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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

「江」~姫たちの戦国~第15回「猿の正体」

2011年04月24日 19時56分50秒 | TV&エンターティメント

四十八手の次は,ナニが有ったか無かったかですか・・・。
そのあたりで既に引いてはいたのですが・・・。
身辺を探る??? 
大坂城の中を勝手に歩き回るのは勿論,三成,秀長,孝高,秀次,北政所,利休と自由に口をきくなど不可能と思いますが・・・。
・・・と,突っ込んでも詮が無いので(どうせ秀吉が少し悪人ではなくなるだけでしょう・・・),本日出て参った秀吉の養子3人について述べてみようかと思います。


結城秀康(1574-1607)
天正13(1585)年時点で12歳。
徳川家康次子。
幼名於義丸。
妾腹のため正室築山御前を憚って重臣本多作左衛門重次に預けられ,父に疎まれる(双子との説も)。
秀吉実子鶴松誕生後,関東の名門結城家へ婿養子として入り,下総結城11万石を継ぐ。
称羽柴結城侍従。
関ヶ原の役の際は小山評定の後,上杉への押さえとして関東に残る。
その功により,越前北の庄67万石の太守となるが,7年後に早世。
称越前宰相,越前黄門,結城少将。
武勇に長け,家康も一目置いていたというが早世が惜しまれた・・・。


羽柴秀勝(1569-92) 同17歳。
父は三好吉房,母は瑞龍院日秀(秀吉姉)。
つまり秀次弟。
幼名小吉,通称丹波少将,同中納言,岐阜宰相。
この年,早世した先代秀勝(信長四男)の遺領である丹波亀山(現亀岡)城主。
小田原の役の後,八ヶ月間甲信地方を治め,躑躅ヶ崎館に住した後岐阜城主となる。
お江との婚姻は天正15年とも小田原役後とも。
文禄元(1592)年,文禄の役に出兵中,巨済島にて病没。
享年24。
江との間に一女有り。
その子完子についてはいずれ述べてみたいが・・・。


宇喜多秀家(1572-1655)同14歳。
父は備中岡山城主宇喜多直家。
幼名八郎,初名家氏。
父直家は秀吉の対毛利政策によって,信長傘下へ入った直後の天正9(1581)年没。
元服後,秀吉の猶子となり秀の一字を貰い,備中美作の大名となる。
四国・九州攻め,小田原の役,朝鮮出兵にも従軍して力を発揮する。
関ヶ原では西軍の副将となり,勇戦したことは周知の通り。
その後については語るまでなし。
通称備前宰相。
誰よりも長く生きた・・・。


・・・ということで,今回は突っ込みもそこそこに,秀吉の養子について述べて終わってしまいました。
勿論,他にも秀次と小早川秀秋という大物も居るわけですが,私が語るまでもないでしょう・・・。


「江」を見終えた後,惰性に任せてBShiを見ていたら,「新撰組血風録」が始まりました。
土方を演ずるのは永井大(オグシュンかと思った)
「江」や「龍馬伝」に比して,数倍はまともに見えるのは何故・・・??。
日記@BlogRanking


「江」~姫たちの戦国~第14回「離縁せよ」

2011年04月17日 21時13分23秒 | TV&エンターティメント

夕食後に見ていたのですが,四十八手で気分が悪くなったお江(婚礼中にばくばくと食っていたのに)と,あっという間に終わってしまった小牧長久手の戦いに,さすがに眠くなってしまいました。
池田勝入父子も森長可も全く出ない小牧長久手の戦いも完全に説明不足ですし,何故秀吉が江を離縁させたのかが,全く分かりませんでした。
信雄に付いたから,では理由になりません・・・。


小牧長久手の戦いは,尾張北東部での局地戦と思われがちですが,家康が示した最後の抵抗でもあり,当然のことながら圧倒的な強勢を誇る秀吉に対抗するためには,それなりの準備があったはずです。
例えば,当時の家康に味方していたのは,小田原の後北条氏,四国の長宗我部元親,北陸の佐々成政,そして紀州雑賀・根来の地侍鉄砲集団と多岐にわたっており,少なくても単なる局地的戦闘ではなかったことは確かでしょう(雑賀・根来衆は泉州に乱入し,岸和田城を攻撃している筈)。
それを秀吉vs家康に単純に見立ててはいけないと思います。
当然両雄の直接対決は無かったですし・・・。


・・・で,佐治與九郎との新婚生活は先週から合わせると10数分で終了してしまったようです。
與九郎は良い人でしたが,心を通わせる時間も何も無かったようで・・・。
勝家に3度も放送回を当てたのなら,與九郎にももっとスポットを当てて欲しかったです。多分,もう2度と出てこないでしょうから・・・。


しかし,與九郎との離縁はいつなのでしょう。
今回は,佐屋の渡し説を採ったようで,天正12(1584)年ということになっていますが,天正18年説も有るそうです。
私が以前読んだ小説がそうでしたし,女の子が2人生まれたという記録も有るそうです。
ですから,もう少しこの幼い夫婦が心を通わせる描写欲しかったように思われてなりません。
さらには與九郎には,海の男としての逞しさも見せて欲しかったような・・・。


大野城を失ってからの與九郎は,織田信包に仕えて捨て扶持五千国を貰っていたという話です。
継室として信長の娘を迎え嫡子為成が居たこと,信包の丹波移封に従ったこと,為成は大坂の役に東軍として参戦したことなど,おそらく数奇な人生を送ったことでしょう・・・。しかし,佐治氏は因州八上郡佐治郷の出自とされますが,何故尾張の海岸部に根を張っていたのでしょう。
佐治氏の本姓は尾張氏ですので,もしかするとそのあたりに真相があるのかも知れませんが,迂闊にも浅学な私には分かりません・・・。
或いは,江州蒲生郡出身で平姓北条氏族という説も有るようで・・・。


そういえばかつて(といっても10代半ばのことですから随分前です),「佐治与九郎覚書」(井上靖著)なる短編を読んだことがあるのですが,全く記憶に残っていません。
多分,「真田軍記」か「天目山の雲」(いずれも角川文庫)といった短編集に併録されていたと思うのですが,家中探しても見つかりませんでした・・・。
何と63(昭和38)年にTVドラマ化されているようです。
主演は平幹二郎・・・ということは,もしかして父子で佐治与(與)九郎一成を演じた・・・???
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国」~第13回「花嫁の決意」

2011年04月10日 22時59分33秒 | TV&エンターティメント

尾州知多郡大野城。
現在の愛知県常滑市金山字桜谷。
私はてっきり名鉄常滑線大野町駅北部にある大草公園が大野城であると思ったのですが,これは後に織田長益(茶人の有楽斎と言った方が早いか)が築いた城であり,大野城はもっと南の城山公園がそれに当たります。
城趾には佐治神社なるものも有るようで,地元の方々にとって佐治家は大切な存在であるようです・・・。


