老いることが良いことであった時代

2005-04-29 20:30:39 | Weblog
日本で最初にシェイクスピアの全作品を訳したのは坪内逍遥ですが、その逍遥はシェイクスピアを好んで「沙翁」と呼びました。この呼び方には大詩人であり戯曲作家であるシェイクスピアへの尊敬の念が籠められているのはもちろんです。実際のシェイクスピアは「翁」と呼ぶには若すぎる年齢で亡くなったようですけれども、そういうことは関係ありません。松尾芭蕉も実際の没年は50才であるにも関わらずしばしば「芭蕉翁」と呼ばれます。西郷隆盛も没年は50才ですが彼を尊敬して止まない庄内藩では「南州翁」と呼んでおります。西郷の言葉をまとめた「南州翁遺訓集」という本があって、今でも山形県鶴岡市の一部ではこれはバイブル扱いにされております。
この日本をも含めて東洋には年をとることを好しとし、年寄りを尊敬する伝統がありました。そのために、たとえ多少若い人であっても偉大な業績のあった人には「***翁」という尊称をつけたわけです。今では老人の「価値」は地に落ちてしまい、粗大ゴミ扱いなのですが、それでも心のどこかに老人を尊敬したい気持ちが我々の心の中にあるようなのです。
私個人的な経験でこういうことがありました。
アメリカにノーム・チョムスキーという有名な言語学者がおります。1928年生まれですから今年は77歳になっているわけです。彼は1957年に"Syntactic Structures"という革命的な本を出し、さらに1965には"Aspects of the Theories of Syntax"というこれまた奥深い本を書き評価を不動のものにしました。(前著は「文法の構造」、後著は「文法理論の諸相」と日本では訳されております)私は後者のAspectsを読んだ時の圧倒的な印象を忘れることができません。老熟としか言いようのない思索が次々に展開されるスリリングな本であって、私はチョムスキーという人はよほどの年なのだろうと勝手に思い込んでおりました。MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授でしたので、「老教授」を想像していたのです。しかし、その後調べるとこのAspects上梓の時点では、わずか27歳であることを知って愕然としたのを覚えております。私は自分で勝手にチョムスキーを「翁」に仕立て上げていたわけでした。
私は「老成」ということは非常に大事なことではないかと考えます。若さばかりがもてはやされる社会は不幸であると思います。でも今の日本で「老成」とか「老熟」などと声高に叫んだら滑稽なだけでしょう。情けないことです。いつかツケは回ってくるだろうと思います。

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3 コメント

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Unknown (wittgenstein290)
2005-04-30 10:42:09
非常に一般化していえば、若者には体力があり、老人には智慧と経験があるという図式だと思います。そして、もし智慧も経験も無価値だとすれば、敬老の念は湧かないでしょう。そうすると、職業にもよるかなと思います。例えば「この道30年の大工」などと言えば、経験豊富で木材と会話できるような気もします。

その意味で、智慧も経験も無価値と思われる世界、例えばIT業界で、年功序列制度が真っ先に崩れたのは極めて示唆的です。

しかし人は老いていきます。その点は忘れてはいけないと思います。

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コメントありがとうございます (gangwolf)
2005-05-01 11:32:15
昔はもとより今でも高度の技能や知識を努力によって身につけた人物を尊敬することはそう変りはないだろうと思います。でも年長者一般を敬う(ただ年長者であるがゆえに一歩譲るとか)という風潮はかなり(甚だ?)薄れたように思います。

ただよく考えると、江戸時代またはそれ以前でも、無能な老人も尊敬の対象になったか、というとどうなのでしょうか。少なくとも韓国に於けるように、年長者には無条件の敬意を表する、ということはなかったのかもしれません。共同体の「長老」が敬われたとしても、有能だった場合に限られたものだったかも知れません。ここら辺はどうもよく分りません。
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Unknown (wittgenstein290)
2005-05-02 00:13:37
手仕事なら、その人の性質を考慮しても、一般に老人=上手というのがあった気がします。その意味では、敬老意識は職人にとってはもちやすいのかなと思います。今、固有名詞を感じる職業がきわめて少ないですからね。田中が運転すると速いとか、河野が運転すると安全とか、そういうことはあまりないですからね。
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