いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月28日 日々の聖言

2014年09月28日 | 日々の聖言

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、

それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、

の言葉を聞くことのききんである。」アモス8:11 



人の心から、神様を畏れ、かしこみ、尊ぶ、謙遜な思いが消えて、神様の言葉を

求めなくなる時代を預言したみことばです。それはまさに今の日本であり、世界で

もっと見る


聖書からのメッセージ(335)「旗色を鮮明に」

2014年09月28日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの黙示録」3章14節から22節までを朗読。

 20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 「黙示録」の1章から3章にわたって、アジアにある諸教会、7つの教会に神様が抱いておられる御思いを書き送った手紙、警告、励ましが語られています。同時にいま救いにあずかって神様を信じて生きている私たちに対する励まし、警告、勧めでもあります。そこには厳しくしかられているものもあり、大変賞賛されているものもあります。しかし、私たちに対する神様の深い願い、御心が語られていることは確かであります。14節以下にありますラオデキヤの教会は可もなく不可もないところです。15節に「わたしはあなたのわざを知っている」と記されています。言い換えると、生き方、あり方、その信仰状態をよく知っている、と言われる。「あなたは冷たくもなく、熱くもない」とあります。やるべきことはきちんと守ってやっている。といって、格別そのことに熱心というわけでもない。どこが悪いと言って、殊更悪い所もない。そのように言われると自分のことのように思う。私たちもどちらかというと、そこそこに神様とお付き合いをしている。「そこまでかぶれなくても、そんなにキリスト、キリストというほどのことでもないだろう」、と言って離れるわけでもいかない。付かず離れず、ある距離を保ちながら、上手にやっている。このラオデキヤの教会はまさにそうなのです。神様を離れたわけでもない、くっつくわけでもない。だから「冷たくもなく、熱くもない」と。ところがそれに対して神様の御思いは、15節「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」。「態度をはっきりさせなさい」と。“旗色鮮明„という言葉がありますが、「いったいあなたはどちらに付いているのか」。神様の側に付くのか、それともこの世に付くのか?常にこの二つの間に立たせられています。この世に付く思い、肉の思い。世間の習慣や仕来りや、この世の善しあし、様々な価値観など、そういう考え方に倣(なら)おうとするのか、それとも聖書の御言葉を通して語られている神様の御思いに自分が徹底して従おうとするのか、二つに一つです。しかし、私どもは二つの間のグレーゾーンといいますか、加減のちょうどいい温度の所、自分にとって気持ちのいい所にとどまっている状態です。それでは神様が納得しない、神様は「惜しい」と思われる。神様の御思いは「もっと熱心になってほしい」、熱く真剣にわたしを、神様を求めてほしい、というのがラオデキヤに対する御思いであります。

 16節に「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので」、とおっしゃいます。本当にそういう半温半冷といいますか、中途半端な状態に置かれている。これは誠に生ぬるい、だから「あなたを口から吐き出そう」とおっしゃる。せっかく神様の救いにあずかって、神様は私たちを恵みたい、祝福しようとしてくださるのに、私たちはいよいよというときにちょろっと外れる、神様の前からずれてしまう。といって大きくずれることはしない。近い所でとどまる。そういうことをしているのが私たちの現実です。

17節に「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」とあります。確かにそうです。私どもがいろいろな問題に、悩みに遭い、様々な苦しい境遇のなかから、イエス様に出会って、救いにあずかり、祈って御言葉にすがって導かれています。神様は祈りに答えていろいろなことを恵んでくださり、思うよりも願うよりも素晴らしい結果を与えてくださる。そうすると、私たちの心は「まぁ、こんなものか」と、「これでいい。安心した」と言って、神様を求める心が薄らいでくる。求めないわけではない。別に集会や礼拝をおろそかにするわけでもなければ、日々の祈りを欠かすわけではない。しかし、そこに心がない、熱い思いが消えてしまう。これは私たちがいつも警戒しなければならない事柄であります。初めの思いから私たちが離れていく。

