哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

論理的な討論(論じる文とは?)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
ネットにアップされている意見を読むと、私も含めて、何か勘違いをしている人を見かけるときがありますが、理想的な討論とはどういうものかを紹介することによって、今以上に、ネットを楽しいものにしてほしいと、私は思っております。

〈「小説」の書き方と、「論じる文」の書き方は異なる〉

日本では文学を中心とした国語教育が行われており、そのなかでは「理解しにくい文章を読解する」訓練は徹底して行うのに対して、「理解しやすい文章を書く」訓練はあまり行われていないため、日本人は論理的な文章を書くのが苦手であると言われています。
小説・文学には作者の意図を明確に表現することをあえて避け、暗に含ませるような表現方法を用い、読者が作者や登場人物の気持ちを推察することにより盛り上げる手法があります。
しかしそのような手法を用いて“論じる文章”を書いてしまうとわかりにくい(=他人を説得できない)文章になっていまします。
(”論じる文章”とは自分の意見を表明して他者を説得するために書く文章のことです)。
しかし文学中心の国語教育に慣れた日本人は小説の書き方で“論じる文章”を書いてしまいがちです。
すると書き手側と読み手側の双方に次のような問題が生じます。

「書き手の側の問題」

・書き手は主張の「根拠」を十分に説明しない。
・読み手のほうから根拠を推察してくれることを期待する。
・書き手の意図が十分に正しく伝わらなかったとき、書き手がその原因を読み手の読解力の低さに責任転嫁する。

このような書き方だと本来の意図を理解できる人はもともと書き手と同じ意見を持つ人か、論題の予備知識が豊富な人、推察能力に非常に長けた人に限定されます。
もちろん異なる意見を持つ人に対する説得力は格段に低下します。

「読み手の側の問題」

読み手は文学教育の副作用により「書き手の意図を想像力を駆使して推察しなければならない」と信じ込んでいます。
すると書き手の説明不足により根拠や意図が明言されていないときでも、読み手は想像力を働かせて書き手の意図と異なる解釈を導き出してしまうことがあります。
さらにやっかいなのは読み手がその誤った解釈に基づいて反論を展開することがあるからです。
その行為が図らずも「ダミー論証」と呼ばれる詭弁に発展します。

具体例を見てみましょう。

A氏 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

A氏は、「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」などとは一言も言っていないのに、B氏は自分の想像で解釈を誤っています。
これは意外と無意識にやってしまいがちです。
みなさんも掲示板の議論などで自分はそのようなことは一切言っていないのに、相手には言ったことにされているという経験(あるいはその場面を目撃したこと)があるかもしれません。

「まとめ」

〈論理的な書き方〉書き手は主張の結論、意図を明言し、また根拠を十分に書くことにより、読み手に“推察”の余地を残すべからず。

〈論理的な読み方〉書き手が明言していない事柄や根拠を想像で決めつけないよう気をつけ、不明な点は質問すべし。

最新の画像もっと見る