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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

「江~姫たちの戦国」-第28回「秀忠に嫁げ」

2011年07月24日 20時44分18秒 | TV&エンターティメント

秀次粛清までのプロセスの巻でした。
世に秀次は殺生関白とも言われ,辻斬りをしたとも母子ともいただいてしまったとも(菊亭晴季の娘とその連れ子),酒色に溺れて・・・と諸説があります。、
今回も昼酒をかっくらっていたようですし,秀忠と会っていました。
徳川を引き寄せる・・・??
で,
「父上ですか??」
に,さすがにぶっ飛びましたが,子役の女の子が可愛らしかったので良いことにします(をい)。


しかし,あれでは三成がさしたる理由もなく秀次を讒訴したことにしかならないでしょう。
秀次をどのようなキャラとして描くかが定まっていないので(善人として,江の身内であることを強調していたようですが),何故酒色に溺れたのか何故古書のたぐいを集めて学問好きであることを標榜しようとしたのか,そのあたりがはっきりしなかったので,最終的に破滅した動機が薄弱でした。
あとは,追放と同時に切腹が沙汰されたわけではないでしょう。
一縷の希望を持って高野山へ蟄居したところへ・・・というのが真相では,と思います。


秀次切腹事件はこれだけでは済みませんでした。
妻妾子ども殆どを三条河原で斬ったというのは,古今例を見ない惨劇です。
この一例を見ても,秀吉が既に尋常ならざる状況にあったことが分かるというものです。秀次には10数人の妻妾と四男二女が有ったと思われますが,有名なのは何と言っても最上義光娘の駒姫でしょう。
当時15歳。
美人の誉れ高く,秀次の目にとまったということですが,正式な婚儀もないまま連座して斬刑。
さすが武家の娘らしく従容として死の座に着いたと言われます・・・。
唯一生き残ったと思われる娘お菊(母は淡輪隆重女小督)も,大坂夏の陣に際して夫が大坂方に付いた科で斬刑。
秀次に付いていた与力の大名衆も連座します。
秀次父の三好吉房は改易・蟄居。
意外に知られていないのが服部一忠。
服部小平太-と言えば,ああ,桶狭間で義元に一番槍を付けて松倉郷の大刀で膝を斬られた・・・と思い出される方も多いのでは・・・。
当時伊勢松阪三万五千石の大名で秀次に仕えていましたが,連座して切腹。
毛利輝元と秀次が密談したと三成に嫌疑をかけられていましたが,秀次が毛利家より多額の借金をしていたことは事実のようなので,痛くない腹を探られた・でっち上げられたということになります。
また,秀吉子飼いの大名で秀次の与力として付けられていたのは,田中吉正,中村一氏,山内一豊の3人でしたが,家康の取りなしで沙汰無しとなった模様です。
秀次とその一門処刑は,秀吉が豊臣家の禍根を取り去るつもりで行ったのでしょうが,結果的に家康の影響力を強めるという皮肉な結果に終わったようです。


・・・ということで,この一件について語ればまだまだ根多は有りそうですが,自粛します(笑)。
・・・で,終了間際に秀忠に・・・。
はて,秀次事件と秀忠との婚儀,どっちが先なのでしょう・・・。
ま,どっちが先でも,ひっそりと暮らしていた江には大きな影響は無かったと思われますが・・・・・。


最後に,秀次の妻子が斬られた三条河原と,その菩提寺(名前失念)でした。
この季節鴨川畔の川床で一杯飲ったら風流でしょうね。
高瀬川沿いの木屋町の柳の下での一杯も良いでしょうけど・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第27回「秀勝の遺言」

2011年07月17日 20時11分34秒 | TV&エンターティメント

う~ん,さすがに今回は(も)見るのがしんどかったです。
弔問に来た姉や松の丸殿(諱で呼ぶなと言うに)に対して,
「あなた方に私の悲しみは分かりませぬ」
とは,傍若無人にも程があります。
ガラシャは何と呼ばれていたのでしょうね・・・。
ガラシャと呼ばれたのは,キリスト教が禁教でなくなった明治以降のことでしょうから,当時洗礼名で呼ばれていたとは思われません。
諱は玉(或いは珠)でしょうが,世を憚って明智御前とは呼ばなかったでしょうし,夫の忠興は丹後宮津城主だったので,宮津御前とか或いは本能寺の変後の逼塞の地である味土野御前とでも呼ばれていたのでしょうか・・・。
或いは,単純に細川御前だったとか・・・。
否,そんなことよりも,この夫婦の長子である忠隆(長岡休無)や次男の興秋といった数奇な運命を辿った兄弟の生涯に興味が湧きます。


連れ合いを失った悲しみは当然でしょうが,果たして江と秀勝は心を通わせた夫婦だったのでしょうか。
その辺を示す史料はあるのかどうか・・・。
子どもが居たからといって,この2人が仲睦まじい夫婦だったとは言い切れないでしょう・・・。
それにしても,生まれた我が子を抱きたくないだと・・・(怒)。
死んだ旦那と一緒じゃないと厭だだと・・・(目が点)
死んで旦那のところへ行きたいだと・・・(絶句・・・)
もう言いたいことはそれだけですかと,冷静に聞き返したくなりました・・・。


つまりですね(笑顔)。
少々のことでは驚かないつもりでいましたけど(けふけふ・・・)。
やはりここは言わせていただこうかと・・・。
お前なんか親になる資格,これっぽっちもねえ~~~


でもってついでに,


こんな脚本書くんじゃねぇ~~~


さすがに堪えました・・・。
来週から見ることをどうするか,本気で考えようかと思いましたが,ま,突っ込みを入れるのが楽しみでもあるし,もし蘊蓄語れれば・・・とも考えて,思い直しました・・・(身勝手)。


江と秀勝の一粒種である完子(さだこ)については,一度触れてみたいです・・・。
あと秀忠ってバツイチだったのでは・・・??
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第26回「母になる時」

2011年07月10日 20時38分57秒 | TV&エンターティメント

以前本家に「天地人」の感想を書いて,七尾城攻防戦の考証の甘さや兼続と政宗が会っていた場面を有り得ないと断言したところ,抗議のコメントをいただいたことがありました。有り難いことです。
私の駄文を読んでいただいただけに留まらず,コメントまでいただいたのですから。
抗議の内容をよくよく吟味させていただいた後で,何故私がこのような文を書いたのかという根拠を示してレスをさせていただきました。
この番組を楽しんでおられる方が3,000万人近くでしょうから,もしかするとその中の相当数の方がこれを史実と思われる可能性が有るわけです。
ですから,私のように突っ込みを入れる輩が1人くらい居ても良いのでは・・・と勝手に思います。


