いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月27日 日々の聖言

2014年09月27日 | 日々の聖言

「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。」マタイ7:9‐10 



この言葉の通り、限りある親ですら、わが子には何とかして良きものを与え、良きことを

計ろうとするものです。同様に、神様はあなたのために、最善をしようと心砕いておられる

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聖書からのメッセージ(334)「愛に満たされて」

2014年09月27日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」5章1節から5節までを朗読。

 5節「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。

 1節に「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。イエス様を信じて救われるとは、まさにこの言葉に表されたとおりです。世間で信仰すること、神仏を信じる、拝む場合、ご利益を求める。信じることによって安心立命を得る、と言います。安心が得られる、心配事が消え去って幸せになれる、というのが、世間で人々の言うところの信仰です。時々、教会に来られる方でもそういうことを言います。「熱心にお参りをしております」と言います。聞いた人は「ああいいですな、それで幸せになれますもんね」と言う。確かに幸せになれるのはそのとおりですが、「では、幸せとはどういうことなのか」? 多くの場合、目に見える事情や境遇や事柄が順調にいく、うまくいく、願いどおりなると、幸せだと思いやすい。ですから、信仰していればそういう悩み事が取り去られて、すべてがうまくいくに違いない、と考える。時に教会へ来て、一生懸命に励んだ。「でも先生、一向に変わりません」と。「悩みは増えるし、また心配は次から次へと来て、何のための信仰かと思います」と言われる方がおられますが、それは信仰の受け止め方が違うのです。私どもにとって、神様を信じるとは、私たちと神様が仲直りをすることなのです。「ヨブ記」に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(22:21)とあるように、私たちが神様と和らぐということが信仰です。

 だから、1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」とあります。「義とされる」とは、私たちと神様の関係を表した言葉です。「義とされる」とは、神様に罪のない者として受け入れていただくことです。「義なる者」とは、世間でいう道徳的に立派な人間、どこにもとがめられる所のない、非難される所がない、完成した人間、そういう人ではない。もちろんそういうこともあり得るとは思いますが、聖書でいう「義」とは、神様の前に正しい人間、神様に「よし」とされる人間の意味です。神様が喜んで受け入れてくださる人間になること、これが信仰です。だから、私たちがイエス様の救いにあずかって神様を信じる者となったのは、神様と私たちとの間に何の妨(さまた)げもない、いつでもどんなときでも神様と交わることができる身分、それが「義」とされたことです。だから、1節「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とあります。「神に対して平和を得る」、神様と私たちとの間にもはやとがめだてするもの、私たちを裁くものはないことです。これが信仰です。「信仰による義」という言い方もしますが、私たちの受けている信仰は、神様と平和になる関係、神様と平和条約を結ぶことです。「では、そんなものはあってもなくてもいいじゃないか」と思いますが、ところがそれは大違いです。神様と和らぐこと、神様に対して平和を得ることによって初めて安心といいますか、揺るがない平安にあずかる。だから、神様との間の関係に何の障害もなく、神様を信頼し、より頼むことができる関係が築かれる。私たちは「神様を信じます」「信じます」と言いますが、神様を信じることは、既に神様と私が密接な交わりに入れていただいているのです。別の言葉でいうと「神の子供としていただいた」ということです。親子のような交わり、最も身近な御方となってくださる。これが信仰の内容、中身です。「私たちの信仰の中身は何か」?と問われたら、「私たちは神様と平和条約を結んだのです」と。皆さんが「一生懸命に信仰をしているけれども、ちっとも悩みはなくならないし、問題は次々あって、何のために信仰しているの!」と言われたら、「違うのよ!私の信仰は神様と平和条約を結ぶ、神様に対して平和になっている、神様と仲良し、親子だと信じることだ」と。親子になったら悩みがなくなるかというと、そんなことはない。いろいろな悩みがある。聖書を読みますと、つくづく思うことなんですが、信仰に生きた人たちは苦しみと悩みの連続です。

