哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

いじめ加害者への報復

2013年10月15日 | 哲学・心の病
池田晶子さんは、いじめられた子が抗議の自殺をしても、いじめた子に果たして罰を負わせることができているだろうか?と疑問をなげかけている。

『人間には命より大事なものがあるということを理解しない社会が、生きた者勝ちのまさにこの社会である。
抗議の自殺が成立しない。
無視されるか笑われるだけである。
(中略)
自殺が無効と知った子は、それならどうするだろう。
ひょっとしたら、後ろから刺すとか、毒を盛るとか、受けたいじめを上回る卑怯な手段で報復に出るかもしれない。』

以上の池田晶子さんの主張を読んで、あなたはどう思われたか?

私ならば、こう言う。

『いじめている君たちへ。
生きるが勝ちと知った加害者は、その報復として、必ず君たちを殺すだろう。
いじめるならば、殺される覚悟を持ってやれ。
殺される度胸もないやつは、いじめは絶対にやるな。』

殺される度胸のある人は、人をいじめることは絶対にないと私は思っている。
その一例だが、自首して刑務所に服役している、敵対する暴力団の組長をたった一人で殺した人は、普段は謙虚で寡黙で人に迷惑をかけずに、どのグループにも属さず毅然としていて、刑務所内でケンカが起きると、つまらないことだと言いたげに、その仲裁に入り、決して、弱者をいじめることはしない。

以上の私の主張の、その根拠を、今の私はうまく説明することはできない。
しかし、いつか説明することができるときが来たら、それをブログに書きたいと思っているが、その根拠をご説明してくださる方がおりましたら、ご遠慮なく、コメントしてほしい。

まじめな男が語る性風〇(もしかしたら18禁?)

2013年10月14日 | 哲学・心の病
堅苦しい話ばかりでは、つまらない人もいるかと思い、今回は性風〇のことを書こうと思います……。

私は、世の中の表も裏も知らなければ、ものごとの真理はわかないのではないかと思い、裏の世界を実体験を通して垣間見ましたが、
(結婚する前の話ですので許されるでしょう、と願います。)

私の〇癖がわからない人が、「Mですか?Sですか?」と私に聞く人もいましたし、「私はMだから、〇〇を叩いて」という人もいれば、「私はSだから、攻め好きなの」という人が私の〇〇を噛む人もいました。

話は戻りますが、MかSかと聞かれたら、私はNと答えていました。
(ニュートラルのN、ナチュラルのNと答えていました。)
本来その行為は、子孫繁栄のためにする行動で自然なものですから、その目的から逸脱した不自然な〇癖には、違和感を感じます。

しかし、ある説によると、男性が狩猟でえた食料を、子育てしてる女性に持ってきてもらわなければならないので、その行動を男性に続けさせるために(引き留めて置くために)、〇〇を行うこともあるらしいのですが、私はこの説に納得しています。


そして、ものごとにも両面の顔があります。
例えば、自然に対して人類は、傲慢なところもありますし、謙虚なところもあります。
両方とも真理だと私は思っていて、傲慢だけでも良くないし謙虚だけでも良くないと、ニュートラル、つまり、中立の立場に立ってものごとを考えます。
(第三者から見たら、どちらかにかたよっているのかもしれませんが……。)
そしていったん中立の立場からものごとを考えてから、直感や感情に従ってどちらかに片寄った私の意見を言います。

ではなぜ、どちらかに片寄らなければいけないのでしょうか?と聞かれて、その理由を申し上げますと、それは中立の立場では、両方に賛成でもあり、かつ、両方に反対でもあるからです。

