いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月26日 日々の聖言

2014年09月26日 | 日々の聖言

「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう

そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。」ルカ12:20 



生けるものは必ず死ぬ時がきます。誰もそれを逃れることはできません。しかし、

自分の死を自覚して生きる人はあまりいません。今の時、地上でのことに心が奪

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聖書からのメッセージ(333)「祝福に与る秘訣」

2014年09月26日 | 聖書からのメッセージ

 「マタイによる福音書」14章13節から21節までを朗読。

 18節「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。

 これは、イエス様が行われた不思議なわざについて語られたものであります。13節に「このことを聞くと」と語られていますが、それは14章1節以下にバプテスマのヨハネがヘロデ王によって首を切られて死んだことを聞きました。ヘロデ王の愛人であったヘロデヤの娘が踊ってヘロデ王に気に入られ、その褒美(ほうび)として「何が欲しいか?」と尋ねられた。ヘロデヤが、自分たちの関係を厳しく非難していたバプテスマのヨハネを「憎きやつ」と思い、娘に「バプテスマのヨハネの首をもらえ」と言ったのです。「それを盆に載(の)せて持ってきてくれ」と。実に残酷(ざんこく)な話です。言った以上ヘロデ王も引くわけにいかない。その当時バプテスマのヨハネは大変人気のある、人々から尊敬された人物でしたが、やむなくそれを実行したのです。

 イエス様とバプテスマのヨハネとは因縁浅からぬ関係です。彼はイエス様がお生まれになる半年近く前に生まれました。いうならば、遠縁にあたる、いとこであるともいわれています。だから身内のようなものですから、このことを聞いてイエス様は落胆、失望、悲しみのなかにおられたと思います。ですから、13節に「舟に乗ってそこを去り」と「自分ひとりで寂しい所へ行かれた」。イエス様はいつも多くの人々に取り囲まれ、弟子たちが絶えずそばにいますから、一人静まるときがありません。わずかな時間を見計らってはひそかに退いて、父なる神様との交わりのなかに入られました。このときも「ひとりで寂しい所へ行かれた」とありますが、「ひとり放っといてくれ!」とすねたわけではありません。そこで父なる神様の慰めを求められたのだと思います。ところが、それでもなお多くの人々がイエス様の後を追ってきた、と語られています。あまりにも多くの人々、しかもそこには病人などいろいろな悩みを抱える人々、イエス様の助けを得たい、と思っている人たちが次々と押し寄せてくる。イエス様は彼らのために癒しを祈ってくださる、また神の国の恵みについて語っておられました。

とうとう夕方になりました。15節「夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った」と。時間がたちまして夕暮れ時になって、今のようにコンビニがすぐにあるわけではないでしょうし、野外劇場というような舞台装置があるわけでもないし、ただの野っ原であります。しかもそんな所に夕暮れになってもまだ立ち去らない多くの人々がいる。「これは困ったことだ。早く、何とかしてあげなければ」と。ですから、15節に「もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」と、これは至極当然なことです。もうこんなにおそくなりましたから、おなかもすいていることだから、早く解散させて、何か食べ物を得てくるようにしましょう」と、弟子たちはイエス様に進言しました。

そのとき、16節に「するとイエスは言われた、『彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい』」と、ここで「出かけて行くには及ばない。あなた方が食物をやりなさい」と言われる。大変な難題であります。その後に、「男性だけで5千人近くの人々」とあります。女性や子供を入れると1万人は超えていたでしょう。そういう人たちに食料を供給するのは至難の業です。近ごろハイチという国で大地震があって、各国が援助の物資を持って行きますと、われ先にと殴(なぐ)り合いのようなかたちで食料を奪い取るでしょう。1万人ものおなかをすかした人たちをどうやって食べさせるか?大変な難題をイエス様は投げかけたのです。彼らは、そのときハタと困った、どうしたものかと。「あなたがたの手で食物をやりなさい」、といって自分たちは何を持っているか。17節に「弟子たちは言った、『わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません』」と。別の福音書の記事を読みますと、同じことが別の言葉で語られています。一人の子供が弁当を持っていて、それが「パン五つと魚二ひきであった」というようなことも語られています。いうならば、ひとりのお弁当の分量でしかない。「そんな僅かなもので5千人以上もの人々に食べさせることができるか」という。弟子たちは当惑して「どうしたものか」と思ったときに、イエス様がおっしゃったのは、18節「それをここに持ってきなさい」と。「ここ」とはどこか? イエス様の所です。「わたしの所に」という意味です。魚二ひきとパン五つしかないけれども、「それをわたしの所へ持って来なさい」とイエス様が言われた。