ペテロもそうですね。ペテロはガリラヤ湖畔(こはん)で代々漁師の家に生まれ育った。だから、イエス様に出会わなければガリラヤ湖で平々凡々と漁(りょう)をしながら年老いて、その生涯を終わっていたはずです。ところが、ある日突然イエス様に出会った瞬間から、彼の人生は変わった。漁師だったのが今度は人を漁(すなど)る者、同じ漁はするのだけれども、魚ではなくて人をとらえる者に変わったのです。それから彼の人生は非常に安泰になったかというと、そうじゃない。波乱万丈、思いもしない、考えもしないような事態に遭う。そしてついにはローマにまで連れて行かれてネロ皇帝の迫害のなかで殉教(じゅんきょう)をする。いうならばイエス様に出会わなかったらよかったのです。またパウロだってそうです。本来だったらパウロはその当時のユダヤ人の社会で優秀な人物でありました。家柄もいい、学歴もある、才能もある。将来を嘱望(しょくぼう)されて、恐らく当時の社会では指導者になったに違いない。しかも宗教的にも熱心だった。クリスチャンを迫害する。そうやって一生懸命に頑張っていた彼が、ある日よみがえったイエス様に出会う。ダマスコに行く途中……、それで彼の人生はガラッと変わった。それから、大変波乱に満ちた人生が始まる。「コリント人への第二の手紙」に記されているように、むちを打たれることは何度となくあり、陸上の難、海上の難、海に漂(ただよ)うことが何回かあってと、飢えて死にそうになったこと……、あるときは石で打たれて死んだ者と思って町の外に放り出されたこともあった。どうしてそんな苦しみに遭わなければいけなかったのか?たった一つです。イエス・キリストに出会ったからです。いうならば、イエス様は厄病(やくびょう)神ですよ。イエス様に出会ったら余程人生が楽になるかと思いきや、ならない。だから、覚悟をしたほうがいい。私たちがイエス様に出合うことは、むしろ悩みを背負い込むことです。苦しみを引き受けることです。なぜそうなるのかというと、神様と和らいで、神様の民とされること、神様と親子になってしまう。いうならば、この世から選び分けられる。イエス様が「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」(ヨハネ15:19 )と言われるように、私たちをこの世から選んで、世の者でないものとしてくださった。「信仰によって義とされる」というのは、そういうことです。神様と和らぐとは、ある意味で、この世と敵対することです。この世と仲良しで、神様とも仲良しというのはあり得ません。どちらか一つです。神に義とせられること、いうならば、神様の側につく者と変わる。そうすることによって、今度はこの世間の人々とうまくいかないのです。イエス様に従うがゆえに、あちらでぶつかり、こちらでぶつかり、あの人と衝突(しょうとつ)しとなる。そうすると「あんなに信仰しているのに、人とぶつかってばかり、問題ばかりでトラブルメーカーになってしまったじゃないか」と。それはもう仕方がない。だから、真剣に命懸けでイエス様に従っていこうとすると、そうなります。この世とうまく調子を合わせて仲良くお手手つないで皆一緒に、ということを選んだら、その途端から私たちはイエス様と離れます。

