カティン(カチン)の森事件というのをご存知だろうか。
1939年9月,ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。
同時期にソ連もポーランド東部に侵攻。
これによりポーランドは敗北。
国境付近にいた20万を超えるポーランド人は軍属・民間人を問わず捕虜として,ソ連国内のコゼリスク(十月革命で閉鎖された修道院が収容所となった),オスタシコフ(北10kmのセリゲル湖に浮かぶストルブニイ島にあるニーロフ修道院が収容所となった),スタロビエルスといった諸都市の収容所に収監された。
翌1940年春から夏にかけて,内務人民委員部(NKVD:警察・諜報・刑事の国家機関-KGBの前身)の関係者が捕虜に対して,
「帰国が許されたので,これより西に向かう」
と言ったという。
捕虜たちは喜んだが,「西へ向かう」という言葉は軍隊用語では不吉を表すという。
そして,軍用列車に乗せられた捕虜たちはその通り西へ向かったが,祖国の土を踏んだ者は誰一人いなかった・・・。
ポーランド亡命政府は度々ソ連政府に対して捕虜の消息を訪ねたが,スターリンは間違いなく帰したと延べ,交通事情によって輸送が滞っているだけ,と主張した。
スモレンスクの近辺グニェズドヴォでは,多くのポーランド人捕虜が軍用列車で運ばれ銃殺された,という噂が絶えなかった。
やがて独ソ戦が勃発。
1943年2月から翌月にかけて,ドイツ陸軍の中央軍集団がカティンの森近くでポーランド人将校の遺体を大量に発見。
報告を受けた宣伝相ゲッペルスは,対ソ反ソのプロパガンダの為に,この事件を大々的に採り上げる。
当然ソ連政府は反論し,1941年7月にスモレンスクに侵攻した独軍による虐殺と主張。
やがてポーランド赤十字社と独の許可による調査団が到着し(1943年5月),ソ連軍による銃殺を主張したが,ソ連軍がスモレンスクに迫るにあたり,翌月調査を中止した。
確認した遺体は4700以上有ったという。
翌年,ポーランド国境に迫る赤軍は,失地回復とばかりに遺体を発掘。
独軍による虐殺を主張する。
終戦までの間,西側連合軍諸国ではヤルタ会談もあって,この件は不問にされたらしい。
ルーズベルトの命で調査をしたジョージ・アール大尉は,終戦までサモアに幽閉されていたという。
戦後,所謂ニュルンベルグ裁判にてソ連政府は,カティンの森事件はナチスによる戦争犯罪であると主張。
しかし米英が指示しなかった。
ポーランドに共産主義政権が樹立され,東西連戦終結の1989年(ついこの間だ)まで,このカティンの森事件は闇に葬られていたわけである・・・。
同年,ソ連の学者たちはたちは,スターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。
私がこのことを知ったのは,おそらくこの時期であったと思う。
NHK特集だったと思うが,夜に特番を見てこの事件を知るに及んだ。
翌90年,ゴルバチョフは内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認め,さらに翌年のソ連邦解体を挟んで1992年,ロシア政府は最高機密文書を公開し,これによってカティンの森事件は完全に赤軍によるものと断定された。。
恐ろしい話である。
勿論,ジュネーブ条約に反する捕虜の殺害などとんでもない戦争犯罪であるが,戦争終結(というか連合軍勝利)の為に,米英がスターリンのご機嫌を取る為にこの事件を不問にしていたというのも恐ろしい。
そして大戦中は独ソのいずれもが,お互いに罪をなすりつけ合っていたのである。
如何に戦争がエゴの塊であるか,そして非戦闘員までもが巻き込まれなければならないのか,今更ながらの不条理を感じる。
そして70年。
昨年,プーチン首相がポーランドを訪問した際,この事件を「犯罪」と呼び,今年4月7日,ソ連政府によるものと責任を認めた。
そして,数日後に慰霊祭を控えた昨日4月10日。
追悼式典に出席する大統領レフ・カチンスキ夫妻を始めとするポーランド共和国政府訪問団を乗せたポーランド空軍のTu-154M-101機がスモレンスク空軍基地への着陸に失敗し墜落。
乗客乗員96名が全員死亡という未曾有の大惨事となった・・・。
せっかくの歴史的和解が灰燼と・・・とはならないと思うが,あまりのことに絶句するしかない・・・。
戦争犯罪というと,ナチスによるホロコーストと真偽定かではない南京事件を思い出しがちだが,通州事件のように今なお歴史の暗部に隠されたものも依然として存在するのである・・・。

