哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

議論-お互いに「寛容」であることが基本

2013年11月29日 | 哲学・心の病
【お互いに「寛容」であることが基本】

人間関係を悪くする議論の一つのパターンは、主張の中に人格攻撃や価値判断が入り込んでしまっている場合です。
相容れないような立場に立つ者同士がお互いに「寛容である」ことを基本にして、「そういう可能性もありますね、そちらの立場から見るとそうですね。確かに言われてみればそういうことも考えられますね」という態度で議論をしていけば、そこで共通の認識をどんどん増やしていくことができます。
議論というのは必ずしも何かを決定することではなく、「あ、なるほど、そういう意見もありますね」というように、相手を理解することにこそ本質があります。
そこには「理解はするけれど、ここは譲れません」という線があってもいいのです。
ただ、「そういう事情があればそう考えることも理解できます」という相互理解を得ることこそが主たる目的なのです。
そういう態度で議論に臨めば、価値判断が違う人同士であっても、話が合うこともあるのです。
「あれ、求めているものは、そんなに違わないですね」。
「そうですね。もちろん立場は違いますけど、この問題に関してはわれわれの意見は一致しますね」。
というように、前向きの議論に向けたやり取りができるようになるのです。

by ニコタ寛容

池田晶子さんの遺した言葉

2013年11月29日 | 哲学・心の病
【池田晶子さんの遺した言葉(ある方のブログから引用)】

哲学的なエッセイを書かれた池田晶子さん(2007年没)が、15年前に新聞で述べたことが今のわれわれにも当てはまり、考えさせられることがある。
少し長くなるが、引いてみよう。

『現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。

現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。

地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。

ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。

政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。

国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。

世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。

税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。

むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。

だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。

問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。

(中略)

半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。

制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。』

by 池田晶子


【閲覧者の皆さんへ】

池田晶子さんの意見に、私が妄信的に共感していると「誤解」しないで頂きたい。
この記事においても、それは間違っているのではないかと懐疑的な箇所があります。

そして、私は、どれほど世間的評価が高い論客でも、是々非々で評価しています。
例えば、田原総一朗氏、青山繁晴氏でもです。

また、私は、どれほど世間的評価が低い論客でも、是々非々で評価しています。
例えば、極右、極左でもです。

※【是々非々】とは、ぜぜ‐ひひ【是是非非】《「荀子」修身の「是を是とし非を非とする、これを知といい、是を非とし非を是とする、これを愚という」から》よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。


【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

「うつ病」かどうかの診断基準

2013年11月26日 | 哲学・心の病
【診断基準(DSM-)「大うつ病エピソード」】


※専門的な表現をわかりやすくするために、一部、表現を変えています。

※相談しやすい人(例えば、ご両親とか)とご一緒に、診断した方が良いかもしれません。

※厳密に考えずに、おおよそ、そのような症状であるかどうかで、判断して下さい。



A.以下の症状のうち5つ以上が、2週間以上ある。

以下の症状のうち、少なくとも1つは、(1)抑うつ気分、あるいは、(2)興味または喜びの喪失であること。

(1)ほとんど1日中、毎日の抑うつ気分が見られる。
(その人自身の言明(悲しみ、空虚感を感じる)か、他者の観察(涙を流しているように見える)でもよい。※「精神科医」用の表現になっています。)

(2)ほとんど1日中、毎日の全て、または、ほとんど全ての活動における興味、喜びの著しい減退がある。
(本人の言明か、他者の観察でもよい)

(3)食事療法をしていないのに、著しい体重減少か、増加、または、ほぼ毎日の食欲の減退か、増加がある。

(4)ほとんど毎日の不眠、または睡眠過多がある。

(5)ほとんど毎日の焦燥感(焦り)、または思考静止(何も考えずにボーッとしている)がある。
(他者の観察でもよい)

(6)ほとんど毎日の疲労感か、気力の減退(やる気が起きない)がある。

(7)ほとんど毎日の無価値感(全てが無意味と感じる)か、過剰であるか不適切な罪責感がある。

(8)思考力や集中力の減退、または決断困難がほとんど毎日みられる。
(本人の言明か、他人の観察でもよい)

