哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

人の育児放棄の原因は?

2013年10月07日 | 哲学・心の病
人が育児放棄するのは、かつての複合家族による育児ではなくなった、現代の核家族化がその原因ではないかと、私は思っていたが、ネットで調べたら、次のような説明があった。


大都会のマンションの一室で、「23歳の風俗店従業員の母親が3歳と1歳の幼い姉弟を部屋に置き去りにして餓死させた」わけですが、まず当事者である母親が厳しく法的責任を問われることは当然だとして、「2人の泣き声と「ママー、ママー」という叫び声に気づいたマンションの住民が大阪市や大阪府警に何度も通報した」、つまり行政側に近隣住民から何度もネグレクトの可能性大というシグナルが発せられていたにもかかわらず、2つの幼い命を救うことができなかったことは、行政側の怠慢との批判の声もあがって当然だと思います。

産経社説は「まずは親になることの意味、親としての責任や自覚を促す教育が重要」と指摘したうえで、国として「子育て支援のさらなる充実も図るべき」、「問題のある家庭には、行政が強制力を伴って踏み込む必要」の2点を強調していますが、私はやはり私たち社会の構成員一人一人の自覚を強く促す制度改革が必要なのだと思います。

私たち人類は生物学的には特異な存在であります、すなわちその進化の過程で、子どもが成体になるまでに10数年の極めて長期に渡る「子育て」を必要とする「晩成型」を選択した種であります。
当然ながら長期に渡る「子育て」は野生の世界ではその生存競争・サバイバルにおいて不利に働きます、現存する野生動物でも草食動物は生まれてまもなく目も見えて立つことが可能になりますが、そうしなければ肉食動物にすぐに補食されてしまうので草食動物は例外なく「早熟型」なのであります。

人類にとっても長期に渡る「子育て」はサバイバルの点では不利でありましたが、我々人類は子育てを母親単体ではなく「群れ」全体で育てることで負荷分散する戦略を採用して種として生き延びてきました。
野生の世界で子どもが成体になるまでに10数年の極めて長期に渡る「子育て」を個体の親だけでその負荷を背負ってはサバイバルできるはずはありません、「群れ」全体で子どもを守り育てる戦略を取ることにより、初めて「晩成型」子育ては実現されたわけです。

化石などのDNA研究によりホモサピエンスに比較しネアンデルタール人などはかなり「早熟型」であったことがわかっています。
化石人類の研究者の中には、この人類の長期に渡る「子育て」戦略の成功が我々ホモ・サピエンスの「文化」の継承を初めて可能にし、ネアンデルタール人など他の化石人類がすべて絶滅する中で、我々を生き残らせた原動力になったのだと指摘する科学者もいます。

生物としてそもそも我々人類は子育てを母親だけに押しつけることを許されてはいません。
この事実は重要です。
我々は子どもを「群れ」で育てる宿命にあるのです。
一方、現在の核家族化と特に都市部における地域共同意識の希薄化は、「群れ」である「社会」において、子育てをする親が経済的あるいは精神的に「孤立化」する傾向が強くなっています。

そこで私は3点提案したいです。
ひとつは、欧米諸国の一部が義務づけているように、我々市民が児童虐待のその可能性のシグナルを発見したらこれを行政に通知する義務を法律で定めることです。
次に、児童相談所など行政に「強制力」と「責任」を付加する法律が必要です。
市民からの通知が今回のように行政側の不作為により役に立たないことを無くすためには、問題ある家庭に対してはたとえ親が留守でも行政側が屋内に踏み込む「強制力」が必要ですし、行政側の不作為はその責任を行政側に取らせるルールが必要です。
最後に3点目として、社会の責任として児童養護施設の充実と認知徹底を計ることを提案したいです。
今回の事件でもそもそも母親が児童養護施設の存在を知っていれば、そして全国に利用しやすい児童養護施設が充実していてそれが広く認知されていれば、この悲劇は避けられた可能性は少なくありません……。

