こんばんは(^。^)
記憶がまだ新しいうちに書かないと
忘れてしまう。(+o+)
さて、2日目に向かった先は釜石市と陸前高田市(奇跡の一本松跡)
最終日の3日目は石巻市と女川町である。
釜石市では復興推進事務所におじゃまさせていただきました。
この上の道路のあたりがよくTVに放送された場所です。
この橋桁の下場まで波が押し寄せたそうです。
ボケて見にくいのですが、シェルの黄色い屋根の上に青い目印
がありますが、あの位置まで一気に水が来たのです。
ここは住宅で密集されていた場所です。
釜石市で一番被害が多かったところです。
今、盛り土をするのに多くの土が運ばれていますが、
多くの方が生活していた感じはします。
そういう空気というか気配がするのです。
今、バックホーが盛土の上にありますが、
道路もその高さまで嵩上げされるそうです。
今回、釜石の復興推進事務所の職員さんは
同行して戴いた社長様の仲間内だそうです。
復興の説明などが終わり、事務所を後にした時
社長様は「3年前に会った時は彼の黒かった髪の毛が
今日、久しぶりに会ったら真っ白だよ。」
「かなり苦労しているみたいだな・・・。」
地元の方も大変だが、支援活動されている方々も
かなり苦労しているみたいです。
現場の復興は確かに進んでいますが、
メンタル面はかなりピリピリしている感じです。
お体に気をつけて下さい。
そして次に向かった先は陸前高田市です。
ここには大型のベルトコンベアーが設置され、
普通に盛り土するのに10年かかるだろうという話だが、
この機械のおかげでかなり短縮されるとのこと。
出土量が一日あたり大型ダンプ2000台だそうだ。
ここでは、地元の方の説明を受け当時の事や
今の現状を語ってくれました。
今回来て私は非常に思ったのが、
聞くと見るとの差は大きいと実感しました。
正直話すとTVの放送され我々が見ていたものは
本当に氷山の一角でした。
こんな平らな地になっても、人が住んでいた空気はありました。
また、放送できないものが多くあるそうです。
助かり、避難地に集まり明日も解らぬ生活が始まり・・・。
赤ん坊を授乳するのに、教室のカーテンを集め仕切りを作り
優しかった人々も時間が経つにつれ、赤ん坊が泣きだすと
怒りだし、母親と赤ん坊は外へ出るしかない。
そんな想いをし生活をしていたそうです。
この、何もない平地に一本の松がぽつんと立っていた。
塩水の関係で枯れてしまい、今は半分サイボーグになってしまった奇跡の一本松。
私はこの光景をみて悲しみより、さみしく思えた・・・。
いくどなくこの地は津波があり、その都度に境界として津波石を
先人は印をしたそうだ。
また、先祖の墓や神社がその境界の役割だったそうだ。
確かに、中途半端な高さに御墓や神社があるのに目が付いた。
その理由は、これから下に住むなという先人の忠告だったそうだ。
これを守った村もあり、被害を出さなかった場所もある。
いろんな細かい話を聞きましたが、やはり人類は自然の大エネルギーを
防ぐことは無理に等しいです。
最終日は石巻と女川に行ってきました。
上左の写真は女川の3.11の写真です。
右は今の状況です。
今、人が歩いているところまで水が押し寄せてきたそうです。
これは、女川町の復興まちづくり情報交流館の様子です。
これからの街づくりの模型です。
そして最後に訪れたのが石巻です。
花が添えられています。
今日は最後の一斉捜索だそうで、
多くの消防、警察の関係の方々がこの野原を鎌を持って歩いていました。
遺体、遺留品などの最後の捜索です。
よく見ると、家の基礎が無数あります。
遠くから見ると大きな野原に見えますが、
ここには多くの家があった住宅街と解りました。
私はこの地に来ていろんな事を学んだ気がします。
人と人の関わりあい、自然の脅威、生き延びること。
TVや被災地に行った人の話だけでは、伝える事の出来ない
現実がありました。
復興は確実に進んでいると思います。
でも、その裏ではピリピリとした緊張した空気が私には感じます。
時間とは不思議なものです。
忘れたり、思い出したり、人を変えさせ、それも良くも悪くも・・・。
この地には昔から「津波てんでんこ」ということわざがあるそうです。
てんでんことは各自という意味で、
海岸で大きな揺れを感じた時は、津波が来るから肉親に構わず、
各自でてんでばらばらで一刻も早く高台に上り、自分の命は
自分で守れという意味らしい。
この教訓によって、釜石の小中学生は生き延びたという話もある。
この教訓は生き残った人達が後世に伝えた、自分たちだけが生き残った
つらい意味もあるようにも感じられる。
今回の旅は、移動の疲れより精神的な疲れが帰ってきてから
どっと出た・・・。
だが、私にとってはお金には変えられない良い経験の旅であった。