佐治家は,伊勢湾の舟運と制海権を担っていたのでしょう。
織田家の傘下に居たと思われますが,織田家と姻戚関係にあったということは,緩い同盟関係というか一門衆扱いであったのかもしれません。
例えば,信長二男信雄は北畠,三男信孝は神戸(かんべ)といった伊勢の名家の名跡を継ぐことで伊勢を調略する足がかりにしたことは以前述べましたが,伊勢湾の制海権を握る佐治家は織田家からも一目置かれた存在であったのかもしれません。
織田家の水軍は毛利家のそれに比べるとはるかに脆弱であり,瀬戸内系では塩飽水軍,そして伊勢・志摩系では鳥羽を本拠地とする九鬼水軍と,この佐治家の水軍が重要な役割を担っていたのかも知れません・・・。


姉2人をさておいて,三女の江(しつこく言いますが,この年-天正11年-数えで11歳です),に白羽の矢が立ったというのも,多分事実でしょう。
お市御寮人に生き写しで美貌の誉れ高い長女の茶々には秀吉自身が野望を持っており(この時点でそうではないとしても,より有効な-つまり大物クラス-政略相手に宛行おうとしていたことでしょう),二女の初は後に京極家に嫁いだように,名門名家に使おうと思っていたことでしょう。
ですから,尾張の地侍に過ぎぬ佐治家には,美貌とも思われない三女の江で十分・・・ということなのではないでしょうか・・・。


・・・で,ようやく今回の内容になりますが,寧々がしきりと夫を詰った場面,はっきり言って有り得ないと断言しましょう(・・・と書いて,以前「天地人」のエントリでは,人を莫迦にしたような物言いするな,とコメントされたことがありましたが・・・)。
政略結婚が可愛そうとか,女を政争の道具にするなんて酷すぎる・・・とか,言われそうですが,それはあくまでも現代の価値観でしか有りません。
少なくても武士階級に自由恋愛なんて思想は存在しませんから,婚姻は父や主家の決めることであり,それに女性が異を唱えることなど在ってはならないことでしょう。
そんなひどい・・・と思うのは,現代の価値観です。
私の殿方になるお方は,どのようなお方だろう・・・と考えるのが,当時の武家の女性の一般的な在り方ではなかったでしょうか・・・。
ですから,例えばお市の方は政争の道具にされて気の毒と言われますが,嫁ぎ先の浅井長政とは勿論,再嫁した柴田勝家とも短いながら心を通わせた日々を送ったのでは・・・と予想されます。
江に関しても同様。
寧々が賢夫人であるなら,夫の身が立つように縦横に知恵を巡らせたと思われます。
ですから,もしかすると江の婚姻は寧々が・・・という可能性だって否定できないと思います・・・。
それから,三姉妹揃って仲良く力を合わせて・・・という図式は果たして道なんでしょう・・・。
乱世に生きた女はもっと強かではないでしょうか・・・。
例えば,一の姫をさておいて三の姫が婚姻・・・となれば,一の姫と二の姫は悔しがって,自分はもっとステイタスが上の殿方を・・・と,思う方が自然と思いますが・・・。
寝食も仲良く一緒のようですが,それぞれ侍女が付いており顔を合わせる機会はそう多くはなかったと想像します・・・。


佐治與九郎一成は良い人のようですね。
あっさりと輿入れしちゃいましたが,もう一工夫欲しかったです。
例えば,尾張の商業港として栄えた津島から船に乗って庄内川の河口から伊勢湾にこぎ出し,やがて大野水軍の軍船が周囲を固めて大野城へ・・・。
遠く鈴鹿の峰を望む伊勢湾の夕映えが江を迎えて・・・といった感じの方が,四十八手(猛爆)の江草紙見せて・・・というより効果的では・・・と思うのですが・・・(勿論,私の創作ではなく,先週紹介した小説の受け売りです・・・)。


・・・で,佐治與九郎とはどのような人物か・・・と書こうかと思いましたが,字数も紙面も尽きそうなので,また来週・・・。
日記@BlogRanking


「江」~姫たちの戦国~第12回「茶々の反乱」

2011年04月03日 19時49分30秒 | TV&エンターティメント

浅井三姉妹ハンストの章でございました。
ま,前半のハンストと宗易に宥められての・・・というくだりに関しては何をか況んや・・・という感じです。
こういうエピソードが今後も・・・と思うと,笑えはするものの,先行きがかなり不安になります・・・。
そもそもお江自体が,姉の茶々とは違って時代の流れに棹ささず飄々と人生を辿った・・・という印象が私には有るので,のだめ嬢が生き生き溌剌と演技すればするほど,ギャップが広がって行きます・・・。
勿論,私が勝手に思っていることですが,空前の歴史ブームたる昨今,歴女と呼ばれる方々を筆頭とする視聴者の方々には,ぜひこの名前すら正確に伝わっていないお江(江州生まれだからと語られていましたが,お江与-おごよ,おえよ,小督等々いろいろ有り)について文献を漁り,今回の番組にとらわれない自分なりのお江像を作り上げて欲しいものです・・・。
手っ取り早い,というかお薦めするのは,永井路子著の「乱紋」ですが・・・(同著「流星-お市の方」や「朱なる十字架」との併読も良いかと)。


・・・で,縁談でございます。
相手は,尾州知多郡大野城主佐治與九郎一成。
お江が天正元(1573)年生まれとすると,與九郎は永禄14(1569)年生まれと思われますので,4つ年長。
婚姻の時期は,天正11(1583)年の賤ヶ岳の後で,小牧・長久手の前ということとすると,天正12年初めと予想されます。
お江満11歳,與九郎15歳。
当時として有り得ないことではありませんが,果たして本当に婚姻があったのか,或いは信長の生前から決められていたことなのか,秀吉が信雄懐柔・家康牽制を狙っての楔だったのか,真相は謎です・・・。
かと言って,
「水軍が・・・」
との台詞は,見え見えでは・・・。


佐治與九郎については,来襲語られると思いますので,彼については私もその際に述べてみようかと思います。
歴史の表舞台にこそ出てきませんが,こういう人物の出自やら行状を調べてみるというのは,実に楽しいことでして興味は尽きません・・・。
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「江」~姫たちの戦国~第11回「猿の人質」

2011年03月27日 21時35分00秒 | TV&エンターティメント

北の庄落城後,浅井三姉妹は秀吉に引き取られ,長女茶々は仇である秀吉の側室となり・・・。
と,ついつい単純に思いがちですが,茶々が秀吉側室となったのは1588(天正16)年頃と思われます。
つまり四国・九州征伐が終わり,聚楽第行幸の年です。
残るは関東の後北条氏のみ,という争乱が終息しつつある時期です。
では,それまで三姉妹は何処に居たのでしょう・・・。、
まず戦後処理の間,安土城に居たのは確かなようです。
庇護へしたのは,どうやら信長弟の長益(有楽斎-有楽町の語源)だったようです。
秀吉にとっても主筋にあたる訳でして,粗末には扱われなかったと思われます・・・。
今回は,何故か利休が出てきましたが,長益は利休十哲の一人でしたので,もしかすると接点が有ったのかもしれません・・・。


