今回のテーマは、「赦しの時」です。
さていきなり、本題に入りますが、聖書に表されている神様は、確かに赦しの神様ですが、「赦しの時」は、どうなのでしょう?
まずこのことを考える出発点は、聖書によれば、「すべての人が罪の下にある(ローマ3:9)」ということです。つまり、すべての人にとって、その人のやってきたことの当然の結果は、永遠の滅びなのです(ローマ5:22)。
ですから、私たちは、神様が赦してくれることを、当然のこと、当たり前のことと考えてはならないのです。
あくまでも、「赦し」は「恵み」です(エペソ2:8)。恵みというのは、「本来受けるのに値しないにもかかわらず、それが与えられる」ということです。
そして、聖書は、「今は恵みの時、今は救いの日です(第二コリント6:2)」と語ります。本来であれば、罪のために永遠の滅びを即刻身に受けて当然の人が、「今」は、恵みを受けられる時、「今」は、救いを受けられる日だと言っているのです。言い換えると、「明日」は、どうか保証の限りではありません。「もう少し後」は、どうかわからないのです。罪のために永遠の滅びを即刻身に受けるのが当然ですから、滅ぼされてもまったく文句は言えません。
(つづく)
さていきなり、本題に入りますが、聖書に表されている神様は、確かに赦しの神様ですが、「赦しの時」は、どうなのでしょう?
まずこのことを考える出発点は、聖書によれば、「すべての人が罪の下にある(ローマ3:9)」ということです。つまり、すべての人にとって、その人のやってきたことの当然の結果は、永遠の滅びなのです(ローマ5:22)。
ですから、私たちは、神様が赦してくれることを、当然のこと、当たり前のことと考えてはならないのです。
あくまでも、「赦し」は「恵み」です(エペソ2:8)。恵みというのは、「本来受けるのに値しないにもかかわらず、それが与えられる」ということです。
そして、聖書は、「今は恵みの時、今は救いの日です(第二コリント6:2)」と語ります。本来であれば、罪のために永遠の滅びを即刻身に受けて当然の人が、「今」は、恵みを受けられる時、「今」は、救いを受けられる日だと言っているのです。言い換えると、「明日」は、どうか保証の限りではありません。「もう少し後」は、どうかわからないのです。罪のために永遠の滅びを即刻身に受けるのが当然ですから、滅ぼされてもまったく文句は言えません。
(つづく)