さて,今日の私の勝手なる命題は,江と秀勝の夫婦生活は果たして幸福であったか・・・ということです。
まずどこに住んでいたのか?
作中では豊臣一門として聚楽第に住んでいる設定でしたが,領国経営はどうなっているのか・・・という突っ込みを入れたいと思います。
婚儀は,聚楽第か大坂城で・・・とは思いますが,秀勝は番組末にもあったとおり岐阜城主となったばかりですので,領国経営に腐心しているのが妥当と考えます。
何せ美濃8,000の兵を連れての出陣ですから,岐阜城に江も住んでいて,出陣を賑々しく祝ったのではないでしょうか・・・。
勿論,内心は・・・と思いますが,そんなことを口に出せるはずございませんし(江と秀忠が言ってましたが・・・),秀吉に直訴などできるはずもありません。
江が秀吉の養女となるのは,秀忠との婚儀で箔を付けるためではないかと思われます。
佐治與九郎との婚儀も秀勝との婚儀は飽くまでも内輪でのことであり,他家に嫁がせたのは秀忠との婚儀が初めてでしょう。
そう考えると,どうなんでしょうね・・・。
秀次・秀勝兄弟の母(瑞龍院日秀,当時は岐阜御前?)は,当時夫三好吉房の犬山城か岐阜城にいたと推測されます。
番組に全く出てこないのは言語道断ですが,そうした舅と接触して江は幸福だったのかどうか・・・。
秀勝とはお互い好き合っていたという「功名が辻」もどきの設定ですが,それも有り得ないと断言しましょう・・・。
ですから,果たして幸福であったかどうかは分かりません・・・。
江自体があのような跳ねっ返りではなく,運命の流れに棹ささず淡々と生き,栄達していった人物と,思いますし・・・。


秀勝の死因は,朝鮮の民を庇って足を怪我してそれが原因で・・・とは何か根拠があってでしょうか・・・。
因みに,没したのは巨済島と言われています。
母の瑞龍院は寛永2(1625)年まで92年の長寿を保ちました(江の没年の前年)。
瑞龍院とは後陽成天皇に下賜された号で,嵯峨野の東雲に同名の寺を建てて住んだとされ,現在は秀吉と縁のある近江八幡市に有るようですが,岐阜城のある金華山に連なるのが瑞龍寺山で,山麓には瑞龍寺が今も有ります。
美濃守護職土岐氏の菩提寺ですから,由緒ある禅寺ということになります。
日秀の建てた瑞龍院は法華宗ですから,何らかの関連を考えるのはうがち過ぎかも知れませんが・・・。
久々に岐阜城と天守からの遠望を見て,学生の頃夜行明けに徒歩で登ったことを思い出しました(下りにロープウェイに乗ったら,ガイドのおねいさんに徒歩で登ったことを知られて呆れられました・・・)。
新幹線からは多分遠望できませんので,久々に岐阜を訪れたくなりました・・・。
勿論,駅南目的ではなく・・・(強制退場・・・) 。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第25回「愛の嵐」

2011年07月03日 20時47分38秒 | TV&エンターティメント

利休切腹の命令と,奔走するお江,そして秀次と良いところで出てくる秀勝・・・。
何か波乱が・・・と思ったら,聚楽第利休屋敷警護の上杉勢の目を盗んで・・・。
私も思わず
「何とまぁ・・・」
と,言ってしまいましたよ・・・。
こんなことに何で時間を取るのか・・・という突っ込みはもうしません(笑)。
利休切腹までの秀吉の葛藤も,江が利休を慕うのもいまいち理由の底が浅い感じで,得心できぬのはいつものことですが・・・。
で,江は茶の湯の心得をいつの間に身につけ,利休の最後の一服をいただくまでになっているとは・・・。
さすが天下人の頬を殴っただけあります・・・。
予想通り,利休の死を嘆く秀吉。
理由付けの底が浅いだけに,浮いて見えたことは言うまでもありません・・・。


このあたりから,ずっと豊臣家の不幸は続きます。
先代秀勝(2人)に始まり旭姫,秀長,鶴松,そして大政所,秀勝,秀次・・・。
秀勝はどうやら善玉として描かれ,お江との夫婦仲も良く,突如として吹こうが・・・ということになるのが見え見えですが・・・。
鶴松の死で秀吉が髻を切ったのは本当でしょう。
ただ,三成を始めとする諸将も仕方なく倣ったということですが・・・。
鶴松の死の腹いせに朝鮮出兵・・・という理由がないとは言い切れませんが,それが最大の理由ではありますまい・・・。
傲岸不遜な秀忠。
家康も
「捨て置け」
と言うしかないか・・・。
飯を食っている秀吉にずけずけとものをいうお江と良い勝負です・・・。
言ってしまえば,江は大坂城内や聚楽第で目立たぬように生活していたのでしょう。
豊臣家の継嗣問題にまで口を出す筈は無いと断言しましょう・・・。


・・・で,遂に秀勝と娶せると・・・。
理由は,秀次を見張る・・・??
で,求婚したよ・・・(絶句)
逃げ出す江・・・(無礼千万・・・)
・・・と突っ込む間もなく,婚礼・・・。
お床入りで布団離すんじゃねー。
全くこんなことに時間とるんじゃねーよ・・・。


それより,この当時の秀勝は岐阜宰相と言われ,甲斐から信長の故地岐阜へ移封され,多忙な日々だったと思われます。
さらに母である日秀の存在が全く無いのは問題です。
この頃は多分犬山城に居たと思われるのですが・・・。


来週は史実通り,あっさりと秀勝が逝くようですね。
生まれてくる子については,いずれ述べてみたいと思いますが・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第24回「利休切腹」

2011年06月26日 19時31分10秒 | TV&エンターティメント

いきなり国替えから始まりました。
関東移封を命じられ,利休を訪う家康。
突然,ずばりと本質を突く利休。
で,秀勝と激突する江。
こんなわざとらしい接点を作ってどうするんだ・・・。
三成が利休を讒訴して陥れる・・・??
そんな設定で納得するのか・・・。
またしても,大坂城内恋愛ドラマが始まる・・・。
秀忠まで出現。
江曰く,
「あなたには(秀吉と利休のことは)関わりないでしょう」
とのことですが,あんたにも関係ないよ。
家康の国替えに対して,江が口出すわけ無いだろう。
おまけに利休のことも秀吉に問い詰めるとは・・・あり得ません。
結局,大徳寺山門の木像と茶器の高額転売を三成の讒訴で・・・,そして秀吉を見限って秀吉のために茶を点てるのが厭だと暴言吐いたから・・・というのは,納得できません。
秀長薨去の後のごたごたに巻き込まれたという説も有るようですが,一体どれが真実なのでしょう・・・。
利休の娘お吟は登場しませんでしたが・・・。
それから,古田織部(重然)は確かに利休七哲の一人でしたが(他に細川忠興,蒲生氏郷,高山右近等),利休に推されて茶頭になったかどうかは分かりません。
利休切腹の折,忠興と共に秀吉の怒りを覚悟で利休を見送った骨のある人物だったでしょうが・・・。
多分,織部の出番はこれで終わりでしょうね。
後年,大坂の役の際に大坂方への内通により切腹となったことは,多分触れられないでしょうから・・・。
抗弁せずに従容として切腹の座についたということは・・・??
真相はどうだったかきょうみが湧きます・・・。
このあたりは司馬遼太郎著「割って,城を」を読むと,成る程・・・と思わせるものがありますが,私の周囲にごまんと居た「アンチ司馬」には鼻持ちならないことかもしれません・・・。
最近では,コミック&アニメの「へうげもの」の方が一般的でしょうか・・・。
残念ながら,いずれも目にしていませんが・・・。