京極竜子とは,京極マリアの子です。
マリアは浅井長政の姉で,京極高吉夫人。
竜子はその子で,後にお初の夫となる京極高次の妹(姉という説も)に当たります・・・。
・・・で,秀吉側室になったのはいつだったのでしょう・・・(というか,何で側室が浅井三姉妹と安土城で会うのか・・・)。
松の丸殿・・・と言った方がしっくり来るでしょうか・・・。
前夫は若狭の名門武田氏(甲斐や松前の武田氏と同祖の源氏の名家)の当主元明。
解説にあったように山崎の戦いでは明智勢に付いて没落しました。
尤も「討死」と言っていましたが,厳密に言うと元明は本能寺の変に際して,神戸信孝と共に四国へ出陣しようとしていた丹羽長秀の佐和山城を攻め落としており,その遺恨からか長秀に謀殺された(或いは切腹)筈です。
この時,後にお初の夫となる京極高次も秀吉の居城である長浜城を落としているので,そのあたりのことは想像するしかありません・・・。


今回は京極氏について述べなくてはなりません。
TVでは,いきなり京極竜子が出てきて,浅井の縁者・・・という設定になっていましたが,そもそも北近江の陪臣に過ぎなかった浅井氏の主筋が京極氏ということになります。
そのあたりが無かったのは明らかに説明不足でしょう。
北近江の守護職にして,室町幕府の三管領家(細川・斯波・畠山-足利一門)に次ぐ四職家(他の三家は一色・山名・赤松各氏)の一つという家柄です。
出自は近江源氏と言われる佐々木氏で,源平の争乱期以前から宇多天皇を始祖として北近江に根を張っていました。
木曾義仲と源義経という源氏同士が争った宇治川の戦いで先陣争いをした佐々木四郎高綱は,この一族です(近江の佐々木一族が何故関東の源氏に仕えたのかを述べると,とんでもない量になるので今日は自粛します)。
佐々木氏は,南北朝の争乱期に婆娑羅大名と呼ばれた佐々木道誉(高氏)が有名ですが,その後,隠岐と出雲の守護職だった尼子氏とこの京極氏が残りました。
道誉自体京極姓を名乗ったようなので,京極氏の歴史は少なくても700年ということになります。
京極-京の端という意味ですが,京都西郊に館があったということでしょうか・・・。
例えば,現在の京都で言うと,西五条通と葛野大路の交差点より西は「西京極」なる地名が残ります。
女子プロ野球で有名になったわかさスタジアムを含む一帯は,西京極運動公園と呼ばれていたと記憶しています・・・。
その京極氏の勢いは昔日のものであり,家臣だった浅井氏に取って代わられたということでしょう・・・。
ですから,秀吉の閨室では,松の丸殿の方が淀殿より家格が上で,それによっての対立があったということを聞いた記憶があります・・・。
脱線ついでに,北近江の守護が京極氏だったのに対して,信長に駆逐された南近江の守護は六角氏です。
これまた佐々木一族です。
さらに余計なことを言うと,京極・尼子・六角の他に,近江源氏出身で大名になったものには黒田氏が居ます。
秀吉の謀将として有名な黒田官兵衛(如水軒)は,何代か前に近江から播磨の福岡郷に土着するようになったということです(だから,博多の町を「福岡」と命名した)。


・・・ということで,今日もお江には触れませんでした・・・。
お市の方の魂魄が出てきたり,お江の背後に信長がオーパーラップしたり・・・と,あまりの演出に笑ってしまいました・・・。
なればこそ,こうしてエントリができるわけでして,根多を提供していただけるので,有りがたいことなのですが・・・。
さて,佐治與九郎はいつ出てくる・・・・・・??
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「江~姫たちの戦国~」-第10回「別れ」

2011年03月20日 22時46分11秒 | TV&エンターティメント

賤ヶ岳の戦い-覇権を巡っての秀吉vs勝家とついつい思いがちですが,この時期畿内を押さえているのは織田家であり,あくまでも織田家の相続を巡って有力な宿老2人が競う-といったのが本質ではないでしょうか・・・。
関ヶ原だって,家康vs三成となっていますが,どちらも豊臣家を守るためにをスローガンにしていますし,西軍の総大将は三成ではなく大坂城に在った毛利輝元であり,副将は備中岡山50万石の若き太守宇喜多秀家。
三成は参謀ということになっています。
ですから賤ヶ岳の戦いは,先の清洲会議で織田家の後継と決まった三法師(後の岐阜城主秀信)の後見たる信長次男北畠中将信雄と三男の神戸(かんべ)三七信孝の後継争いに,羽柴・柴田が介入(というか後ろ盾)という,20世紀の小国同士の戦争のような図式だったのではないでしょうか・・・。


全く余計なことですが,この信長の次男と三男は,それぞれ北畠・神戸という伊勢の旧家の名跡を継いでいることが興味深いです。
伊勢は信長の本拠地たる濃尾両国に隣接しているので真っ先に平定されたと思われがちですが,北畠具教に代表される旧勢力に加え,木曽川三角州を挟んでの対岸の長島には一向一揆勢力が根を張り,信長の兄弟を討ち死にさせるくらいの強勢を誇りました。
ですから,伊勢の旧家に自分の子を送り込んで・・・と,平定に苦労したであろうことが偲ばれます・・・。
因みにこの北畠氏,伊勢の守護職ですが,南北朝時代に南朝の中心人物であった北畠親房の三男顕能が祖と考えられます。
平安時代の村上天皇を祖とする村上源氏の名家ですが,伊勢土着と守護大名としての盛衰を調べてみると,面白いドラマが有りそうです・・・。


・・・ということで,賤ヶ岳です。
秀吉が岐阜で再び反旗を翻した信孝に軍を向けた間隙に,柴田軍筆頭の佐久間盛政が大岩山砦を落とし守将の中川瀬兵衛清秀を討ち取る。
その勢いで近くの岩崎山に陣する高山右近をも撃退。
しかし,山崎の戦いの際の中国大返しに匹敵する秀吉の岐阜大返しによって,柴田軍前戦の前田利家・金森長近・不破勝光が戦線を離脱。
不利を悟った柴田軍の撤退によって勝敗が決定・・・と,それぐらいは語って欲しかったような気がします。
岐阜を攻撃すると見せかけたのは,実は陽動作戦だったとか,実は揖斐川が氾濫したので秀吉は大垣城にとどまっていたのが大返しに繋がったとか,前もって北国街道沿道に松明とにぎりめしを用意させていて,大垣-木之本間52kmを僅か5時間で走破したといったエピソードが語られても良かったのでは・・・とも思いました。


あとはまぁいつものことで・・・。
秀吉使者が三成だったという根拠はどこにあるのか寡聞にして知りませんが,三姉妹を引き立てるように,わざとらしい桐の袖印の足軽のような出で立ちの軍兵が動いたり,落城間際にどんちゃん騒ぎをやっていたり・・・と,何となく一昨年の「天地人」を思い出しました・・・。
北の庄落城は,戦国悲史の一つとして語り継がれてきたことでしょうが,何とも軽く感情移入できずに終わってしまいました・・・。
う~ん,まぁ面白いんだけどそれだけかな・・・。
突っ込みどころ満載で,ブログ根多に事欠かないので,こちらとしては有り難いのですけど・・・。
口直しに,85-86年放送の「真田太平記」でも見て寝ようかな・・・。
歴史好きとしては,これぐらいのものは作ってもらわなきゃ・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国~」-第9回「義父の涙」