子どもを安全に育てていく責任は「社会」全体にあると思います。

動物の育児放棄・虐待・子殺し

2013年10月07日 | 哲学・心の病
私は、動物園などで人工飼育された動物が、育児放棄することもあることは知っていたが、野生の動物も育児放棄することがあることは、ネットで調べるまで知らなかった。
ネットで調べたその結果は、次の内容だ。

〈質問〉

動物による子への虐待や育児放棄、子殺しについて虐待や育児放棄など、最近いろいろささやかれていますが動物の世界にも虐待や育児放棄、子殺しはありますか?
また、虐待や育児放棄、子殺しがあるとしたらどんな動物が、それぞれのどんな理由で、どのような状況下で行われるのでしょうか?

あと、野生の動物と飼育動物の虐待や育児放棄、子殺しは本能的に行われるものなのですか?


〈ベストアンサー〉

子育てを行動する動物に限ってですが沢山ケースは、あると思います。
自然界で、何度も子育てする生物は、第一子は高い確率で育児放棄します。
或いは、子育てに失敗します。
これは、経験がないので解からない、と言う行動です。

・ハダカデバネズミ、子供を盾にして、ガラガラヘビを撃退する。死ぬ事もある。
・パンダ、あまり子育てが上手くないので、踏みつぶしてしまうとか、育児放棄するとか。
・ライオン、父親が自分の子供でも、気に食わないと殺してしまう。
・カッコウの託卵、完全な育児放棄。
・ニホンザル、母親にストレスがかかると、子の毛をむしりとって全部抜いてしまう。
・カラスのアルビノ(白い個体)はそれが発覚した時点で巣から落とされます。
・ウズラ、人間により飼われた期間が長かった為、子育て自体をしない。
・ダチョウ、後に産んだ卵は、無視され放置されます。先に産まれた卵→雛だけが、親に付いて行き生き残ります。
・タカの多くは、同時期の第二子を育てません。餌が豊富なら育てます。場合によっては、第一子の餌になってしまいます。

etc...。

---補足に追加---

本能で行われる場合と、本能が失われている場合、子育て行動に「経験」が必要な時未熟な母親が未熟である場合(失敗経験が必要)、ストレスによって行動した結果と言う場合。
理由の全てが本能ではないと思いますよ。
ケースバイケース。

哲学とは何か?

2013年10月06日 | 哲学・心の病
哲学というのは、答えのない問いを続けること、自己探求の旅のようなものです。
歴史的に見ても、名だたる哲学者たちがさんざん考え、議論をし続けてきました。
それでも究極的な答えというものは出ていません。
そんな答えのない問いに、なぜ私たちが取り組まなくてはならないのか。
答えのない問いについて考え、話し合うことなど意味がないのではないか。
もっと、現実的、実務的なことに時間を割いたほうが、よっぽどためになるのではないか……。

しかし、私たちは日々を生きている中で、なんらかの「選択」しなければいけないのです。
日々の生活の中で「答え」を迫られる。
そこから逃れることはできない。
哲学という答えのない問いを、なぜ続けなければいけないのか、それは、私たちが日々その「答え」を「生きなければならない」からです。

by マイケル・サンデル

児童虐待とは?

2013年10月06日 | 哲学・心の病
報道番組で時々、児童虐待のニュースを耳にするが、池田晶子さんは児童虐待について次のようなことを書いている。

『あれら虐待する親たちを指して、「人間ではない」と人は言うが、これは逆なのである。
人間だからこそ、あのような所行が可能なのである。
もしも人間が完全に自然的な存在であり、その自然にまかせて子供を作ったのなら、やはりその自然にまかせて子供を育てるはずなのである。
けれども、人間は半端に自然を脱した存在だから、自然ではあり得ない勝手なことを、意志と称してあれこれ仕出かす。
しかし、自分が何をしているのかを理性により自覚しないそのような人間は、だからなるほど未だ人間ではない。
しかし動物でもない。
何かそのような異種動物的人間が存在するから、人間社会は責任という人為的概念を必要とするのである。』
(「虐待するなら子供を作るな、親」より)

