先週の土曜日、「20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗」を観てきました。
原作を全巻読み、そして映画も<第1章> <第2章>を観た上での、今回の<最終章>。
期待と不安が半々という感じで映画館に行きましたが、感想を一言で表すと「原作>映画」ということになるかと思います。
<第2章>の感想時にも書きましたが、あれだけ長い話を限られた時間の中で映像化するというのはどうしても厳しいものがあります。
映画では、原作に登場していたキャラクターの存在やエピソードをカットしたりして、ストーリーをなるべく煩雑にせず簡潔にまとめようとしているのは分かりますが、それでもやはり展開が早すぎて、映画自体が原作のダイジェスト版に思えてしまいました。
また、今回は「原作とは異なる、もうひとつの結末」というのがキャッチの一つとしてあり、実際、ラストは原作とは異なるのですが、これによって、大きな矛盾が生じてしまったのが残念でした。
以下、ネタバレしてます(下記を反転してください)。
原作では初代「ともだち」がフクベエで、2代目「ともだち」はカツマタ君でしたが、映画ではフクベエは小学校5年生の時に死んでいて、結局「ともだち」はカツマタ君一人だけです(<第2章>で殺される「ともだち」は影武者で、<最終章>に登場するもう一人の「ともだち」は薬を飲まされたヨシツネでした)。
そして原作でも映画でも、万引犯扱いにされて小学校の頃からずっといじめられてきたカツマタ君が、その悔しさから「ともだち」になるのは同じですが、となると、映画版でどうしても理解できなくなってくるのがヤマネやサダキヨとの関係。
原作では、利発で超能力を使えるフクベエがヤマネやサダキヨを子分扱いし、ヤマネにいたっては、その後「ともだち」になってからも利用していきますが、映画ではカツマタ君がヤマネやサダキヨを子分扱いしていることになります。
みんなから存在を無視されるようないじめにあっているカツマタ君に果たしてこんなことができるでしょうか。
映画のラストシーン、ケンジがバーチャルワールドに入って中学校時代のカツマタ君に会いますが、この時点ではまだ激しいいじめにあっています。
これによって、ますます逃げ道がなくなるというか、説明できなくなってしまった気がします。
また、カツマタ君はフクベエになりすまして同窓会に参加しますが、なぜか誰もフクベエは死んだことを思い出しません。
小学校5年の時に同級生が亡くなったら、どう考えても誰か一人くらいは思い出しますよね~。
ちょっとこれはありえないなと。
それから、これは矛盾点ではありませんが、先述の「ヨシツネが薬を飲まされて『ともだち』になる」というくだりは、ストーリー上、必要なことでしょうか。
「ともだち」は誰か? という謎解きの中でのトラップとして、こうした話を入れているんでしょうけど、個人的には面白さをまったく感じず、つまりまったく意味のないくだりだとしか思えません。
ましてや、それをことさら「もうひとりの ともだち。」というキャッチで喧伝するやり方もいかがなものかと思います。
これに関連してもう一つ言うと、<第2章>で殺される「ともだち」は影武者だったというオチも、かなり乱暴なものだと思います(<第2章>では、このシーンをかなりウリにしていただけになおさらそう思います)。
とまあ、映画を観ていて色々と納得できないことがあったわけですが、逆にそれによって原作の奥深さを改めて認識した次第。
いつかまた原作を最初からじっくりと読み直してみたいと思います。
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