 「ヨハネの黙示録」2章1節から5節の前半までを朗読。

 これはエペソの教会にあてられた神様の御思いであります。ここにも同じく「わざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。神様に忠実に仕える教会でありました。確かに見たところはきちんとそつなく、日々を過ごしているのですが、その心が初めの熱い思い、神様に対する切なる思いが消えてしまっている。そのことを指摘(してき)されているのです。4節に「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と。私たちはいろいろなことに「慣れる」。慣れることも必要なことです。日常生活のなかでいろいろなことを自分が身につけてくる。それになじんでくる。そしてそれを自分のものとしてしまうことは、必要な能力であり、また資質だと思います。だからといって、信仰においても、神様を求めること、神様の恵み、神様のご愛に感じる心すらも慣れてしまう。これは非常に危険なことです。なぜならば“慣れ侮(あなど)る„という言葉がありますが、慣れ親しんでくる、分かってくると「そんなものか」「分かった、分かった」と、右から左へ抜けてしまうといいますか、軽くあしらうようになってしまう。これは私たちの最も警戒すべき事柄であります。私どもが初めてイエス様の救いにあずかったとき、主の十字架のいさおしによって、あがないにあずかり、こんな者が罪を赦されて神の子とされたという、大きな喜びを感じました。何年前のことであるか分かりません。ある方にとっては30年前、50年前と、半世紀以上昔、振り返ってみると思い出せないくらいのはるか昔になってしまった。日々絶えず福音に触れておりますから、当たり前という感じになってくる。そのうち「またそのことか」と思うようになる。イエス様の十字架のあがない、ひとり子を賜ったほどの愛を感じる心が消えていく。忘れたわけではない、知ってはいるが、それを昨日、今日のごとくに新鮮に、フレッシュに感じることが乏しくなってくる。これは私たちにとって非常に危険な状態です。ですから、エペソの教会に対してこのように厳しい言葉で語っておられるのです。4節「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。私たちも常に自分をリセットするといいますか、もう一度、今の自分を捨てて原点に帰る、救いにあずかった初めの喜び、神様のご愛の大きさ深さに感じる心を取り戻していきたい。今に至るまで神様が私たちをどんなに顧(かえり)みてくださったかを、もう一度よくよく振り返ることが大切です。過去のことを過ぎ去ったことで遠い昔のことのように思いますが、もう一度それを思い返す。いろいろなことを考え直してみると、「こんなときがあった。こういうなかを通ってきた。そのときの自分の思っていた心、感じていた感情……」そういうものがよみがえってくる。そこでもう一度「本当に『今の如(ごと)くなるは、の恩恵(めぐみ)に由(よ)るなり』」。神様の恵みによって今、今日ここに自分が置かれているのだと、改めてフレッシュに、新鮮な感動をもって受け止める。

「使徒行伝」を読みますと、パウロという人のことが語られていますが、彼は事あるたびごとに同じ話をしています。自分がどうやってイエス様の救いにあずかったか。ダマスコへ行く途中で、天から激しい物音と目のくらむような光に包まれて、地面にたたきのめされた。そのときよみがえった主のみ声を聞いた。その事態を新鮮な思いで繰り返して「使徒行伝」に語っています。それ以外になかったわけではありません。実はそうやって自分がどんな所から救い出されたか、どういう状態にあった者であるか、今ある恵みがどんなものであるか、自分の過去を追体験する、もう一度体験することを通して確認し、リフレッシュしていくのです。これは私たちの生活でも大切なことであります。すべての事が順調に行き、願ったりかなったり、「取りあえず今のところはお祈りする課題もないしなぁ」と言うぐらいでしょう。あえて言えばあれもある、これもあるけれども、それは取りあえず……と、そういう思いのときにもう一度、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(イザヤ51:1)と語られているように、私たちがどんななかからいま神様の憐(あわれ)れみにあずかったか、私たちが今に至るまでのいろいろな事柄を通して、神様が憐れんでくださった恵みと、そんな神様のご愛の取り扱いを受ける値打ちも資格もない者であることを改めて感謝するとき、パウロが「今の如(ごと)くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と言ったとおりです。今日、私があるのは、ただ一重に神様の恵みによるのです、と新しい喜び、感謝が心にわいてきます。エペソの教会に神様が求められたのは、まさにそのことです。5節に「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し」とあるように、自(みずか)らの救われる前、まだイエス様のことを知らなかったときから、イエス様を知り、その後の日々の生活と今に至るまでのことをよくよく思い返すこと、そしてそこから神様のご愛と恵みを新鮮に受け止めること、これが「悔い改めて初めのわざを行う」ことです。そのことを神様は求めておられるのです。

 「黙示録」3章のラオデキヤの教会にもやはり同じように神様は願っておられるのです。17節「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」と。本当にそのとおりであります。「自分はもうこれでいい」、あるいは「まぁ、これでよしとするか」と思って、「私は大丈夫、私はもう結構です」と言っているが、実はあなたが惨(みじ)めな者、あわれむべき者なのだ。もう一度自分の状態、今ある自分の心の状態をよくよく探ってみなさい、と神様は勧めています。18節に「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣(ころも)を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」と。「火で精錬された金」とは神様の霊、御霊、聖霊をしっかりと内に頂く者となりなさい、ということです。それから「白い衣を買う」というのは、十字架のいさおし、イエス様の十字架をしっかり自分のものとして、十字架に流された血潮によって洗われた白い衣、汚れなき衣を身にまといなさい、ということです。「見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」、これは聖書のお言葉です。「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」(詩篇119:130文語訳)と語られていますが、御言葉によって目を開かれる。いろいろな物事の真相といいますか、背後にある深い隠れた意味を照らし出すのは御言葉であります。だから、御霊に満たされ、主の十字架のいさおしを信じて、今日も主によって赦(ゆる)された者であることを、十字架の血潮に潔(きよ)められ、御言葉にしっかりと立って歩むこと、これが神様の私どもに求めておられる事です。