このあとの文章で池田晶子さんは、親である資格がないというなら性交する資格をこそ問うべきであろう、と書いている。

実は私も、池田晶子さんと同じ意見で、親となる資格のない人は、子供を作るべきではないと思っている。
そして、もし子供を作るとするなら、いかなる子供であっても一生、責任をもって育てる覚悟がなければならない、と私は思っている。

また、私は、動物が自分の子供を虐待するということを、聞いたこともなければ見たこともない。
自分の子供を虐待する人に、「この親は人間じゃない」という人がいるが、人間じゃない動物は虐待することはないから、本来ならば、自分の子供を虐待する人には、「この親は人間だ」と言うべきだ、と私は思う。


【閲覧者へのお願い】

忌憚のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

「原発は絶対安全である」はウソ?

2013年10月05日 | 哲学・心の病
池田晶子さんは原発について書いているが、それは池田晶子さんらしくやはり脅し系であるが、まずははじめに、それを紹介したい。

『「原発は絶対安全である」といったような、明らかなウソをつくのもやめることだ。
原発でなくとも、人間のすることに「絶対」などということはあり得ないという事実を認識するからこそ、覚悟も据わるというものである。
以前、東京に原発をもってこいという運動があったが、私はあれはその通りだと思う。
あれは、だから原発は危険なのだという反対運動だったが、そうではなく、危険なのは当然なのだから、だからこそ東京にもってくる必要があるのである。
危険な仕事は他人まかせにして、安穏と暮らしている東京の人々の首筋に、冷たい刃を突きつけるのだ。
その暮らしは、これの上にあるのだぞ。
覚悟はできているのだろうな。』

ここからが私の意見であるが、原発は絶対安全ではないので稼働させるべきでないと、原発再稼働に反対する人は言うだろうが、絶対安全でないものは利用すべきではないというならば、自動車も使用禁止にすべきである。
自動車事故による年間の死者は約6000人もいる。

新潟県知事は、東電の社長に「お金と安全では、どちらが大事ですか?」と聞いたが、そんなことは聞くまでもない常識で「どっちも大事」なのである。
だから、年間約6000人が死んでいるにもかかわらず、自動車を利用している。
お金と安全を天秤にかけて最善と思われる妥協点で、自動車を利用している。

だから、原発は絶対安全ではないが、原発で起きる可能性がある事故が、国民の許容範囲内であれば、稼働しても良いと私は思っている。

論理的な討論(ヒートアップするな!)

2013年10月05日 | 哲学・心の病
「怒りを感じたら、10まで数えろ、それでもだめなら100まで、それでもだめなら1000まででも数えろ」-ジェファーソン元米大統領-

〈ヒートアップするな〉

主張内容を「証明」することと、相手を「説得」することは微妙に異なります。
説得とは、相手の考え方を変えることです。
そのためには相手に影響力を与える必要があります。
正しい知識を披露しても、影響力を与えることができなければ説得は失敗に終わります。
ではどういうときに影響力が失われるのでしょうか?
それは書き手がヒートアップして過激な言葉を使ったり高慢な態度をとったときです。

次の例は「野菜ジュースには本当に一日分の栄養素が含まれているか」という議論のなかでの発言です。

(野菜ジュースの製造工程)
・おいしさを維持するために粉砕後ろ過する
・廃棄物であるろ過物の方に脂溶性栄養素が残留する
・水溶性栄養素は熱に弱いものが多い
・空腹時に飲むと消化吸収のまもなく排泄される
以上の理由で水溶性も脂溶性もほとんど残らない。

以上の意見に反論がありました。

栄養学の先生が野菜ジュースでもいいって言ってたんだけどな。
加熱で栄養が壊れるとかいってたらそもそも生野菜以外は食べても意味ないってことになるだろ、バカなの?
企業の宣伝に踊らされない俺カッコイイなの?
勉強しろよ。

