世界のはずれから勝手に叫んでみる男の日記・var2

このページは大量の誤字脱字の提供でお送りしています。orz

20曲目

2011年06月19日 | クラシック

 モーツアルト 交響曲 ジュピター (カール・ベーム+ウィーンフィルハーモニー)

 第1楽章

 

 第2楽章

 

 第3楽章

 

 第4楽章

 

 成立年代 1788年

 時代区分 古典

 形式 交響曲

 形態 オーケストラ

 アレンジ ピアノの2台連弾と2台とソロ 2楽章と4楽章のみピアノ3重奏

 モーツアルトの交響曲の中でも有名かつ最後の交響曲ナンバーになるジュピターです。同じような曲で、歌手がカバーしたものがありますが、それは作った人が違います。(ホルスト作曲)ここで言うジュピター(由来は「神」だが)というのは惑星のことではなく第4楽章に見られるド→レ→ファ→ミと続く音の進行形のことです。モーツアルトはこの進行形が好きらしくこの曲以外にも何曲にこの形を使用しています。最初と最後のナンバリングされた交響曲がこの新興を持っていたというのは、何らかの運命を感じます。

 モーツアルトは交響曲を41曲作曲しているとされていますが、この時代の作曲家の宿命であるようにやはり偽作(2番・3番は確定)やその疑惑もあったりしているので正確な数はわかりません。さらに、喪失してしまった物、他の作品からの流用とか、スケッチだけが残っている物、断片が残っている物。その断片ですら偽作の疑惑がかかっているものもあり、モーツアルトの作品で正式にカウントされていないものをふくめるとはないのかというは20曲以上あるのではないかと思われています。

 モーツアルトは脅威的な速さで作曲をしたことを知られていますが、結構前に作曲していたものをモチーフとして使用することが多々有ります。曲も長調の作品が多く比較的引きやすい物特徴的ですが、これには当時の作曲家の周辺にあった一つの影があります。それは貴族の注文によって曲が作られていたということ。当時は音楽は庶民のものという状況ではなく、権力者のものだったがゆえに陰湿な曲よりも、明るい曲のほうが好まれていました。そのためモーツアルトの場合人生の最後半になるまでは、なかなか短調の曲というのは多くはありませんでした。父親(教育者としては偉大な部類に入るのだが、父親としては毒の部類に片足を突っ込んいるようなタイプ)という拘束がなくなり、ようやくある程度自分が望むものの作曲ができるようになりましたが、さあこれからという段階で病に倒れてしまいます。

 次回はその地位と出自、さらには立場のせいで歴史と派閥争いに翻弄されることになるサリエリ。

 


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19曲目

2011年06月18日 | クラシック

 モーツアルト 魔笛より (第2幕)夜の女王のアリア (歌・ディアナ・ダムラウ+オーケストラは確認とれず)

 

 成立年代 1791年

 時代区分 古典

 形式 オペラ

 形態 ソプラノソロ+オーケストラ

 アレンジ オルガン・ピアノソロ・連弾などたくさん (この曲だけだったら、ピアノソロとピアノとソプラノ)

 強烈な笑い声が印象的な「夜の女王のアリア」です。最晩年の作品で、モーツアルトが作曲した最後のオペラです。当時仕事が亡くて生活に困っていたモーツアルトに、同郷の興行主が依頼をしてできあがった曲がこれで、初演ではモーツアルトの義理の姉が女王の役を務めました。音程を彼女に会わせたため、圧倒的な存在感を放つ変わりにとんでもないレベルの技巧を要求される曲になり、歌う人を限定させてしまうという曲にもなってしまいました。若いソプラノ歌手がこれに挑戦をして後に娘役に転身(同じソプラノ)するというのもよくある話ですが、逆にベテランの歌手が単独で歌って強烈な存在感を植え付けるという曲でもあります。

 この曲の場合はモーツアルトに関して別な側面がある問うことを語らなければいけません。それはモーツアルトもこの興行主もフリーメイソン(日本ではフリーメイスンとも)の所属をしていたという話があります。フリーメイソンというのは交流を元にした男性限定の団体のことで、日本でも会員数は少ないながらも鳩時計の祖父である鳩山一郎とか、皇室関係者がこの会員になっていたという組織です。その組織(ユダヤ人系・カトリック系との対立)故にいろいろな黒い噂がつきまとっている団体でもあります。この団体に入った作曲科の中にはリスト・フリードリッヒ大王がいて、さらにサッチモ(ルイ・アームストロング)やカーネル・サンダースもこの団体に入っています。(戦後マッカッサーがそうしようとしたように、今での天皇家を組み入れようとする動きがある)この魔笛にもフリーメイソンの影響が入り込んでいます。