そのときイエス様は、19節「そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り」、イエス様は持ってきた五つのパンと二ひきの魚をご自分の手に取って、「天を仰いで」とありますが、神様の前にそれを持ち出して、祝福してくださった。神様の祝福を求めてくださった。そして、その後パンをさいて弟子たちに渡してくださった。ところが、配ってみると、19節の後半以下に「弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した」とあります。不思議な事態になったのであります。次から次へとパンを分けていったら、気がつかないうちにまだかごの中に残っている。またそれを配っていると、また次のかごの中にもある。誠に不思議なことが起こっている。しかも、「みんなの者は食べて満腹した」とあります。ちょっとつまみ食いした程度じゃないのです。パンのかけらをパン粉のようにして一つまみずつ分けた、というのではない。「満腹した」のですから、それぞれの人々がおなかいっぱい食べたのです。しかも「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった」とあります。食べきれなくて残った物があるという。こんな事態に出会ったのです。

「イエス様が奇跡をなさった。さすが、イエス様やな」と思ってしまいますが、ここで大切なことを教えられます。それは、神様の祝福、ということです。イエス様が「それをここに持ってきなさい」とおっしゃいました。言い換えると、イエス様の所へ持ってくる、イエス様がそれを祝福してくださる。イエス様が祝福するとは、「天を仰いでそれを祝福し」とあるように、神様からの祝福を頂くことです。そのときにこの不思議な出来事が起こるのです。実は、これはイエス様の時代、このときだけのことではありません。「祝福」というのは何なのか?神様の祝福を受けることが、どんなに大きな恵みであるか知りたいと思います。

というのは、イエス様は弟子たちに「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃいました。これは世間の極めて常識的な人間の生き方であります。私たちの日々の生活でもそうですが、私たちは手の働き、あるいは汗をたらして労働をします、働きます。それは汗が出るか出ないかは別にして、会社に出かけたり、あるいは社会に出たり、あるいはいろいろな方法で日々の糧(かて)、生活を自分の力でやっていく。病気にならないように気を配り、食べる糧を得るよういろいろな方策、手立てを考えて、ああもし、こうもし、何とか自分の生活を自分の力でやっていこう、と思う。まさに「あなたがたの手で食物をやりなさい」と。自分の手で自分を養うということに精一杯であります。しかし、神様は、私たちが自分の力で生きるように造られたのではありません。私たちがこの地上に命を与えられて、神様が養ってくださる。ところが、恵みの源泉である神様を離れて、自分の力で、自分の努力で、自分の働きによって糧を得る。これが私たちの現実の姿であります。

「創世記」3章17節から19節まで朗読。

これはエデンの園に神様が人を置いてくださった記事です。森羅万象(しんらばんしょう)の創造のわざが完成して、最後に人を造られました。ちりをもって人をかたちづくり、そこに命の息を吹きいれ、尊い神様のかたちにまで造ってくださいました。彼らをエデンの園に置いてくださった。そこでは神様が使命を与え、働くことを求められました。労働をも与えてくださった。神様の造られたすべての物を治(おさ)める、神様の御声に従ってそれを管理する役割を人に与えられたのです。だから、その時のアダムとエバ、人は神様との間に隔てるものがない。神様と人とは一つであったのです。実に親しい交わり、神様の前にとがめられるところも、隠すところもない、裸で恥じない、素晴らしい恵みのなかに置かれていました。だから、彼らは自分の生活のために働くとか、自分の命のために何かをする必要がなかったのです。神様は、すべてのものを食べてよろしい、ただ、命の木、知恵の木を置いて、それらの実を食べてはならない、とお命じになりました。なぜそんなものをエデンの園に置いたのか。それは、神様を敬う道筋をそこに置いたのです。人が神と共に生きる、エデンの園で神様との間に隔てのない関係、親子のような、友達のような、親しい一つになった関係ではありますが、しかし、人は神よりも低く造られた、被造物です。人は神様に従うべき存在であることを定められたのです。だから、してはいけないということを神様が定められたのは、人が神様を敬い、大切にすることを具体化するためです。だから、神様がしてはいけない、と言われたこと、その言葉を守る。それによって神様を尊び敬う、大切にすることを具体的に証詞するのです。