1939年9月,ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。
同時期にソ連もポーランド東部に侵攻。
これによりポーランドは敗北。
国境付近にいた20万を超えるポーランド人は軍属・民間人を問わず捕虜として,ソ連国内のコゼリスク(十月革命で閉鎖された修道院が収容所となった),オスタシコフ(北10kmのセリゲル湖に浮かぶストルブニイ島にあるニーロフ修道院が収容所となった),スタロビエルスといった諸都市の収容所に収監された。
翌1940年春から夏にかけて,内務人民委員部(NKVD:警察・諜報・刑事の国家機関-KGBの前身)の関係者が捕虜に対して,
「帰国が許されたので,これより西に向かう」
と言ったという。
捕虜たちは喜んだが,「西へ向かう」という言葉は軍隊用語では不吉を表すという。
そして,軍用列車に乗せられた捕虜たちはその通り西へ向かったが,祖国の土を踏んだ者は誰一人いなかった・・・。
ポーランド亡命政府は度々ソ連政府に対して捕虜の消息を訪ねたが,スターリンは間違いなく帰したと延べ,交通事情によって輸送が滞っているだけ,と主張した。
スモレンスクの近辺グニェズドヴォでは,多くのポーランド人捕虜が軍用列車で運ばれ銃殺された,という噂が絶えなかった。
やがて独ソ戦が勃発。
1943年2月から翌月にかけて,ドイツ陸軍の中央軍集団がカティンの森近くでポーランド人将校の遺体を大量に発見。
報告を受けた宣伝相ゲッペルスは,対ソ反ソのプロパガンダの為に,この事件を大々的に採り上げる。
当然ソ連政府は反論し,1941年7月にスモレンスクに侵攻した独軍による虐殺と主張。
やがてポーランド赤十字社と独の許可による調査団が到着し(1943年5月),ソ連軍による銃殺を主張したが,ソ連軍がスモレンスクに迫るにあたり,翌月調査を中止した。
確認した遺体は4700以上有ったという。
翌年,ポーランド国境に迫る赤軍は,失地回復とばかりに遺体を発掘。
独軍による虐殺を主張する。
終戦までの間,西側連合軍諸国ではヤルタ会談もあって,この件は不問にされたらしい。
ルーズベルトの命で調査をしたジョージ・アール大尉は,終戦までサモアに幽閉されていたという。
戦後,所謂ニュルンベルグ裁判にてソ連政府は,カティンの森事件はナチスによる戦争犯罪であると主張。
しかし米英が指示しなかった。
ポーランドに共産主義政権が樹立され,東西連戦終結の1989年(ついこの間だ)まで,このカティンの森事件は闇に葬られていたわけである・・・。
同年,ソ連の学者たちはたちは,スターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。
私がこのことを知ったのは,おそらくこの時期であったと思う。
NHK特集だったと思うが,夜に特番を見てこの事件を知るに及んだ。
翌90年,ゴルバチョフは内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認め,さらに翌年のソ連邦解体を挟んで1992年,ロシア政府は最高機密文書を公開し,これによってカティンの森事件は完全に赤軍によるものと断定された。。
恐ろしい話である。
勿論,ジュネーブ条約に反する捕虜の殺害などとんでもない戦争犯罪であるが,戦争終結(というか連合軍勝利)の為に,米英がスターリンのご機嫌を取る為にこの事件を不問にしていたというのも恐ろしい。
そして大戦中は独ソのいずれもが,お互いに罪をなすりつけ合っていたのである。
如何に戦争がエゴの塊であるか,そして非戦闘員までもが巻き込まれなければならないのか,今更ながらの不条理を感じる。
そして70年。
昨年,プーチン首相がポーランドを訪問した際,この事件を「犯罪」と呼び,今年4月7日,ソ連政府によるものと責任を認めた。
そして,数日後に慰霊祭を控えた昨日4月10日。
追悼式典に出席する大統領レフ・カチンスキ夫妻を始めとするポーランド共和国政府訪問団を乗せたポーランド空軍のTu-154M-101機がスモレンスク空軍基地への着陸に失敗し墜落。
乗客乗員96名が全員死亡という未曾有の大惨事となった・・・。
せっかくの歴史的和解が灰燼と・・・とはならないと思うが,あまりのことに絶句するしかない・・・。
戦争犯罪というと,ナチスによるホロコーストと真偽定かではない南京事件を思い出しがちだが,通州事件のように今なお歴史の暗部に隠されたものも依然として存在するのである・・・。

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