 とはいえこの時期のモーツアルトはすでに死に近づいていました。魔笛は何とか完成をさせたのですが、この直後あたりから体調を悪化させてしまいます。プラハ公演の時には体調が完全に崩れていて薬が手放させない状況でした。10月を超えた後に完全に体調を崩してしまい、レクイエムを作曲しているときに悪化。結局その状態のまま12月5日になって死亡してしまいます。この時期のモーツアルトは貧困の状態になっていて、さらにイタリア系の貴族から妨害も受けていました。(このことがサリエリ悪人説につながっていく。ただしこれが出てきたときにはリストの時代になってから)。絶望に近い状態での死というわけですが、死語になっても悲劇が待ち受けていました。どこに埋葬されたかわからない上に、墓の墓碑自体が移動されてしまったために本当にどこに埋葬されているのかがわからなくなってしまっています。(さらに整地されてしまったので余計にわからなくなる)近年になってどれがモーツアルトの骨(頭蓋骨とされる骨が保管されている)なのかという鑑定をしたのですが、それに使われた骨のうち叔母と姪とされる物が違っていたという話も浮上。その死については当時の状況を比べても、謎が多く残っています。

 次回はモーツアルトの2回目


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18曲目

2011年06月17日 | クラシック

 *昨日山野楽器に行ってあることを確認するついでに、確認できたので修正。2曲目の偽作モーツアルトソナタはモーツアルトのソナタアルバム(全音)に収録されています。

 最初はソナチネアルバム乗っているアダージョの予定だったんですが、見つからなかったので変更。

 ハイドン ピアノソナタ28番(ウィーン原典版43番)(辻井伸行)

 第1楽章

 

 第2楽章

 

 第3楽章

 

 成立年代 1774年から1776年の間

 時代区分 古典

 形式 ピアノソナタ

 形態 鍵盤楽器ソロ

 楽譜入手 ソナタアルバム2・ハイドンのソナタアルバム

 難易度 中級中・中級上・上級

 アレンジ 見つからず

 参考 スカルラッティ ソナタ K380 (ホロヴィッツ)

 

 ハイドンのピアノソナタです。ハイドンのピアノソナタは60曲以上作曲されていますが、このうち8曲は楽譜を喪失。さらに、残った内の何曲かは真贋不明(本人が自作を認めていても真贋不明)というのもあり、実際の所現存して残っているのは50曲ぐらいだと思います。比較的容易に演奏されることもあり、練習用とか子供の発表会とかにつかわれることがあるのですが、大人の世界になってからは特定の曲以外はあまり演奏されることがありません。それでもハイドンらしい明るさが出ている曲だと思います。

 ソナタというのは「演奏される物」という意味で、バロック時代からもありました。しかし今で言うような規則性というのもはなく、一種の組曲のような物でしたし、ソナタと言ってもスカルラッティのように練習曲として作られた小曲というものもありました。今のような形式になったのは古典の時代に入ってからで 、曲の中にメヌエット(ベートーヴェン以後ではスケルツォ)を入れること、各楽章の調整には関係を持たせることなど、いくつかの約束事が出来てきました。こう言う形の完成をみるのはベートーヴェンの後期になってからですが、ハイドンはその先鞭をつけたと言っていいと思います。

 楽譜入手時に登場をするソナタアルバムですが、これはハイドン・モーツアルト・ベートーヴェンのピアノソナタを集めたもので、練習にも演奏会にも仕えるような編成をしています。2冊に分かれていてハイドンは8曲・モーツアルト・ベートーヴェンは9曲集力されていて、それらを難易度別に訳で上・下巻という形に入っています。上巻にはモーツアルトの「トルコ行進曲付き」や、K545が、下巻ではベートーヴェンの「悲愴」、「月光」、「葬送」が収録されています。皮肉にもハイドンのソナタは本格的にやろうと考えなくてはこれ以外に触れることもないわけで、それ故に演奏会で演奏される機会というのはあまり多くありません。ピアノソナタに関してだけは、二人の陰に完全に隠れてしまっています。