さて、反論を読んだ相手はどういう反応を示すでしょうか?
こういう場合、どうしても読み手の意識はまず過激な言葉や、高慢な態度、侮辱的な表現に向かいます。
その結果「たとえこいつの言うことが正しくても俺はこいつを支持したくない!」という心理状態に陥ります。
するとたとえ主張の構造が論理的であっても「説得」には失敗します。

そして、相手の理解度が低くても高慢な態度をとってはいけません。
相手の理解度を把握して、そこを出発点として、結論に導きましょう。


【助言】
・掲示板などでどうしても過激な言葉を使うクセがある人は、投稿の直前にトゲを抜く作業をするといいでしょう。

【大事なこと】
・ヒートアップするな。
・攻撃された人間は相手の意見に耳を貸さない。

精神障害者の犯罪率

2013年10月04日 | 哲学・心の病
〈精神障害者の犯罪率〉

2011年度の『障害者白書』によれば、知的障害者と精神障害者の数は約378万人で、日本の総人口に占める割合は3%弱である。

一方、同年度版の『犯罪白書』によれば、検挙された一般刑法犯にしめる精神障害者等の比率は0.9%しかない。

この数字の比較を見ても、「精神障害者が罪を犯しやすい」というのは誤解でしかないのがわかる。
それでも偏見が横行するのは、有名な事件で伝えられた精神疾患のイメージが脳裏に根強く残ってしまうことと、殺人事件の逮捕者に占める割合が10%前後あることが作用しているのだろう。

精神疾患に詳しい関係者たちは一様に「知的障害者がたまたま加害者となったケースがセンセーショナルに取り上げられ、あたかも病気が危ないかのような誤ったイメージが流布してしまっただけだ。健常者と比較して事件を起こしやすいとは決していえない」と声を揃える。


〈知的障害者の犯罪〉

私はある報道で、売春行為をやっている人たちで、知的障害者である若い女性が多くいることを知った。

「知的障害」はWikipediaによると、

『知的障害とは、知的機能に制約があること適応行動に制約を伴う状態であること発達期に生じる障害であることの3点で定義されるが、一般的には金銭管理・読み書き・計算など、日常生活や学校生活の上で頭脳を使う知的行動に支障があることを指す。
精神遅滞とほぼ同義語であるが、一般的には、医学用語上は「精神遅滞」を用い、学校教育法上の用語として「知的障害」を用いる形で使い分けを行う。』

そして、「知的障害者の犯罪」はWikipediaによると、

『知的障害者の「問題行動」などによって重大犯罪の加害者もしくは被害者になる場合も多い。
元衆議院議員の山本譲司は不正受給問題で懲役刑を受けた時の体験から「獄窓記」という書籍を出版し、刑務所内の知的障害者の比率が一般社会と比べて異常に高いと指摘している。
著書「累犯障害者」の中で山本は、実社会では生きるすべを持たない知的障害者たちが、繰り返し犯罪を犯しては刑務所に戻ってくる様を克明に描いている。
服役囚全体の4分の1が知的障害者である現実を伝えている。』


その番組の記者が、知的障害者で、うら若き女性に、「なぜ売春をやっているのか?」と聞いたら、彼女は、
「普段、男性から、女性として扱われたことはないが、売春をやっているときは、女性として接してくれる」と言った。
つまり、彼女らは、金銭目的のためではなく、普通の女性として接してほしいがために、いわゆる、女性としての幸せを感じたいがために、売春行為をやっていたのだ。

そのことを知った私は、「かわいそう」と思い、そして「けなげ」と感じたが、そういう風に感じるのは、私が30代なかばの男性だからだろうか?

みのさんの次男は窃盗症?