死んだ子供と母親

2013年10月13日 | 哲学・心の病
『身よりもなく、夫に先立たれた未亡人がいた。当時のインドでは未亡人であることは地獄に暮らすにも等しかった。再婚は許されず、社会的に制限された生活を強いられる。幼い子供だけが希望の綱として残されていた。しかし、その子供も病気で亡くなってしまった。未亡人は気が触れて死んだ子供の身体を抱いて暮らし始めた。ある日、ブッダが村に来ていることを村人が未亡人に伝え、死んだ子供を甦らせてくれるかも知れないと提案した。未亡人は子供の身体を抱いてブッダを尋ね、質問した。「私の子供を甦らせて下さい」。ブッダは微笑んで答えた。「簡単な事だ。ただし条件がある」。未亡人は言った。「どんな条件でも満たして見せます」。ブッダは言った。「カラシの種を数粒持って来なさい」。「そんな簡単な条件で良いのですか?」。「いや、条件はそれだけではない。死んだ者が出たことのない家から数粒のカラシの種を持って来なければならない」。未亡人は大喜びでブッダの元をさり、村の家のドアをノックして回った。村はとても古い村だった。行く家々で言われた。「カラシの種ならいくらでもあげることは出来るよ。でも、家からは沢山の死人を送り出した」。未亡人は一日中ドアをノックして回った。気の触れた人と言うのはエネルギーにあふれ疲れる事を知らない。一日中そのことに集中した。そうして夜になって、ブッダの元に帰って来た。ブッダは言った。「カラシの種を持って来たかね?」。未亡人は答えた。「いいえ。私は死を避けることは出来ないと言うことを知りました」。未亡人はもう狂ってはいなかった。』


脳死による臓器移植に関心があって書籍を読みあさっていたときに、このブッタの逸話を私は知った。
そのエッセイは、愛するものの死を家族が受け入れるために、医療側の努力も必要だということを、このブッタの逸話を通して婉曲に書かれていた。

3.11の東日本大震災では、現在も多くの行方不明者がいる。
ある高齢の男性は、自費で弟の捜索をしている。
「遺体を確認しないと、弟の死を受け入れることができない」とその男性は言っていた。

そういうものかと私は思ったが、その行為は無駄にも見えた。
しかし、それは私が非情だからではないと私は思っている。
なぜなら、私も亡くなっているであろうその弟さんと同じ側にいると自覚しているからだ。
私も必ずいつかは死ぬ、ということではなく、明日(あす)死ぬかもしれないと現実味をおびて自覚しているからだ。
死は他人事ではなく、常に私の身近にある。

それに「人は死んだらどうなるか?」私はわからないから、死ぬことに悪いイメージはまったくない。

だから、遺体がなくても突然死であっても、当たり前のこととして、私は直ぐに死を受け入れる。
ある意味、私もそちら側にいるということだ。


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言語が違えば世界も違って見えるのか?

2013年10月12日 | 哲学・心の病
題名『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』の本によると、「言語は思考や知覚に影響をあたえるのか?」の疑問に対して、二つの派閥がある。

・言語相対派
思考や知覚は普遍的なものではなく慣習や言語によって異なる。
言語が思考を形作る。

・生成文法派
思考や知覚は人類共通の普遍的な仕組みである。
言語を生み出す本能も人間に最初から組み込まれている。

言語相対派で有名な仮説が「サピア=ウォーフの仮説」だ。
ベンジャミンウォーフは、インディアンの言語研究を通し「西洋の言語とまったく違う構造を持つ言語を使うインディアンの世界観は、西洋のそれとまったく違う」という仮説を発表した。
しかし、言語相対論は現在では否定的にとられている。
ウォーフの研究に穴があるからだ。

例えば、彼は「時間を表す言葉が存在しないホピ族には時間という概念そのものがない」と主張したが、後の研究ではホピ族にも時間を表す言葉が存在することがわかった。

現代の言語学の主流は生成文法派であり、基本的にはこの本の作者も生成文法派だ。
しかし、言語が知覚や思考に影響をあたえる面もあり、なんらかの相関関係はあるだろうという立場だ。
作者はこれを「言語はレンズである」という言葉で表現している。

〈ダニ族は色の濃淡しかわからないのか?〉

「サピア=ウォーフの仮説」が発表されてから多くの学者たちがその研究に取り組んできた。
はじめに組織的な研究対象となったのは「色」である。
色名の数とその種類は言語によって差がある。
仮説が正しいと仮定すると「違う言語を使っている人たちには、色が違って見えるはず」ということになる。
そこで アメリカ人(英語には11の色名がある)とニューギニア高地のダニ族(彼らの言語は濃い色と薄い色という2つの色名しか持たない)を対象にして、調査を行った。
立てられた仮説は「ダニ族は、明るさが同じなら色を識別できないはずだ」というものである。
そこでマンセル色表を用い、さまざまな色で試した結果、彼らはアメリカ人とまったく同等に色の判別ができたのである。
同じような実験は数多く行われたが、結果はどれも仮説には否定的なものばかりであった。

ただし、近年のMRIによる測定によって言語やその言語が生んだ習慣は、人間の知覚や思考にある程度の影響を与える可能性があることも分かってきたようだ。


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スマイルは共通言語だ!