更に続いて19節「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」。「この人は……」と期待している人、将来を嘱望(しょくぼう)されている人に対しては厳しくなります。甘やかして放ったらかしにすることはその人に期待していないからです。あまり望みを持たない場合は放っとけばいいのです。子供に対しても親が口やかましくなるのもそうです。子供を愛するからこそ、何とか社会に出て恥ずかしくないように、きちんと自らを処(しょ)することができるようにと願いますから、親は大いなる期待を持って訓練します。また、企業でもそうですが、将来性のある人物については、仕事を任せると同時に要求もきつくなります。でも能力を見て、「これはそこそこだな」、「これは期待できん」と思う者に対しては、あまり強い要求はしないでしょうし、そこそこにやっていくことになります。神様は私たちに対して期待が大きいのです。だから、19節に「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする」と。神様はいろいろな悩みをお与えになる、いろいろな問題を起こさせられるのは、私たちを愛しているからこそであり、その問題や事柄を通して私たちを新しくしようとしてくださる。さらに、もっと願っておられることがある。

20節です。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。神様が私たちに切に願っていることは何か? 私たちが独り立ちして、神様も必要がない、神様に頼らなくてもやっていける人間になることではありません。それは、私たちに不可能なことです。なぜなら、私たちは被造物にすぎませんから、私たちには能力がありません。私たちの力は限られて小さなものです。だから、私たちが神様につながることによって、神様と共にあることによって、弱い限られた知恵や力しかない私たちを通して神様のわざ、神様の力があらわされることを願っている。「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」というのは、人の努力や熱心さの程度を言っていることではありません。「私は生ぬるいからいかんな、これから頑張ろう、努力しなきゃ」と決心することを神様は勧めているのではありません。「冷たいか熱いか」ということの意味は、神様により一層近づく者、いよいよ深く神様と結びつくこと、このことの「冷たいか熱いか」です。神様を知ってはいるが、神様と遠く隔(へだ)たっている。距離を置いた神様とのお付き合いではなく、もっと密接な神様との交わり、このことを求めておられるのです。というのは、それが私たちにとって幸せな生き方だからです。というのは、神様が人を最初に造られたとき、人は「神と共にあった」のです。エデンの園で、神様と人とは密接な隔(へだ)てのない交わり、裸の付き合いでありました。神様と人との間には何一つ隔てるものがない、妨(さまた)げるもののない交わりに置かれていたのです。ところが、神様と人との間に罪の隔ての幕が出来てしまって、人と神様とが遠く離れてしまった。これが私たちの不幸の極(きわ)みであります。私たちをエデンの園の最初の恵みのなかに引き返らせるためにひとり子イエス様をこの世に遣(つか)わしてくださった。それは私たちを神様と隔てのない関係、密接な交わりのなかに置くためです。それによって私たちが造られた人としての幸いな生涯を全うする、そればかりでなく永遠の命に、私たちの地上の人生が終わっておしまいではなく、更に永遠の御国の生涯まで私たちを引き入れてくださるために、ひとり子イエス様を遣(つか)わしてくださった。私たちがどれだけ神様との距離を縮められるか、これが求められていることです。神様と私たちが全く一つになる。これが最高の恵みであります。ここで「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」と言われているのは「神様と私たちとの関係がどれほど近づいているか?」ということです。「熱く」というのは、密接になること、神様と隔てのない関係を作り出していくことです。20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」とあります。イエス様が戸の外に立って、私たちの内に入りたいと願っているのです。神様はいろいろな問題や悩みや困難を置かれますが、それはその事柄を通して、神様とより一層密接につながるための恵みのときなのです。だから、私たちを懲(こ)らしめたりしかったりしてくださるのは、神様が戸の外に立って、扉をノックしているときです。思いがけない問題や悩みや困難やいろいろな事のなかに置かれると、すぐにうろたえます。「どうしようか、右にしようか、左にしようか」と。そのとき、神様が私たちにもっと近づきたいと願っているときです。だから、私たちはまずそこに目を留めていくことです。