朝鮮使節引見って,果たしてこの時期にあったかどうか,或いは本当に鶴松を同座させて使節の顰蹙を買ったのかどうか,浅学にして存じませんが,秀吉の唐入りは信長の踏襲とも,本能寺直後から構想が有ったとも,国内の大名の対立を国外に反らすため・・・とも言われますが,そのあたりが何とも不鮮明です。
で,鶴松が倒れた時,秀長も危篤に・・・。
大和郡山城に駆けつける秀吉(本当に行ったのか?)。
だから秀長と呼ぶなって・・・。
小竹か小一郎,或いは大納言と呼べというに・・・。


しかし,たらればは歴史にタブーですが,この異父弟が秀吉より長命だったら,歴史は変わっていたでしょうね。
少なくても,関ヶ原や大坂の役があのように推移し,豊臣家があっさり滅ぶこともなかったような気がするのは私だけでしょうか・・・。
次回は利休切腹と,いよいよ江と秀勝の婚儀のようですが,「愛の嵐」なる副題を見て今まで以上の厭な予感がします。
ま,ちょっとやそっとじゃ驚かなくなりましたけど・・・。
日記@BlogRanking


こういうものを見てはいけないのか・・・

2011年06月22日 22時29分07秒 | TV&エンターティメント

「橋」
「遠すぎた橋」
「レマゲン鉄橋」
「トコリの橋」

以上,映画の題名です。
4つの題名に共通しているのは,「橋」という語句。
それ以外の共通点が分かった方は,もしかすると私以上のマニアかも知れません・・・(本当か??)。
これら4作品は,すべて戦争を題材(或いは背景)とした映像作品です。
WWIIと朝鮮戦争が舞台ですが,不謹慎の誹りを覚悟で言うならば,私は子どもの頃から戦争映画が好きなのです・・・。
例えば,フランシス・コッポラの作品「地獄の黙示録」の最も有名な場面,ビーチでサーフィンをしたいという理由で,UH1Dの編隊がワーグナーの「ワルキューレの騎行」をバックに北ヴェトナムの村を襲撃した後,ジャングルをナパームで掃射するF5Aの銀翼に身震いします。
また,クリフ・リチャードソンが渋い英国人パイロットを演じた「633爆撃隊」では,フィヨルドに低空進入するモスキート爆撃機の格好良さに痺れます(「スター・ウォーズ」ep4のデススター侵入の場面は,明らかにこのシーンのオマージュでしょう)。
英国本土防空戦を描いた「空軍大戦略」(原題は"The Battle of Britain"ですから,お莫迦な邦題です・・・)では,一発の銃声もなく,W・ウォルトン作曲による"Spitfire music"に乗せてのドッグファイトシーンは,無益の消耗戦が語られます・・・。


男というのは,ある面どうしようもない生き物で,心中のどこか奥底深いところに,こうしたものへのアンテナを持っているのでしょう。
子どもの頃,戦争ごっこやチャンバラをして遊んだのが,その証拠でしょう・・・。
「機動戦士ガンダム」の各シリーズが人気を博してきたのは,戦争を背景とした深みのある群像劇が演じられてきたから・・・とも思います(「機動武闘伝Gガンダム」みたいなものは別でしょうが・・・)。
多分,私のような人間は,子どもの頃からのそうした思いが,いい年になっても色濃く残っているということなのでしょう・・・。


あんなもの見て気分悪くなるだけ・・・という批判は最もです。
戦争映画などというものは,見て気分が悪くなるべきものですから・・・。
以前,映画にはちとうるさいを自認するおすぎが,
「私は平和主義者だから,戦争映画は見ない」
と,ラジオかなんかで言っていたのを聞いた記憶がありますが,一面的というか短絡的というか,戦争映画の本質を全く見ていない妄言と思いました。
見なけりゃ,本質を理解できる筈は無いのですから・・・。


では,何故に胸くそ悪い思いまでして,戦争映画を見るのか。
それは,正史の理解と平和の希求に他なりません・・・。
勿論,色恋を絡めたりアクションシーンをウリにした娯楽色の強いものや(「ハノーヴァー・ストリート」とか),アメリカ万歳的な偏ったもの(「パール・ハーバー」-愚にも付かぬ駄作-とか)も有りますが,真珠湾攻撃の真実を伝える「トラトラトラ!」,Dday侵攻作戦後の連合軍の消耗と頓挫を描いた上記「遠すぎた橋」,海と空の両方にロマンを持つ艦載機パイロットの生き様と,家族との心温まるふれ合い,そしてそれらをすべて灰燼に帰す戦争の虚しさと酷たらしさを訴え,視聴後の後味が極めて悪かった「トコリの橋」。
こうした作品を見ることで,二度とこのようなことを起こしてはならないという警鐘と平和であることの有り難さ,そしてそれらは多くの先達たちの犠牲の上に成り立っているものであること等を改めて深く感じました。


・・・ということで,DVD棚を見たら有るわ有るわ・・・。
順不同で書き連ねると,玉石混淆以下の通り・・・。


「ブルー・マックス」(珍しいWWIの独もの。米映画だけど)
「フライング・タイガー」(ジョン・ウェイン主演のB級プロパガンダ)
「トラトラトラ!」(これが有ったのに,何で「パール・ハーバー」ができたんだ??)
「頭上の敵機」(ジェームズ・スチュワートは元パイロットだったらしい)
「眼下の敵」(ロバート・ミッチャムvsクルト・ユルゲンスが渋い)
「太平洋航空作戦」(特撮無しの実機。ま,米万歳だがF6FとかF4U1Dとか凄い)
「太陽の帝国」(スピルバーグは,日本人は差別しないのか。P51D好きだねぇ・・)
「空軍大戦略」(ひたすら史実を淡々と追った名作。スペイン製エンジンのBf109E)
「ダーク・ブルー」(宮崎駿お薦め。メカは「空軍・・・」の使い回しか??)
「史上最大の作戦」(命名は故水野晴郎だそうだが,これも駄目邦題と思う)
「プライベートライアン」(ま,スピルバーグだから偏った内容だが・・・。またP51D)
「大脱走」(言わすと知れた名作。リチャード・アッテンボローが渋い。)
「633爆撃隊」(「スター・ウォーズ」見た方は,ぜひ・・・。独機扱いカス)
「遠すぎた橋」(上記アッテンボローが監督。連合軍の恥部にメスを入れた問題作。M4A3)
「パットン大戦車軍団」(これもださい邦題。原題通り"Patton"で良かった。M47ださい)
「ハノーヴァー・ストリート」(若き日のハリソン・フォード。内容はメロドラマ。B25)
「メンフィス・ベル」(良くできているけど,ちょっと・・・。B17F死蔵中)
「トコリの橋」(二度と見たくないと思いつつ数回見てしまった。モナコ王妃とF9F・・・)
「追撃機」(ジョン・ウェインが馬の代わりにF86F・・・)