(9)死についての反復思考、希死念慮(自殺願望)、自殺企図(自殺しようとする)、または、はっきりとした自殺計画(自殺のための準備をする、例えば、自殺方法を具体的に考えたり、身辺整理をするなど)がある。


B.躁うつ病ではない。
(症状は混合性エピソードの基準を満たさない。)


C.症状は、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。


D.症状は、物質(乱用薬物、投薬)の直接的な生理学的作用、または一般身体疾患(甲状腺機能低下症など)によるものではない。


E.症状は、死別反応でうまく説明されない。
すなわち愛する者を失った後、「Aの(1)~(9)の症状のうち5つ以上」が、2ヶ月以上続いている。


※「A~E」すべてに該当している場合は、「うつ病」だと思われます。


【閲覧者へのアドバイス】

これはあくまでも「自己診断」ですので、「うつ病」だと思われる方は「精神科医の診断」をお受け下さりますよう、お願い致します。



【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のない「ご質問」やご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

相対性理論による宇宙船の中の時間の進み方

2013年11月26日 | 哲学・心の病
アインシュタインの相対性理論によると、速度vで動いている宇宙船の中の時間の進み方は、静止している人の時間に比べて、

ルート(1-(v/c)^2) 倍

となります(cは光速)。

もし、ジェット旅客機でニューヨークへ行ったならば、旅客機の速度vを上の公式にあてはめて計算した数値倍の時間の進み方になります。
例えば、ニューヨークまで静止(地上)時間で1時間かかり、旅客機の速度をc/2とすると、

1時間×ルート(1-(c/2c)^2)=1時間×ルート(1-1/4)=ルート(3/4)時間

でニューヨークに着き、

1時間(静止時間)-ルート(3/4)時間=約8分

だけ時間の進み方が遅れて到着します。
つまり、約8分後の未来に行ったことになります。

(自転している地球の)高層ビルの最上階に住んでいる人は、下の階(例えば、1階)に行くたびに、未来に行っていることになりますが、その速度差(例えば、「最上階の速度」-「1階の速度」)があまりにも小さいので(約ゼロなので)、未来へ行ったと言うことができる程ではないのです。

しかし、厳密に言えば、私たちは未来に行った経験があることになります。

男女の脳の機能の違い

2013年11月26日 | 哲学・心の病
【狩猟時代から培われてきた能力が、今も男女の脳に刻まれている!】(1/2)

――そうした男女の脳の機能の違いが、なぜ人間に備わってきたのでしょうか?

人間の体とその機能は、何百万年というような極めて長い時間を経て、進化・退化を繰り返し、今の状態に至るものです。そこで一つの説として考えられているのは、人間の歴史で一番長かったのは「狩猟生活」であり、ここで必要とされ培われた能力が、今も人間の体に備わっているのではないかということです。狩猟生活時代、男は外へ猟りに出て食料を得てくるのが最大の仕事です。食料がなければ生きていけませんから、その能力に、自分や周りの人間の生死がかかっています。一方、女は洞窟などで家族を守りながら、食料が来るのを待ち、調理したり、子供の世話をしたりする……そうした行動を全うできることが生きるための最低条件ですから、この生活に適した能力が、男女それぞれの脳の働きに組み込まれていったのだと思います。その後、今から1万5,000年ほど前に農耕生活が始まりましたが、多くの人が食べるのにそう困らなくなる、文明が急速な発達を遂げる、男女同権の理念が広がるなどの動きは、実はわずかこの100年内のできごと。時代は急速に目覚ましい変化を遂げ、今は男女の役割分担の垣根もぐっと低くなってきていますが、人間の脳はそう急速に変わるものではなく、今も何百万年に渡る生活の歴史がしっかりと刻まれている、ということではないかと思います。


――狩猟生活で必要となった男女の能力というのは?

