哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

永遠の0(ゼロ)

2014年08月05日 | 哲学・心の病
ウィンストン・チャーチルお気に入りの詩に、「橋の上のホラティウス」がある。
圧倒的に優勢な敵に直面した時、勇気、決意、自己犠牲がどれほどのことを成し遂げ得るかを讃えるこの勇壮な詩は、日本の神風特攻隊をも連想させる。

「橋の上のホラティウス」

そして門の守り手、勇敢なホラティウスは言った。
この世のすべての人間に、遅かれ早かれ死は訪れる。
ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか。
私をあやしてくれた優しい母のため、我が子を抱き乳をやる妻のため、永遠の炎を燃やす清き乙女たちのため、恥ずべき悪党セクストゥスから皆を守るため以上の死に方があるだろうか。
執政官どの、早く橋を落としてくれ。
私は二人の仲間とともに、ここで敵を食い止めよう。
路にひしめく一千の敵を、三人で食い止めてみせよう。
さあ、私の横に立ち、橋を守る者は名乗り出よ。

敵を食い止めようと命を捧げた特攻隊員は千人が果たした以上のことを成し遂げた。
チャーチルの英雄ホラティウスはセクストゥスの攻撃を食い止めるため、人々が橋を落とし立て直しを図る時間を稼ぐために自らの命を捧げた。
特攻隊は押し寄せる敵艦を撃破し、その進攻を少しでも遅らせようとした。

ホラティウスの自己犠牲の最も注目すべき点は、彼が橋を守りきったかどうかではない。
重要なのは、何世紀にもわたり幾多の西洋人が、ホラティウスのような勇敢な自己犠牲に勇気づけられてきたという事実だ。

米国の若者は、米国軍人の犠牲は自由を守るために必要だったと教えられる。
日本軍の上層部が敗北を認識した上で大勢の若者を特攻隊員に任命したのは、絶望的な大義に命を捧げた若者たちの先例が以後何千、何万年と、人々の自己犠牲精神をかき立て続けるだろうと考えてのことだった。
彼らの最後の望みは、未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで何事にも屈しない強い心を持ち続けることだった。

現代を生きる私たちは神風という存在をただ理解できないと拒否するのではなく、人の心を強く惹きつけ尊ばれる側面もあったということを理解しようと努めるべきではないだろうか。