2011年03月06日 20時15分08秒 | TV&エンターティメント

もう9回になるんですね。
年が明けて2ヶ月以上になるのですから,もう今年も1/6が終わってしまいました・・・。今日も,6時過ぎから録画をしつつ再生しました。


まず勝家居城たる北ノ庄城。
去年の「龍馬伝」に於いて,「越前城」とクレジットされていたのは噴飯ものでしたが,何とフルCGによって七層の巨大な大天守が築かれておりました・・・。
をいをい,本当かよ・・・と一瞬突っ込みそうになりましたが,考えてみたら,イエズス会のルイス・フロイスが北ノ庄を訪れた際に,
「安土城に匹敵する七~九層の壮麗な天守」
といったことを書き残しているので,あながち嘘とは言い切れません・・・。
ただ,大坂城よりも立派に見えてしまいましたが・・・。
勝家時代の北ノ庄城は,完全に破却されて,その上に結城秀康(家康次男)が築城したので,当時の遺構は確認できなかったらしいですが,いずれにしても勝家がしっかりと領国経営をした証として,立派な居城であったことは間違いないと思われます。


秀吉が北野の大徳寺で信長の葬儀を行ったのが,天正10(1582)年10月。
旧主の百か日法要であったと言われています。
勿論,織田家筆頭家老である勝家や信長妹のお市に声がかかるはずありません。
それどころか,柴田派である(というか勝家が担ぎ出した)神戸三七信孝は勿論,北畠中将信雄,さらには清洲会議で織田家の後継と決められた三法師秀信も参列したかどうか,疑問視されています。
さらには,賤ヶ岳合戦で勝家方に与した滝川左近将監一益は,参列しようとしたものの大徳寺で文字通り門前払いをくらったという話です。
つまり,この信長葬儀はあくまでも秀吉のデモンストレーションであり,私が子どもの頃読んだ「太閤記」にあったように,
「信長のことを思う秀吉が・・・」
という側面はなきにしもあらずでしょうが,ま,露骨なデモンストレーションの色合いが濃いのでしょう・・・。
だからといって,最近大河では旗色の悪い秀吉を悪とするのは,あまりに短絡的に過ぎると思います。
天下を取る野望を持つこと=悪とはならないでしょうから・・・。 


・・・で,翌天正11年正月に信孝が挙兵して,伊勢でも勝家方が決起・・・というのは,上述滝川一益のことでしょうが,そのあたりがあっさりと語られすぎではないでしょうか・・・。
例えば,信孝は年が明ける前の12月に岐阜城を開城して降伏し,さらに勝家が北ノ庄を出陣した翌年4月に再び挙兵しています。
さらにその前には,勝家は秀吉型の出方を牽制して,自分の与力たる前田利家・金森長近・不破勝光を秀吉のもとへ和睦交渉のため派遣しています(尤も,賤ヶ岳以降この三者が秀吉方に付いたことを見ると,秀吉と懇意だった利家はともかくとして,金森と不破は兆略されたと思われます)。
そうしたて背景と一益の挙兵があっての勝家出陣ですから,もう少し丁寧に語られても良かったかと思います・・・。
長浜城のことも,秀吉が手を回して城将たる柴田勝豊(勝家養子)を調略したことが大きかったでしょうし・・・。


ま,戦評定に女が加わるなどということは有り得ないと,断言しておきましょう・・・。
(唯一の例外は,お茶々-淀殿の前で行われた大坂の役の際の評定ぐらい・・・???)
満10歳に満たぬお江に発言力があるとは思えないのは,いつものことです・・・。
勿論,「女は不浄」と言われた軍陣に於いて,出陣する軍勢をお江が追うくだりは,何ともはや・・・です・・・。
ただ,前回も述べましたが,ほんの数ヶ月の短期間でしたが,浅井三姉妹にとって,暖かな心を通わせる家庭が有ったことは,史実では・・・と思いたいです。
なればこそ,お市は賤ヶ岳の敗戦後,焼け落ちる北ノ庄城で夫に殉じたのでしょうから・・・。


来週は賤ヶ岳ですね。
勝敗を決した佐久間玄蕃の突出と前田の寝返り,そして秀吉の岐阜反転大返しは描写されるのでしょうか・・・。
そういえばお市が,
「賤ヶ岳へ出陣」
と言っていましたが,両軍出陣した結果,対峙したのが賤ヶ岳であった訳で,端から決戦場が決まっていたわけでは有りますまい・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国~」-第8回「初めての父」

2011年02月27日 20時59分31秒 | TV&エンターティメント

さて,今回はどんなサプライズが・・・と思いつつ見ました。
北ノ庄城主柴田勝家に嫁いだお市と三人の娘たちの話でしたが,予想に反して何とも情けない勝家。
お茶々もお初も父としての勝家を受け入れない。
途中,小谷城跡に登る母子。
ま,女が自由に領国を歩くなどできないと思いますが・・・。
秀吉は,山城国山崎城に在城・・・。
ん゛・・・山崎城・・・どこだ・・・と思いきや,天王山宝寺城のことだったんですね。
確かに,天王山には秀吉が大阪城を築くまでの間,在城していました・・・。
本来,山崎や対岸の八幡・男山といった場所は,桂川・宇治川・木津川の合流点にして,天王山と男山に挟まれた狭隘の地だった故に,南北朝期から幾度かの合戦の舞台となりました。
天王山の麓,丁度現在の東海道本線山崎駅北隣に宝積寺なる古刹が有りますが,これを含め,天王山頂までが要害だったのでしょう・・・。
地図を繙くと,古城などという字が見られますので・・・。


後の見え見えの演出については,ま,予想の範疇かと・・・。
一晩で勝家は父親の威厳を身につけ・・・(以下自粛・・・)
しかし,北ノ庄でのお市母子の生活は,おそらく幸福なものだったのではないでしょうか・・・。
勿論,想像の域を出ないのですが,翌天正11(1583)年の落城に際して,お市が勝家に殉じたことからも,本当に短い間ながら親子・夫婦として心を通わせることができた期間ではなかったか・・・と思いたいものです・・・。


柴田勝家を演じた俳優さん・・・というと,宍戸錠を筆頭に松平健,勝野洋,そして今回の大地康雄・・・といった具合に,ごつい系の俳優さんたちが多いですね・・・。
鬼柴田とか,かかれ柴田といったように,剛直なイメージで語られることが多いようですが(上杉・武田・徳川に比して弱いと言われる織田軍団にあっては珍しい存在),北陸一円の支配を信長に完全に任せられていたことからも(これは他の司令官,長秀,秀吉,光秀,一益に比しても最大の領国です),領国経営にも長けていたことが伺えます。
・・・で,信雄が早くも家康に接近・・・。
今まで出てこなかったのに,登場するなりもう家康に行っちゃっては,ちょっと早すぎでは・・・。
せめて,賤ヶ岳の後でないと・・・。