男性に備わっていったのは、獲物をしとめるために必要な「空間認識」の力。この力は右脳の頭頂葉という部分が担っているのですが、ここは「空間を正しく捉える能力」を発揮する部分で、脳の中で唯一、女性より男性の方が機能的に優れているところです。狩猟生活で男性は「遠くにいる獲物を見つける」「獲物の距離にあわせて槍を投げる」「道に迷わないよう自分の位置を常に把握しておく」といった能力が求められます。そのため、男は必然的にこうした能力が磨かれ、その能力の高い人が獲物を多く獲ることで、女性から優秀な男として認められ子孫を残すことができたというわけです。


【狩猟時代から培われてきた能力が、今も男女の脳に刻まれている!】(2/2)

実はスポーツの多くもこの「空間認識」を必要とします。ですから、例えばキラーパスを出すサッカー選手などは、男性として相当優秀だということを皆に披露しているわけで、スポーツ選手が女性に人気があるのは、狩猟時代以来の伝統と言えるかもしれません(笑)。空間認識の力が必要なジャンルは他にもたくさんあります。絵画は三次元的なものを二次元的に表現するもので、音楽も二次元的なものを立体的に表現するもの。ゆえに著名な画家や音楽家には男性が多いんですね。三次元に建築物を構築する建築家、大工さんなんかもそうだし、手術などで人間の体を立体的に把握しなければならない外科医もそう。今のように男女の教育の平等化が進みながら、それでもこうした職業に男性の方が多いのは、「男性の方が右脳が発達しやすい」という、脳の性質の違いに起因しているのではないかと考えられます。


――女性にはどういう能力が身に付いたのでしょう?

女性は留守の家を守り、家族の面倒を見るなど、家にいる時間が長くなります。そうすると自分の夫の情報を知るため、また安全な生活を送るために「情報交換」が必要になり、会話能力が発達し、言葉遣いも流暢になります。女性は今も井戸端会議好きだったり、外国語の習得が得意な人が多かったりしますが、そこには何百万年も前から行なわれてきたおしゃべりの成果があるわけです(笑)。また、女性は同時に複数の作業をこなす「マルチタスク」の能力に秀でています。それは、女性が子供や家族の面倒を見ながら、花や木の実を摘んだり、料理をしたりという行動を当たり前のこととして続けてきたからではないかと思います。だから左右の脳の交通性もより発達し、いろいろなことを同時に器用にこなせるようになったのでしょう。男性の多くはこれが苦手で、何か一つのことをするには、他のことをシャットアウトしたいと思うものです。例えば、男性は電話で大切な話をしているときにテレビは消してほしいと思いますが、女性はあまり気にすることなく両方を同時進行していたりします。

タイムトラベルは可能か?

2013年11月24日 | 哲学・心の病
相対性理論による時間の伸び縮みを利用すれば、「未来へのタイムトラベル」が原理的には可能になります。

たとえば、「光速に近い速度で運動してもどってくる」という方法、または「ブラックホールなどの重力の強い天体のそばまで行ってもどってくる」という方法です。こういった方法なら、旅行者にとってはわずかな時間しか経っていないのに、地球では長い年月が経っている、といった状況をつくることができます。

実際は、惑星探査機ですら10~20km程度でしかなく、光速(秒速30万km)に近い速度での宇宙旅行は夢のまた夢でしょう。また、ブラックホールも、太陽系外の遠い彼方にしか存在していないようなので、こちらの方法も近い将来の実現はむずかしいでしょう。とはいえ、原理的に未来へのタイムトラベルが可能というのは、夢のある話です。

では、過去へのタイムトラベルはどうでしょうか。実は一般相対性理論によると、特殊な状況の下では、過去へのタイムトラベルも原理的には可能だといいます。

特殊な状況とは、宇宙全体が回転していた場合や、離れた2地点を結ぶ、時空のトンネル「ワームホール」が実在していた場合などです。ただし、実際の宇宙は回転していません。また、ワームホールも理論的に存在が予言されてはいますが、宇宙に実在する証拠はみつかっていません。

しかし、もし原理的にでも、自然界が過去へのタイムトラベルを許しているとしたら、それは大問題です。なぜなら、過去へのタイムトラベルは、過去の歴史を改ざんできる可能性を開いてしまうからです。

タイムトラベラーが過去にもどって自分の祖父を殺してしまったとしましょう。そうするとタイムトラベラーは生まれなくなってしまいます。そうする過去へのタイムトラベルもできないので、祖父が死ぬこともありません。つまり矛盾です(祖父殺しのパラドックス)。

過去へのタイムトラベルは、このようなパラドックスを生みだすため、多くの物理学者は、一般相対性理論をこえた何らかのメカニズムが、過去へのタイムトラベルを禁じているのではないか、と考えているようです。しかし、現代物理学をもってしても、この問題の最終的な解答は得られていません。

by 現代物理学


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ロボットは生命になりうるか?

