哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

瀬戸内寂聴『忘己利他』

2014年01月27日 | 哲学・心の病
瀬戸内寂聴さんの本に書いてあったある言葉。
それは、『忘己利他』。

自分のことはさておいて、人のために生きるということ。
彼女はそれを心がけておられるそうだ。
自己の利益のために行動する、自分が得をするとか儲かるとか、そういう利己的なものは真の愛ではなく、報酬を求めない与えるだけのもの、それが真に生きることであり真の愛、ということだそうだ。

瀬戸内寂聴さんが言っていることは、幸せな人生を送るための助言となるのだろう。
とくに、女性にとっては。
彼女の講演が人気があることからも、人が求めていることを彼女は与えているのだろう。

心理学者の加藤諦三氏をネットで調べていたら、『忘己利他』に通じる彼の言葉があった。

『「うつ病は重症でも2週間で治る、もし……」。
このタイトルの言葉は、アドラーが重症のうつ病者が助けを求めてきたときに、述べた言葉である。
「もし」の次の言葉は「毎朝あなたが、先ず最初にすることは、どうして人を本当に喜ばせてあげることが出来るかと考えることである。そしてそれに固執すれば」である。』

(【ご注意】うつ病は、この方法では、絶対に治ることはありません。)

そして、以上のことから私が思うことは、

『人のために何か善いことをすることによって幸せになる、幸せだから人のために何か善いことをする。
人のために何か善いことをすることによって健全な心となる、健全な心だから人のために何か善いことをする。』

そういったスパイラル状態になるのではないかということである。

サークル『哲学的な何か、あと…とか』のご紹介

2014年01月27日 | 哲学・心の病
※「ニコッとタウン」のサークルです!


【サークル『哲学的な何か、あと…とか』のご紹介です】

『哲学的な何か、あと…とか』を、楽しく語り合うサークルです。 (『あと…とか 』とは、ご意見、ご質問、ご相談など『何でも』ということで、ご遠慮なく、お気楽に、掲示板に『何でも』アップして下さい。)

年齢制限があり、25歳前後以上とさせて頂きます。ただし、参加メンバーとご交流されている方は、年齢制限がありません。

サークル活動は、臨機応変で進めていきたいと思っております。

そして、「ROM」でも構いませんし、無言で「入会」「退会」、無言で「再入会」「再退会」でも構いません。(このサークルは「自由主義」で、強制的と感じる規則はありません。)

【参加メンバーの皆さんへ、お願いがあります】
このサークルに参加してほしい方がおられましたら、その方にも、このサークルを紹介して下さりますよう、お願い致します。(参加メンバーのご紹介の場合、年齢制限はありません。)

【ご注意】
誹謗中傷など「ネットいじめ」のような書き込みは、アップされた方のご承諾を得ずに、削除させて頂きます。(ただし、削除された方の「ご抗議」はお受け致します。)

【管理人のご紹介】
哲学、精神医学、心理学、生物学、理論物理学、風俗など、人に関するあらゆることを、日々、哲学的に考えています。基本的には、文筆家、故、池田晶子さんと同じ考えを持っています。

宮台真司をぶっとばせ!

2014年01月21日 | 哲学・心の病
「生きることに意味もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない。」
それを聞いた青年や女子大生は自殺した。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』で、「人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる」と言っている。
人生に、本当に求めるに値するものがあるのか、考えれば考えるほど、一切は無意味に思えてくるからだろう。
「無意味な生をそのまま愛し、受け入れよ」と説く人も、皆無ではない。

たとえば、宮台真司は、「なんのために生きるのか」という人生相談で、「生きることに意味もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない」と断言している。
その宮台真司の本を愛読した青年や、受講した女子大生が自殺した。
宮台真司は、「誤解を恐れずに言えば、S君は僕の鈍感さによって『殺されて』しまったと言えるかもしれません」と自著でふり返り、自分の話が「結果的に、彼女の無意味感を高める方向に機能してしまった」ようだとも書いている。
生きる気力を喪失させる不真実な言説に、猛然と怒りを覚えた人たちが、『宮台真司をぶっとばせ!』と批判書を編集したのも、もっともだろう。

宮台真司の言うように、「なぜ生きるか」「何をなすべきか」などに悩まず、ただフワフワと外界の事象に流されるだけなら、八十年生きるのも今死ぬのも、変わらないのではないだろうか。
当の本人もそれに気づいてか、そこまで流される生き方はとてもできないとも、告白している。
「僕は『まったりと生きよう』っていったり書いたりしているけど、でも僕自身は女子高生たちみたいに“まったり”できない。ああは刹那的には生きられないよ。」