次週は,賤ヶ岳まで行っちゃうようですね・・・。
ま,この後佐治与九郎との婚儀があって,小牧・長久手の戦いがあって,紀州征伐,四国・九州征伐,聚楽第行幸,秀勝との婚儀,小田原の役,文禄・慶長の役,秀忠との婚儀・・・等々,まだまだいっぱいあるので,ペース的にはこんなもんでしょうか・・・。
日記@BlogRanking


「江~姫たちの戦国~」-第7回「母の再婚」

2011年02月20日 21時13分22秒 | TV&エンターティメント

某サイトに,
「これはファンタジーとして見るべし」
といったことが載っておりました。
信長の最期に江が登場したり,神君伊賀越えに江が同行していたり,有り得ない設定に関して,私だけではなく大勢の方が突っ込みを入れており,それに対して某サイトでは上記の言葉が述べられておりました・・・。
しかしファンタジーですか・・・。
私が見たいのは骨太な歴史ドラマであり,大多数の方が大河に望むのはそれではないでしょうか・・・。
否,トヨエツのようなイケメンが出なくなると途端に下がる視聴率からも分かるように,秀勝と秀忠役のイケメン(咄嗟に名すら出ない)が出るまで,視聴率は我慢・・・と考えると,やはりイケメンか綺麗なおねいさんが出ないと駄目か・・・。


しかしまぁ,清洲会議を前にして,お江と三法師を絡ませるとはさすがです。
もう開いた口がふさがりません・・・。
ついでに,何で北ノ庄に信孝が居るんだろう・・・。
信孝(呼称は神戸三七)に遅参を謝る柴田。
信孝が何で柴田とくっついたのか,何の説明も無し・・・。
勿論,信孝が名目上の山崎の戦いの総大将だった訳であり,柴田がそれに利用価値を見いだしたからに他ならず,柴田の方から歩み寄ったのは確かでしょう。
・・・で,秀吉がそれに対して,信忠の忘れ形見たる三法師(後の岐阜城主秀信)を強引に担ぎ出し,皆に認めさせたということは,丹羽長秀を筆頭とする織田家宿老に対しての手回しが有ったからに他ならず,その場で皆が納得したからではないでしょう・・・。
さらに,清洲会議に江が居たというのに対しては何をか況んや・・・。


・・・で,
「母は嫁ぐことにした・・・」
信孝と市が談合して決めた・・・というのも??ですし,柴田に嫁ぐことで秀吉の野望を挫く・・・というのはどうなのでしょう・・・。
今まではそのように思われてきたのでしょうが,近年では実を取った秀吉の仲介だったとさけているようです・・・。


・・・ということで,今回も楽しませていただきましたが,次回は義父勝家との葛藤が見られるようです・・・。
最後に,清洲城についての映像が見られましたが,あの立派な天守閣は勿論再建で,鉄筋コンクリート製です。
町制20周年記念に,平成初頭に当時を想像して作られたもので,実際の清洲城跡は,五条川を隔てた対岸になります・・・。
因みに,名誉城主は織田信成くんだそうで・・・。
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「江~姫たちの戦国~」-第6回「光秀の天下」

2011年02月13日 20時35分58秒 | TV&エンターティメント

今回は,全く有り得ないということを前提で見ました・・・。
そもそも,お江とは名前すら正確に伝わっていない存在であり(お江与-おごよ,おえよとか,小督とか・・),おのれの運命に棹ささず,身を任せつつもしたたかに近世初頭を生き抜いた・・・という人物ではなかったのでしょうか・・・。
ですから,こんな天然で元気印の上に,信長や家康,さらには光秀にも一目置かれる存在(しかも9歳で)である筈はありません・・・。


・・・で,伊勢上野から尾張清洲へ脱出??
清洲に居たのは,信長次男である北畠信雄であったと思われます。
つまり信包の甥ですが,そこへ避難するでしょうか・・・。
街道筋の清洲より,伊勢の方が安全と思うのは素人目でしょうか・・・。
ま,確かに長島一向一揆の殲滅とかで,伊賀同様伊勢でも信長が恨みを買っていたことは十二分に考えられますが,城を捨てて逃げ出すでしょうか・・・。
でもって,野伏が城をぶんどる・・・(目が点・・・)。
のだめ嬢と光秀のことには敢えて触れません・・・。
有り得ないことですから・・・。
ただ,利三若すぎ・・・(信長と同年で49の筈)。
しきりと絡ませたのは,後の伏線でしょう。
何せ,今回は悪役となるであろう春日局の父ですから・・・。


でもって,先週も気付いたのですが,官兵衛老けすぎ。
この当時は出家していないので,如水ではなく官兵衛という呼称は正しいと思うのですが,頭巾被っていたのはどんなものでしょう・・・。
天文15(1546)年の生まれですから,37歳。
秀吉よりも老獪に見えてはいけません・・・。
山崎の戦いで,雨が降ったというのは史実でしょう。
但し,摂津衆の中川瀬兵衛(清秀)が天王山の山麓を進撃して,それに斎藤勢が・・・というくだりはありませんでした。
そもそも,天王山争奪自体が創作の域を出ないということですので,敢えてそれに触れなかったのは是とすべきと思います。
秀吉弟の秀長が,先鋒の一翼を担ったのも事実と思われます(小一郎と呼ぶべきでしょうが・・・美濃守となったのは賤ヶ岳以降でしょうし・・・)。
この有能な弟が,あと10年長く生きていたら,歴史は変わっていたかもしれません・・・。
因みに,光秀は晩年惟任(これとう)を姓としていました。
惟任とは九州出自の古い姓ですが,信長の将来の対九州戦略が看てとれるような気もします。
さらに,光秀同様織田家の宿老の一人だった丹羽長秀は,惟住を名乗りました。
ですからこの時代は,光秀を「惟任日向守」と呼ぶべきなのかもしれません。
内蔵助を筆頭とする家臣達は,早くも「殿」ではなく,「上様」と呼んでいましたが・・・。


・・・ということで,あっという間の45分間でした。
突っ込みどころ満載で,楽しめたので良しとしますが,やはりかなり無理のある設定が今回も続きました。
あれを史実と思われてもなぁ・・・と思いますが,ま,脚色は仕方ないか・・・。
それより,来週は清洲会議のようで・・・。
母お市の再嫁に対してお江が,
「好きでもないのに」
と言っておりましたが,当時の大名家の婚姻に,好きも嫌いも無いでしょう・・・。
自由恋愛なんてのは,後世に西洋から入ってきたものでしょうし(勿論,庶民の間でのは有ったでしょうが・・・),大名家の姫君に許されることではなかったでしょう。
勿論,それを一概に気の毒・・・というのは,現代の我々だから思うわけでして・・・。
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「お江~姫たちの戦国~」-第5回「本能寺の変」