先日もある方からお手紙をもらいました。毎月、説教プリントを読んでおられて、御言葉を通して励まされていることを感謝し、証詞してくださったのです。ご高齢ですが、独り暮らしをしています。朝起きると体にどうも違和感を覚える。ひざが痛い。「これは困ったな、独り暮らしをしているけれども、またこれで大変なことになって人手を煩(わずら)わせるのではないだろうか」と、一瞬心にフッと不安がわいてきた。「どうしようか!病院にいくべきだろうか。どうしようか」と。そのとき、前の日の夜に読んでいた説教プリントで、「床を取りあげ、そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)とのメッセージのお言葉が心に差し込んできた。「そうだ。これは神様がいま私を求めておられるときだ。治療することも必要だが、いま私がすべきことは神様に信頼し、ここで神様の力を頂くことに尽きる」と。その方は御言葉を通して教えられたのです。それで「治療に行くこともいいけれども、まず祈ろう」と、お祈りをしているうちに、いろいろなことが思い返された。どうも、このところ我がままな、自分勝手な生活ぶりで食べることが増えてきた。そのために体重も増えた。どうも神様が私に警告してくださったに違いない。だから、その日は動けないと思ったから、寝たままほとんど絶食状態で過ごしたそうです。翌日、目が覚めたらその分軽くなって前の日痛かった足がすっかり腫(は)れが引いてしまった。それで思いがけず動けるようになった。そのことを通して神様は私にこのことを体験させるために事を起してくださったと知ったのです。近くに娘さんが住んでいるので、しばらくしてそのことを話したら、「どうしてすぐに電話しないのよ!」と言われたが、「確かにすぐに電話すれば簡単なことかもしれないけれども、ひざが痛んだ事を通して、実は神様が私を求めてくださった。それでうれしくてこのことを先生にお話したいと思って手紙を書きました」と。今まで書いたことのない手紙を一生懸命に書いてくださったのです。神様は私たちのそばにおりたい、できるだけ近くにおりたい、これが切なる願い。実は、それが私たちにとっても誠に幸いな恵みなのです。姉は「医者に行くことも、何かの治療を受けることも自分は必要ならば喜んで受けたいと思いますが、今日の問題については、そのように神様が導いておられる確信が得られませんでした。ですから、神様を待ち望んできた結果、このように神様が答えてくださったのだと思います」と。いつも神様は私のそばに近づいてくださるのです。

20節にありますように、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と。いろいろなことを通して、私たちに心を開いて、神様を、主を迎え入れるようにと求めておられるのです。それは具体的な生活のいろいろな事を通してであります。いつも主がどこにいらっしゃるか、私たちの心の外に置いているならば、早くその御方と交わりを持つこと、そこに主を迎えることです。だから、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」と、戸を開けることを、私たちの側から主を求めることが大切であります。神様は無理やりその扉をけ飛ばして打ち破ってでも入って来ようという御方ではありません。主が求めておられるとき、「ここは主が私に扉を開いて近づくように語りかけてくださっている」ことを知っておきたいと思います。ともすると、私たちが受ける問題や悩みを早く解決しよう、何とか取り除こう、どうやったらいいか、と問題を解決することだけに一生懸命になる。そうではなくて、神様がいま私に求めておられることがあり、神様がもっと私のそばに近づきたいと願ってくださるのです。20節の後半に「わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。食を共にすることはいちばん密接な交わりの一つです。“食して交わる„といいます。ですから、親しくなると「一緒に食事でもしようか」という話になるでしょう。食事を共にすると、相手との心の壁が消えます。食事を通して交わることによって、普段と違う関係が出来ます。だから、イエス様が私たちに求めているのは、まさにそこです。いろいろな問題や悩みや困難があるけれども、そこを通して私たちに近づきたい、と願っている。だから、まず心の扉を開くことです。私たちはいつも神様に心を開いているようですが、扉が閉まりかかっている。そこで戸を開いて、「主よ、どうぞ、私の内に……」と心を主に向ける。主が私と共にいてくださるその恵みを得ようではありませんか。いま主が望んでいることは、私たちの内に入って共に食事をすること。もっと、もっと親しくなりたい。神様は私たちと共にあって、朝起きてから夜寝るまで、寝ている間もそうでありますが、常に主が私と共におられる。主の臨在と共に生きる生活にもっと深く入りたい。またその中に取り込んでくださるために、いろいろな事態や事柄があるのです。

いま何か問題があるならば、悩みがあるならば、そのなかでもっと深く主を知ろうではないですか。主のみ声を聞き、主の臨在にふれるものとなりたいと思います。主がここにいます、ということをはっきりと体験していきたい。そして、その問題や事柄を通して、主の御思いをいよいよ深く味合おうではありませんか。そうすることによって、私たちの魂がいよいよ力づけられ、成長していくのです。

20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」。いま主が私たちを求めておってくださる。近づこうとしてくださる。もっとそばにおりたい、もっと親しくなりたいと願っていらっしゃるのです。「まぁ、そこまであんまり近づいてもらったら困るな」と、日本の神様は大体そういうものです。できるだけ普段は目にとまらないように、神棚に上の方に祭(まつ)る。用事のあるときだけと、自分の世界と神様を分けて考える。ところが、聖書が語っている神様は常に私たちと共におりたいと。常時です。朝から晩までズーッと神と共にあることを願っている。だから、事あるたびごとにいつも主を心に置いていこうではありませんか。ともすると自分のしたいことがあると、「ここは神様、チョットよそを向いておいてほしい」、「神様、ここはよそへ行っていてほしい。私がするから」と。それでは神様が悲しまれるに違いない。

いつもどんなときにも主が私たちと共におりたい。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」とおっしゃいます。「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」、主のみ声を聞くことです。主が求めておられることを知って、その声に応(こた)えて、戸を開いて主を迎えていきたい。朝から晩までどんなことのなかにも、常に主を心に置いていきたいと思う。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)とパウロは言いました。まさに主が私と共に食事をする。密接な交わり、掛け替えのない交わりを主が求めておられるとき、私たちも心を開いて主を迎え、主と共に生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