 1節以下に、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とありますが、私たちはこの世に対して敵対する関係に変わってしまう。2節に「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。確かに私たちは神様のものとされる、神様の子供としていただく。そして主イエス・キリストを信じることによって、いま立っている恵みに導き入れられた。いま私たちは恵みのなかにある。恵みとは何か?神様と和らいで心から信頼することができる者と変えていただいた。そして「神の栄光にあずかる希望」、神様の栄光、神様の誉、賞賛、神様の与えてくださる報いを望み見る生涯に変えられた。イエス様の救いにあずかって生きる私たちの生き方は、神の側につける者、神様と共に生きることに尽きます。その結果、私たちの望みはこの世のことではなくて、神様が私たちに報いてくださる、与えてくださるものを望み見ていく。これが私たちの希望であります。ここに「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」と。3節以下に「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。私たちは神様からの報い、神様の誉、神様からの賞賛を受けることを願っている。それを望み見ながら生きている。この世にありますが、私たちはこの世のものとして生きているのではなくて、神様のものとされたのです。神の子供としていただいた。そして日々神様に仕える者、神様に従っていく者となりました。だから、私たちが考えることは、神様が喜んでくださるかどうかです。神様がこれを喜んでくださる、これを神様は受け入れてくださる。これは神様の御心であることを求める。これがすべてです。自分のしたいことをするのではない。自分の願いを実現するのでもない。あるいは自分の嫌なことは避けるのではなくて、いつも神様が喜んでくださるに違いない、報いてくださるに違いないと、常に「神の栄光にあずかる希望」に立つのです。これが信仰生活の大切なことの一つです。私どもはどちらかというと、家族に喜ばれたいとか、子供に喜ばれたいとか、あるいは友達に、あの人にこの人にとか、皆から賞賛を受ける、あるいは何か報いを受けることをと願いますが、それでは信仰に立って生きる生き方とは違います。何をするにしても神様がこのことを喜んでくださるに違いないと信じなければ、むなしい生き方です。どんなことがあっても、何をするにしても、人のためだとか、あの人のためとか、この人のためではなくて、結果的にはその人が喜んでくれるかもしれないけれども、それが私たちの目的ではなく、「このことも神様が喜んでくださったに違いない」と確信が持てる生活、歩み、業(わざ)をすること、これが大切です。子供のためであろうと、孫のためであろうと、誰かのためであろうと、何をするにしても、そこで「これは神様が私に求めていることだ、これをすることは神様が喜んでくださるに違いない。神様が私に報いてくださるから、このことをさせていただこう」と、そこに立つのです。それがすべてです。だから「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。その後の3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。私たちが神様に従おうとするとき、神様に喜ばれる者になろうとするとき、この世の人々からむしろ迫害を受けるでしょう。あるいはいろいろな妨げがあるでしょう。またそこでいろいろな人とぶつかることになって、かえって苦しみが増す。いろいろな問題が生まれてきます、困難が出てきます。その患難をも喜んでいく。

なぜなら、その後に「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」。決してその患難は無駄に終わらないのです。忍耐は錬達、錬達は希望と、マイナスと思える事柄、不幸と思える出来事、悲しいと思う事柄から、今度はそれを神様が喜びに変えてくださる、望みにつないでくださるのです。これが私たちのいま信仰に生きる生き方であります。5節に「そして、希望は失望に終ることはない」。これは素晴らしいですね。その望みは決して失望に終わらない。必ずそれは成就(じょうじゅ)する。「若し遅くあらば待つべし」と神様は約束してくださいました。「必ず臨むべし濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b文語訳)と、必ずそれに応(こた)えてくださる。私たちが望みを持って神様の御言葉に信頼し、神様により頼んで、絶えず主との交わり、神様との交わりのなかを、たとえ患難であろうと苦しかろうと、つらかろうと、しっかりとそこに立って歩んでいきますならば、そこから患難は忍耐、忍耐は練達、私たちの品性を、性状性格を造り替えて、神様の栄光のすがたへと、更に私たちに望みを与えてくださる。「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ローマ 8:28文語訳)と、神様の働かれるわざを大いに期待していくことができます。

その後に、なぜそうなるかというと5節の後半に「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。そのすべてのことの根本に神様の愛があることを私たちが疑わないからです。神様と和らぐ、あるいは神様に対して平和を得るといいますが、神様がどのような御方なのか、これは非常に重大な問題であります。神様が戦いの神様であったら、これは怖(こわ)くて仕方がない。神様が厳しい裁判官のような御方であったら、いくら平和を得ているといっても安心にならない。いつ何時パッと命を狙(ねら)われるか分からない。神様をどのような方と信じるのか。そのことを5節に「神の愛がわたしたちの心に注がれている」と。神様が私たちを愛してくださっていることです。神様は愛なる御方であることを信じていく。これが私たちの大きな力であります。神様は私たちを愛してくださっている。その神様の愛はどこにあるかと? それは「ヨハネによる福音書」3章16節に「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16文語訳)と、限りなき愛、ひとり子を賜うほどの愛をもって私たちを愛していると言われます。