2013年10月11日 | 哲学・心の病
イラク戦争で実際に起こった、感動する実話がある。

アメリカ軍が地元の有力者と会談をするために、数十人の兵士が装甲車とともに彼らが居住しているところに着いたら、言葉が通じない地元の住民は拉致されるのではないかと警戒し、一触即発の状態になった。

そこで困ったアメリカ軍の隊長は、本部に指示をあおいだら、軍本部の司令官は、姿勢を低くして笑顔で接することを指示した。
アメリカ軍の兵士はお互いに、手で「姿勢を低くせよ」と指示しあい、「スマイル、スマイル」と呼びかけあって笑顔で接した。
すると地元の住民は警戒心をといて、有力者との会談は無事おこなわれた。

そして、指示をした司令官は、
「私はこれまで数十ヵ国に赴任して、言葉が通じないことはあったが、笑顔が通じなかったことは一度もない」と言った。

笑顔は、人類共通のボディーランゲージであった。


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プロパガンダ

2013年10月11日 | 哲学・心の病
崔天凱大使は8日、ワシントン市内で行った講演の質疑応答で、日中両国の双方に対する国民感情の悪化について聞かれ、
「日本の一部の政治家などは、第2次世界大戦で日本が敗北したのはアメリカが原爆を投下したためだと信じている。
彼らはアメリカさえ怒らせなければ何をやってもよく、ほかの国の懸念に配慮する必要がないと考えているようだ」
と述べ、日中関係の冷え込みは日本側に原因があると非難した。

そのうえで
「日本は、最新の武器ではなく、アジアと欧米諸国の人々の強い意思と決意によって敗れた。
日本の政治家は戦後の国際秩序を理解すべきで、これに挑戦することはできない」
と述べ、日本国内の一部の動きは、中国だけでなくアメリカなどにとっても重大な問題だと訴えた。

崔大使の今回の発言は、日本の一部の政治家が戦後の国際秩序に挑戦していると宣伝することで、沖縄県の尖閣諸島を巡る対立でも中国側の独自の主張が正しいとして、支持を広げようというねらいがあるものとみられる。

菅官房長官は記者会見で、
「みずからの国の立場だけに立って、まさにプロパガンダの一つではないかとさえ思える発言だ。
日本は戦後68年間、今日(こんにち)まで自由と民主主義の国を築き上げ、世界の平和と繁栄に貢献してきたと思っており、そのことがすべてを物語っている。
論評するに値しない発言だ」と述べた。


事実無根の主張は、プロパガンダだと私は思う。
今回の菅官房長官の発言は、的確な表現だ。
日本には、「アメリカさえ怒らせなければ何をやってもよい」と考えている人は誰もいない。

また、根拠を明確に言わない主張も、プロパガンダだと私は思う。
例えば、ロンドンオリンピックで、「日本を応援しない人は、非国民だ」という主張だ。
ただし、わざわざ根拠を言わなくて、誰もがその根拠を既知している主張はプロパガンダではない。
例えば、「戦争は絶対にするべきでない」という主張だ。

プロパガンダは、洗脳と言い換えてもよく、同じメッセージを繰り返し与えことによって、私たちの心に刷り込もうとする。

そして、日本に対する中国の主張には、プロパガンダが多い。
今回の東アジアサミットで、中国の李克強首相が言った「当事国以外は口を出すべきではない」もだ。
首相の主張が正しいならば、シリア内戦に、他国は口を出すことはできない。


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靖国神社の参拝問題について

2013年10月10日 | 哲学・心の病
飯島氏が靖国神社参拝について発言し、それに対して中国は、反対声明をした。
報道によると、

『飯島勲内閣官房参与が7日、安倍総理の靖国神社参拝について、「秋の例大祭には何としてでも参拝してもらいたい」と述べたことについて、中国の外務省は「断固反対する」と強くけん制しました。
これは、飯島参与が7日、大阪市内で行った講演の中で、安倍総理の靖国神社参拝について、「秋の例大祭には何としてでも安倍晋三という政治家として参拝してもらいたい」とした上で、「首相が例大祭に行っても、遠くない時期に日中首脳会談は実現する」と発言したことに応じたものです。
「日本側が靖国神社問題において、新たなトラブルを起こしたら、必ずより深刻な結果をもたらすことになる」(中国外務省 華春瑩報道官)。
中国外務省の華春瑩報道官はこのように述べ、「日本の指導者がいかなる形や身分で靖国神社に参拝しても断固反対する」と、安倍総理の靖国参拝を強くけん制しました。
また、「この問題は中日関係の基礎にかかわる原則的な問題だ」として、「間違いを重ねないよう希望する」とこれまでの主張を繰り返しました。』