9月27日 日々の聖言

2014年09月27日 | 日々の聖言

「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。」マタイ7:9‐10 



この言葉の通り、限りある親ですら、わが子には何とかして良きものを与え、良きことを

計ろうとするものです。同様に、神様はあなたのために、最善をしようと心砕いておられる

もっと見る


聖書からのメッセージ(334)「愛に満たされて」

2014年09月27日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」5章1節から5節までを朗読。

 5節「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。

 1節に「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。イエス様を信じて救われるとは、まさにこの言葉に表されたとおりです。世間で信仰すること、神仏を信じる、拝む場合、ご利益を求める。信じることによって安心立命を得る、と言います。安心が得られる、心配事が消え去って幸せになれる、というのが、世間で人々の言うところの信仰です。時々、教会に来られる方でもそういうことを言います。「熱心にお参りをしております」と言います。聞いた人は「ああいいですな、それで幸せになれますもんね」と言う。確かに幸せになれるのはそのとおりですが、「では、幸せとはどういうことなのか」? 多くの場合、目に見える事情や境遇や事柄が順調にいく、うまくいく、願いどおりなると、幸せだと思いやすい。ですから、信仰していればそういう悩み事が取り去られて、すべてがうまくいくに違いない、と考える。時に教会へ来て、一生懸命に励んだ。「でも先生、一向に変わりません」と。「悩みは増えるし、また心配は次から次へと来て、何のための信仰かと思います」と言われる方がおられますが、それは信仰の受け止め方が違うのです。私どもにとって、神様を信じるとは、私たちと神様が仲直りをすることなのです。「ヨブ記」に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(22:21)とあるように、私たちが神様と和らぐということが信仰です。

 だから、1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。「義とされる」とは、私たちと神様の関係を表した言葉です。「義とされる」とは、神様に罪のない者として受け入れていただくことです。「義なる者」とは、世間でいう道徳的に立派な人間、どこにもとがめられる所のない、非難される所がない、完成した人間、そういう人ではない。もちろんそういうこともあり得るとは思いますが、聖書でいう「義」とは、神様の前に正しい人間、神様に「よし」とされる人間の意味です。神様が喜んで受け入れてくださる人間になること、これが信仰です。だから、私たちがイエス様の救いにあずかって神様を信じる者となったのは、神様と私たちとの間に何の妨(さまた)げもない、いつでもどんなときでも神様と交わることができる身分、それが「義」とされたことです。だから、1節「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とあります。「神に対して平和を得る」、神様と私たちとの間にもはやとがめだてするもの、私たちを裁くものはないことです。これが信仰です。「信仰による義」という言い方もしますが、私たちの受けている信仰は、神様と平和になる関係、神様と平和条約を結ぶことです。「では、そんなものはあってもなくてもいいじゃないか」と思いますが、ところがそれは大違いです。神様と和らぐこと、神様に対して平和を得ることによって初めて安心といいますか、揺るがない平安にあずかる。だから、神様との間の関係に何の障害もなく、神様を信頼し、より頼むことができる関係が築かれる。私たちは「神様を信じます」「信じます」と言いますが、神様を信じることは、既に神様と私が密接な交わりに入れていただいているのです。別の言葉でいうと「神の子供としていただいた」ということです。親子のような交わり、最も身近な御方となってくださる。これが信仰の内容、中身です。「私たちの信仰の中身は何か」?と問われたら、「私たちは神様と平和条約を結んだのです」と。皆さんが「一生懸命に信仰をしているけれども、ちっとも悩みはなくならないし、問題は次々あって、何のために信仰しているの!」と言われたら、「違うのよ!私の信仰は神様と平和条約を結ぶ、神様に対して平和になっている、神様と仲良し、親子だと信じることだ」と。親子になったら悩みがなくなるかというと、そんなことはない。いろいろな悩みがある。聖書を読みますと、つくづく思うことなんですが、信仰に生きた人たちは苦しみと悩みの連続です。