2013年11月24日 | 哲学・心の病
私は、原理的にはロボットも生命のようになりうるという見方をとるべきだと思います。
ロボットたちが自己複製し、彼ら自身に似た娘ロボットをつくることができるかもしれないし、生きた有機体が進化するのと同じように進化できるかもしれないからです。
もっとも、彼らは、このようなことを気にする必要がないかもしれません。
彼らはすでに、ほかの方法で彼らの遺伝情報を複製することができますから。

フォン・ノイマン以来、人々は自己複製するロボットの可能性を探ってきました。
そして、それが可能であるという主張に対する、核心をつく理性的な反論はないと思います。

私は、ロボットは生命になりうると思います。
そもそも生きている有機体自身が物質でできた存在だと考えるからです。
ただし、原理的には可能でも、非常にむずかしいことかもしれません。
実際上の困難はあることでしょう。

by リチャード・ドーキンス博士


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ギリシア人にとり議論は一種のパーティー

2013年11月19日 | 哲学・心の病
「議論を通じてよりよい結論に至ることができる」と考えていた古代ギリシア人にとって、真理に近づくことができる議論の時間は、人生の至福の時でもありました。
哲学を英語で「フィロソフィ」と言いますが、もともとはギリシア語「フィロソフィア」でソフィアは「知恵」、フィロは「愛する」という意味です。
つまりフィロソフィとは「知識を愛する」という意味の言葉なのです。
日本語では「哲学」と呼んでいますが、本来なら「愛知学」とでも訳すべきなのかもしれません。

知を愛するギリシア人にとって、議論は一種のパーティーでした。
プラトンの有名な著作に『饗宴(きょうえん)』がありますが、原題はシンポジウムの語源になった「シンポシオン」です。
これがまさに饗宴、宴(うたげ)という意味なのです。
ギリシア人は、仲間で集まってただ酒を飲むだけでは満足しませんでした。
そこには議論が不可欠だったのです。

たとえば、「エロス(愛)とは何か」という設問について一人ひとりが自分の主張を述べ合うのです。
誰かの意見に対して次の人は「いやいや、そうじゃなくて……」と違う意見を述べる。
そうして、誰の意見が最も優れていたかをみんなで判定しながらお酒を飲む。
それが彼らにとっての何よりの娯楽でした。

そこで得た結論は、別にどこかに記録されて「エロスとは〇〇である」と定義が共有されるわけではありません。
一ヵ月後にもう一度「エロスとは何か」という議論をしたときには、みんなまた違うことを言うかもしれないのです。
前回の議論を踏まえて、「前回はここまで議論が煮詰まったから、もう話す余地がないね」という考え方はしませんでした。
その時その時で、また違った主張の材料があれば、議論の内容もまた変わっていく。
もう一度、「エロスとは何か」の議論で楽しめてしまう。
そういうスポーツ的な楽しみを議論の中に見いだしていたのです。


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詩『子は親の鏡』

2013年11月18日 | 哲学・心の病
前回の記事(池田晶子「さて大人はどう答えるか-善悪」)で、
『』で囲んだ文面は、はっきり言って、私は納得することができなかった。
(『』の部分に共感した方がおられたら、私でも納得することができるよう、ご説明して頂きたい。)

そこで、私でも納得することができる「子供に善悪を教える方法」をネットで調べたら、『子は親の鏡』という次の詩に出会った。


詩『子は親の鏡』

けなされて育つと,子どもは,人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと子どもは,乱暴になる
不安な気持ちで育てると,子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると,子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると,子どもは,「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば,子どもは,自信を持つようになる
広い心で接すれば,キレる子にはならない
誉めてあげれば,子どもは,明るい子に育つ
愛してあげれば,子どもは,人を愛することを学ぶ
認めてあげれば,子どもは,自分が好きになる
見つめてあげれば,子どもは,頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば,子どもは,思いやりを学ぶ
親が正直であれば,子どもは,正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば,子どもは,正義感のある子に育つ
やさしく,思いやりを持って育てれば,子どもは,やさしい子に育つ
守ってあげれば,子どもは,強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば,子どもは,この世の中は良いところだと思えるようになる