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、とカミュは言っている。
どうしても生きる目的を知りたいのが人間の性(さが)のようだ。
「目的なんて、考えなくても生きられるよ」と強弁する人は、幸福なのでも不幸なのでもなく、おそらく多忙なのだろう。

「結局、死について考えても、生きる目的を探そうとしても、どうせ答えはない、人それぞれの問題だし」と考えてしまうと、そこで思考がストップしてしまう。
また、自分の生きる目的が「分からない」ことと、目的が「ない」ことは、同じではないはずなのに、問題をすり替えているかのごとく、目的なんてない、人生は無意味だと言う人が、意外に多い気がする。

「無知の知」とソクラテスは言い残したが、自分が、自分の人生の意味に「無知」であることを自覚すること自体が、大事なんだと思う。
その自覚があって初めて、探求の第一歩を踏み出すことができる。
「無知」であることを認めたくないがゆえに、そもそも、生きることに意味なんてない、と根拠もなしに決めつけてしまうのは、あまりに無責任だ。

医療の現場では、もちろん、そんなことは言ってはいけないことだ。

小説とは?

2014年01月17日 | 哲学・心の病
「作家が大切にしなければならないことは、読者ではなく、登場人物である。」 by ニコタ・ノベル

「素晴らしい小説とは、小説とは何か、が書かれている小説である。」 by ニコタ・ノベル

以上のことは、小説以外のことにも当てはまるのかもしれない。
たとえば、絵画や映画とか。

『ハンナ・アーレント』-考えることで人間は強くなる-

2014年01月16日 | 哲学・心の病
ユダヤ人女性哲学者、ハンナ・アーレントを描いた映画作品が日本でちょっとしたブームとなっている。
12月14日まで上映されていた岩波ホールでは連日満員、数時間前にチケットが売り切れることもしばしばあったようだ。
現在は全国8カ所、来年より全国30カ所以上の映画館で上映される。

舞台は1960年初頭。
ハンナ・アーレントは、数百万人と言われるユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯、アドルフ・アイヒマンの歴史的裁判に立ち会うこととなった。
アーレントは、戦犯アイヒマンの話を聴き、観察していくうちに「アイヒマンはヒトラーに命令されて任務を遂行しただけの、どこにでもいる平凡な人間ではないか」と考えるようになる。
ここからアーレントは、「私たち人間の誰しもがアイヒマンのような残虐な行為を行いうるのではないか」と思考し始める。
そして、「人間は自分自身の頭で考えることを放棄した場合、社会の状況によっては、悪に手を染めうるのではないか」「人間が思考するのをやめるということは悪に結び付くのでは」という考えに至る。(悪の凡庸さ)

この考えを含め、「ユダヤ人指導者がナチスに協力していた」というホロコーストの新事実を記した衝撃的なレポートを、ザ・ニューヨーカー誌で発表したことによって、世界中で大批判が巻き起こる。
親しかった友人からも、激しい非難を浴びせられることとなった。

しかしアーレントは思い悩みながらも自身の考えを信じ、“考えることで人間は強くなる”という信念の下、自身の考えを主張し続けた。

岩波ホールの企画担当者も驚いたというこの映画の盛況ぶりは、アーレントが伝えている、“考えること”の大切さ、素晴らしさ、重要性が、”今の時代を生きる日本人”に響いてのことだろう。

『哲学とは』開高健

2014年01月08日 | 哲学・心の病
哲学は、理性で書かれた詩である。
あれは詩なんだ。
論理と思ってはいけない。
詩なんだよ。
もう一歩つっこんでいうと、詩の文体で書かれた心の数学である。

もちろん、その理性の詩は感性で裏付けられている。
したがって、一度その詩から君が外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる。
その哲学者の感性および理性の周波数と、君の周波数とが一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になることもある―――というこっちゃ。

by 開高健


私は、哲学は理性と感情で書かれた論理だと思っているが、開高健氏はそうは思っていなかったらしい。
彼の小説を読めば、そのことがよくわかる。

じつは、彼の小説の所々に、彼の哲学が散りばめられていたのだ。
それも、詩のような表現で。

詩は往々にして、読み手によって解釈が異なる。
曖昧な表現だからだ。

『様々な問題について、一切の思い込みを抜きに感じたことを考えて、本当のことはわからないとわかった上で感じたことを考える。』
を私は信条にし、曖昧な表現にならないよう努めている。