ペテロもそうですね。ペテロはガリラヤ湖畔(こはん)で代々漁師の家に生まれ育った。だから、イエス様に出会わなければガリラヤ湖で平々凡々と漁(りょう)をしながら年老いて、その生涯を終わっていたはずです。ところが、ある日突然イエス様に出会った瞬間から、彼の人生は変わった。漁師だったのが今度は人を漁(すなど)る者、同じ漁はするのだけれども、魚ではなくて人をとらえる者に変わったのです。それから彼の人生は非常に安泰になったかというと、そうじゃない。波乱万丈、思いもしない、考えもしないような事態に遭う。そしてついにはローマにまで連れて行かれてネロ皇帝の迫害のなかで殉教(じゅんきょう)をする。いうならばイエス様に出会わなかったらよかったのです。またパウロだってそうです。本来だったらパウロはその当時のユダヤ人の社会で優秀な人物でありました。家柄もいい、学歴もある、才能もある。将来を嘱望(しょくぼう)されて、恐らく当時の社会では指導者になったに違いない。しかも宗教的にも熱心だった。クリスチャンを迫害する。そうやって一生懸命に頑張っていた彼が、ある日よみがえったイエス様に出会う。ダマスコに行く途中……、それで彼の人生はガラッと変わった。それから、大変波乱に満ちた人生が始まる。「コリント人への第二の手紙」に記されているように、むちを打たれることは何度となくあり、陸上の難、海上の難、海に漂(ただよ)うことが何回かあってと、飢えて死にそうになったこと……、あるときは石で打たれて死んだ者と思って町の外に放り出されたこともあった。どうしてそんな苦しみに遭わなければいけなかったのか?たった一つです。イエス・キリストに出会ったからです。いうならば、イエス様は厄病(やくびょう)神ですよ。イエス様に出会ったら余程人生が楽になるかと思いきや、ならない。だから、覚悟をしたほうがいい。私たちがイエス様に出合うことは、むしろ悩みを背負い込むことです。苦しみを引き受けることです。なぜそうなるのかというと、神様と和らいで、神様の民とされること、神様と親子になってしまう。いうならば、この世から選び分けられる。イエス様が「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」(ヨハネ15:19 )と言われるように、私たちをこの世から選んで、世の者でないものとしてくださった。「信仰によって義とされる」というのは、そういうことです。神様と和らぐとは、ある意味で、この世と敵対することです。この世と仲良しで、神様とも仲良しというのはあり得ません。どちらか一つです。神に義とせられること、いうならば、神様の側につく者と変わる。そうすることによって、今度はこの世間の人々とうまくいかないのです。イエス様に従うがゆえに、あちらでぶつかり、こちらでぶつかり、あの人と衝突(しょうとつ)しとなる。そうすると「あんなに信仰しているのに、人とぶつかってばかり、問題ばかりでトラブルメーカーになってしまったじゃないか」と。それはもう仕方がない。だから、真剣に命懸けでイエス様に従っていこうとすると、そうなります。この世とうまく調子を合わせて仲良くお手手つないで皆一緒に、ということを選んだら、その途端から私たちはイエス様と離れます。

 1節以下に、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とありますが、私たちはこの世に対して敵対する関係に変わってしまう。2節に「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。確かに私たちは神様のものとされる、神様の子供としていただく。そして主イエス・キリストを信じることによって、いま立っている恵みに導き入れられた。いま私たちは恵みのなかにある。恵みとは何か?神様と和らいで心から信頼することができる者と変えていただいた。そして「神の栄光にあずかる希望」、神様の栄光、神様の誉、賞賛、神様の与えてくださる報いを望み見る生涯に変えられた。イエス様の救いにあずかって生きる私たちの生き方は、神の側につける者、神様と共に生きることに尽きます。その結果、私たちの望みはこの世のことではなくて、神様が私たちに報いてくださる、与えてくださるものを望み見ていく。これが私たちの希望であります。ここに「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」と。3節以下に「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。私たちは神様からの報い、神様の誉、神様からの賞賛を受けることを願っている。それを望み見ながら生きている。この世にありますが、私たちはこの世のものとして生きているのではなくて、神様のものとされたのです。神の子供としていただいた。そして日々神様に仕える者、神様に従っていく者となりました。だから、私たちが考えることは、神様が喜んでくださるかどうかです。神様がこれを喜んでくださる、これを神様は受け入れてくださる。これは神様の御心であることを求める。これがすべてです。自分のしたいことをするのではない。自分の願いを実現するのでもない。あるいは自分の嫌なことは避けるのではなくて、いつも神様が喜んでくださるに違いない、報いてくださるに違いないと、常に「神の栄光にあずかる希望」に立つのです。これが信仰生活の大切なことの一つです。私どもはどちらかというと、家族に喜ばれたいとか、子供に喜ばれたいとか、あるいは友達に、あの人にこの人にとか、皆から賞賛を受ける、あるいは何か報いを受けることをと願いますが、それでは信仰に立って生きる生き方とは違います。何をするにしても神様がこのことを喜んでくださるに違いないと信じなければ、むなしい生き方です。どんなことがあっても、何をするにしても、人のためだとか、あの人のためとか、この人のためではなくて、結果的にはその人が喜んでくれるかもしれないけれども、それが私たちの目的ではなく、「このことも神様が喜んでくださったに違いない」と確信が持てる生活、歩み、業(わざ)をすること、これが大切です。子供のためであろうと、孫のためであろうと、誰かのためであろうと、何をするにしても、そこで「これは神様が私に求めていることだ、これをすることは神様が喜んでくださるに違いない。神様が私に報いてくださるから、このことをさせていただこう」と、そこに立つのです。それがすべてです。だから「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。その後の3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。私たちが神様に従おうとするとき、神様に喜ばれる者になろうとするとき、この世の人々からむしろ迫害を受けるでしょう。あるいはいろいろな妨げがあるでしょう。またそこでいろいろな人とぶつかることになって、かえって苦しみが増す。いろいろな問題が生まれてきます、困難が出てきます。その患難をも喜んでいく。