と、以上がその詩であるが、常識のある大人であれば上記の詩に共感するのではないだろうか。

しかし、その分野のほとんどの専門家は、「性格は、遺伝が50%で、環境が50%」と言っている。
もしそれが正しいとするならば、上記の詩のように素晴らしい育て方をどんなにしても、性格形成への影響は50%ということになり、育て方ではどうにもならない遺伝が、性格形成の50%を担っていることになる。

すなわち、育て方も大切であるが、それと同じくらい、遺伝も大切だということである。


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池田晶子「さて大人はどう答えるか-善悪」

2013年11月18日 | 哲学・心の病
 子供の非行に歯止めがかからないので、文部科学省が慌てている。
 「抽象的にではなく言葉で善悪を教えよ」と、大臣が言ったとか言わないとか。かなりのパニックであることが、この発言からもわかる。抽象的にではなく具体的にしようとすると、「市中引き回しのうえ打ち首」ということになるのだろうか。いずれにせよ、あまり実効がありそうには思えない。
 大人たちがパニックになるのは、実は自分たち自身が、善悪の何であるかを知らないからに他ならない。知らないものは教えようがない。彼らは、自分たち自身の無内容を改めて知り、実はそのことに慌てているのである。
 子供に善悪を教えるにはどうすればいいか。おそらく彼らはとりあえず、「万引きは悪い」「売春は悪い」「人殺しは悪い」と教えるだろう。しかし、もしこれが「教える」ことであるなら、「なんで悪いの」という子供の問いには、答えられなければならない。教えるとは、自分が知っていることを教えることのはずだからである。さて大人はどう答えるか。
 おそらく答えられない。あるいは苦しまぎれに、「悪いものは悪い」「悪いに決まっている」と、答えるかもしれない。それなら子供は言うだろう。「だって大人だってしてるじゃないか」。
 じっさい、警官が泥棒したり、教師が買春したり、お互いにわけなく殺し合ったりしている大人の口から、言えた義理ではあるまい。善悪を教えること自体の偽善を、子供は正しく看破するのである。
 ではどうするか。皆がしているからといって、悪いことが善いことになるわけではない。これを教えなければならないのである。なぜ善いことは善いことで、悪いことは悪いのか。
 ほとんどの人は、善悪とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと、実のところは思っている。「自分さえ善ければ善い」という言い方が、端的にそれである。これをもう少し巧みに言うと、「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に買春し、自分に正直に殺人するのも、法律に触れなければ、善いことなのである。
 しかしこれは間違いである。善いということは、社会にとって善いことなのではなく、自分にとって善いということなのである。おそらく、殺人者とて言うだろう。「自分にとって善かったから殺したのだ」と。
 この時の「自分」が問題なのである。普通は人は、自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから、自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。
 むろん悪くない。いや正確には、人は自分が善いと思うようにしか生きられない。だからこそ、それを善いとしているその「自分」の何であるかが、問題なのである。
 自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったのか。
 よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、

『おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。いったいこれはどういうことなのか。
 こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。これは抽象ではない。言葉によってそれを教えるとは、考えさせるということだ。考えて気づいたことだけが、具体的なことなのだ。
 気づいてのち知る善悪は、何がしか「天」とか「自然」とか、そういったものに近いはずだ。人が、個人などという錯覚を信じ、天を忘れるほど、世は乱れるのは当然である。しかしそれも、たかだかここ数百年のことにすぎない。古人たちは知っていたのだ、「天網恢恢疎にして漏らさず」。』

by 池田晶子


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ニコッとタウン、サークル『哲学的な何か、あと……とか』

2013年11月18日 | 哲学・心の病
【ニコッとタウン、サークル『哲学的な何か、あと……とか』の紹介文です】

(※あわせて、私のブログ「重要なお知らせです-改版1」「重要なお知らせです-追記1」も、できれば読んで頂きたいのですが…)

『哲学的な何か、あと……とか』を、常識のある大人たちが集って語り合うサークルです。

(『あと……とか 』とは、ご意見、ご質問、ご相談など『何でも』ということで、ご遠慮なく、お気楽に、掲示板に『何でも』アップして下さい。)