2011年02月06日 20時08分04秒 | TV&エンターティメント

かつて,私にとって大河ドラマは敷居の高い代物でした・・・。
今更年バレも無いので言ってしまうと,最初に見た大河は「源義経」でした(といっても総集編の後編でしょうが)。
その年の大晦日のことで,終わると同時に紅白が始まったと記憶しています。
先頃物故した緒形拳の弁慶が立ち往生するラストシーンが壮絶で,夜トイレに行けなくなったくらいです・・・。
続く「三姉妹」は,陰気なテーマ曲しか記憶に無かったのですが,その次の「竜馬がゆく」は結構見た記憶があります。
勿論,歴史事象など小学校低学年の私に分かるはずもなく,ただ北大路欣也演ずる竜馬の爽やかな行状だけが印象に残りました・・・(差川哲朗の近藤勇,高橋英樹の武市半平太というのも適役でした・・・。翌々年,この2人が「鞍馬天狗」で競演)。
その次は「天と地と」。
幼少期の上杉謙信(虎千代)の境遇に共感し,その後の凛とした生涯に共感しました・・・。
次の「樅の木は残った」はご当地ものだったにも関わらず,伊達騒動に関して全く知識を持たぬ私に理解できる代物ではありませんでした・・・。
そして「春の坂道」。
クラスの優等生の女子が毎週見ており,次は大坂夏の陣・・・とか言っているのを聞いて,見ては見たものの,柳生家が何たるやを知らぬ私に内容が理解できる筈もありませんでした・・・。


・・・で,近年の大河ですが,実に分かりやすい内容で,歴史ブームと言われる昨今の世相を反映したものとなっている,ということなのでしょうか・・・。
人物の描き分けが単純明快で,何とも漫画を読んでいるような感覚とでも言えばよいのでしょうか・・・。
かつての大河に感じられた,そして海音寺潮五郎や司馬遼太郎の作品に感じられた格調とか深みといったものが微塵も感じられないのは,時代と共に変化があって然るべきとはいえ,オールドファンにとっては残念なことです・・・。
そう思いつつも,次こそは・・・と期待して見るわけですが・・・。


1582(天正10)年5月。
お江は数えで10歳。
満で9歳。つまり小学校3~4年生ということになります。
この辺からして無理があるのに,家康から使いが来て上洛・・・,そして堺に逗留して本能寺の変事に遭い,家康と共に伊賀越えで脱出・・・・・・。
はっきり言ってあり得ません・・・・・。
織田家に対してあれだけ畏れ,気を遣ってきた家康が,世捨て人同然のお江一家に文など寄越すでしょうか・・・。
否,仮に信長の裁可があったにせよ,信長は家康を安土城に呼び,光秀に饗応役を命じたはずです。
ですから,どこに居たかも分かっていないお江に家康からの誘いがあり得るとは到底思われません・・・。
信長と光秀の問答も,途中で仰け反りました・・・。
「謀反でもしてみるか」
とは,何というベタな脚本でしょう・・・。
光秀に対して,丹波+近江召し上げ,但馬+伯耆(出雲ではないでしょう)切り取り放題・・・という命令が出されたという真偽はともかく,信長が光秀を山陰方面司令官に任命して高く買っていたことは明白ですが,光秀自身は生真面目な性格もあって,次第に追い詰められた末に暴発・・・といったプロセスが弱いと思いました。
例えば,この時期,織田家の宿老クラスが相次いで粛清されます。
林通勝・佐久間信盛といった譜代ともいうべき人々ですが,織田家の武将たちはワンマンな専制君主の信長にいつリストラされるか戦々恐々だったと思われます。
また,光秀は愛宕山に籠もり,里村紹巴を呼んで連歌の会を催したと言います。
有名な「時(土岐)は今 雨(天)の滴る(下たる)五月かな」という句を詠んだ時で,愛宕神社に参籠して,己の迷いを払拭しようとしたと言われる一件です。
おそらく光秀の性格としては,煩悶繰り返しての決断だったことでしょう・・・。
そのあたりをもう少し掘り下げてくれないと,本能寺の変は唐突すぎます・・・。


さらに伊賀越えで家康が堺を脱出して,浜松城へ逃れたのも,このあたりは織田家に恨みを持つ者の巣,というのも事実でしょうが(伊賀の地侍集団は,信長父子に殲滅させられた),来週は何とお江が光秀に対面・・・(絶句)。
本能寺の変が6月2日。
山崎の戦いが同13日。
光秀が城州小栗栖村で,土民の手にかかって討ち死にしたのが翌日,と考えると,仮にお江が伊勢まで脱出するには数日を要し,さらに上洛まで3日はかかる筈。
山崎の戦いの前に光秀に対面するのは不可能・・・と断じておきましょう・・・。


・・・で,上野樹里嬢,やはりのだめにしか見えません・・・。
北大路欣也の家康は,格好良すぎでしょうかね・・・。
後の伏線・・・という設定が見え見えのようで・・・。
ま,45分間飽きずに見られたし,根多にも困らないので,良しとしましょう・・・。
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「1941」

2011年02月04日 21時29分35秒 | TV&エンターティメント

題名を見て,映画根多と思った方は正解である。
ゲーム根多と思った方,それは似て非なる「1942」である。
そして,戦争関連と思った方,それも正解に近かったりする・・・。
「1941」(邦題は「いちきゅうよんいち」と読む)。
今をときめくスティーヴン・スピルバーグ監督による1979年の作品である・・・。


人間誰しも旬がある。
上り調子の時は追い風の人生だ。
スピルバーグにとって,70~80年代こそ,まさに追い風が吹いていた時代ではなかったろうか・・・。
アカデミー賞(近年の受賞作を見ると権威なんてこれっぽっちも無いような気がするが)狙いが露骨な「シンドラーのリスト」,どう考えても考証がおかしく,双方が平等ではない「プライベート・ライアン」,今世紀に入ってからだと「ハリー・ポッター」シリーズが大ヒットしたようだが,私は仕方なく3作目まで見たが,あまりのあざとさに我慢できなくなった・・・。
どうやら,スピルバーグは上記80年代までに,神通力を使い果たしてしまったようだ・・・。


「ジョーズ」(74),「未知との遭遇」(78),「レイダース-失われた聖櫃」(81),「同2-インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」(84),「ET」(82)あたりは,映画史上に残るべき第一級の娯楽作,と言えると思うのだが,後はせいぜい「太陽の帝国」(87)あたりがまずまず見ることができるといった程度で,以降の作品については,個人的に大いに???である・・・・・。


でもって,この「1941」である。
スピルバーグというと,「ET」や「ハリー・ポッター」シリーズのようなファンタジーを撮る監督,というイメージが先行したきらいが有るが(多分日本だけだろう),70年代末期には,実験的な試みだったのかどうか,抱腹絶倒のスラップスティックコメディを撮っていたのである。
1941年12月8日。
日本軍真珠湾攻撃の報を受けて,西海岸の住民たちは,次は自分たちの番・・・と恐怖に包まれていた。
その矢先にジョセフ・W・スティルウェル中将(ロバート・スタック)が着任し,南カリフォルニアの防衛任務に就く。
沖合の日本のイ19潜水艦々長ミタムラ中佐(三船敏郎)は,ハリウッドを攻撃すればアメリカ人の精神的ダメージは大きいと考え,カリフォルニア沖に潜行し,西海岸を狙う・・・。
政治と軍事には全く感心無いが,女に手の早い若者(ボビー・ディ・シッコ),かなりきているP40戦闘機のパイロット(ジョン・ベルーシ),トウモロコシ畑に日本軍の秘密飛行場があると信じて疑わない守備隊長,頭を打っておかしくなったM3戦車の戦車長(ダン・アクロイド),B17爆撃機を見ると発情する秘書の女性とそれを利用して一発・・・(以下自粛)を目論む航空兵くずれ,そしてスティルウェル中将は,任務中に映画館でその年封切られた「ダンボ」を見て涙するのであった・・・。
こうしたいかれた連中が,はちゃめちゃの大騒ぎを演じるお莫迦映画であり,(多分)1人も死なない戦争映画である・・・。
初めてこれを見たのは,随分前の月曜ロードショーだったが,吹き替え陣の豪華さもあって腹を抱えて笑いまくった・・・。
今でも,これはスピルバーグの最高傑作だと思っているし,お笑いお莫迦映画を好きになるきっかけにもなった作品である・・・。