 ハイドンが雇われていたエステルハージ家というのは、時には時の皇帝をしのぐような力を持っていました。なので、かなり強力な楽団を抱えていてハイドンはその楽長として長い間つとめていたのですが、代替わりの時に一回その地位を大きく揺るがす出来事が起こってしまいます。楽団のリストラで、これによって一時は年金暮らしをしていたもの(むしろハイドンはロンドンに行ったりして自由に出来ていた)の、後の楽団が再編成されるときには戻ってきています。ハイドン自身はかなり優遇をされていたようで4代30年にわたってこの家に仕える(冷遇したのは3代目)ことになります。もっとも4代目に関してはベートーヴェンとトラブルを起こしてしまいますし、自分の家の財政を傾けさせてしまうほどの収集癖があったですが。

 次回はモーツアルト。人間の限界に挑戦するようなあの曲から。


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17曲目

2011年06月16日 | クラシック

 ハイドン 交響曲94番「驚愕」  (マリス・ジョンソン+ベルリンフィル)

 第1楽章

 

 第2楽章

 

 第3楽章

 

 第4楽章

 

 成立年代 1791年

 時代区分 古典

 形式 交響曲

 形態 オーケストラ

 アレンジ ピアノソロ・ピアノ連弾

 その作曲数の多さから「交響曲の父」とか「弦楽四重奏の父」と呼ばれることのあるハイドンの作品です。作品の一つである「皇帝賛歌」の中の旋律がドイツ国歌に流用されるなど、大きな影響力を持つ作曲家のひとりに挙げられています。この曲はハイドンがロンドンにいたときに作曲されたもので、居眠りをする貴婦人を起こすために作曲したと言われています。「驚愕」と言われるのは、第2楽章の冒頭部で静かな音が流れた後、いきなり大音量の和音が発せられることからという説と速度がゆるい楽章にトランペットを使ったということが驚愕を読んだという説の二つがあります。

 もっとも曲の編成自体はオーソドックスでちょっと第3楽章のメヌエットが早いぐらいかなあという印象しか有りません。とはいえ全てが第2楽章の最初の部分に集約されている曲ですので、それだけの価値を持っている曲だと思います。ハイドン自身がこう言ういたずら的な曲を作るが好きで、こう言う調子の物も多数みられます。

 ハイドンはとにかく多作な人なので、その数には色々と確定という数字が打てないのが現状です。交響曲だけで番号が付けられているのが108、さらに付けられていないのが3つあり、協奏交響曲と呼ばれる曲もひとつだけあります。これだけだったらまだ整理は付くのですが、偽作の存在もあるので実際いくつ作曲したのかというのが分かってはいません。この時代の作曲家の場合は、他人の作品に手を貸すことが多くまたそのせいか、相手の作品になってしまうということが良く有ります。ピアノソナタも同類でナンバリングされいるものが偽作判定されていたり、さらにハイドンは自作と言っているけれど、偽作の可能性ありというのもあってかなりややこしくなっています。

 多作であるゆえに作曲そのものが生きがいで、60を超えても作曲の意欲を失わなかっただったハイドンですが、晩年はそれが奪われてしまいます。原因は病気によるものですが、その病気に伏せている最中は作曲することができずに自作の曲を演奏する事で気を紛らわせていました。そのせいでしょうか、たくさんの人がお見舞いに来たのですが楽しくはなかったそうです。死後マニアの人間に首だけを切断されそのまま1950年代まで持ち去られるという奇っ怪な話もあり、いい意味でも悪い意味でもお騒がせという感じの状況をおくっています。

 次回はハイドンの2回目。(曲が見つからず予定変更……)


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16曲目

2011年06月15日 | クラシック

 ヨハン・クリスチアン・バッハ(JCB)

 フルート協奏曲 ニ長調 (ミロス・ユルコビッチ(フルート)+ボフダン・ヴァルバル(指揮)+スロバキア室内交響楽団)

 第1楽章

 第2楽章

 第3楽章

 成立年代 確認とれず

 時代区分 古典

 形式 協奏曲

 形態 フルートメイン+オーケストラ

 バッハの最後の息子にして一番の成功者と言えるヨハン・クリスチアン・バッハです。その才能はおそらくCPE以上のものだったと思いますが、バッハ家からすれば若干異端に近いような気がします。オペラの成功、カトリックへの改宗、他の家族ではなし得なかったドイツを捨てての成功など、CPEは彼の成功をかなり妬んでいたそうですが、バッハ一族に取っては一番の世俗的な成功を収めたのは紛れもなく彼でした。