 「ヨハネの第一の手紙」4章7節から12節までを朗読。

 7節以下は皆さんもよくよくご存じの御言葉であり、また繰り返し読んでいる所でありますが、7節から12節までの間に何度となく「愛」という言葉が語られています。まず7節に「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか」、8節には「愛は、神から出たものなのである。愛さない者は、神を知らない。神は愛である」と、愛、愛、愛と。というのは、実は神様のご性質が「愛である」ことに尽きるからです。日本にもいろいろな性質の神様がおられる。しかし、どんなにたくさんの神様がいても「愛である」という神様は、聖書で言われている御方以外にありません。しかも、その神様は天地万物の創造者、全能の神です。力ある御方、義なる御方、聖なる御方であり、同時に愛でいらっしゃる。8節に、「愛さない者は、神を知らない。神は愛である」とあります。神様は愛そのものでもある、神イコール愛というのです。こういう表現はまず聖書以外にないでしょう。神様は私たちを愛してやまないのです。そればかりでなく、私たちに神様と和らぎ、神様との間に平和を得させてくださるために、10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」、私たちの罪を赦すためにご自分のひとり子を敢えて神の位を捨て、この世にまで遣(つか)わしてくださった御方です。神様はそれほどに私たちを愛してくださっている。そのことをどれほど私どもは真剣に自分のこととして受けいれているでしょうか。神様は私を誰よりも愛してくださっていると信じること。これを抜きにして、私たちの信仰はあり得ません。なぜ神様は私たちに和らぎを与えてくださる、神様の子供とまでしてくださる、神様が私たちをご自分の民としてくださるのか?何ゆえにそんなことまでするか? それは一重に神様が私たちを愛しているということに尽きるのです。10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」と。私たちがまだ神様を知らない、神様のこともイエス様のことも知らないでいたとき、私たちがこの世にまだ生まれない先から既に神様は、私たちを愛してくださった。そして「わたしたちの罪のためにあがないの供え物」、いわゆる犠牲(ぎせい)として、私たちが当然払うべき犠牲に代(か)えてひとり子を断罪してくださった。そんなにまで私たちを愛してくださったのです。神様に対して、この私を、ひとり子を賜うほどに愛してくださっているのだと、どれほど深く、どれほど強く受け止めているか、感じているだろうか?それがなければ、いくら私たちが神様を信じているといっても、神様のご愛に根ざして、愛によって神様と結びついて平和を得なければ、私たちは神様を信頼できないのです。いくら神様が私たちを造ってくださった、私たちを大切なものにしてくれているといっても、愛によってでなければ、神様は都合がよいときだけ、気まぐれに、時々私たちの方に気持ちを向けてくれる。ご機嫌を損(そこ)ねたらえらいことになるという、そんなあやふやな、何か頼りないといいますか、勝手な神様だったら、私たちは怖くて仕方がない。そんなものは信頼できない。ところが、年頭にも与えられましたように、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)、言い換えると、私たちを、ひとり子を賜うほどのかぎりない愛をもって愛してやまない御方です。その神様が私たちをあがなって、私たちの罪を赦してくださって、神の子供として、義なる者として受け入れてくださった。この愛に私たちがいつもしっかりと結びついていくこと。