スピルバーグの戦争映画は,一方的にドイツを悪玉として採り上げるので,個人的には???なのであるが,日本が相手だと決してそのようなことはない。
・・・というより,戦争自体を皮肉ったり反戦を訴えたり・・・ということは一切無く,戦争を題材として唯々お笑いを連発する・・・というものなので,ただ見て笑い転げるべき作品ということもできよう・・・。
長らくDVD発売が遅れていたが,数年前にやっと・・・と思って視聴したところ,正直言ってがっかりした・・・。
何のことはない。
日本語吹き替えが無いのである。
何せ,


ダン・エクロイド(内海賢二)
ジョン・ベルーシ(熊倉一雄)
ネッド・ビーティ(大平透)
ウォーレン・オーツ(納谷悟朗)
クリストファー・リー(千葉耕一)


・・・という超豪華布陣であり,特にベルーシの吹き替えを行った熊倉さん(昨年の紅白で久しぶりに見た)が絶品であったのだが,それらが全く無いのは噴飯ものである・・・。
かくなる上は「007シリーズ」のように,後発で吹き替え入りが出てくれるのを待つしか無いのだろうか・・・。
うちの家族の反応は至って冷淡で,「くだらない」のひと言で片付けられてしまった・・・。
・・・で,今週サウンドトラックのCD(当然廃盤)を入手した。
「スター・ウォーズ」のメイン・タイトルで有名になり,スピルバーグの作品には必ず曲を提供するジョン・ウィリアムズ作曲による「1941のマーチ」は,軍楽隊上がりのウィリアムズの才能が最大限に発揮された傑作である(似た傾向の作品に「ミッドウェイ・マーチ」が有る)。
ハチャメチャで脳天気なこの作品に相応しいご機嫌な名曲と思う・・・。


因みに,封切り時の興業は大失敗だった。
というか,今でもスピルバーグ最大の駄作と揶揄されることも多い作品である・・・。
しかし,上記の理由で私にとっては忘れ得ぬものとなった・・・。
三船がこんなお莫迦作品に出た理由は,何でも「スター・ウォーズ」のオビ・ワン役(結果的にアレック・ギネスが演じた)かダース・ベイダー役にジョージ・ルーカス監督からオファーがあったのを,良く分からぬままに断ってしまい(SF娯楽作になど出られるかと言ったとか・・・),翌年にルーカスの友人スピルバーグの作品に出たところ,大こけ・・・という話である・・・。
ドラキュラ俳優として名を馳せたクリストファー・リーが頑迷なドイツ人将校役となっているのは何故だったのだろう・・・。
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「お江~姫たちの戦国~」-第4回「本能寺へ」

2011年01月30日 20時50分19秒 | TV&エンターティメント

この手の番組を見る時,気になること,というか,いつも注意して見ていることがあります。
それは,各人物に対する呼称です。
例えば織田信長に対して,最近の作品では「信長様」,或いは「信長公」と呼んでいるようですが,当時は果たしてどうなのでしょうか・・・。
このあたりは,諱(いみな)と字(あざな)の違い,ということで,かつて述べたことがありました・・・。
ですから,この時点(天正9年)の信長に対しては,3年前に右大臣を辞していることから前右府様(さきのうふさま),若しくは以前の官名であり通称とも言うべき弾正忠(正しくは弾正少忠)とでも言うのが正しいのではないかと思われます。
以前の大河では,このあたりの考証は細かく行われていたようで,例えば「新平家物語」(72)では,平治の戦いにて源義朝が家臣の裏切りによって命を落とした際,清盛は義朝を「播磨守」と官名で呼んでいました・・・。
ですから,秀吉,光秀とは呼ばず,羽柴筑前(筑州),日向守と呼ぶのが正しいと思われます。
但し,これをやってしまうと,誰が誰なのか混乱するおそれがあるので,一番分かりやすい呼称である諱で呼ぶということになるのでしょうか・・・。
民放系の歴史ドラマの傑作と言われる「関ヶ原」(81)では,「家康」,「三成」・・・となっていました。


今回は,天正9(1581)年2月28日に正親町天皇在席で行われた京都御馬揃えからスタートしました。
実は,宮中の故事に明るい光秀が奉行を務めたことや信長が本能寺に泊まったことが語られていましたが,どうやら事実の模様です。
ただ,果たしてそこにお市とその娘3人が居たかどうかは確認できませんでした。
勿論,本能寺にお市母子が泊まったというのも同様です。
実際問題として,お市が翌天正10年に柴田勝家に再嫁するまで,果たしてどこにいたのかも分かっていませんので(安土?清洲?そして伊勢上野 ?),どのような解釈も可ということでしょう・・・。
尤も,お初があのようなお転婆キャラとして設定され,森蘭丸に対して嬌声をあげたというのはいささか今風に過ぎるかと・・・。
因みにこの馬揃えに際して,山陽道方面で毛利と対峙する秀吉は居なかったと思われますが,秀吉の与力たる一豊が参加して,夫人が手文庫の金で買い求めたという見事な「十両の馬」で面目を施したという故事はどんなものなのでしょう・・・。


それよりも,お江は信長とも光秀とも懇意,という設定は果たしてどうかと思います。
如何に昔は早熟だったときいえ,満8歳,数えで9歳の少女がいささか饒舌に過ぎるのでは・・・と思います。
饒舌と言えば信長も光秀に対して随分と喋りすぎるようで・・・。
直々にだれも居ないところで命令を下すのも?ですし,猿の下に付けというのもどうかと・・・。
確かに対四国(というか対長曽我部)政策は光秀に一任されており,齋藤利三の妹を元親に嫁がせたりしていましたが,この当時の光秀は山陰方面の司令官ともいうべき立場で(解任されたか否かは意見の分かれるところですが),急遽秀吉の援兵として派遣されることになった・・・というのが真相ではないかと思われます。
その際,家康の安土城訪問と上洛に伴って饗応役を命じられたのは(今回はその描写は有りませんでしたが),やはり信長の信任が厚かったのでは・・・と考えられます・・・。