 他の兄弟同様、バッハの影響を受けながらも独自の道を模索していきました。彼の場合はイタリアに留学することでイタリアの音楽に触れ、そこからオペラの道に入ったことです。さらに鍵盤曲ではピアノフォルテ(ピアノの原型)に目をつけました。そこからミラノ大聖堂のオルガン奏者という地位を手に入れたのですが、その地位を捨ててロンドンにわたりロンドンで大成功をおさめることになります。

 で、この作曲家の影響を一番受けたとされるのはモーツアルト。派手さが多かったバロック様式の華やかさとそれに比べて比較的シンプルに纏まったギャランド様式と呼ばれる作曲手法をモーツアルトは彼から影響を受けてピアノソナタに多く活用していきます。またモーツアルトの父親通して対面もしており、その関係から仲良くもなっています。彼が急死したときにはモーツアルトは「音楽界に取って大きな損失」といっているぐらい影響を多く受けていました。

 もっともバッハの息子たちの最大の不幸と言えるのはバッハが再評価されたときには、自分たちの評価が落ちていたことが長い間続いていたということです。影響を与えた人物を考えると、父親に勝るとも劣らない評価をされてもおかしくないわけで、その分評価をされなかった時期の長さというのが響いているような気がします。息子たちは全員バッハの道をたどりながら独自の道に走ったり、父親の影響を離れてみたりしたわけで、音楽家として考えるのならば父親の影響をいかにしてぬぐいさるべきか。息子たちにはそれが指名だったように思います。ただしその苦悩を子供たちには経験してほしくなかったのか、一つ家系の子どもの世代を持ってバッハ家の音楽家としての使命は終えてしまうのですが。

 次回はハイドンの1回目。


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15曲目

2011年06月13日 | クラシック

 今回からカテゴリーがバロックから古典派に変わります。あと、ストックが少なくなってきたので、書きためのため明日の更新をおやすみさせていただきます。

 C・P・E・バッハ ソルフェージェット H220 (不明)

 成立年代 1766年

 時代区分 古典

 形式 小品(練習曲)

 形態 鍵盤楽器

 アレンジ ギター、ロックアレンジ、IMSLPにはオルガン

 ピアノ難易度 中級・中級中

 バッハの息子であるCPEことカール・プィリップ・エマニエル・バッハです。バッハは二度結婚をしていますが彼は先妻の子供に当たります。バッハの子供の中では一番の評価と一番の成功を収めた人で、古典派の基礎をつくりあげたという人です。ただし本人はバッハよりもバッハの友人であるテレマンの影響を大きくうけていて、その作風はハイドンとベートーヴェンに大きくつながっていきます。もっとも彼自身はバッハの影響を受けていると言っていて、それがバッハの神格化を創りだしてしまう張本人というありがたくない評価を受けてしまうのですが。

 バッハの子供は20人います。前妻の間に7人。後妻(アンナ・マグダレーナ)にいたっては13人(ただし7人が早世)子供を作っています。このうち音楽家になったのは5人。いずれも成功を収めていますが、特に成功を収めたのはCPEと末っ子であるJCB(ヨハン・クリスティアン・バッハ)で、それぞれのちの大作曲家につながっていきます。もっともこの二人の関係はJCBがロンドンで大成功を収めると、それまで関係だったのが一気に悪化してしまうのですが。

 このころになると鍵盤楽器もようやくピアノが登場することになるので、ピアノ曲というのも自ずと多くなっていきます。そんな中でCPEがだした教育本というのは各地で大きな影響をおよぼすことになります。クレメンティ・クラーマーにも影響を大きく与えその結果がクレメンティの「グラドゥス・アド・パルナッズム」(100曲。技巧的な部分を重視した29曲版のタウジヒ編が一般的だが、再評価の動き有り)やクラーマーの「84の練習曲」(後にビューローが60にまとめたものが一般的)などにつながっていき、結果ピアノ技術の向上につながっていきます。この二つの曲集はいまでも中級上から上級中レベルまでの人達にとっては欠かせない練習曲の一つになっています。

 次回は名前の上がっているJCBバッハ。


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14曲目

2011年06月12日 | クラシック

 今回は変化球。とはいえ正当に評価されれば、この人も作曲家として認知されそうなんだけど。

 フリードリッヒ大王 フルート協奏曲 ハ長調 (確認とれず)