しかし、開高健氏の言うような哲学も、試みてみたい気がする。
何か新たなことが、見えてくるかもしれないからだ。

首都直下地震について

2014年01月07日 | 哲学・心の病
中央防災会議の作業部会は2013年12月19日、発生が懸念されるM7級の首都直下地震の新たな被害想定を公表した。
死者は最悪2万3千人で、関東大震災タイプのM8級の地震については死者7万人と想定。
直下型が発生する確率は30年以内に70%と予測されているが、いづれは起こるであろう首都直下地震を、不安に思っている人もいるだろう。

しかし、そのような災難に対して、池田晶子さんは次のことを書いている。

『生のあるところに死はあるのだから、生きているということは、常に必ず危険なことのはずなのである。何が起こるかわからない、何が起きてもおかしくない。あり得ない、ということは、ないのである。
こう思って生きていると、他人の災害がとても他人事とは思えなくなる。私があの人の災害に遭わなかったのは、たまたま私があの人ではなかったからだ。あの人は私でもあり得たのだ。他人に起こり得た災難は、すべて自分にも起こり得ることだ。自分にだけはあり得ないということは、ないのだ。
私はそういう心構えで生きているから、だから逆に危機意識というものがないのである。何が起こるか、いつ死ぬか、ビクビクしながら、恐くてとても生きてゆかれないではないか。しかし、生きている者は必ず死ぬ、こうわかっているなら、何を恐れることがあるだろう。』

池田晶子さんが書いていることを読んでも、彼女と同じ心境になれない人もいるだろう。
とくに、死ぬことを自分のこととして考えたことのない若い方は。

私も少年期には、自分に死が訪れるとは思っていないときもあったし、いずれは死ぬかもしれないが、それは遥(はる)か遠くの将来だろうと思っていたときもあった。

ところが、年齢を重ねるにつれて、そして、死について考えるにつれて、死はますます身近なこととなり、彼女と同じ心境になったのである。
私も彼女と同じように死ぬことを恐いと思っていないのである。

ただし、地震が起きたときに隣人に迷惑をかけぬよう、我が家の耐震性を強度にしており、延焼しないよう隣家と離れたところに家を建てている。

お正月について

2014年01月06日 | 哲学・心の病
きょうびのお正月について池田晶子さんが書かれている次のことは、誰もが同じように感じていることだろう。

『おせち料理の賑々しい品々は、食べる時には冷たいものだし、日持ちがするよう、やたら甘かったりしょっぱかったりで、おしいと思った記憶が私にはない。べつにお正月だからって、海老や鯛を食べなくたって、そんなのいつでも食べてるし。
どうしてもそういう感じになってしまう。これはたぶん不幸なことだろう。お正月はお正月らしく、晴れがましい気分でいる方がいいのだ。
しかし、きょうびは、多かれ少なかれ誰もがそうだろう。晴れ着を着るといっても、おしゃれだって、とくに今さら。お正月は、現代人にとっては、特別の日ではなくなったのである。
(中略)
しかしきょうびの労働は、年間通してベタに同じである。季節感も感謝もない。そのかわり、各種の息抜きと娯楽とは昼夜を通して提供されているから、毎日がお祭り騒ぎ(いつでもお正月 by ?)のようでもある。何が日常で何が非日常なのか、判然としない。』

そこで、池田晶子さんは次のことを提案している。

『去年のお正月、おめでとうございますと皆で挨拶をしたその食卓に、今年、父の顔はない。あるいは逆に、去年はいなかった新しい顔が、今年は加わっていることもある。入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰り返している。その繰り返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ今年も無事に皆の顔を見ることができた。
じっさい私は、年々歳々この感じが強くなる。生きているのだから、いつ死んでも当たり前なのに、よくまあ一年間も、何事もなく、ご無事で。そういう眼で、人を眺めていることがある。存在の奇跡性に気がつくと、人生の風景は明らかに改まるのである。
お正月くらい、生きて在ることのおめでたさを自覚してみたい。
よい年でありますように。』

私は、池田晶子さんの提案に同感はできない。
なぜならば、私は、生きていることの奇跡性を実感したことがないからである。

では、なぜ彼女は、生きていることは奇跡的なことだいうのだろうか?
そして、なぜ私は、彼女のように感じないのだろうか?

それについての私の意見は、今回は書かずに置いといて、後日、記事にしたいと思っている。