ということである。

では、なぜ中国は靖国神社参拝に反対しているのだろうか?
そこで、Wikipediaで調べたら、

『中華人民共和国政府は、「A級戦犯が合祀されている宗教施設に首相が公式参拝すること」を問題視している。
中国政府は国際的および国内的に「日本の侵略戦争の原因と責任は日本軍国主義にあり、日本国民には無い。しかし日本軍国主義は極東国際軍事裁判で除去された。」と説明している。
また1972年(昭和47年)の日中国交正常化の際の共同声明では「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とも記載されている。
このため中国から見て「日本軍国主義の責任者の象徴」であるA級戦犯を、現在の日本の行政の最高責任者である首相や行政府の幹部である閣僚が「美化または肯定」するのは「歴史問題」となり、認めがたいからである。』

ということだった。

【私の提案】

私は、「どのような形の靖国神社参拝にすればいいのか?(例えば、A級戦犯を合祀しなければいいのか?)」、「どのような形の靖国神社参拝でも反対であるならば、どのようにすればいいのか?」ということを、中国と韓国に、聞いてみたらいいのではないかと思っている。

そして、お互い語り合って、三国の国民の大多数が納得できる方向で、この問題を解決するべきではないかと思っているが、現実的には実現性はないだろう。

しかし、「他国が干渉することではない」という態度よりは、「ご意見をうかがいたい」という姿勢の方が、この問題解決のきっかけになると私は思っているのだが、他の方のご意見も聞いてみたい。


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パーソナルスペースとは?

2013年10月09日 | 哲学・心の病
誰でも、他人が近づいてきたときに、それ以上は入ってこないでほしいと思う距離があります。

電車内や図書館などで、周りに空席があるにもかかわらず、隣に座られたりすると、落ち着かないものです。
自分から席を立って離れる人もいるかもしれません。

人と人との間には、親しさによって適正な距離感があるのです。
これをパーソナルスペースといい、関係に見合わない相手が近づきすぎると防衛の意識が高まり、ストレスを感じるのです。

また、同性よりも異性に対して適切な距離は大きくなり、好意を持つ相手ほど、近い距離に抵抗感が少なくなります。
一般に、女性より男性のほうがパーソナルスペースは大きく、外交的、内向的など性格によっても異なります。

関係によって快適な距離は異なりますが、

・密接距離(手が届く距離。恋人同士など。)
・個人距離(相手のこまやかな表情がわかる。友人など。)
・社会距離(あらたまった距離。客との対応など。)
・公衆距離(個人的な関係が成り立たない距離。講演会の講師と聴衆の距離など。)

があります。


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投票率が低くて何が悪い?

2013年10月09日 | 哲学・心の病
前回の参議院選挙で、投票日の一週間前に、政治評論家が「棄権をしないで、投票へかならず行ってください」というようなことを言っていた。

投票率が低いことに嘆(なげ)いていたが、なぜ投票に行かなければならないのか?その根拠は言わなかった。
ただ投票しないことは悪いことだと、盲信しているように見える。
私は、納得できる根拠のない意見には、絶対に賛同しない。
たとえその根拠があったにしても、自分の頭で考えて納得できない意見は受け入れない。

私は、投票に行かないことは、決して悪いことだとは思わない。
投票率が100%の場合と、10%の場合で、当選者が同じであれば結果は同じではないか。
ではなぜ、投票しにいかない人がいるのだろうか?
その主な理由は、「誰に投票しても自分の生活が変わらない」とか、「投票したい人がいないから」ではないかと思うが、このことは、市民が棄権という行為で、自分の意志を示していると思う。

私は、投票率が低い原因は、市民がわにあるのではなくて、政治家がわにあると思っている。
本来、政治家や立候補者がわにある責任を、市民がわに押しつけている。

政治家は、投票したくなるような政治を行うべきであり、投票へ行こうと思う立候補者をたてればいいのだ。

論理的な討論(相手の感情に配慮しよう)

