哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

性善説と性悪説

2013年10月07日 | 哲学・心の病
本の帯に「性善説か、性悪説か」と書いてある『右手に論語、左手に韓非子』という本によると、論語が性善説であり、韓非子が性悪説だそうだが、現代の日本は性善説が残っている社会だが、外国や中国などは性悪説であるとしている。
基本的に性善説は、人を信用する前提なので、脇が甘くなってしまうが、性悪説を前提にするならば、人は利益に執着するとみて統治することになるという。
著者の立場は、性善説の良い部分を残しながら、性悪説で補完するという考えのようだ。

たしかに、日本の社会は外国と比較して、性善説が前提であることを感じる場面は少なくないのではないか。
田舎では、よく無人販売店があったりするし、そこまでではなくとも、自動販売機の多さに外国人は驚くという。

しかし一方で、刑法をはじめとする法治国家という存在そのものが、すでに性悪説を前提としていると言える。
刑法とその効力が整備されなくては、犯罪がなくならない社会ということであれば、性悪説を前提としなければならないのだろう。

しかし、法律でこそ社会の安定が図れるとする性悪説に対して、そうではないやり方で社会の安定を目指すのが性善説であるから、日本の社会において性善説が残っているとするならば、その背景と歴史はよく自覚しておきたいものだ。
論語が性善説であり、それが昔から読み継がれてきたことが土台にあるならば、韓国も中国も同じ土台ではないのだろうか。

池田晶子さんは、人は善を知れば善をなす存在としているのだから、性善説ともいえるが、悪を知って悪をなす人はいない、と言っているので、決して性悪説の対立概念として言っているのではない。

『「性善説」という言い方は正確ではない。
何かうまい言い方はないものかと、かねてから思っている。
「性悪説」に対して「性善説」があるのではない。
人は自分を知ろうとすることによって自ずからそうなるというそのことが、言ってみれば、「善」ということなのである。
誰もわざわざ「自分にとって」悪いことを、するはずがないからである。』

つまり、悪が定義として自分に悪いことなのだから、人は悪を行うはずはなく、それでも悪を行なうのは、それを悪と知らないからなのだ。
だから、池田晶子さんの辞書には、性悪説は定義上ありえないことになるのであろう。

通常の性悪説の悪は、利益に執着して犯罪でも起こすという趣旨であり、社会にとって悪でも自分にとっては善いと考える行動を指すのであるから、そもそも善も悪も相対的なもので人によって違う。

池田さんは、そのような言葉の意味が相対的となるような定義は採らず、絶対的なものと採る。

自分にとって善いということは、それは社会にとっても善いことでなければ、それは善とはいえないのだ。


【閲覧者へのお願い】

忌憚(きたん)のないご批判も、大歓迎です。
お気づかいのなきよう、コメントして下さい。

最新の画像もっと見る