2013年10月03日 | 哲学・心の病
みのもんたさんの次男が窃盗の疑いで逮捕されたという報道をみて、もしかしたら窃盗症ではないかと、私は思った。
まだその動機は解明されてはいないが、(みのもんたさんの次男という、)経済的には困窮していないだろうという状況からみて、窃盗症である可能性が十分ある。

そこで、Wikipediaに書かれてあった説明を紹介したい。

窃盗症(せっとうしょう)とは、クレプトマニア の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。
病的窃盗ともいう。
衝動が性的なものに起因する場合、窃盗愛好者(クレプトフィリア)といわれることもある。

この症例は、その衝動により窃盗行為の実行時に緊張感を味わい、成功時に開放感・満足感を得る。
窃盗の対象物や窃盗の結果に対しては関心がなく、一般にはほとんど価値がないものである場合も多い。
盗品は、廃棄・未使用のまま隠匿・他人への譲渡のほか、まれに現場へ返却される場合もある。
いわゆる「利益のための窃盗」ではなく「窃盗のための窃盗」といわれており、「衝動制御の障害」に含まれる同様の症例として「放火のための放火」を繰り返す放火症がある。

その原因はうつ病や性的虐待・性的葛藤との関連づけが試みられており、摂食障害や月経等との関係が注目されている。
巷間にいう、「月経と万引き」の関係などがこの例であるが、最近は統計的実証的研究から、性的偏見に基づく一種の伝説であるとの批判もなされている。

一般的用語として窃盗癖・盗癖ともいうが、一般に「盗癖がある」窃盗常習犯は、意思欠如型の精神病質は見いだされるものの、その動機は経済的なものであることがほとんどであり、必ずしも窃盗症と領域を一致させない。

論理と直感(理性と感情について)

2013年10月03日 | 哲学・心の病
哲学、つまり、論理的にものごとを考えていると、論理的な思考の根幹には、直感的なものが何かしら関係しているのではないだろうかと、私は思うときがある。
大学生の頃、それに関する本を読んだことがあるが、はっきり言って、どういう内容だったか曖昧だ。
そこで、改めて、論理と直感の関係性について、調べ、そして、自分で考えてみたい。

まずは、Wikipediaに書かれてあった説明を紹介したい。

〈理性と感情〉

理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、感覚(senses)、感情・情動(feelings、emotions)、情念(passions)等と対比的に用いられてきた。
理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。
例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。

近年、行動経済学と実験心理学は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した(認知バイアス)。
心理学の機能主義学派は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に進化心理学は認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。
これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や意思決定に関わっていることを示唆する。
これは二重過程理論あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている。

スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。
それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。

理性的システム-ゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することができ、主に大脳新皮質に司られている。進化的な起源は比較的新しい。

情動システム-即座に働き、短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり、主に大脳辺縁系に司られている。進化的な起源は古い。

二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。
状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。

論理的な討論(わかりやすい文章とは?)

2013年10月03日 | 哲学・心の病
「考えを表現する能力は、考えそのものと同じくらいに重要である。」-B.バルバ-

〈わかりやすい文章の書き方〉

丁寧語(です・ます調)を用いる文章の語尾に「である」調を用いると、それだけでなんとなく立派なことを書いたような気になってしまって論理の欠陥に気がつきにくくなるという欠点があります。
ですから慣れてないうちは「です・ます」調で書いた方が論理的な文章を書きやすくなるでしょう。

接続詞を使わない「Aである、Bである」のような形式の文章だと、どちらが結論でどちらが根拠なのかが判りません。
一方、「Aである、なぜなら、Bだから」というような形式の文章なら、Aが結論でBが根拠だということが容易に判ります。

平易な表現を用いる論じる文章の目的は異なる意見を持つ人を説得することですから、対象となる読み手のレベルに合わせた言葉を選びましょう。
一般向けの文章を書くさいは、難解語や、予備知識を必要とする専門用語の使用を避け、平易な言葉を選び、より多くの人が理解できるように書きましょう。
たとえば中高生でもわかる言葉を選んだり、やむなく専門用語を使う場合も解説をつけると良いでしょう。

【大事なこと】
・自分で書いた文章を見返して論理の欠陥を見つけましょう。
・接続詞を使って結論と根拠の関係を表しましょう。
・説明上手な人は対象のレベルに合った言葉を選べる人です。