この手の根多もいくらでも書けるけど(迷惑!!),以下自粛・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第22回「人質秀忠」

2011年06月19日 20時16分51秒 | TV&エンターティメント

結局今週も見てしまいました。
貯めてしまうと絶対に見なくなりそうな気がするので・・・。


小田原の役のシーンは2分で終わるぞ・・・,と言っていたら,もっと短かったようです・・・。
小田原包囲での江と秀勝,秀忠の3ショットは何をか況んや・・・です。
これからもこういうことに時間を使い,繰り返していくのでしょう・・・。
ま,イケメン2人で視聴率は20%を越えるのでしょうか。
戦勝騒ぎで秀次の莫迦さ加減を露呈させ,利休の茶にかこつけて家康を父祖の地から追い出して関東へ追いやる・・・(と,思ったら違った)。
実に見事な演出でございます・・・。
次回の利休切腹の伏線も張っていますし・・・。
傲岸不遜な利休を案ずる黒田と,讒訴する三成。
秀吉の側近はこの2人しか居ないのか・・・。
虎之助に市松,甚内,助作,孫六・・・といった尾張・近江出身の所謂「賤ヶ岳七本槍」の面々が居たのですが,江とは何の関係もないということで出ないということでしょうか・・・。
そう言えば,黒田孝高のことを「官兵衛」と呼んでいましたね。
だったら,三成のことは治部なり治部少と呼ぶべきでしょう。
因みに,官兵衛の隠居は小田原の役前年と思われますので,この時は如水なり如水軒と呼ぶのが正しいのかもしれませんが・・・。
因みに,小田原開城には如水の尽力が大きかったと思われます。
イケメン+お江の3ショットなんかよりも重要なことではないでしょうか・・・。


秀忠は,怜悧で斜に構えた若者・・・という設定のようですね(因みに満11歳ですけど・・・)。
既成の概念を崩すのは大いに結構と思います。
但し,それが必然性をもって填れば・・・という条件が付きますが・・・。
向井君は,「ゲゲゲの女房」での好演が評判だそうですが,今回ははっきり言って全く上手いとは思われませんでした。
髷物には不向きなのか,或いは私がそう思っているだけなのか分かりませんが・・・。


蘊蓄をたれる気力も無いので,余計なことを1つ。
小田原城の映像を見る度に,若い頃小田原駅で雑魚寝したことを思い出します。
夏の夜に東京を発って関西方面へ行くべく,「鉄」関係者には名高い大垣行きの夜行列車(347M,345M等・・・)を待っていたところ,神奈川県西部に局地的な大雨が降って東海道線が一時不通に。
その煽りで上記夜行が運休。
0時近くに復旧したので,仕方なく終電で小田原まで行き,始発をつかまえるまで一夜を明かす填めに・・・。
少しでも蚊の被害が少なそうな箱根登山鉄道の入り口付近に,ごみ箱を漁って手に入れた新聞紙を敷き,そこに横たわること数時間・・・。
東海道線下りの始電までの眠れぬ夜を過ごしたのでした。
今なら警官に不審尋問されていたかもしれません。
夜が明け,始電の時間が近づいて人が動き始める頃に重い体を持ち上げた私の顔には,新聞の活字がしっかりと印字されていました・・・。
それに気付くのは,その日2度目のトイレに車内で行った時でしたが・・・。
その後,車内で寝ながら各停を乗り継いで何と和歌山まで行ったのですから,我がことながら若いというのは凄いことです・・・。


ということで,今週も感想になっていませんね。
お粗末様でした・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第22回「父母の肖像」

2011年06月12日 20時07分23秒 | TV&エンターティメント

今週も又何だかんだ言って見てしまいました・・・。


茶々の腹の子は秀吉の子ではないという落首が大手門(聚楽第)に。
で,町を2つ焼き払って,門番を初めとする17 人を殺した??
浅学な私は,そういう史実を存じませんでしたが史実です。

大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ

というのが落首の中身ですが,「日本史」を記したルイス・フロイスも「笑うべきこと」と語ったとされています。
で,番衆17人を処刑し,本願寺に逃げ込んだ者ばかりか関係者を含め113人をも殺したということです。
当時,秀吉は京都東山に大仏を建立しようとしており,それを名目として兵濃分離策である刀狩りを推進していました。
故に,上記のような落首が書かれたのでしょう・・・。
功徳と口説く(「くどい」も?)とやり方と槍刀をかけたあまり上等な句ではないですが,落首だから当然でしょう・・・。
天正17(1589)年暮れに,浅井長政とお市の方の供養が行われたのも事実でしょう。
現代に伝わる有名な肖像画は,高野山持明院に納められたことは,番組終了後語られた通りです・・・。


で・・・イケメン竹千代登場。
随分とまぁ反骨な若者という設定ですね・・・。
来週も出てくるようですが,早速江と会ったようで・・・。
これじゃ伏線にもなりませんな・・・。
でも今回は向井君出たので,視聴率上がったのでしょうか・・・。


冒頭に出てきたCGの聚楽第,ちゃんと飛雲閣が有ったのを確認。
中学生の時,社会科の先生がスライドで建物を映して,
「これを見て思うことは無いか」
と,質問したことを覚えています。
勿論,私をはじめとする生徒全員が分かるはずもなく,黙って聞いていたら,
「これ程センスの無い建物は無い」
ということでした。
飛雲閣は三層の建物ですが,各層がそれぞれ様式が違い,ちぐはぐな建物となっているというのが,その理由です。
つまり秀吉の田舎趣味丸出しということでした・・・。
聚楽第は秀次に受け渡され,秀次切腹後は取り壊されたと記憶していますが,飛雲閣は聚楽第の様子を伝える貴重な遺構として,今は西本願寺の南東角に残されています。
昨年末,私が訪れた時は生憎工事中で養生シートがかけられており,その姿を見ることはかないませんでした。
東西本願寺(これは家康の高等政策によって分割されました)は拝観自由なので,京都駅での列車待ちの時間にちょっと・・・というのがお薦めです。
ま,西本願寺はちょいと離れてはいますが・・・。