 第1楽章

 第2楽章

 第3楽章

 成立年代 確認取れず

 時代区分 バロック

 形式 協奏曲(メインはフルート)

 形態 フルート+オーケストラ

 ドイツ国王フリードリッヒ大王ことフリードリッヒ2世です。戦争と周りの国の驚異にさらされて彼自身が戦争に打って出なくてはいけないなど、当時のプロイセンの置かれていた状況は決していいとは言えませんでたし、彼自身も数奇な人生と、孤独な晩年と、流転する遺体というある種の苦しみを経験し続けていました。そんな中でも彼は音楽を趣味にして、立場故に強力なサロンを形成。さらに彼自身も作曲家として、数多くの作品を残していること。さらにバッハ(息子C・P・E・バッハがチェンバロ奏者として仕えていた)と面会をしていることから、音楽という立場からも外すわけにはいかない人のひとりだと思います。

 趣味が趣味なだけに、様々な問題があったようです。音楽に対する興味は母親からのものでしたが、教育方針を巡って母親と父親が対立。どうしても軍人にしたかった父親(当時の世界情勢を考えると仕方ないのかもしれないが)はことあることに折檻(本人は母親的基質を受けづいていた)を繰り返し、そのため何度が逃げ出すことになります。(そのたびに失敗をして協力をした友達は処刑されてしまう)先代の王は今で言う毒親の典型で、部下の生活にも口を出していたほどの人物でしたが、プロイセンの勢力拡大には成功した人物でした。結果的にはこの二人は和解することにはなるのですが、父親によって強制的に結婚をさせられてしまいます。結果的にこの状態は10年も続くことになります。

 父親の急死により、国王の地位をついだフリードリッヒ大王は、その父親への当てつけのような政策をとることになります。それは文化的政策の解放とアカデミーの復活。さらには父親によって抑制されていたことの解放という政策を打ち出しベルリンを自由な雰囲気にしました。しかし同時に父親から勢力拡大の野望もうけ付いていたらしく、軍備も増強。さらにオーストリアに戦争を仕掛けます。この戦争には勝つものの、今度は逆に進行されてしまいます。しかもロシアの後ろ盾までつけて。さらに周辺の国からも侵攻を受けるという事態になりました。(ここまで拡大した原因はフリードリッヒ大王の女性軽視でロシアのエカテリーナの怒りを買ったことから)戦術で対抗してきたのですが、数の前にはかなわず。屈してしまうのかと思われたのですが、エカテリーナの死ということもあって奇跡的に講話が成立。これにより他の国も手を引いたことで何とか滅亡は免れ、さらにその後の勢力拡大に成功しています。

 しかし父親から植え付けられた猜疑心はそう簡単にとれるわけではなく、しかも年をとって周辺の信頼できる人物がどんどん死んでいく中、彼自身も死の病についてしまいます。彼は遺言として飼っていた犬のそばに埋めてくれと言ったのですが、時代がそれを許してはくれませんでした。 協会に埋葬され、第2次世界大戦の時には各地を移動するという状況になってしまいました。結局遺言通り愛犬のそばに埋められたのはドイツ統一後の1991年。亡くなってから205年も経過したあとでした。

 次回はC・P・E・バッハ。


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13曲目

2011年06月11日 | クラシック

 バッハの3回目。バッハを過ぎると時代区分がそれまでのバロックから、古典派という時代に変わります。

 バッハ 「マタイ受難曲」より アリア「憐れみたまえ、我が神よ」 (歌・ユーラ・ビール、バイオリンソロ・メニューイン。楽団は確認取れず)

 成立年代 1727年→1736年(最終の自筆修正)

 形態 オラトリオ

 形式 合唱+オーケストラ この曲に限って言えば アルト+ヴァイオリンソロ+オーケストラ

 アレンジ この曲だけに限定すれば ピアノソロ×3 チェロとピアノのアレンジ。全曲でもピアノソロがある

 バッハをかたるのであれば外せない一曲であるマタイ受難曲です。全体の演奏で二時間半もかかり(原点に近ければ3時間以上)ますので、同じようなタイトル内容は他の作曲家の作品でもありますが、マタイ受難曲と言われるとすぐに思い浮かべるのはやはりバッハの作品になってしまいます。それだけに彼の代表曲としても名が挙がるわけで、後世の作曲家にも、そして現代音楽家にも大きな影響を与えています。

