哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

論理的な討論(三段階の議論力とは?)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
〈三段階の議論力〉

これはあくまでも私個人の見解ですが、議論における合理的な思考力には次の3つの段階があると考えています。

第一段階: 非論理的な思考力の段階。
第二段階: 論理的だが、無菌室の論理にこだわっている段階。
第三段階: 論理的かつ、相手との利害関係、力関係、感情も計算できる段階。

1つずつ説明すると、

【第一段階の人は】
・誤った情報を識別できない。
・上記ゆえ、マインドコントロールにかかりやすい。
・上記ゆえ、第三段階の人に騙されたり、利用されたりすることが多い。
・主張に説得力がないので、他者の協力を得られにくい。
・反論が苦手なので、いつも都合の悪いことを押し付けられる。

【第二段階の人は】
・利害の一致する相手なら説得することができる。
・他人がみな対等な条件で議論に付き合ってくれると信じているので、自分よりも権力の強い相手に議論を挑み、論理とは別のところで圧力をかけられて潰されることがある。
・正論を言っていても相手の面子を潰してしまい協力を得られないことがある。

【第三段階の人は】
・パワーバランスを把握できているので、強力な相手に無謀な戦いを挑むことがない。
・いざ戦うときも、常に自分の立場が有利になるように用意周到に準備して立ち回ることができる。
・交渉をするときは、お互いの利益になる方向へ利害を調整できるので協力を得られやすい。
・相手の面子を潰さないように配慮するので協力を得られやすい。
・相手がまだ論理が理解できない子どもでも、感情を読んで協力させることができる。

次に、第一段階の人の主張によく見られる特徴を挙げてみます。
1.結論だけを述べて、根拠を述べない。
2.自分の考えに自信が持てないので、言葉からも自信がなくなる。
  「思います」「気がします」「かもしれない」という言葉を多用するようになる。
3.相手の人格を攻撃すれば議論に勝てると思っている。
4.自分の意見が批判されると、人格まで傷つけられたように感じて、平常心を失い、怒ったり、引っ込んだり、間違いを素直に認めることができなかったりする。
5.反論をしているつもりなのに論点がずれていたり、無自覚に詭弁を多様する傾向がある。
6.鋭い反論を受けても、自分の主張のどの部分が非論理的だったり根拠が欠けていたりするのかが解らないので、依然として自信に満ち溢れている。

2に関してですが、これから「思います」「気がします」「かもしれない」という言葉を使う人を、注意深く観察してみてください。
根拠を述べていない人が多いはずです。
根拠がないので自信が持てず、その結果、結論を表現する言葉が曖昧になってしまうのです。
なぜなら、結論を明言してしまうと根拠も一緒に述べなければ不自然に見えてしまうためです。
したがって、根拠を述べる責任を追及されないように結論を曖昧にしておくのです。
念のために書いておきますが、これらの言葉を使うこと自体が悪いわけではなく、根拠を述べないと主張の論理性が弱まるという意味で書いています。

3に関してですが、人格を攻撃するのは「対人論証」という詭弁です。

4に関してですが、意見と人格は全く別のものなので傷つく必要はないのです。

5に関してですが、論点が外れてしまうと本人は意図していなくても「論点相違」という詭弁になってしまいます。

論理的な討論(論理的な会話の例)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
〈論理的な会話の例〉

ここでは、初歩的な論理的な会話の例をご紹介します。
次の主張の例を見てください。

一郎 「奈々は近いうちに太るよ。」

この主張は、結論のみの主張です。
これでは、一郎の主張に同意する人はいないでしょう。
では次の主張ならどうでしょうか?

一郎 「奈々は近いうちに太るよ。『だって、毎日コーラばかり飲んでいるからね。』」

この主張は、先ほどよりも論理的です。
なぜなら、この主張には「根拠」(『』の部分)があるためです。
これなら、一郎の主張に同意する人もいるでしょう。
次は、奈々が一郎の主張に対して、反論します。

奈々 「太るわけないわ。」

これは結論だけの反論です。
少しも説得力がありません。
これでは、奈々の反論に同意する人はいないでしょう。
でも次のような反論ならどうでしょうか?