・・・という訳で,今回は突っ込む気力も無く流して見たという感じでした。
江が豊臣ファミリーの一員となっていたかどうかは分かりませんが,ま,傍若無人な江のキャラは,今後も続くことでしょう・・・。
あ,鶴松のことと,一瞬だけ出てきた例の側室おねいさんのことを書かないでしまいました・・・。
ま,いいか・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」-第21回「豊臣の妻」

2011年06月05日 18時46分08秒 | TV&エンターティメント

何だかんだ言ってまた見ちゃいました・・・。
え゛,後陽成天皇の聚楽第行幸-何か良いこと有った・・・→お茶々をものにした・・・。のっけから絶句・・・。
でもって家康に得意になって話す・・・。
正室の北政所にも謝る・・・。
はっきり言って,秀吉が茶々をものにしたことによる江の煩悶とか,それに関連したエピソードなどは,歴史の流れを考えるとどうでも良いことでは・・・と,思ってしまいます。勿論,歴史の流れの中で埋もれていった幾多の人々の思いとか悲哀とかいったものを浮き彫りにするのは無意味とは思いませんが,もっともっと描くべきことが有るのではないでしょうか・・・。
ま,そう考えると,江をこのような傍若無人キャラに仕立て上げた脚本と,それを変に盛り上げる演出の妙としか言いようがありません・・・。


・・・と考えているうちに,秀勝登場。
きたきた・・・・・・,お江と秀勝の似非恋愛ドラマの開始。
大坂城内で,江と秀勝の邂逅が100%無かった・・・とは言い切れませんが,そんなしょっちゅう遭ったり,親しく言葉を交わしたりしたことは無かったと断じましょう。
勿論,恋愛感情などそこに介在する余地は無いでしょう・・・。
大名クラスの婚姻は,当然のことながら相手を選ぶことなどあり得ません・・・。


突如登場した初。
姉と妹の溝を埋める・・・??
初は,完全に今の生活に満足した結果,姉と秀吉のことはすんなり認めて・・・。
え゛,男と女の関係とはそういうもの??
どういうものなんだ・・・
侍女いっぱい。
三成しか周囲にいない秀吉とは大違いだ・・・。
え゛,嬰児(やや)・・・。
許さぬ江・・・・・。
複雑な北政所が,江に詫びる。
何でだ・・・。
初曰く,茶々が美しく神々しい???
そう思わない私が変なのか・・・。
後の北政所と茶々のやりとりはどうでも良いです。
この後両者の内面の確執をどう描くのか・・・という興味は湧きますが・・・。


そうそう,タイトルバックの滝はどこなのでしょう。
軽井沢の白糸の滝のように見えましたが,違うような気もしますし・・・(「風林火山」に出てきたのと別かな?)。
あとは,錦秋の湖は・・・。
日光かと思いましたが,これも関係ないので違うでしょう・・・。
最後の大坂城のCGは良くできていると思いますが・・・。


来週は鶴松誕生+淀城のようですね・・・。
聚楽第行幸は立ち消えか・・・
(さて,「新選組血風録」見てお口直しだ・・・)
日記@BlogRanking


The Right Stuff

2011年06月04日 14時26分12秒 | TV&エンターティメント

私の生まれた頃から幼少時にかけては所謂宇宙開発時代で,今では信じられないことだが,米ソが如何に先に人類を月に送り込むか,国威をかけて躍起になっていた時代だった・・・。
特に有人宇宙飛行(ガガーリン,チトフ)において完全にソ連に後れをとったアメリカは,大統領に就任したケネディが,何としても数年内に人類を月に送り込むことを宣言。マーキュリー計画~ジェミニ計画~アポロ計画というプランの継続により,1969年7月,遂に人類は月に一歩を印す。


このあたりの,特にマーキュリー計画が如何にも見切り発車的な際どいものであったことは,フィリップ・カウフマン監督による映画「ライト・スタッフ」(1983)に詳しい。
確か文庫版でも出ていた原作はドキュメンタリーだったが,映画はそれを見事に一編の骨太なドラマとした見ごたえのある作品に仕上がっていた。


アメリカ人として初めて宇宙へ行った7人の宇宙飛行士(マーキュリーセブン)と,ベルX1機によって初めて音速の壁を破った孤高のテストパイロット,チャック・イェーガーの姿を輻輳させて描くことで陰影感と奥行きを出し,若き日のエド・ハリス(髪の毛は変わらない・・・)やデニス・クエイドの名演技,そして壮大なマーチを奏でるビル・コンティ(「ロッキー」のテーマのみが有名だけど・・)の音楽とも相俟って,映画にはちとうるさい(嘘です・・)私の10指に入る名作と言える・・・。


・・・ということで,余計なことを一言。
某サイトで一度書かせていただいたのだが,実はこのマーキュリーセブンのアストロノーツの名は,あのBBC制作の「サンダーバード」のトレイシー兄弟のファースト・ネームとなっていることを割と最近知った。
1号:スコット-スコット・カーペンター
2号:ヴァージル-ヴァージル・ガス・グリソム(アポロ1号の火災事故で死亡)
3号:アラン-アラン・シェパード
4号:ゴードン-ゴードン・クーパー
5号:ジョン-ジョン・グレン(映画では,私の好きなエド・ハリスが演じていた。朝鮮戦争ではF86F戦闘機を駆りMigキラーとして名を馳せる。元上院議員。先年70過ぎにしてシャトルで宇宙に行った元気な爺様。)


・・・ということである。
英国人は何事にも凝り性だと言われるが,こうした拘りは見事としか言いようがない・・・。
さて,今宵は星空でも眺めながら,志半ばにして斃れた前述のガス・グリソムやエリソン・オニヅカを初めとする先人たちの偉業に思いを馳せるとするか・・・。
(・・・と書いていたら,橙色のX1やNASA仕様のT38にX29,さらにはマーキュリー・カプセルの模型を無性に作りたくなった・・・)


・・・という訳で,購入・制作して4年放置しておいたベルX1(田宮1/72)を先頃ようやく完成させた(これがきっかけだった)。
4年のブランクは大きく,アクリル塗料で塗った本体は褪色し,1/2分割のディスプレイ部分を左右逆に塗装したので,紛失したコクピットのサイドパネルがバレバレである。
正面から見ると半分だけ橙色なので,あしゅら男爵状態なのが何とも情けない。


因みに,イェーガーの搭乗したX11号機は,B29(偵察型のF130か?)の主翼から空中で発進して,音速に達した後滑空して着陸したが,機首には愛妻からとった「グラマラス・グレニス号」の名が書かれてあった。