・・・ということで,今回も無用の突っ込みをしてしまいました・・・(悪い癖だ)。
ストーリー進行のテンポが良く,飽きずに45分間を見終えることができるというのは面白いからに他ならないのですが,+αがどうも足りないような気がします・・・。
・・・でもって,やはり上野樹里嬢はのだめにしか見えないのは私だけでしょうか・・・。以前,のだめ終了後にやっていた「冗談じゃない!」でものだめにしか見えなかったのですが,さらにその翌年の「ラスト・フレンズ」では,のだめから完全に脱却・・・と周囲は言っておったのですが・・・(見ていませんでした)。
次回の本能寺の変,信長は血まみれで鉄砲で撃たれていました・・・。
そういえば,「功名が辻」(だったか?)でも銃撃されて絶命していたような・・・。
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「江-姫たちの戦国」-第3回「信長の秘密」

2011年01月23日 19時22分36秒 | TV&エンターティメント

今日も6時からビデオを回し,後追いの形で再生しました。

浅井三姉妹の末妹であるお江を扱った作品では,だいぶ以前「乱紋」(永井路子著,文春文庫刊)をなる著作を読んだことがあります。
運命に翻弄された感のあるお江が,ぼうっとしているようで実はしたたかに時勢を読み,最終的には権力の首座に登りつめていく様子を,侍女の目を通して淡々と語った読み応えのあるものでした・・・。
その他にも幾つか女流作家による作品が有ったように記憶していますが,私としては食指を動かされるものではなく,お江=永井作品のようなイメージが出来上がっていたことも事実です。
勿論,昨年の大河の主人公だった坂本龍馬のイメージが,司馬遼太郎による畢生の名作である「竜馬がゆく」によってすっかり形作られたのとは異なって,私自身のお江像は極めて曖昧なものではありますが・・・。
先週も書きましたが,お江のようにそのキャラクターが定まっていない人物を描く訳ですから,如何にそれを形成していくのか,或いは魅力的な人物にしていくのか(若しくはその逆か)・・・といったことが,ポイントとなると思うのですが,おそらく従来のお江像
(定まっていないとは書きましたが,やはり運命に翻弄された,というイメージは強いと思います)とは正反対のものになっていくと思いますが,それが無理なく描かれれば・・・と思います・・・。


信長に築山殿誅殺の真意を尋ねるお江。
信長とお江の大きな接点があったとは思えませんが,まあそれも良いかと・・・。
お江には妙に寛大で饒舌になる信長。
真意を図りかねたお江は宗易に訪ね,傲慢と言われる・・・。
飽きずに見ること出来るし面白いのですが,何か+αが足りない気がします・・・。
・・・で,天正7(1579)年当時,お江は数えで7歳。
うちの下の子と同じ未就学児・・・。
かなり無理があるのでは・・・。
上野樹里嬢・・・私にはのだめにしか見えないのですが・・・。
う~ん・・・,多分若い人たちには評判良いんだろうな・・・。
子どもの頃敷居の高かった大河が,民放ドラマ化していると思うのは私だけなんでしょうか・・・。
ま,親しみやすくて良いとも言えるでしょうが,何ともお気楽な内容になってしまったように思われてならないのですが・・・。


最後の「紀行」は竹生島。
劇中でトヨエツ信長が語ったように,古くから弁財天を祀った古刹です。
湖北には余呉湖や小谷城・横山城(小谷城に対する秀吉の前哨基地)跡,姉川及び賤ヶ岳古戦場等,史跡・旧跡が多くあり,一度は訪れたいと思っていました(伊吹山麓の佐々木道譽居館跡なんて有るのか・・・)が,果たせずじまいです・・・。
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「江~姫たちの戦国~」-第2回「父の仇」

2011年01月16日 20時50分19秒 | TV&エンターティメント

18:30に帰宅し,録画中に冒頭から再生しました。
テープ式だと絶対こうはいかないでしょう。
時代は確実に変わっているようです・・・。


天正7(1579)年,お市の方と3人の娘は伊勢上野城(伊賀上野城ではない)にて,信長弟信包の庇護のもと過ごしているところから始まりました。
小谷落城後,この母子がどこにいたかははっきりと分かっては居ません。
尾張清洲城にいたとも岐阜城にいたとも言われますが,一向一揆の収まった伊勢におり,同母兄でもある信包のもとにいたとしてもおかしくはないでしょう・・・。
・・・で,その年完成した安土城に行くことになる母子。
そこには,江の伯父である信長の同盟者の家康が来ており,播州三木城を包囲中の秀吉が突如訪れ,信長の不興を買い,柴田勝家から成敗されんとしていました・・・。
明智光秀も居たようですし,織田軍の司令官クラスが3人も居たということになります。山陽方面担当の秀吉が,播磨の陣所からしょっちゅう戻ってきたことは事実でしょうが,山陰方面担当の光秀と北陸方面担当の勝家が一堂に会した上,家康まで来ているというのは有り得ないと断言しましょう。
家康は,駿河方面での武田軍の動きに釘付けだったでしょうし,初めて安土に来たのは本能寺の変の直前である天正10(1582)年5月末だった筈です。
さらに言うならば,信長御前で,勝家が秀吉を手討ちにするようなことがあったら乱心・狼藉となるでしょう・・・。
・・・で,お江はこの年数えで7歳。
満6歳,つまり現代でいうとうちの下の子と同じで,就学前なのです・・・。
ですから,いくらなんでものだめ嬢では無理があるのでは・・・。
ということは,茶々も初も10歳前後ですから,今回まで子役を使っても良かったのでは・・・と思います・・・。
さらに,家康が嫡子である信康を伴っていた・・・ということは,信康は長篠の戦い直後に母である築山殿と同時に自害したのでは・・・と思いましたが,この年(天正7年)9月だったのですね。
本日の設定がいつなのか分かりませんが,辛うじてセーフ・・・となるのでしょうか。
尤も,前述の通り家康がこの時期安土に来るはずはありません・・・。


・・・ということで,今回も突っ込みを入れてしまいましたが,あっという間の45分間でした。
それだけ楽しめたということでしょう・・・。
お江という謎に包まれた(キャラクターがはっきりしない)人物を採り上げるわけですから,脚本家の思いによって命が吹き込まれると言ってもよいと思いますし,その自由度によって如何にお江を魅力的なキャラに仕立てていくかが,今後の課題とも考えます。
お江というのは,勿論伝わっている名の一つに過ぎません。
近江(江州)出身だからお江とかお江与(おごよ,おえよ),或いは小督という名も伝わっていますが,これこそ当時の女性の社会的地位の低さを表していると言えましょう・・・。
3年前の「篤姫」もそうでしたが,運命に翻弄された感のあるお江が,如何に己の力で人生を切り開いていくかを見守りたいと思います・・・。


最後に,曲は「篤姫」同様,吉俣良です。
「篤姫」に起用されたのは,同郷というのが最大の理由と聞いた記憶がありますが,「Dr.コトー診療所」,「こころ」,「がんばっていきまっしょい」等,今では大島ミチルや佐藤直紀と並ぶ売れっ子です。
ただ,超甘口のメロディメーカーぶりは見事と思いますが,当たり前とはいえ同時期の「篤姫」と「薔薇のない花屋」(かつて見てしまった・・・)が全く同じに聞こえました・・・。
今回も「篤姫」同じ路線の三部形式ですが,中間部に変拍子を挿入することで変化を持たせているようです・・・。
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