年齢制限があり、30歳以上とさせて頂きます。
ただし、私と交流されている方は、年齢制限がありません。

サークル活動は、臨機応変で進めていきたいと思っております。

「ROM」でも構いませんし、「退会」「再入会」「再退会」…の繰り返しもご自由です。
(このサークルは「自由主義」で、強制的と感じる規則はありません。)

【メンバーの皆さんへ、お願いがあります】
このサークルに参加してほしい方がおられましたら、その方にも、このサークルを紹介して下さりますよう、お願い致します。

【ご注意】
誹謗中傷など、このサークルにふさわしくない「書き込み」は、アップされた方のご承諾を得ずに、削除させて頂きます。


【管理者のご紹介】
哲学、精神医学、心理学、生物学、理論物理学、風俗など、人に関するあらゆることを、日々、哲学的に考えています。
基本的には、文筆家、故、池田晶子さんと同じ考えを持っています。

ご交流している皆さんへ【重要なお知らせです!】

2013年11月18日 | 哲学・心の病
〉ご交流している皆さんへ

【重要なお知らせです!】

お忙しいなか、私のつたないブログを読んで頂き、そして、ブログに大変勉強になる素晴らしいコメントを頂き、言葉にできないほど感謝しております。
それにもかかわらず、私個人の諸事情により、そのコメントにご返事を書かないでいること、言葉にできないほど申し訳なく思っております。

そこで、その解決案として、私のニコタ・マイページの下部で公開している参加サークル「哲学的な何か、あと……とか」(現在の管理人は私)に、これからは、私のブログを掲載し、ご参加メンバーの皆さんで、コメントのご交流をして頂きたいと思っています。
つまり、私がご返事を書かせて頂くかわりに、他の方にご返事をお書き頂きたいと思っています。

そして、ご参加メンバーの皆さんもサークルの掲示板に、ご自分のブログなど(ご質問、ご相談など、何でも結構です)をご掲載して頂いても構いません。

とりあえずは、以上の通りに行わせて頂き、その経過を見ながら、臨機応変に対応させて頂きたいと思っています。

以上、よろしくお願い致します。


※上記のサークルの設定は、現在、「今すぐ参加可能」(管理人の許可は不要)、「掲示板・参加者などは、メンバーのみに公開」(メンバー以外には非公開)になっております。


【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

池田晶子「死ねば楽になれるのか-再び自殺」

2013年11月16日 | 哲学・心の病
 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。つまり、もう生きていないから、生きなくてもすんでいるから、楽になったように見えるのである。しかし、ここでもむろん、我々は立ち止まることができる。
 なるほで、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたら、どうする。
 「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。
 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。そんなものは、なんにもないはずである。ゆえに、無になることが楽になることだと言っている人は、無になることが楽になることだと言っているのでは、じつはない。正確には、生きていることの苦しみが無になること、それが楽になることだと言っていることになる。
 けれども、ここでもなお我々は立ち止まることができる。つまり、この理屈によれば、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。要するに、生きていることの苦しみが無になることが楽になることだというのは、あくまでも、生きている自分がそう思っているだけだということである。ということは、死ねば楽になるなんてことは、やっぱり、ないということである。
 えい、うるさいわ、理屈なんぞはどうでもいいわ。とにかく自分はこの苦しみから逃れたいのだ、死んですべてを無にしたいのだ。かくして人は、自問自答の堂々巡りの末に、衝動的に死ぬのであろう。
 ああ、しかし、うるさいようだけれども、それでもなお我々は考えられるのである。いやここでこそ、せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。
 なんとまあおかしいじゃないの。無は、存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々には可能なものであろうか。
 じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。在るものは在り、無いものは無いなんて理屈は、理屈ですらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きゃ尾は東、みたいなもんである。なあんだ、というようなもんなのである。
 とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、上のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。