 内容的にいってしまえば、聖書のイエスキリストの受難(ユダの裏切りとイエス・キリストの処刑)をそのまま題材にしたわけですので、かなり宗教的です。とはいえ、そこにある人間ドラマまでも書ききっていることから、すべての音楽の中で最高に位置する作品の一つだと言えます。

 こういう作品が生み出される背景にはやはりエルサレム特有の問題があります。ユダヤ・キリスト・イスラムという3大宗教の聖地が重なっているというのが背景にあります。ユダヤ教の聖地の理由はエルサレムがユダ王国の首都であったと事と神殿があったからで、神殿自体はローマ軍によって破壊されていしまいます。(残ったのが嘆きの壁と呼ばれる部分)キリスト教に関しては言わずもがなキリストが処刑をされた地であり、埋葬された地であり、復活をした地であることから。(もっとも処刑をエルサレムでやった事自体は当時の勢力の大ボーンヘッドだと思うが)イスラム教にいたっては後付感が強いのですが、ムハンマドがメディナから一晩でエルサレムに旅をしたこと、さらにムハンマドの死後からそれが早い段階で認識されていたことがあり、エルサレムを占領する前から聖地の一つになっていました。この3つの宗教勢力が入り組んだことをした結果、そこから1300年以上たった今でも、いがみ合いが起こってしまうという悲劇が繰り返されてしまっているわけです。

 皮肉にも一度は完全にうもれてしまったこの曲を掘り返したのはキリストを処刑したユダヤ人をルーツに持つメンデルスソーンでした。100年ぶりの再演とされたこの曲の発表は評論家には受けが悪かったのですが、パガニーニのコンサートを相手にしながら、大喝采+入れない人1000人という大きな反響と形で、熱狂的に受け入れられました。メンデルスソーンも低音担当としてピアノを担当。これ以後それまではツェルニー的な立場だったバッハが、偉大な音楽家バッハとして評価をされていくことになります。もっともこのせいで息子たちが符頭に評価されることになるのですが……

 次回はちょっと風変わりな経歴を持つ人。


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12曲目

2011年06月10日 | クラシック

 今回の企画はかなりの長丁場になるのでとりあえずという形で順番と曲をメモって入るのですが、すでにノート数ページ分になりそうな予感が……

 パッヘルベル カノン (確認取れず)

 

 成立年代 1680年頃

 時代区分 バロック

 形式 カノン

 形態 室内楽編成

 アレンジ たくさん。

 参考その1(フーガ)  バッハ平均律1巻1番 (リヒテル)

 パッヘルベルのカノンです。正確に言えば2曲目としてジーク(イギリスやアイルランド民族舞踊)があるのですが、いまではこっちにしか演奏で聞くことができなくなっています。この曲を中間部に持っていった合唱曲「遠い日の歌」があるので、歌ったことがあるというひとが多いと思います。(自分もそうです)。カノンというのは元々はギリシャ語からの語源で、音楽的に言えば同じ音程の音を後から続けていく音楽の技法の一つです。たとえば最初の人がドレミと演奏すれば、次の人はその後からドレミと続けていき、さらに後の人が同じようにドレミと続けていき……という形の方法です。合唱で言えば輪唱に近い形です。ロマン派の時代には一旦廃れたのですが、20世紀に入ってから復活をしてきた音楽の技法の一つでもあります。

 同じように主題を追いかける形で展開されていくフーガとは似ていますし、カノンも一時期フーガと同じような扱いになっていたのですが、フーガは主題とその追っかけるメロディーがあれば中間部などは割合自由になのにに対して、カノンは最後まで付いていくという形をとっています。この曲の場合は最後を合わせているために、おなじ漢字で終わるようにはなっていますが、大抵はずれて終わると思います。

 フーガとの最大の違いはカノンは基本的におなじ音程(鍵盤楽器にするのであればオクターブはずれる)のですが、フーガの場合はある程度の規則性を持って音程をずらすことにあります。例えば平均律の1番の最初の出だしはドですが、2声目は上のソ、3世目は2声目からオクターブ下がったところソが出だしになり、最後の4声は最初のドのオクターブ下のドになります。そこから途中何度も主題(最初のメロディー)を重ねつつフーガは展開されていくわけです。