なぜなら、その後に「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」。決してその患難は無駄に終わらないのです。忍耐は錬達、錬達は希望と、マイナスと思える事柄、不幸と思える出来事、悲しいと思う事柄から、今度はそれを神様が喜びに変えてくださる、望みにつないでくださるのです。これが私たちのいま信仰に生きる生き方であります。5節に「そして、希望は失望に終ることはない」。これは素晴らしいですね。その望みは決して失望に終わらない。必ずそれは成就(じょうじゅ)する。「若し遅くあらば待つべし」と神様は約束してくださいました。「必ず臨むべし濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b文語訳)と、必ずそれに応(こた)えてくださる。私たちが望みを持って神様の御言葉に信頼し、神様により頼んで、絶えず主との交わり、神様との交わりのなかを、たとえ患難であろうと苦しかろうと、つらかろうと、しっかりとそこに立って歩んでいきますならば、そこから患難は忍耐、忍耐は練達、私たちの品性を、性状性格を造り替えて、神様の栄光のすがたへと、更に私たちに望みを与えてくださる。「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ローマ 8:28文語訳)と、神様の働かれるわざを大いに期待していくことができます。

その後に、なぜそうなるかというと5節の後半に「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。そのすべてのことの根本に神様の愛があることを私たちが疑わないからです。神様と和らぐ、あるいは神様に対して平和を得るといいますが、神様がどのような御方なのか、これは非常に重大な問題であります。神様が戦いの神様であったら、これは怖(こわ)くて仕方がない。神様が厳しい裁判官のような御方であったら、いくら平和を得ているといっても安心にならない。いつ何時パッと命を狙(ねら)われるか分からない。神様をどのような方と信じるのか。そのことを5節に「神の愛がわたしたちの心に注がれている」と。神様が私たちを愛してくださっていることです。神様は愛なる御方であることを信じていく。これが私たちの大きな力であります。神様は私たちを愛してくださっている。その神様の愛はどこにあるかと? それは「ヨハネによる福音書」3章16節に「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16文語訳)と、限りなき愛、ひとり子を賜うほどの愛をもって私たちを愛していると言われます。

 「ヨハネの第一の手紙」4章7節から12節までを朗読。

 7節以下は皆さんもよくよくご存じの御言葉であり、また繰り返し読んでいる所でありますが、7節から12節までの間に何度となく「愛」という言葉が語られています。まず7節に「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか」、8節には「愛は、神から出たものなのである。愛さない者は、神を知らない。神は愛である」と、愛、愛、愛と。というのは、実は神様のご性質が「愛である」ことに尽きるからです。日本にもいろいろな性質の神様がおられる。しかし、どんなにたくさんの神様がいても「愛である」という神様は、聖書で言われている御方以外にありません。しかも、その神様は天地万物の創造者、全能の神です。力ある御方、義なる御方、聖なる御方であり、同時に愛でいらっしゃる。8節に、「愛さない者は、神を知らない。神は愛である」とあります。神様は愛そのものでもある、神イコール愛というのです。こういう表現はまず聖書以外にないでしょう。神様は私たちを愛してやまないのです。そればかりでなく、私たちに神様と和らぎ、神様との間に平和を得させてくださるために、10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」、私たちの罪を赦すためにご自分のひとり子を敢えて神の位を捨て、この世にまで遣(つか)わしてくださった御方です。神様はそれほどに私たちを愛してくださっている。そのことをどれほど私どもは真剣に自分のこととして受けいれているでしょうか。神様は私を誰よりも愛してくださっていると信じること。これを抜きにして、私たちの信仰はあり得ません。なぜ神様は私たちに和らぎを与えてくださる、神様の子供とまでしてくださる、神様が私たちをご自分の民としてくださるのか?何ゆえにそんなことまでするか? それは一重に神様が私たちを愛しているということに尽きるのです。10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」と。私たちがまだ神様を知らない、神様のこともイエス様のことも知らないでいたとき、私たちがこの世にまだ生まれない先から既に神様は、私たちを愛してくださった。そして「わたしたちの罪のためにあがないの供え物」、いわゆる犠牲(ぎせい)として、私たちが当然払うべき犠牲に代(か)えてひとり子を断罪してくださった。そんなにまで私たちを愛してくださったのです。神様に対して、この私を、ひとり子を賜うほどに愛してくださっているのだと、どれほど深く、どれほど強く受け止めているか、感じているだろうか?それがなければ、いくら私たちが神様を信じているといっても、神様のご愛に根ざして、愛によって神様と結びついて平和を得なければ、私たちは神様を信頼できないのです。いくら神様が私たちを造ってくださった、私たちを大切なものにしてくれているといっても、愛によってでなければ、神様は都合がよいときだけ、気まぐれに、時々私たちの方に気持ちを向けてくれる。ご機嫌を損(そこ)ねたらえらいことになるという、そんなあやふやな、何か頼りないといいますか、勝手な神様だったら、私たちは怖くて仕方がない。そんなものは信頼できない。ところが、年頭にも与えられましたように、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)、言い換えると、私たちを、ひとり子を賜うほどのかぎりない愛をもって愛してやまない御方です。その神様が私たちをあがなって、私たちの罪を赦してくださって、神の子供として、義なる者として受け入れてくださった。この愛に私たちがいつもしっかりと結びついていくこと。

