哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

「いじめ」を減らすために(モラル編)

2014年02月25日 | 哲学・心の病
バスのシルバーシートに、高齢者でない者が座らないようにするためには、「モラル」、「法律」、「経済」の三つの方法があるということを、ある本で読んだことがあるが、今回は、いじめを減らすための対策として「モラル」について書いてみたい。


【「いじめ」を減らすために(モラル編)】

私は、以前に読んだ『国家の品格』に書かれている藤原正彦氏の提案を、「家庭」や「学校」で教育するべきだと思っているので、それを紹介したい。

『私にとって幸運だったのは、ことあるごとに「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした。
父からはいつも、「弱い者いじめの現場を見たら、自分の身を挺してでも、弱いものを助けろ」と言われていました。
父は「弱い者がいじめたれているのを見て見ぬふりをするのは卑怯だ」というのです。
私にとって「卑怯だ」と言われることは「お前は生きている価値がない」というのと同じです。
だから、弱い者いじめを見つけたら、当然身を躍らせて助けに行きました。
私は体格がよく力も強かったので、必ずいじめている者たちを蹴散らしました。
それを報告するたびに父は本当に喜んでくれました。
あれほど喜んでくれたことは、ほかにはほとんど思いつきません。
(中略)
父は、「弱い者を救うときには力を用いても良い」とはっきり言いました。
ただし五つの禁じ手がある。
一つ、大きいものが小さいものをぶん殴っちゃいかん。
二つ、大勢で一人をやっつけちゃいかん。
三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん。
四つ、武器を手にしてはいかん。
五つ、相手が泣いたり謝ったりしたら、すぐにやめなくてはいかん。
「この五つは絶対に守れ」と言われました。
しかも、父の教えが非常に良かったと思うのは、「それには何の理由もない」と認めていたことです。
「卑怯だから」でおしまいです。
で、私はその教えをひたすら守りました。
例えば「男が女をぶん殴っちゃいけない」と言ったって、簡単には納得しにくい。
現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる。
しかし、男が女を殴ることは無条件でいけない。
どんなことがあってもいけない。
しかもなんの理由もない。
そういうことをきちんと形として教えないといけないということです。』

スポーツとバトル

2014年02月23日 | 哲学・心の病
塩野七生さんによると、

オリンピックでの戦いを、単にスポーツとして捉(とら)えるか、それよりも真剣なバトルとして捉えるかによって、勝とうとする本気度が違うという。

日本は他の国に比べて、スポーツとしてしか捉えていないから勝てないらしい。

さらには、裕福で心配の少ない国ほどバトルに真剣にならないためか、スポーツの勝負に勝てないという。

余談ではあるが、

生活に心配のない国ほど、今度は残忍な虐殺事件が起きてしまうとして、ノルウェーの乱射事件を例にあげている。

オリンピック観戦

2014年02月19日 | 哲学・心の病
『オリンピック選手というのは自分ではないが、なぜ人は他人の勝ち負けを、我が事のように喜んだり悔しがったりしているのであろうか。
言うまでもない、それが自分の国の選手だからである。
自分の国の選手だから人は応援するのだから、人々の意識は国同士の勝敗にある。
だから、国家と国旗なのである。
他の国と争って勝つことがオリンピックの精神なのだから、これはその意味では戦争の精神である。
戦争の精神によって、なんで平和の祭典なのだろうか。
要するにあれは代理戦争なのである。』

これは、池田晶子さんの意見であるが、グローバル化が進んでいる現在の日本人は、彼女がいうほど日本人選手のみの勝敗にこだわってオリンピックを観戦しているのだろうか?

少なくとも、私は、そうではない。
私は、日本人選手の勝敗よりも、どこの国の選手であろうと、その選手のパフォーマンスや言動によって感動している。

たとえば、他国の記者たちは葛西選手のことを尊敬をもって「レジェンド」と讃えているようだが、私は、そう讃えられる葛西選手の人柄にも感動するが、紳士的にそう讃える他国の記者たちにも感動する。

また、フィギアの団体戦では、他国のチームの選手たちが、ミスをしてうなだれている同じチームの選手を励ましている姿に、私は感動する。

まだまだ他にもあるが、私には、金メダル獲得や国旗掲揚のセレモニーは、それらの感動に比べたら、 遥かに霞んで見え、それらの感動の方が輝いて見える。

なぜ人をいじめてはいけないのか?

2014年02月15日 | 哲学・心の病
『「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う我々は、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。
知っているからこそ、その理由を問うのである。』

これは、池田晶子さんの言葉であるが、私は、何かしらの行いが「なぜ悪いのか(または、なぜ良いのか)」、その問いへの答えとして、彼女の言っていることが、その理由として使えると思っている。

たとえば、「なぜ人をいじめてはいけないのか」という問いの場合、私たちは、「いじめ」は悪いことだとわかっているから、この問いを発するのだ。
悪いことかどうかわからない人は、「いじめ」を真摯に問うことはない。

(わかりやすく?、)別の言い方をすると、なぜと問わない人には、「いじめ」という行為は存在していない。
人は、自分が認識したこと以外は、この世に「存在しない」。
「存在しない」ものは、なぜと問うことはないし、問うことができない。

「いじめ」がまったくない離れ小島で育った人たちは、「いじめ」がどういうものかわからないし、「なぜ人をいじめてはいけないのか」と問うこともない。

と、ここまで書いていて、あるエピソードを思い出した。

南米アマゾンの先住民だったと記憶しているのだが、曖昧だから、間違っているかもしれないが、彼らには、「孤独で寂しい」という気持ちがわからないらしい。
なぜなら、つねに家族的な仲間と一緒にいるからであり、長時間一人になったことがないからである。
だから、彼らは、「なぜ孤独は悪いことなのか」と問うことは、絶対に「ない」。