論理的な討論(三段階の議論力とは?)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
〈三段階の議論力〉

これはあくまでも私個人の見解ですが、議論における合理的な思考力には次の3つの段階があると考えています。

第一段階: 非論理的な思考力の段階。
第二段階: 論理的だが、無菌室の論理にこだわっている段階。
第三段階: 論理的かつ、相手との利害関係、力関係、感情も計算できる段階。

1つずつ説明すると、

【第一段階の人は】
・誤った情報を識別できない。
・上記ゆえ、マインドコントロールにかかりやすい。
・上記ゆえ、第三段階の人に騙されたり、利用されたりすることが多い。
・主張に説得力がないので、他者の協力を得られにくい。
・反論が苦手なので、いつも都合の悪いことを押し付けられる。

【第二段階の人は】
・利害の一致する相手なら説得することができる。
・他人がみな対等な条件で議論に付き合ってくれると信じているので、自分よりも権力の強い相手に議論を挑み、論理とは別のところで圧力をかけられて潰されることがある。
・正論を言っていても相手の面子を潰してしまい協力を得られないことがある。

【第三段階の人は】
・パワーバランスを把握できているので、強力な相手に無謀な戦いを挑むことがない。
・いざ戦うときも、常に自分の立場が有利になるように用意周到に準備して立ち回ることができる。
・交渉をするときは、お互いの利益になる方向へ利害を調整できるので協力を得られやすい。
・相手の面子を潰さないように配慮するので協力を得られやすい。
・相手がまだ論理が理解できない子どもでも、感情を読んで協力させることができる。

次に、第一段階の人の主張によく見られる特徴を挙げてみます。
1.結論だけを述べて、根拠を述べない。
2.自分の考えに自信が持てないので、言葉からも自信がなくなる。
  「思います」「気がします」「かもしれない」という言葉を多用するようになる。
3.相手の人格を攻撃すれば議論に勝てると思っている。
4.自分の意見が批判されると、人格まで傷つけられたように感じて、平常心を失い、怒ったり、引っ込んだり、間違いを素直に認めることができなかったりする。
5.反論をしているつもりなのに論点がずれていたり、無自覚に詭弁を多様する傾向がある。
6.鋭い反論を受けても、自分の主張のどの部分が非論理的だったり根拠が欠けていたりするのかが解らないので、依然として自信に満ち溢れている。

2に関してですが、これから「思います」「気がします」「かもしれない」という言葉を使う人を、注意深く観察してみてください。
根拠を述べていない人が多いはずです。
根拠がないので自信が持てず、その結果、結論を表現する言葉が曖昧になってしまうのです。
なぜなら、結論を明言してしまうと根拠も一緒に述べなければ不自然に見えてしまうためです。
したがって、根拠を述べる責任を追及されないように結論を曖昧にしておくのです。
念のために書いておきますが、これらの言葉を使うこと自体が悪いわけではなく、根拠を述べないと主張の論理性が弱まるという意味で書いています。

3に関してですが、人格を攻撃するのは「対人論証」という詭弁です。

4に関してですが、意見と人格は全く別のものなので傷つく必要はないのです。

5に関してですが、論点が外れてしまうと本人は意図していなくても「論点相違」という詭弁になってしまいます。

論理的な討論(論理的な会話の例)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
〈論理的な会話の例〉

ここでは、初歩的な論理的な会話の例をご紹介します。
次の主張の例を見てください。

一郎 「奈々は近いうちに太るよ。」

この主張は、結論のみの主張です。
これでは、一郎の主張に同意する人はいないでしょう。
では次の主張ならどうでしょうか?

一郎 「奈々は近いうちに太るよ。『だって、毎日コーラばかり飲んでいるからね。』」

この主張は、先ほどよりも論理的です。
なぜなら、この主張には「根拠」(『』の部分)があるためです。
これなら、一郎の主張に同意する人もいるでしょう。
次は、奈々が一郎の主張に対して、反論します。

奈々 「太るわけないわ。」

これは結論だけの反論です。
少しも説得力がありません。
これでは、奈々の反論に同意する人はいないでしょう。
でも次のような反論ならどうでしょうか?

