ガラシャの最期、侍女が証言(霜女覚書)
2025年6月25日(水)の熊日新聞をスキャンしました。(下の画像)


ガラシャの最期が詳細につづられている霜女覚書(永青文庫所蔵)

「ガラシャ様は力なくお果てになった」
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻となったガラシャ(玉)。
明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻となったガラシャ(玉)。
その人生は悲劇的に語られることがしばしばだ。
1582(天正10年)の「本能寺の変」で「謀反人の娘」になった後にキリスト教に改宗。
敬虔[けいけん]な信仰を貫き、関ケ原の戦いの前に非業の死を遂げる。
ガラシャの最期にまつわる国民的イメージは、侍女だった霜の証言を記録した覚書(1648年2月19日)が基になっている。
ガラシャの最期にまつわる国民的イメージは、侍女だった霜の証言を記録した覚書(1648年2月19日)が基になっている。
霜は、ガラシャの孫・光尚(2代熊本藩主)に求められ、半世紀前の状況をつぶさに語った。
覚書によると、1600年の関ケ原の戦いの約2カ月前、石田三成を中心とする西軍は、
覚書によると、1600年の関ケ原の戦いの約2カ月前、石田三成を中心とする西軍は、
東軍である忠興がいない時を狙って大坂の細川邸に迫り、
ガラシャを人質として差し出すよう要求。
事態を想定し、事前に対応を協議していた家老は人質の提出を拒否した。
ガラシャも「忠興様の立場を悪くするのに自分が出るわけには絶対にいかない」と拒み、
果てたという。
「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。
「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。
有名なガラシャの辞世の句だ。
戦乱の世に生まれ、自らの「散るべき時」を見定める心づもりはできていたのだろう。
ただ亡くなる直前、一緒に死ぬ約束をしていた長男忠隆の妻は逃げ出した。
最後に身内に裏切られた絶望はいかばかりだったか。
家老はガラシャを介錯[かいしゃく]した後に切腹した。
家老はガラシャを介錯[かいしゃく]した後に切腹した。
熊本大永青文庫研究センター長の稲葉継陽教授は
「忠興は家老に対し、人質に出さないよう命令していたのではないか」と推測する。
敵対する忠興の妻を狙った三成、人質が足かせになることで自由に振る舞えなくなるのを嫌った忠興、
命令に従って仕事をやり遂げた家老-。
ガラシャの壮絶な最期の背景には、男たちの〝大義〟と戦の不条理があった。(前田晃志)



「細川忠興夫人隠棲地」の石碑。
京丹後市弥栄町味土野には「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。
味土野は、標高613メートルの修験の山、
金剛童子山の山裾の秘境にあり、絶好の隠れ家だった。
ここには女城と男城と呼ばれる屋敷跡が残っているが、
城というより粗末な砦のような建物であったと思われる。
女城跡は小高い丘の上にあり、細川忠興夫人の玉の住居があった所、
男城跡は女城から谷を隔てた突き出た場所にあり、
警護の武士たちが居たところと伝えられている。
明智光秀の謀反により一夜にして逆臣の娘となった玉。
忠興は玉への深い愛情から死よりも領外、味土野への幽閉を選んだ。
夫に離別され、三歳と四歳の子どもと引き離されて山深い味土野へ。
約二年間の味土野の厳しい自然の中で死を見つめ、
生きるとは何かを思索する日々の中、
後に、侍女清原マリアの手引きで、玉は洗礼を受けガラシャ夫人となるが、
その素因は味土野の幽閉の生活なくしては考えられないであろう。
京丹後市弥栄町味土野には「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。
味土野は、標高613メートルの修験の山、
金剛童子山の山裾の秘境にあり、絶好の隠れ家だった。
ここには女城と男城と呼ばれる屋敷跡が残っているが、
城というより粗末な砦のような建物であったと思われる。
女城跡は小高い丘の上にあり、細川忠興夫人の玉の住居があった所、
男城跡は女城から谷を隔てた突き出た場所にあり、
警護の武士たちが居たところと伝えられている。
明智光秀の謀反により一夜にして逆臣の娘となった玉。
忠興は玉への深い愛情から死よりも領外、味土野への幽閉を選んだ。
夫に離別され、三歳と四歳の子どもと引き離されて山深い味土野へ。
約二年間の味土野の厳しい自然の中で死を見つめ、
生きるとは何かを思索する日々の中、
後に、侍女清原マリアの手引きで、玉は洗礼を受けガラシャ夫人となるが、
その素因は味土野の幽閉の生活なくしては考えられないであろう。
熊本 泰勝寺跡(立田自然公園)
初代・藤孝夫妻、二代・忠興とガラシャの墓があります。

熊本 泰勝寺跡(立田自然公園)
初代・藤孝夫妻、二代・忠興とガラシャの墓があります。

細川ガラシャの墓(熊本市:泰勝寺跡)

【細川ガラシャ】(熊本市:泰勝寺跡)
ガラシャは明智光秀の娘で本名を玉子という。
織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは、
1578年、16歳のときであったが、4年後の1582年の本能寺の変で、
父明智光秀が主人の織田信長を殺したため、
玉子は離別され味土野(みどの)の山中に幽閉された。
その後、豊臣秀吉の許しで復縁し、
1587年にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
1600年に夫・忠興が、徳川家康に従い上杉征伐に従軍中、
石田三成が諸侯の婦人たちを人質として、大阪城内に入れようとした。
ガラシャはその要求を拒み、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
の辞世の句を残し、自死を許されないクリスチャンゆえに、
家来に胸を槍で突かせ、玉遣邸に火を放たせ38歳の生涯を終えた。