 彼はバッハ家とは接点がかなり有ります。1677年にバッハの父の故郷でバッハ家の人と出会い、バッハの父から子供たちの家庭教師を頼まれます。このときはまだバッハは生まれていませんでしたが、努めていた場所をリストラで離れても娘の名付け親になったり、バッハの長兄の家庭教師をしていたりと交流は続いていました。その長兄の結婚式の時に当時9歳のバッハとあっていた唯一の機会としての可能性があったそうです。そのため影響を少しでも受けたのではと考えられています。

 次回はバッハの3回目。


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11曲目

2011年06月09日 | クラシック

 ラモー

 クラヴザン組曲から「タンブラン」 (シフラ)

 

 成立年代 1724年

 時代区分 バロック

 形式 小品(組曲の中の1曲) 

 形態 鍵盤楽器ソロ

 楽譜入手 全音「クラヴザン組曲」

 アレンジ オーケストラ、ピアノソロ(ただし元の楽譜から流用可能) 

 ピアノ難易度 中級・中級中・中級上 

 フランスバロック時代の二大巨頭の一人。ラモーです。クープランと違い日本での楽譜の紹介は、全音の難易度別の乗せているほど目にする機会は多いのですが、実際の音を聞いていないと胃人が多いと思います。ラモーもクープラン同様鍵盤楽器のスペシャリストなので、鍵盤楽器の曲の紹介になります。べつな曲の紹介も考えていたのですが、偶然シフラが弾いているこの曲を発見したのでこれを紹介したいと思います。元々はクラヴサン組曲第2番の中の一曲で、タンブランというのはフランスのブルゴーニュ地方の太鼓のこと、もしくはそれと小さな縦笛で演奏される二拍子の曲(楽譜を見ると4拍子だが、確かに感覚だけで言えば2拍子)のことです。元々はクラヴザン(チェンバロのフランス語読み)のために書かれた曲ですので、ピアノにしてしまうと雰囲気が少し変わってしまいますが、それでもバロックの道に進むのであれば絶対に外せない曲の一つだと思います。

 クラヴザンというのはチェンバロ(英語ではハープシコード)のことで、ピアノの原型の一つになった楽器です。バロックの時代はこの楽器として鍵盤楽器では一番人気があって、そこから平均律が生まれたり、楽団の主役になったりしていました。しかしピアノの登場により一気に廃れてしまいます。致命的だったのは楽譜がそのままピアノに流用できること。元々弾ける可能の音域が狭かった(平均律は4オクターブの範囲しかない)こともあり、廃れる要因はあったのですがの音色を求めるニーズが出てきたことから、一気に復活。今でも前線にいる一つの楽器として存在しています。現代の曲で言えば「恋は水色」のメロディーラインなんかで音色が使用(シンセサイザーなどで代用が出来る)されています。

 とはいえ時代と共に埋もれてしまう楽器というのは多いと思います。時代錯誤の状態の中で作曲が気に入ったとしても後の演奏家が代用できると思われたらその段階で切り捨てられてしまいます。たとえばブランデンブルグ協奏曲でもヴァオリンで代表が可能と言うことで切り捨てられてしまった楽器があります。ハイドンのピアノソナタも元々はピアノのためにかかれたのではなく、ピアノとチェンバロの中間にある時期の楽器のために書かれた物です。結果的に今の鍵盤楽器は一部除いてピアノにとり変わってしまっていますが、そのピアノとて今のような演奏法をすると簡単に壊れてしまうという欠点があった上に、まだメーカーが乱立をしていた状態で、技術に大きな差がありました。それ故に当時プレイエルのピアノを使っていたショパンはピアノをいたわるように大げさすぎない演奏を求めていたと言うことがあります。(それがサロン系重視、弟子育成軽視という方向に転がっていく)

 一つの楽器をとってみてもいろいろな歴史があります。中にはヴァイオリンの有名品ように途方もない値段がついてしまうという例もありますし、その値段のせいで泥棒行為の対象になってしまうこともあります。それだけに昔でも現在でも「経済力がなければ楽器はやってられない」というありがたくない言葉もあります。ピアノ一つとったって電子ピアノの数万円から、1000万円レベルまで沢山の種類があります。ので、いきなり無理に高いのに手を出さないで、自分で出来る範囲から楽器という物を探してみた方がいいと思います。

 次回はパッヘルベル。誰もが聞いたことがある有名な曲。

 

 


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