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「江~姫たちの戦国」-第20回「茶々の恋」

2011年05月29日 19時29分44秒 | TV&エンターティメント

題名を見ても,今更不吉な予感はしないのですが・・・。
お初の惚気手紙から開始。
茶々に打擲された秀吉のシーンのリフレイン・・・。
宗易や松の丸殿(諱で呼ぶのは論外)に簡単に会いに行ける環境。
そういえば,いつも秀吉とも会っていたような・・・。
江は万能という話ですから当然です。
今更驚いたり突っ込んだりしません・・・。
北野の大茶会の折,肥後で一揆が起こったことも触れられており,史実への配慮も滞りなく・・・(佐々成政が失脚したあれですな・・・)


で,お茶々が秀吉に対して・・・(絶句)というのは,幾ら何でも無理じゃないかい・・・と思うのは私だけでしょうか・・・。
殺伐とした戦国ドラマの中で,強く生きた女性を描く内容だということで,ここのところ毎回毎回取って付けたような疑似(似非)恋愛ドラマを見せられて,さすがに食傷気味です・・・。
これを見て,果たして感動・感心する方っていらっしゃるのでしょうか・・・。
私が何も感じないのが異常なんでしょうかね・・・。
秀吉と茶々のこの時期の関係は,恋愛たり得ないでしょう・・・。
欲望と打算と妥協の所産なのですから・・・。
勿論,だからといってこの2人の関係が無味乾燥なものとは言えないでしょう。
仮に(多分そうでしょうけど)当初は秀吉が強引に茶々をものにしたとしても,その後濃やかな関係になったことは否定できないと思います・・・。
秀吉はあれほどの好き者でありながら,彼のことを悪く言う女性は無かったと言われます。ですから,仮に打算と妥協で茶々が秀吉のもとへ行ったとしても,それを非難することは私にはできません。
でも,どうせならこんなことに何週間も費やすなら,もっと盛り上げようが有ったでしょうに・・・。
万里小路(一発変換しなかった・・・)との縁談を秀吉が考えていたのか否か,寡聞にして存じませんが,脚本家女史の創作でしたら,ちょっとひと言・・・。
万里小路家は公家の名家なので,
「女を政(まつりごとの)の道具にではない」
とのことでしたが,これって立派な政略結婚ではないかい・・・。
秀吉の禁中公家対策でしょうよ・・・。
織田と浅井の血を引く姫に相応しい家柄だからこそ政争の具でしょう。
因みに織田は平氏,浅井は宇多源氏佐々木氏族・・・と考えると,相応しいというのは全く当てはまらず,摂関家の流れの公家とは家柄的につり合わんでしょう・・・。


万里小路とはどうも現在の京都市下京区万里小路町に辛うじて名を伝えるようで,現在の柳馬場通がそれに当たるようです。
五条通から北上して
「まるたけえびすにおしおいけ。あねさんろっかくたこにしき。」
を経て,歌の最初にある丸太町通で御所に突き当たる(角に京都地裁)という,先日上洛の際に私も歩いた界隈となります・・・。
公家としては,後醍醐天皇に仕えた万里小路宣房・藤房父子しか出てこないのが悲しいところです・・・。


・・・ということで,今宵もブログ根多に困ることなく,40字×40行のワープロ1ページ分を軽く超える文章を書かせていただきました・・・。
皮肉や嫌み抜きで有り難いです・・・。
あ,そうそう,先週出てきた側室のおねいさん,今日も出てこないかと楽しみにしていたのですが,ほんの一瞬だけご登場でした・・・。
もう出ないんだろーな・・・(脱力)。


では今から,せっかく地図を開いたので,柳馬場通こと万里小路をストリートビューで疑似旅行してきたいと思います・・・。
(・・・ん・・・中京税務署の中の字が取れたままだ・・・)
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「江~姫たちの戦国」-第19回「初の縁談」

2011年05月22日 19時30分01秒 | TV&エンターティメント

さすがに見るのがしんどくなってきたのですが・・・。
日曜6時に忘れることなくリアル視聴しました・・・。


ま,予想通りどうでも良いことにたっぷり時間をかけて描いていました。
女が政の道具-今更述べるまでもなく,封建時代では当然のことでしょう。
縁談というのは降って湧いてくるものであり,自由恋愛などというのは明治以降に西洋から入ってきたものでしょう。
だからといって,当時の女性は気の毒だ・・・という考え方は一面的に過ぎる,というか現代の感覚でしか無いと思います。
縁談というのは自分の意志でどうこうなるものではなく,むしろ
「私の夫となる殿方はどこに・・・」
と,夢見ているのが現実だったと思われます。
親から主君から押しつけられた縁談しか無いなんて気の毒,と思うのは短絡でしょう・・・。


で,めでたく本邦初のVIP自由恋愛カップルの成立となりました。
お初の縁談成立は,お茶々が動いたため・・・という新解釈にぶっ飛びましたが,その程度のことで驚いてはいけません・・・(自戒・・・)。
高次が九州攻めの功で江州高島1万石の大名となり大溝城主となったことと,初を妻としたことは,当然のことながら政治的配慮からでしょう。
室町幕府の四職の1つである京極氏は,北近江の守護大名にして名門佐々木氏の流れを汲む宇多源氏の名家です(南近江を支配していた六角氏も同族)。
つまり浅井家の主筋であり,室町時代は北近江の正統的な支配者ということになります。京・大坂といった畿内の玄関口でもあり,交通の要衝にして琵琶湖の舟運も重要なファクターとなりますから,生半可な者に支配させるわけにはいきません。
そうした点で,北近江の正統的支配者とも言うべき京極高次に白羽の矢が立ったと思われます。
考えてみたら,浅井三姉妹と高次は従姉妹ですから,結びつきも十分な縁談であったということでしょう。
高次は姉や妻の血縁で出世したと陰口をたたかれて,「蛍大名」(尻の力で・・・ということでしょうか)などと言われたそうですが,近江八幡城主-大津城主と近江国内で確実に出世していきます。
そして転機となったのは・・・その時が来たら述べることにしましょう・・・。


大坂城内で身を寄せ合って健気に生きていく三姉妹。
二女の初に幸福な縁談があり・・・次は・・・となるのでしょうが,でも果たしてこの三人は本当に仲が良かったのでしょうか・・・。
今となっては知る由も無いのですが,姉や妹の縁談を素直に祝福するような関係だったのでしょうか・・・。
そう考えると茶々が秀吉の側室になった理由も自ずと分かるような気がするのですが・・・。
「あんたなんて没落貴族の近江一万石がお似合いさ」
「佐治與九郎??誰それ??」
ぐらいがせいぜいではなかったでしょうか・・・。
女同士ってもつとどろどろとしたものでは・・・と,常に暗黒面に陥っている私なんか思うのですが・・・。