 「ローマ人への手紙」5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様がひとり子を賜わったほどの大きな愛をもって愛しているよと、妬(や)けるような神様の御思いを聖霊は、御霊なる御方は、私たちの内に注ぎ込んでくださる。私たちに愛を満たしてくださった。その愛を分かち合う関係に私たちと神様があるのです。このことをどうぞ、しっかりと握っていただきたい。何があっても、私は神様から愛されている者であること。神様は私のためにひとり子すらも惜(お)しまないほどに私を愛して、ご自分のものとしてくださった。神様は私たちを義なる者として、すべてのものを注いでくださる。神様はあらゆる物を惜しみなく私たちに与えてくださる御方なのです。与えてくださる物に目を留めるのではなく、十字架にまで命を捨ててくださった主のご愛のなかに、私たちがしっかりととどまっていくこと。これが私たちのいま立っている恵みの立場です。ですから、5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と。人が何と言おうと、誰がどうしようと、この神様のご愛で私たちの心がしっかりと潤(うるお)されて、愛によって神様と結びついていてご覧なさい。事情や境遇がどうであれ、こうであれ、何があっても恐れない。いや、それどころか、感謝、感謝です。愛によって働く、生きるということはまさにここです。

 「エペソ人への手紙」3章17節から19節までを朗読。

 17節に「キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあるように、キリストが私たちの内に住んでくださって、キリストを通して神の愛を知り、愛を注いでいただき、神様の愛に根ざして生活する。「愛を基(もとい)として生活する」。だから、神様の愛をしっかりと握って立たなければ、私たちの信仰はもろいのです。すぐ壊れていきます。だから、「いつも本当にこんな私のためにイエス様は命を捨ててまで私を愛してくださった」と堅く信じましょう。神様は私のためにひとり子を世に遣(つか)わしてくださって、2千年前ゴルゴダの丘に十字架に釘付けてまで、愛を今日も注いでくださっている。主の愛をしっかりと確認しながら日々を生きるのです。そうすることによって、「その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができる」。神様のご愛の広さ、長さ、高さ、深さをいよいよしっかりと味わう。19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って」、キリストの愛を知るばかりでなく、更に「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされる」。神様の持っていらっしゃるすべてを与えてくださる。

 人の限られた愛でも、愛する人には何としても良きものを与えたいと願う。親が子供を愛しているときでもそうでしょう。見ていると親がこれでもかと言わんばかりに子供に注ぎます。いろんな物を惜しみなく与えます。ましてや神様は私たちに「神に満ちているもののすべて」、神の栄光の富を、尽きることのないものをもって、私たちを満たしてくださる御方です。だから、何を恐れ、何を思い煩い、何を心配することがあるでしょうか。いつも神様のご愛に目を留めていくこと、愛に満たされること、これがすべてです。そうしていきますならば、神様は私たちに必要な知恵も健康も時間も財も、何でも必要な物をどんなにでもして満たすことのできる御方です。私たちを愛していらっしゃるからです。だから、常にこのキリストの愛に根ざしていくこと。愛を基(もとい)として生きる者でありたいと思うのです。

 「ローマ人への手紙」5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない」。確かにそのとおりです。神の愛が注がれ、神様の愛に満ちてまいりますと、いま聞くおとずれがどんなに悲惨なことであろうと、失望落胆するような事態であろうと、神様はこのこともご存じだし、決してへまなことをなさる御方ではない。神様は善にして善をなし給う御方です。愛なる御方ですと信じて疑わない。神様を決して疑わない。その秘けつは愛を絶えず感じていくことです。そのために、常に神様の御霊に満たされて、今日も主がどんなに大きな愛をもって私を愛してくださっているか、その愛にいつも思いを向けていこうではありませんか。神様が愛してくださっている自分であることを自覚していただきたい。そんなにまで愛してくださる神様に、何をもって応(こた)えるか。「ただこの身をささげるほかはなし」と賛美されていますが、ただ主の御心のままに、と自分を委ねていく以外にありません。

 どうぞ、そうなるまで神様のご愛に心を潤(うるお)され、満たされ、神様のご愛に励まされ、押し出されて日々を生きる生涯でありたい。それが私たちの神様に応えていくただ一つの道であります。どうぞ、この神のご愛を心にいよいよ深く受け止めて歩もうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


9月26日 日々の聖言

2014年09月26日 | 日々の聖言

「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう

そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」ルカ12:20 



生けるものは必ず死ぬ時がきます。誰もそれを逃れることはできません。しかし、

自分の死を自覚して生きる人はあまりいません。今の時、地上でのことに心が奪

もっと見る