2013年10月09日 | 哲学・心の病
〈相手の感情に配慮しよう〉

日常の議論はディベート試合とは異なります。
ディベート試合では、審判さえ説得すれば勝つことができます。
しかし、日常の議論には審判がいません。
したがって、相手の心証を悪くすると、特に自尊心を傷つけると、相手はあなたには心を閉ざしてしまい、その結果説得に失敗します。
心を閉ざした人は攻撃的になったり、相手の話を聞かなくなったりします。
それゆえ、議論の相手が審判であるというくらいの気持ちで対話をする必要があるのです。
ちなみに、今回は掲示板の議論も日常の議論に含みます(審判がいないため)。
相手の感情面への配慮として、次の二つの方法を使ってみましょう。

1.相手の意見をまとめて、自分の言葉で言い換える。

自分の意見ばかり言っていては、相手は本当に自分が理解されているのかわからなくなります。
そこで、こちらから相手の考え方を理解しているというメッセージを送ってあげましょう。
すると相手は、自分が本当に理解されていると感じて、あなたともっと交流を深めたいと思うようになります。
つまり、お返しにあなたの話も真剣に聞いてあげようという態度になるのです。
これは相手の書いた文章をコピー&ペーストして引用する作業とは全く異なります。
気をつけましょう。

例)鈴木 「Aだと思う。なぜなら、Bだからね。」
  自分 「鈴木さんは、BだからAだと思うんですね。」

『相手方の言い分を聞いてやろう、という気持ちがなくなったら、もうその人の負けである』-ラロシュ・フーコー-

2.「わたし」を主語にして話す。

「あなた」を主語にしたメッセージは、相手に攻撃的な印象を与えます。
「あなた」を主語にすると相手を責める言い方にしってしまうので、自尊心を傷つけられた相手は心を閉ざしてしまいます。
一方、「わたし」が主語のメッセージは、自分の考え方を率直に伝える言い方なので、相手の自尊心を傷つけにくいと言えます。

【問題】

次の“言い方”のうち正解はどれ?

A 「あなたは間違っています。」
B 「あなたはバカですね。」
C 「あなたの意見は間違っています。」
D 「私の考えはこうです。」

【答え】

正解は、Dです。

Aは、「あなた」が主語で、相手の意見ではなく人物を批判しています。
Bは、「あなた」が主語で、相手の人格を侮辱しています。
Cは、「あなた」が主語で、相手の意見をすべて否定しています。
Dは、「わたし」が主語のメッセージです。

以上のことをまとめると次のようになります。

鈴木「Aだと思う。なぜなら、Bだからね。」
自分「鈴木さんは、BだからAだと思うんですね。でも私の意見はちょっと違ってCなんです。なぜなら~(根拠を述べる)。」


〈掲示板で煽られたらどうしたらいいの?〉

もしも掲示板で煽られたときに、議論を不毛にさせないためにはどう対処したらよいのでしょうか?
考えてみてください。

【問題】

次のようなことを書かれたら、どう対処すべき?

(あなたに対して)「なんか空気読めないやつが来たな。」

【よくない例】

「空気読めない」の定義は何ですか?
それが私の主張の根拠とどう関係があるのですか?
「空気読めない」が侮辱だとしたら、あなたのしていることは人格攻撃という非論理的な発言です。
やめましょう。

【よい例】

スルー。

もしも、相手の書き込みの中に、「煽り」と「返答したくなるような意見」が一緒に混ざっていたときには、次の選択肢があります。

1.煽りの部分だけが全くなかったかのように返答する。(徹底的に)
2.その人物自体をスルーする。

『腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。それでもダメなら千まで数えよ』-トーマス・ジェファーソン-

『沈黙は口論よりも雄弁である』-トーマス・カーライル-


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だって、人間だもの

2013年10月08日 | 哲学・心の病
私には、池田晶子さんに共感することが多いが、相田みつを氏にたいする思いも同じだったとは知らなかった。

池田晶子さんは、相田みつを氏について次のような批判を書いている。

『人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは、「優しい」「思いやりのある」「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性である。
その列挙である。
それらの属性を担っているところの当の「人間」、この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。
なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、常にすべてが「人間」である。
それで、各人勝手に好きな意味を込めて、この語を使用することになる。
相田みつをの「人間だもの」はその好例である。
失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。
「人間だもの」。
私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。
相田に限らない。
聞いていると多くの人が、この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。
「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。
時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。』
(「だって、にんげんだもの」より)