・・・ということで,後半の茶々については語る気力を失ってしまいました。
昼間から若い側室侍らせている秀吉を打擲した茶々・・・。
もう分からん・・・。
若い側室役のおねいさんに一瞬萌えかけました・・・。
もうそんなことしか見る楽しみがない(否それで十分か・・・)・・・。
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「江~姫たちの戦国」-第18回「恋しくて」

2011年05月15日 19時36分11秒 | TV&エンターティメント

本日の題名を見て,不吉な予感がしたのは私だけでしょうか・・・。
何でも江が秀勝に惚れるとか・・・。
勘弁してほしい内容が予想されましたが,九州攻めの前振りがあり,史実を今度こそきっちりと描き分けてくれるのでは・・・。
せめて戸次川の戦いぐらいは描いてくれよ・・・という淡い期待を持ってはいけない・・・と知りつつもつい・・・。


・・・と思っているうちに,京極高次の名が・・・。
出たな,見え透いた伏線張り・・・と思った私は最高に甘かった・・・(泣)。
高次に惚れたのは初だった・・・(絶句・・・)
自由恋愛など有り得ないことを,以前の「功名が辻」の際に述べたことが有りましたが(一豊と千代が以前から互いに好きだったという設定にドン引きしました・・・),まして女が(しかも名家の姫君が),他家の武将に惚れてそして夫婦になるなどと・・・。
断じてあり得ません・・・。
で,伴天連追放令だぁ・・・??
ガラシャ夫人を何故に出す意味がある??
江と何か関係有るのか・・・。
何で簡単に大坂城内に訪ねてくることが可能なんだ・・・。
ビジュアル的なサービスか・・・。


で,5秒ぐらい戦闘シーン有るかと思った私は大甘でした。
もう後は何をか況んや・・・。
高次と初,秀勝と江のなれそめが十二分な時間を割いて丹念に語られ,ガラシャが入信したのは江のおかげになり,絶妙な間をとったのちに宗易に相談・・・。
恋愛ドラマにもなってない・・・と思うのはをじさんの私だけでしょうか・・・。
これをご覧になった若い方たちは,胸がきゅんとなるようなときめきを感じることができたのでしょうか・・・。
ま,確かに秀吉の伴天連追放令は,天正15(1587)年,九州攻めの帰途,博多(というか箱崎)でだったでしょうが・・・。
で,遂にお茶々を口説く秀吉・・・。
母を初めとする親族皆酔いつぶれとる・・・。
三者三様の恋模様・・・になんて到底なりません・・・。
で,正義の味方よろしく出てくる江・・・。
こんな脚本と演出,誰がOK出すんだ・・・。
・・・と言いつつも,田渕脚本の魔術で,あっという間の45分を過ごしてしまいました・・・。


天正末期の九州は島津と大友を初めとする群雄が割拠し・・・といったことが述べられていましたが,実際は島津が伊東,相良,阿蘇,龍造寺といった群雄を完全に圧倒し,全土を席巻するのは時間の問題・・・となって,本作の前年に大友宗麟(義鎮)が秀吉に泣きついたのがきっかけでしょう。
ですから,秀吉の九州攻めは前年である天正14年には始まっていました。
先鋒は中国を治める毛利一族(輝元,吉川元春,小早川隆景)です。
既に島津軍は築紫に侵攻して築紫晴門の鷹取城(鳥栖市)を落とし築紫氏を屠る。
そして大友家の高橋紹運の高屋城(太宰府市),立花宗茂(紹運子)の立花山城を攻撃。
両城共に激しい反撃に遭います。
そして,高屋城は紹運以下の玉砕によって落ちたものの,宗茂の奮戦で立花山城は落ちず,島津勢は撤退。
やがて山陽道から毛利,山陰道から吉川,南海道からは小早川と毛利軍が門司に襲来。
やがて四国からの十河・長宗我部軍(軍監仙石秀久)が大友軍に合流。
筑前は毛利軍が島津軍を圧迫する中,豊後では四国勢対島津勢の戸次川の戦いが始まりました・・・。
老練な長宗我部元親の進言を聞かぬ軍監仙石秀久の戦略は失敗し,緒戦に豊臣方は敗戦。
十河存安と元親長子信親が討死。
信親の戦死は,長宗我部家の命運を分かつものとなったことは周知の通りです・・・。
あとは年が明けてから秀吉が肥後から,秀長が日向から侵攻。
秀吉軍の先鋒は毛利吉成・高橋元種・城井朝房。
秀長軍は黒田官兵衛と蜂須賀家政。
それによって5月に島津軍が降伏・・・となりました。


・・・といった具合に,簡単に述べましたが,今回の放送はもっと簡単でしたね・・・。
田渕女史は九州攻めの経緯をどれくらいご存知なのだろう・・・と,ついつい疑ってしまいました・・・。


来週は・・・。
お初が高次に嫁ぎたいと秀吉に言っていました・・・(絶句)
高次役の斎藤工くん,イケメンですなぁ・・・。
「オトコマエ」の武田信三郎,「フルスイング」の情けない新採高校教師・・・どれも様になっていましたので,初が惚れるのも当然か・・・(言ってること違うぞ・・・)。
さて,口直しにHDD内の「新選組血風録」見るか・・・。
それとも「真田太平記」のDVD見るか・・・。
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「江~姫たちの戦国」-第17回「家康の花嫁」

2011年05月08日 20時10分05秒 | TV&エンターティメント

さて今回はどんなサプライズが・・・と大いに期待して見ました・・・。
え゛,北政所と呼べ?
母を大政所と呼べだ・・・??
本来政所とは,太政官制で身分の高い公卿の家政担当のことを言うので,その夫人である北の方を北政所と呼んできました。
このあたりは,有名無実と思われがちな太政官制が,有職故実と共に宮中では脈々と残っていたことがうかがえ,興味深いことではあります。
ただ,その呼称を秀吉自ら命じたとは思えません。
そのうち,関白職を秀次に譲った秀吉が,
「わしを太閤殿下と呼べ」
とか言うのでは・・・と心配です・・・。


で,あっさり四国統一。
三姉妹周りの侍女に状況を語らせて済ませるとは,さすがです-脚本・・・。
旭姫のお床を家康が準備するくだりをカットしてでも,秀吉の動き,というか当時の情勢をもっと克明に追って欲しかったです・・・。
来週あたり,秀吉の出陣も描写されずに九州攻めが終わってしまいそうな気配が充ち満ちています・・・。


妹を離縁させてまで家康に差し出し,母親までも差し出した秀吉は何という冷酷非道な・・・ということになるでしょうが,これこそ人蕩しと呼ばれた秀吉の真骨頂だったと思います。
自分の身内を差し出しても・・・に対して,もし家康がさらに硬化したとしたら,それは家康自身にとってマイナスにしかなりません。
苦労人の家康はその辺が手に取るように分かったでしょうから,遂に重い腰を上げたのでしょう。
さらに,明日は大坂城へ・・・という家康の元へ秀吉がお忍びで現れて,下工作を頼んだのも事実でしょう・・・。
但し,場所は二条城だったか(多分違う),洛中のいずこと記憶しているのですが・・・。勿論,北政所とお江が同席して・・・の筈はございません・・・。