by 池田晶子


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池田晶子「死は現実にはあり得ない-自殺」

2013年11月14日 | 哲学・心の病
 年間の自殺者は3万人を超える。交通事故死者よりずっと多い。とくに最近は中高年の自殺が増えている。
 ネット心中の場合は、あれを心中と言うべきなのか、みんなでなんとなく気分にまかせて、といった趣きだが、こちらはおそらくそうではない。おそらく、一人で深く思い詰めて、しかし最後まで周囲を気遣って、という人が多いと思われる。
 人間は自殺する唯一の生物である。以前にも述べたけれども、それは、人間が観念としての死をもつからである。観念としての死とは、要するに、現実の死ではないところの死である。しかし、現実の死、つまり自分が現実に死ぬ時には、自分が現実に死ぬのだから、自分が現実に死ぬのではない時の死は、すべて観念としての死である。ということは、生きている限り、人間にとっての死は、すべて観念だということである。死は現実にはあり得ないという、驚くべき当たり前のことである。
 当たり前、よく考えると確かにこの通りなのだが、当たり前のことほど人は考えないものだから、多くの人はこの当たり前に気づかないまま、一生を終えることになる。それが、他人事ながら、もったいないと言えばもったいないような感じがする。
 自殺する人は、どうして自殺するのだろうか。
 絶望して、追い詰められて、他にもどうしようもなくなって、つまり、もうそれ以上生きていたくなくなって、人は自殺するのである。観念であるところの死は、通常は、恐怖されて避けられる対象となるが、この場合は、求められ、欲せられる対象となる。しかし、考えられていない死が、恐怖の対象であるという点は、おそらく変わっていない。ゆえに、この時、死は欲せられながら恐怖されるわけである。恐怖されながら、欲せられるわけである。これはものすごい葛藤であるはずだ。やはり他人事ながら、この葛藤を想像すると、それだけで気の毒な感じになる。
 で、この葛藤を超越するために、自殺する人はどうするかというと、衝動に身をまかせるのである。発作的に死ぬのである。たぶんそうだと思う。何がどうあれとにかくもう生きていたくはないのだ。ただその思いだけで、エイヤッと跳ぶのである。
 ところで、再び冷静に考えてみたい。人が、「生きていたくない」つまり「死にたい」と思うということは、死ねば、生きなくてすむと思うからである。死ねば、死ねると思うからである。しかし、これは本当なのだろうか。
 なるほど、生きなくてすむためには、自分を殺すしか方法はない。自分を殺すということは、自分を無くするということである。自殺する人は、自分を無くすることを欲して、つまり無を欲して、自殺するのである。しかし、死ぬということは、無になるということで、本当にいいのだろうか。
 なるほで、死んだ人はいなくなって、無になったように、生きている我々には思える。けれども、死んだ人は死んで無になったと本当に思っているのなら、なんで我々は墓参りなどするものだろうか。なんで心の中で語りかけたりするものだろうか。これは、死んだ人は無になったとはじつは誰も思ってはいないことの、まぎれもない証左であろう。
 だからと言って、これは、死後にもなお何かがあるという話とも、ちょっと違う。死後を云々する人とて、生きている人なのだから、そんなのが本当なのかどうかわからないのは道理である。唯一確かに言えるのは、以下の恐るべき当たり前、すなわち、無なんてものは、無いから無である、このことだけなのである。
 その意味で、自殺は逃げであるというのは、まったく正しい。我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。

 死なんとする人、待たれよ、しばし。

by 池田晶子


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野矢茂樹「批判に対して……」

2013年11月12日 | 哲学・心の病
自分が言ったことが批判されていく。
で、その批判に対して、何か誠実に応対していく。
誠実に応対して、自分の考えを修正し、訂正し、またパワーアップしていくというようなことを本当に数えきれないぐらい、うんざりするぐらいやっていかなければダメなんだろうなと。
(中略)
批判されて、批判しても、傷つかない。
そういう場が必要なんだと思う。
それはあまり、世間的にはやりにくいことで、大学(ニコタ by ?)の中っていうのは、やりやすい場所だと思うんですよ。
(中略)
さあ、ここは批判してごらんというようなことをお互いにやりあえる。
大学のときに(ニコタで by ?)そういうのを存分にやっておかなくちゃ、やっぱりいけないと思うな。

by 野矢茂樹


私のつたないブログへも、ご批判がございましたら、ご遠慮なくお書き下さりますようお願い致します。

なぜならば、極端な言い方を致しますと、ご賛同よりもご批判の方が、私には見えなかった視点からのご意見を得ることができ、大変勉強になると思いますので。

但し、こう見えましても私は打たれ弱いところがありますので、お手柔らかにお願い致します。


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以前、ブログに書きました「カミングアウト」は、変身願望(かな?私にもよくわかりません)による言動で、いわゆる「ジョーク」でございます。


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