奈々 「太るわけないわ。『だって、いつも飲んでるのはノンカロリーのダイエットコーラだもの。』」

この反論は、先ほどよりも論理的です。
なぜなら、この反論にもやはり「根拠」があるためです。
奈々の反論の根拠、「ノンカロリーのダイエットコーラだから(太らない)」が、一郎の主張の根拠、「コーラばかり飲んでるから(太る)」を打ち消しています。

【まとめ】

根拠のない主張や反論が同意を得られるのは、もともと同じ意見を持つ者からだけです。
意見の異なる人を説得することはできません。

人間は普段、意見を述べるとき自分の頭の中を見ながら話しています。
自分にとっては自明なことであるため、つい根拠を説明するのを忘れてしまうのです。

しかし、相手は自分と同じ知識だとか根拠だとか前提を共有していません。
なので、意見の異なる人を説得するためには、根拠を示して結論までの道筋を示す必要があるのです。

論理的な討論(論じる文とは?)

2013年10月02日 | 哲学・心の病
ネットにアップされている意見を読むと、私も含めて、何か勘違いをしている人を見かけるときがありますが、理想的な討論とはどういうものかを紹介することによって、今以上に、ネットを楽しいものにしてほしいと、私は思っております。

〈「小説」の書き方と、「論じる文」の書き方は異なる〉

日本では文学を中心とした国語教育が行われており、そのなかでは「理解しにくい文章を読解する」訓練は徹底して行うのに対して、「理解しやすい文章を書く」訓練はあまり行われていないため、日本人は論理的な文章を書くのが苦手であると言われています。
小説・文学には作者の意図を明確に表現することをあえて避け、暗に含ませるような表現方法を用い、読者が作者や登場人物の気持ちを推察することにより盛り上げる手法があります。
しかしそのような手法を用いて“論じる文章”を書いてしまうとわかりにくい(=他人を説得できない)文章になっていまします。
(”論じる文章”とは自分の意見を表明して他者を説得するために書く文章のことです)。
しかし文学中心の国語教育に慣れた日本人は小説の書き方で“論じる文章”を書いてしまいがちです。
すると書き手側と読み手側の双方に次のような問題が生じます。

「書き手の側の問題」

・書き手は主張の「根拠」を十分に説明しない。
・読み手のほうから根拠を推察してくれることを期待する。
・書き手の意図が十分に正しく伝わらなかったとき、書き手がその原因を読み手の読解力の低さに責任転嫁する。

このような書き方だと本来の意図を理解できる人はもともと書き手と同じ意見を持つ人か、論題の予備知識が豊富な人、推察能力に非常に長けた人に限定されます。
もちろん異なる意見を持つ人に対する説得力は格段に低下します。

「読み手の側の問題」

読み手は文学教育の副作用により「書き手の意図を想像力を駆使して推察しなければならない」と信じ込んでいます。
すると書き手の説明不足により根拠や意図が明言されていないときでも、読み手は想像力を働かせて書き手の意図と異なる解釈を導き出してしまうことがあります。
さらにやっかいなのは読み手がその誤った解釈に基づいて反論を展開することがあるからです。
その行為が図らずも「ダミー論証」と呼ばれる詭弁に発展します。

具体例を見てみましょう。

A氏 「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏 「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

A氏は、「子供を一日中家に閉じ込めておくべきだ」などとは一言も言っていないのに、B氏は自分の想像で解釈を誤っています。
これは意外と無意識にやってしまいがちです。
みなさんも掲示板の議論などで自分はそのようなことは一切言っていないのに、相手には言ったことにされているという経験(あるいはその場面を目撃したこと)があるかもしれません。

「まとめ」

〈論理的な書き方〉書き手は主張の結論、意図を明言し、また根拠を十分に書くことにより、読み手に“推察”の余地を残すべからず。

〈論理的な読み方〉書き手が明言していない事柄や根拠を想像で決めつけないよう気をつけ、不明な点は質問すべし。