しかし,このあたりは狐と狸の化かし合い(狐ではなく猿か)というか(それは失礼か),両雄の虚々実々の駆け引きというか,千両役者同士のそろい踏みという感じで,歴史を彩る名場面・・・と思うのですが・・・。
ここでは,一切の私心を滅して秀吉へ誠忠を誓う家康の度量はさすが・・・というものをもっと感じさせてくれるような演出は無かったものか・・・と思います。
お茶々の変心は・・・私が突っ込むまでも無いでしょう・・・。


しかし,秀吉の周りって三成だけなんですかね・・・。
庶務に明るい三成が文官としての才能を発揮するのは,文禄・慶長の役での兵站処理あたりからでは・・・と勝手に思って来ましたが,三成以外に子飼いは居ないのか・・・と思ってしまいます。
きっと関ヶ原が近付くと,急いで伏線を敷くために加藤虎之助と福島市松を出すのでしょうか・・・。
この時期は家康は勿論九州征伐前夜だけに,有事の体制にあったと思われます。
そうなると秀吉の作戦参謀たる黒田官兵衛はまだまだ現役の筈ですが,賤ヶ岳でお役御免になったようです・・・。
あ,秀吉に一番近いのはお江が居ました・・・。
うっかり忘れておりました・・・。
さすが主役です・・・。


・・・ということで,今回は蘊蓄をたれる気力も無く流して見てしまいました・・・。
次回は,お茶々が落ちるのでしょうか・・・(どうでも良い)。
で,九州攻めがまた会話だけで終わって,後陽成天皇の聚楽第行幸が賑々しく行われ,美しく着飾った浅井姉妹が・・・となって・・・(違うか)。
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「江~姫たちの戦国」-第16回「関白秀吉」

2011年05月01日 21時51分20秒 | TV&エンターティメント

・・・ん,連日の聖地巡礼で疲れ果てて寝てしまった・・・。
何々,ガラシャと忠興が来た??
復縁許されて挨拶だぁ・・・。
相変わらず訳分からんことになっとるようで・・・。


途中で数分人事不省になっていた時のことは分からんのですが,今回もかなりぶっ飛んでいたので,思い切り笑わせてもらいました。
そうした意味でも,私にとっては貴重な番組です。
何せ毎週のブログ根多には尽きませんので・・・。
何度か見るのを止めようかと思いましたが,ブログを読んでくださる方々の存在と大河視聴コンプリートへの拘りが,日曜6時の録画・再生へと私を導いてくれます。
実際見ていて面白いのは事実です(嫌みではなく)。
今回はどんなハチャメチャが飛び出すのやら・・・と思うと,楽しみですらあります(いや本当皮肉じゃないですって・・・)。
だから,もうそれに徹して楽しむことにしました。
少々のことでは,ぶっ飛んだり驚いたりはしません・・・。


・・・と思ったものの,さすがに
「足利将軍家の養子に」
というお江の献策には吹き出しました(お江に意見を求める筈無いし,そんなことは誰でも考え得ることでしょう)。
ついでに,秀吉が江に意見を求めたあたりで,さすが昨今の大河,主役が悉く史実に絡み,やたらポテンシャルが高い・・・と,納得したばかりだったのですが・・・(納得してどうする・・・)。


秀吉が足利義昭の跡を襲おうとしたのは史実ですし,義昭というプライドの高い没落貴族がそれを一蹴したことも史実でしょう。
ついつい元亀4(1573)年の槇島城の戦いによって,義昭は信長から追放されたので,室町幕府滅亡・将軍職剥奪と思いがちですが,名ばかりとはいえそのまま将軍であり続けたのが本当のようです。
で,私なんかすぐに信長と敵対する毛利氏の庇護下に置かれて,備後の鞆に移ったとばかり思っていたのですが,実はそんな単純なものではなかったようです。
どうも毛利へ行くまでの間に,三好義継の河内若江城に依り,それによって信長に義継討伐の大義名分を与えてしまったり,本願寺の仲立ちで紀州に依ったりしたようです。
紀州は本来幕府の三管領の一つである畠山氏が守護を務めていたので,幕府の威光がからくも通用した国だったと思われます。
また,本願寺の強力な味方であった地侍集団の存在も大きかったのでしょう。
鞆に移ったのは,どうやらその3年後の天正4(1576)年になってからのようです。
その翌年に信長による紀州征伐が起こっています・・・。
鞆は,建武3(1536)年に足利尊氏が当時の持明院統の光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた地で,足利氏にとっては極めて縁起の良い土地であったようです。
そこに亡命政府を置き,御教書を発して武田・上杉・北条の三国同盟を計ったりしたこともありました(勿論,実現しませんでしたが)。
秀吉と会ったのは,天正15(1587)年に九州攻めに向かう秀吉が立ち寄った際と言われています。
翌年帰洛。
秀吉より捨て扶持ともいうべき一万石を先に挙げた城州槇島に貰い,お伽衆として余生を送り,秀吉より1年早く没しました。


で,鞆(に居るとは言っていませんでしたが)には,何と秀長が行っていましたね。
寡聞にして知りませんが,根拠が有っての設定なのでしょうか・・・。
出自の卑しさを散々愚弄していましたが・・・。
そう言えば,秀吉ファミリー登場の場面では,秀長だけ居ませんでしたね。
何で妹の旦那が居て,姉の旦那が居ないんだ・・・,それに秀次と秀勝の兄弟や秀保も・・・などと突っ込みかけましたが,このようなことは端から有り得ないと思い,突っ込むのは止めました。
どうせ次回は母と妹を家康の元に送るのでしょうから,その伏線(にもならんか)として秀吉ファミリーを出したということでしょうか・・・。
で,関白太政大臣となって位人臣を極める秀吉・・・。
惹かれ始める茶々・・・。
う~ん,首を傾げる私・・・。
次回,家康は秀吉母妹を閉じ込めた寺に,薪を積み上げたりするんでしょうか・・・。


信長-悪→善
秀吉-極悪→悪
家康→善
    

という,実に分かりやすい構図のドラマなので・・・。


・・・で,その後の「新撰組血風録」は池田屋でした。
こちらも突っ込みどころはありましたが,良かったです・・・。
やはり「天地人」も「龍馬伝」も「江」も,これや「坂の上の雲」にエキスを吸い取られたのではないか・・・と,勘繰ってしまいます・・・(後者は,年末の第三部放映が今から待たれてなりません・・・)。
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