はっきり言って、私には、池田晶子さんが言っていることがよくわからない。
私が相田みつを氏の詩に嫌悪感を感じるのは、私の感覚によるもので、言葉にするのは難しいとは思うが、あえて言うと、相田みつを氏の詩は、人間の深部をとらえて書かれた詩ではなくて、そのときの軽い気分で書かれた、人間の上っ面だけを書いている詩だと感じるから、私の気質に合わない。
どうしても、体質的に好きになれない人がいるが、それと似た感覚だ。

薄っぺらな人から言われる、励ましや称賛は、かえって気分を悪くする。
だって、人間だもの。


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論理的な討論(認知的不協和)

2013年10月08日 | 哲学・心の病
〈自分の間違いは認めたくない(認知的不協和)〉

人は自分の信念や、それまでの行動内容とは矛盾する、"新しい事実"を突きつけられると、"不快な感情"を引き起こします。
その結果、自分の信念や行動と、"新しい事実"のどちらか一方を否定して、矛盾を解消しようとします。
これを認知的不協和と呼びます。
そのとき、信念を変えることが困難な場合、人は"新しい事実"の方を否定しようとします。
代表的な例がタバコで、タバコを吸うという行為に対して「タバコを吸うと肺がんになりやすい」という"新しい事実"が提示されます。
すると、行動と事実の矛盾に対する不快感が起こり、タバコをやめるか、事実を否定することで矛盾を解消しようとします。
しかしタバコには依存性があり、やめるのは困難です。
したがって、事実の方を否定して矛盾を解消しようとします。
そこで、「タバコを吸っていても長寿の人もいる」とか「肺がんよりも交通事故で死亡する確率の方が高い」といった反論を行おうとします。
しかし認知的不協和の状態にある人はその時点ですでに結論ありきで考えているので、論理的に考えていない可能性があります。
つまり頑固になっている状態といえます。

不快感の強さは信念の強さに比例する。
より長きに渡って築き上げてきた信念ほど、否定さたときには強烈な不快感を伴ないます、自分の生きてきた人生をも同時に否定されたかのように感じるためです。

【例】
・戦争に参加した兵士は反戦論を聞かされると認知的不協和を起こす。
・宗教の信者は無神論を聞かされると認知的不協和を起こす。
・性差別主義者はフェミニズムを聞かされると認知的不協和を起こす。

いずれの例も共通点は、その人の過去の経験に関わっている点です。
過去は変更できませんから、過去の行動を否定されると、"新しい事実"の方を批判するしかありません。
もしも"新しい事実"を認めてしまえば、それまでの生き方さえ否定されることになってしまうと考えるのです。
これまでの人生を費やして築いた思想・信条・信念や、現在のその人の立場に強い影響を与えている"過去"を批判されると、強い抵抗感を抱くということです。

【アドバイス】

どうしても信念を変えることをプライドが邪魔するという方は、これからは間違いを認めることにプライドを持ってください。


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集団的自衛権に賛成だ!

2013年10月08日 | 哲学・心の病
自国を守るのに、一国で戦うよりも多国で戦う方が圧倒的に優位だ。
歴史をかえりみれば、誰でもわかる。
例えば、第二次世界対戦の連合軍だ。

それに、相手国が連合してれば戦力的に優位であるから、戦うという国の戦意は弱くなり、連合することが戦争の抑止力となって、それを未然に防ぐ可能性が高くなる。

お互いの国を防衛することに限れば、集団的自衛権を発動することに、私は賛成だ。
アメリカの防衛のために、日本の防衛軍を派遣する。
日本の防衛のために、アメリカの防衛軍を派遣する。
防衛以外の目的のためには、絶対に派遣しない。

では、防衛のための戦争かどうか判断するにはどうすれば良いか?
私の提案は、理想を言えば国会で議決してほしいが、戦争という緊急性から、少人数で議決するのが現実的だ。
総理一人に権限を与えるよりも議決する方が、過ちをおかす可能性が少ない。
だから、複数で議決した方が良い。

では、そのメンバーの構成はどうすれば良いのか?
防衛の専門家と国民の代表である国会議員を、1対1の割合で構成する。
防衛軍の暴走をとめるために国会議員がいて、判断ミスを減らすために専門家を入れる。

しかし、メンバーの数が偶数であれば同数となる可能性もあるので、国会議員1名を加える。

以上が私の提案であるが、他の方のご意見も私に聞かせてほしい。

宇宙になぜ我々が存在するのか?

