料理であれば、和洋折衷は、うまくいけば、とても美味しくなりますね。たとえば、納豆スパゲティは、日本人だけが味わうことのできる究極の和洋折衷料理といえるかもしれません。(ちょっと、おおげさすぎた?)
けれども、私たちの生き方は、料理のように何でもうまく混ぜ合わせる、なんてことはできないのです。「二つの相反する性質」を同時に持つことはうまくいきません。
ここで言っている「二つの相反する性質」とは、とりわけ、聖と悪のことです。
平たく言えば、我がままに自分が楽して生きられるように聖なる神様の祝福を受ける、自分勝手がうまく行くように聖なる神様に働いてもらう、自分の欲望達成のために聖なる神様の力を借り受ける・・、そういうことです。
人の我がまま勝手な願い事をかなえるようなのは、神様でも何でもありませんよ。というのは、もしそういう存在が神であるなると、神は、人間の意志に従う、人間のしもべのような存在ということになります。けれども、自分に仕えるものを神と呼んで、拝む、礼拝する、頼る、祈りをささげる、ほめたたえる・・矛盾しているでしょう。
聖なる神様の祝福、恵みを受けながら、片一方で、悪の性質を保持して生きる、これはうまくいきません。
聖なる神様の力、守り、支えを生活の中で必要とし、聖なる神様の無限大の愛を受けながら生活するのであれば、すっきりくっきり、悪の性質から離れる決心が必要です。そうしないと、かえって悪い結果を生むことになりかねません。
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
(マルコの福音書 2章22節)
次回からは、新しいストーリーです。アクセスしてくださいね。
けれども、私たちの生き方は、料理のように何でもうまく混ぜ合わせる、なんてことはできないのです。「二つの相反する性質」を同時に持つことはうまくいきません。
ここで言っている「二つの相反する性質」とは、とりわけ、聖と悪のことです。
平たく言えば、我がままに自分が楽して生きられるように聖なる神様の祝福を受ける、自分勝手がうまく行くように聖なる神様に働いてもらう、自分の欲望達成のために聖なる神様の力を借り受ける・・、そういうことです。
人の我がまま勝手な願い事をかなえるようなのは、神様でも何でもありませんよ。というのは、もしそういう存在が神であるなると、神は、人間の意志に従う、人間のしもべのような存在ということになります。けれども、自分に仕えるものを神と呼んで、拝む、礼拝する、頼る、祈りをささげる、ほめたたえる・・矛盾しているでしょう。
聖なる神様の祝福、恵みを受けながら、片一方で、悪の性質を保持して生きる、これはうまくいきません。
聖なる神様の力、守り、支えを生活の中で必要とし、聖なる神様の無限大の愛を受けながら生活するのであれば、すっきりくっきり、悪の性質から離れる決心が必要です。そうしないと、かえって悪い結果を生むことになりかねません。
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
(マルコの福音書 2章22節)
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