 「ローマ人への手紙」5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様がひとり子を賜わったほどの大きな愛をもって愛しているよと、妬(や)けるような神様の御思いを聖霊は、御霊なる御方は、私たちの内に注ぎ込んでくださる。私たちに愛を満たしてくださった。その愛を分かち合う関係に私たちと神様があるのです。このことをどうぞ、しっかりと握っていただきたい。何があっても、私は神様から愛されている者であること。神様は私のためにひとり子すらも惜(お)しまないほどに私を愛して、ご自分のものとしてくださった。神様は私たちを義なる者として、すべてのものを注いでくださる。神様はあらゆる物を惜しみなく私たちに与えてくださる御方なのです。与えてくださる物に目を留めるのではなく、十字架にまで命を捨ててくださった主のご愛のなかに、私たちがしっかりととどまっていくこと。これが私たちのいま立っている恵みの立場です。ですから、5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と。人が何と言おうと、誰がどうしようと、この神様のご愛で私たちの心がしっかりと潤(うるお)されて、愛によって神様と結びついていてご覧なさい。事情や境遇がどうであれ、こうであれ、何があっても恐れない。いや、それどころか、感謝、感謝です。愛によって働く、生きるということはまさにここです。

 「エペソ人への手紙」3章17節から19節までを朗読。

 17節に「キリストがあなたがたの心のうちに住み」とあるように、キリストが私たちの内に住んでくださって、キリストを通して神の愛を知り、愛を注いでいただき、神様の愛に根ざして生活する。「愛を基(もとい)として生活する」。だから、神様の愛をしっかりと握って立たなければ、私たちの信仰はもろいのです。すぐ壊れていきます。だから、「いつも本当にこんな私のためにイエス様は命を捨ててまで私を愛してくださった」と堅く信じましょう。神様は私のためにひとり子を世に遣(つか)わしてくださって、2千年前ゴルゴダの丘に十字架に釘付けてまで、愛を今日も注いでくださっている。主の愛をしっかりと確認しながら日々を生きるのです。そうすることによって、「その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができる」。神様のご愛の広さ、長さ、高さ、深さをいよいよしっかりと味わう。19節に「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って」、キリストの愛を知るばかりでなく、更に「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされる」。神様の持っていらっしゃるすべてを与えてくださる。

 人の限られた愛でも、愛する人には何としても良きものを与えたいと願う。親が子供を愛しているときでもそうでしょう。見ていると親がこれでもかと言わんばかりに子供に注ぎます。いろんな物を惜しみなく与えます。ましてや神様は私たちに「神に満ちているもののすべて」、神の栄光の富を、尽きることのないものをもって、私たちを満たしてくださる御方です。だから、何を恐れ、何を思い煩い、何を心配することがあるでしょうか。いつも神様のご愛に目を留めていくこと、愛に満たされること、これがすべてです。そうしていきますならば、神様は私たちに必要な知恵も健康も時間も財も、何でも必要な物をどんなにでもして満たすことのできる御方です。私たちを愛していらっしゃるからです。だから、常にこのキリストの愛に根ざしていくこと。愛を基(もとい)として生きる者でありたいと思うのです。

 「ローマ人への手紙」5章5節に「そして、希望は失望に終ることはない」。確かにそのとおりです。神の愛が注がれ、神様の愛に満ちてまいりますと、いま聞くおとずれがどんなに悲惨なことであろうと、失望落胆するような事態であろうと、神様はこのこともご存じだし、決してへまなことをなさる御方ではない。神様は善にして善をなし給う御方です。愛なる御方ですと信じて疑わない。神様を決して疑わない。その秘けつは愛を絶えず感じていくことです。そのために、常に神様の御霊に満たされて、今日も主がどんなに大きな愛をもって私を愛してくださっているか、その愛にいつも思いを向けていこうではありませんか。神様が愛してくださっている自分であることを自覚していただきたい。そんなにまで愛してくださる神様に、何をもって応(こた)えるか。「ただこの身をささげるほかはなし」と賛美されていますが、ただ主の御心のままに、と自分を委ねていく以外にありません。

 どうぞ、そうなるまで神様のご愛に心を潤(うるお)され、満たされ、神様のご愛に励まされ、押し出されて日々を生きる生涯でありたい。それが私たちの神様に応えていくただ一つの道であります。どうぞ、この神のご愛を心にいよいよ深く受け止めて歩もうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。