2013年10月07日 | 哲学・心の病
『宇宙になぜ我々が存在するのか』の本は、いかにも哲学的な題名だったので読んでみた。
副題が、最新素粒子論入門とあったが、結論から言うと副題が正確であり、何ら哲学的話題は書かれていない。

ただ、宇宙の起源の解明のための最新の素粒子論を、素人向けに解説したものであり、それ以上のものではない。
簡単にいえば、宇宙は最初のインフレーション後にビッグバンが発生して、137億年かかって膨張してきたわけだが、最初に物質と反物質が同時にできたはずなのに、宇宙に物質のみが残った原因としては、素粒子のうちのニュートリノやヒッグス粒子などを解明すればわかるであろうというのが、最新素粒子論だそうだ。

素粒子を解明すれば、なぜ宇宙が存在したかがわかるというような書きぶりだが、もちろん池田晶子さんがよく書いているとおり、素粒子を解明して反物質が消えた原因がわかっても、素粒子や宇宙そのものが「なぜ」存在するのかという哲学的問いには答えられない。
宇宙において、人間や地球上の生物の材料が作られた科学的原理がわかっても、さらになぜ地球上に生物が発生して進化したのかという、存在論的問いにも答えはでない。
素粒子に生物のDNAまで盛り込まれていたというのだろうか。

そうであっても「なぜ」そうなのか、は科学の世界で答えは出ないだろうし、哲学的に問うても、人間にとっては「わからない」としか言えないままかもしれない。


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性善説と性悪説

2013年10月07日 | 哲学・心の病
本の帯に「性善説か、性悪説か」と書いてある『右手に論語、左手に韓非子』という本によると、論語が性善説であり、韓非子が性悪説だそうだが、現代の日本は性善説が残っている社会だが、外国や中国などは性悪説であるとしている。
基本的に性善説は、人を信用する前提なので、脇が甘くなってしまうが、性悪説を前提にするならば、人は利益に執着するとみて統治することになるという。
著者の立場は、性善説の良い部分を残しながら、性悪説で補完するという考えのようだ。

たしかに、日本の社会は外国と比較して、性善説が前提であることを感じる場面は少なくないのではないか。
田舎では、よく無人販売店があったりするし、そこまでではなくとも、自動販売機の多さに外国人は驚くという。

しかし一方で、刑法をはじめとする法治国家という存在そのものが、すでに性悪説を前提としていると言える。
刑法とその効力が整備されなくては、犯罪がなくならない社会ということであれば、性悪説を前提としなければならないのだろう。

しかし、法律でこそ社会の安定が図れるとする性悪説に対して、そうではないやり方で社会の安定を目指すのが性善説であるから、日本の社会において性善説が残っているとするならば、その背景と歴史はよく自覚しておきたいものだ。
論語が性善説であり、それが昔から読み継がれてきたことが土台にあるならば、韓国も中国も同じ土台ではないのだろうか。

池田晶子さんは、人は善を知れば善をなす存在としているのだから、性善説ともいえるが、悪を知って悪をなす人はいない、と言っているので、決して性悪説の対立概念として言っているのではない。

『「性善説」という言い方は正確ではない。
何かうまい言い方はないものかと、かねてから思っている。
「性悪説」に対して「性善説」があるのではない。
人は自分を知ろうとすることによって自ずからそうなるというそのことが、言ってみれば、「善」ということなのである。
誰もわざわざ「自分にとって」悪いことを、するはずがないからである。』

つまり、悪が定義として自分に悪いことなのだから、人は悪を行うはずはなく、それでも悪を行なうのは、それを悪と知らないからなのだ。
だから、池田晶子さんの辞書には、性悪説は定義上ありえないことになるのであろう。

通常の性悪説の悪は、利益に執着して犯罪でも起こすという趣旨であり、社会にとって悪でも自分にとっては善いと考える行動を指すのであるから、そもそも善も悪も相対的なもので人によって違う。

池田さんは、そのような言葉の意味が相対的となるような定義は採らず、絶対的なものと採る。

自分にとって善いということは、それは社会にとっても善いことでなければ、それは善とはいえないのだ。


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