、コレは夢ではないかと信じられなかった。そこに艦橋から工藤俊作艦長が降りてくる。びしっと敬礼した後、工藤艦長はあの有名な挨拶をする。

「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」

英国兵士は配られた乾パンの箱を全員で回し、必要な分だけ取ると残りを日本側に返している。ゲストの名に恥じない紳士ぶりだが、これが米兵となると話が変わってくる。

このように「歴史的美談」とされる「雷」の救助劇だが、実はこのあとになる3月3日、またまたパンジェルマシンで偉そうなオランダの病院船「オプテンノート号」に捕虜を下ろし、補給を受けて出撃するわけだが、このとき1日に撃沈された米海軍駆逐艦「ポープ」の乗組員が発見される。見張りはまた「浮遊物発見」を報告、昨日と同じことが繰り返される。違ったのは兵隊の質だった。

フジツボで足を切ったらしき米兵がいたので、日本兵がマーキュロを塗ってやる。米兵はサンキューもなく、薬の瓶ごとひったくる。水を出せ、食料を出せ、となぜだか上から目線を崩さない。日本兵が、あんたら、いつまでもゴムボートに乗ってないで「雷」に移乗せよ、と言っても拒否してくる。それじゃあ放っておくかとなれば、駆逐艦でボートを引っ張れとか指示してくる。駆逐艦でボートを引っ張れば紐が切れる、それに減速すればスクリューに巻き込まれる。それにここは戦闘海域だ。ノロノロしてられるか。この毛唐、そんなことくらいわからんのか、として工藤艦長は「救助打ち切り」を決める。さすがである。

翌日の4日。「雷」から水も食料ももらったし、ゴムボートで余裕だった米兵も後悔し始める。連合艦隊は助けに来ないのかと。映画ではちゃんと助けに来てくれたじゃないかと。

しかし、ちゃんと「雷」は補給のために戻ってくる駆逐艦「電」に引き継いでいた。今度は米兵も「乗らない。引っ張れ」とは言えずに素直に甲板に上がってきた。あのままなら死んでしまう。さすがのヤンキーも日本に感謝するのかと思ったら、この時救助された米兵は「日本海軍に長時間、甲板に放置された」(コギンス看護兵曹証言)と公式記録に記載して日本は謝罪せよ、と朝鮮人のようなことをする。決してゲストにはなれない。

天皇陛下の御言葉<日英の深い友情さらに>は深い。大東亜戦争とは、本当は「日英戦争」の意味が深かった。アメリカは途中から出てきた。ずっと日本と構えるのを待っていた。日本とイギリスは取っ組み合いをした。おまえ植民地とかやめろと。そして日本が勝った。実際に世界地図から植民地は激減した。人類の歴史的概念が変容した。でも、大きな喧嘩だったから、どちらも怪我を少しした。フランスやオランダは話にもならなかった。そこにアメリカやらソ連が出てきた。ソ連はベルリンを無茶苦茶にしたし、アメリカもノルマンディから威張りだした。アメリカは原子爆弾まで使って、今でもアジア太平洋で威張っている。こんな国とは「友好」は築けても「友情」は無理だ。




2 コメント

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Unknown (Sugar)
2012-05-22 23:31:54
はい、賢く付き合いましょうね。
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Unknown (久代千代太郎)
2012-05-24 12:43:00
>シュガーちゃん!!

ですね。あくまで対等に、それからしたたかに、ですな。
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