哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

だって、人間だもの

2013年10月08日 | 哲学・心の病
私には、池田晶子さんに共感することが多いが、相田みつを氏にたいする思いも同じだったとは知らなかった。

池田晶子さんは、相田みつを氏について次のような批判を書いている。

『人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは、「優しい」「思いやりのある」「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性である。
その列挙である。
それらの属性を担っているところの当の「人間」、この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。
なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、常にすべてが「人間」である。
それで、各人勝手に好きな意味を込めて、この語を使用することになる。
相田みつをの「人間だもの」はその好例である。
失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。
「人間だもの」。
私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。
相田に限らない。
聞いていると多くの人が、この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。
「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。
時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。』
(「だって、にんげんだもの」より)

はっきり言って、私には、池田晶子さんが言っていることがよくわからない。
私が相田みつを氏の詩に嫌悪感を感じるのは、私の感覚によるもので、言葉にするのは難しいとは思うが、あえて言うと、相田みつを氏の詩は、人間の深部をとらえて書かれた詩ではなくて、そのときの軽い気分で書かれた、人間の上っ面だけを書いている詩だと感じるから、私の気質に合わない。
どうしても、体質的に好きになれない人がいるが、それと似た感覚だ。

薄っぺらな人から言われる、励ましや称賛は、かえって気分を悪くする。
だって、人間だもの。


【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

論理的な討論(認知的不協和)

2013年10月08日 | 哲学・心の病
〈自分の間違いは認めたくない(認知的不協和)〉

人は自分の信念や、それまでの行動内容とは矛盾する、"新しい事実"を突きつけられると、"不快な感情"を引き起こします。
その結果、自分の信念や行動と、"新しい事実"のどちらか一方を否定して、矛盾を解消しようとします。
これを認知的不協和と呼びます。
そのとき、信念を変えることが困難な場合、人は"新しい事実"の方を否定しようとします。
代表的な例がタバコで、タバコを吸うという行為に対して「タバコを吸うと肺がんになりやすい」という"新しい事実"が提示されます。
すると、行動と事実の矛盾に対する不快感が起こり、タバコをやめるか、事実を否定することで矛盾を解消しようとします。
しかしタバコには依存性があり、やめるのは困難です。
したがって、事実の方を否定して矛盾を解消しようとします。
そこで、「タバコを吸っていても長寿の人もいる」とか「肺がんよりも交通事故で死亡する確率の方が高い」といった反論を行おうとします。
しかし認知的不協和の状態にある人はその時点ですでに結論ありきで考えているので、論理的に考えていない可能性があります。
つまり頑固になっている状態といえます。

不快感の強さは信念の強さに比例する。
より長きに渡って築き上げてきた信念ほど、否定さたときには強烈な不快感を伴ないます、自分の生きてきた人生をも同時に否定されたかのように感じるためです。

【例】
・戦争に参加した兵士は反戦論を聞かされると認知的不協和を起こす。
・宗教の信者は無神論を聞かされると認知的不協和を起こす。
・性差別主義者はフェミニズムを聞かされると認知的不協和を起こす。

いずれの例も共通点は、その人の過去の経験に関わっている点です。
過去は変更できませんから、過去の行動を否定されると、"新しい事実"の方を批判するしかありません。
もしも"新しい事実"を認めてしまえば、それまでの生き方さえ否定されることになってしまうと考えるのです。
これまでの人生を費やして築いた思想・信条・信念や、現在のその人の立場に強い影響を与えている"過去"を批判されると、強い抵抗感を抱くということです。

【アドバイス】

どうしても信念を変えることをプライドが邪魔するという方は、これからは間違いを認めることにプライドを持ってください。


【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

集団的自衛権に賛成だ!

2013年10月08日 | 哲学・心の病
自国を守るのに、一国で戦うよりも多国で戦う方が圧倒的に優位だ。
歴史をかえりみれば、誰でもわかる。
例えば、第二次世界対戦の連合軍だ。

それに、相手国が連合してれば戦力的に優位であるから、戦うという国の戦意は弱くなり、連合することが戦争の抑止力となって、それを未然に防ぐ可能性が高くなる。

お互いの国を防衛することに限れば、集団的自衛権を発動することに、私は賛成だ。
アメリカの防衛のために、日本の防衛軍を派遣する。
日本の防衛のために、アメリカの防衛軍を派遣する。
防衛以外の目的のためには、絶対に派遣しない。

では、防衛のための戦争かどうか判断するにはどうすれば良いか?
私の提案は、理想を言えば国会で議決してほしいが、戦争という緊急性から、少人数で議決するのが現実的だ。
総理一人に権限を与えるよりも議決する方が、過ちをおかす可能性が少ない。
だから、複数で議決した方が良い。

では、そのメンバーの構成はどうすれば良いのか?
防衛の専門家と国民の代表である国会議員を、1対1の割合で構成する。
防衛軍の暴走をとめるために国会議員がいて、判断ミスを減らすために専門家を入れる。

しかし、メンバーの数が偶数であれば同数となる可能性もあるので、国会議員1名を加える。

以上が私の提案であるが、他の方のご意見も私に聞かせてほしい。