シニアにとって携帯電話は必要か?

2006-09-02 10:01:11 | Weblog
家内のある知人によると、孫と写真やメールをやりとりしたり話をしたりすると一月の電話代がどうしても1万円は越す、ということだった。そう、孫がいれば話は別だ。私のように孫が居ない、夫婦2人での生活で携帯電話は必要だろうか?結論を先に言うと全く必要なし、である。今公衆電話がどんどん撤去されているので携帯電話がないと大変不便である、という説がまかり通っている。そこで、先日東京へ行った折に、そんなに不便であるほどに公衆電話が無いのかを観察してみた。その結果は、世で言うほどにNTTが庶民いじめに走っているわけではないことを確認した次第である。東京駅にもあったし、新浦安駅にもあった。その他要所要所に未だ置いてある。たしかに台数は少ないから公衆電話に人々がどっと殺到すればそれは大変不便だろうが、そこはよくしたもので、皆さん携帯電話を持っていらっしゃるから公衆電話などはフリーである場合が以前よりも多いくらいなのだ。旅行に出て家に居る家内と連絡とるとすれば、「これから***時の新幹線に乗るから迎えたのむ」などということだけだ。そういう連絡なら十分公衆電話で間に合うのである。(2006年の時点では)困ることといえば、これまで使えたテレカが使えない機種が増えたことぐらいである。別の何とかというテレカを買えばいいのだ。次に、非常時の連絡用だ。たとえば歩いていて急にひどい頭痛に襲われたとする。つまり脳梗塞などの症状に突然襲われたらどうか、ということだ。その場合、たとえ携帯電話を持っていても役に立つだろうか?答えは多分ノーだ。そんな悪性の急病に襲われたら携帯電話をあやつることなどたぶんできないだろうと思う。もっと軽い病気なら携帯電話を使うことも可能だろうが、それを使って救急車を呼ぶ勇気はありますか?ま、これは携帯電話とは別次元の問題だけれども。
最近の若い人たちの携帯電話の使い方を見ると、「いつでも合える人たち、たとえば市内に住む友人たち」とメールのやりとりしていることが多いらしい。なぜ直接会って話さずに携帯電話で話すのか、これが不思議である。一種の慢性的なコミュニケーション禁断症状に冒されている、としか考えられない。常に他人と言葉を交わしてないと不安である、というのは酒が切れるのが不安である、タバコが切れるのが不安である、というのといっしょであって、病的現象だ。
私は原則として人間どうしは会話の量は多いほうが良いと思っている。ただし、面と向かって行う会話のことだ。人間が相対して会話する場合、顔の表情や話のトーンなどの言語を取り巻く条件の方が、会話の言語的内容そのものよりもはるかに大きいそうなのだ。言語10%、その他の条件90%とか、でしたね。「イエス」と口では言いながら、実際は「ノー」の意志を伝達するのはいくらでもできるそうだ。だから、メールでやりとりしている情報など実にわずかなものなのだ。そろそろ日本人は携帯電話信仰から脱却したらどうなのか、と思わざるをえない。言葉は飛び交っているけれども、それにつれて言葉もコミュニケーションもひたすら「痩せこけてゆく」ようなのだ。
要らない。携帯電話などは要らない。少なくとも孫の居ないシニアにとっては無用のキカイだ。

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