奈々 「太るわけないわ。『だって、いつも飲んでるのはノンカロリーのダイエットコーラだもの。』」

この反論は、先ほどよりも論理的です。
なぜなら、この反論にもやはり「根拠」があるためです。
奈々の反論の根拠、「ノンカロリーのダイエットコーラだから(太らない)」が、一郎の主張の根拠、「コーラばかり飲んでるから(太る)」を打ち消しています。

【まとめ】

根拠のない主張や反論が同意を得られるのは、もともと同じ意見を持つ者からだけです。
意見の異なる人を説得することはできません。

人間は普段、意見を述べるとき自分の頭の中を見ながら話しています。
自分にとっては自明なことであるため、つい根拠を説明するのを忘れてしまうのです。

しかし、相手は自分と同じ知識だとか根拠だとか前提を共有していません。
なので、意見の異なる人を説得するためには、根拠を示して結論までの道筋を示す必要があるのです。

論理的な討論(論じる文とは?)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
ネットにアップされている意見を読むと、私も含めて、何か勘違いをしている人を見かけるときがありますが、理想的な討論とはどういうものかを紹介することによって、今以上に、ネットを楽しいものにしてほしいと、私は思っております。

〈「小説」の書き方と、「論じる文」の書き方は異なる〉

日本では文学を中心とした国語教育が行われており、そのなかでは「理解しにくい文章を読解する」訓練は徹底して行うのに対して、「理解しやすい文章を書く」訓練はあまり行われていないため、日本人は論理的な文章を書くのが苦手であると言われています。
小説・文学には作者の意図を明確に表現することをあえて避け、暗に含ませるような表現方法を用い、読者が作者や登場人物の気持ちを推察することにより盛り上げる手法があります。
しかしそのような手法を用いて“論じる文章”を書いてしまうとわかりにくい(=他人を説得できない)文章になっていまします。
(”論じる文章”とは自分の意見を表明して他者を説得するために書く文章のことです)。
しかし文学中心の国語教育に慣れた日本人は小説の書き方で“論じる文章”を書いてしまいがちです。
すると書き手側と読み手側の双方に次のような問題が生じます。

「書き手の側の問題」

・書き手は主張の「根拠」を十分に説明しない。
・読み手のほうから根拠を推察してくれることを期待する。
・書き手の意図が十分に正しく伝わらなかったとき、書き手がその原因を読み手の読解力の低さに責任転嫁する。

このような書き方だと本来の意図を理解できる人はもともと書き手と同じ意見を持つ人か、論題の予備知識が豊富な人、推察能力に非常に長けた人に限定されます。
もちろん異なる意見を持つ人に対する説得力は格段に低下します。

「読み手の側の問題」

読み手は文学教育の副作用により「書き手の意図を想像力を駆使して推察しなければならない」と信じ込んでいます。
すると書き手の説明不足により根拠や意図が明言されていないときでも、読み手は想像力を働かせて書き手の意図と異なる解釈を導き出してしまうことがあります。
さらにやっかいなのは読み手がその誤った解釈に基づいて反論を展開することがあるからです。
その行為が図らずも「ダミー論証」と呼ばれる詭弁に発展します。

具体例を見てみましょう。

A氏 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

A氏は、「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」などとは一言も言っていないのに、B氏は自分の想像で解釈を誤っています。
これは意外と無意識にやってしまいがちです。
みなさんも掲示板の議論などで自分はそのようなことは一切言っていないのに、相手には言ったことにされているという経験(あるいはその場面を目撃したこと)があるかもしれません。

「まとめ」

〈論理的な書き方〉書き手は主張の結論、意図を明言し、また根拠を十分に書くことにより、読み手に“推察”の余地を残すべからず。

〈論理的な読み方〉書き手が明言していない事柄や根拠を想像で決めつけないよう気をつけ、不明な点は質問すべし。