私たちは「神様を大切にしています」と言うけれども、どうやったらそれを具体的に表すことか? それは神様の言葉である、聖書のお言葉を私たちが真剣に受け止めて、神様のお言葉を大切にすることによって、初めて神様を尊んでいる、敬っているといえるのです。ただ、「あなたが神様です」と口先で言うだけが、神様を尊ぶのではありません。イエス様も「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は」(ヨハネ14:21)とおっしゃる。神様のお言葉を大切にする人、それが神様を畏(おそ)れる者、神様を尊ぶ者であります。エデンの園に置かれたアダムとエバ、人の始まりの人たちも神様のお言葉を守っておけば、これは誠に幸いな恵みでありました。ところが、彼らはそれを破って罪を犯しました。その結果、人は呪われた者になった。17節に「更に人に言われた、『あなたが妻の言葉を聞いて』」とあります。神様の御言葉に従わないで、妻の言葉を聞いた。それによって神様をないがしろにした、軽んじた。ここです。

今でも私たちの日々の事柄を通して言えることです。人の言葉や家族の言葉、親しい友人の言葉を優先して、あるいは世間の言い伝えや習慣や先祖伝来から受け継いでいること、それを第一にして、神様のみ声を聞こうとしない。聖書に語られている御言葉を通して、私たちに絶えず語りかけてくださる神様の御思いを無視してしまう。その結果、神様から離れてしまう、そして呪われた者となる。17節「その結果、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」。本来、労働というのはエデンの園にあったとき、一つの楽しみであり、レクリエーションのようなものでした。ところが、それがむしろ苦しみに変わってしまう。18節以下に「地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」。苦労と苦しみの連続の後に、やがて死を迎え、私たちは、土は土に、ちりはちりに帰っていく。これが神様の前に罪を犯し、神様から離れた者の姿、呪われた生涯だと。いま、私たちが生きているこの世界、この世の中は、まさにこのような人生を生きているのです。ところが、神様は「ざまを見ろ、お前たちがそもそもまいた種じゃないか」とおっしゃる御方ではなく、神様はそれでもなお私たちを愛してくださる。ご自分のかたちにかたどって、命の息を吹きいれて生きる者とされた私たちが、神様から呪われた者となって、額に汗をし、苦しみと悲しみ、嘆きの中で生きているのを憐(あわ)れんでくださった。これは神様の一方的なご愛です。やがて、何としてももう一度あのエデンの生活、神様の祝福に満ちた生活へと私たちを造り替え、取り返してくださるために、ご自分のひとり子を世に遣(つか)わしてくださったのです。私たちと同じ肉体をとって、地上の悩み苦しみ悲しみの中を通ってくださった。「ヘブル人への手紙」にありますように「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(4:15)と、またイザヤ書には「悲しみの人で、病を知っていた」(53:3)とあります。私たちの弱さを思いやることのできないような御方ではない、といわれています。神ご自身が人となって世に来てくださった。そして、私のために十字架で命を捨ててくださった。それは神様の呪いと刑罰、神様の永遠の滅びをイエス様が私の代わりに、皆さんの代わりに受けてくださった。

「そんなこと、私は頼んだ覚えはありません」と、子供のときに父にそのように言ったことがあります。「お前のためにイエス様はどんなにつらい思いをしたか」「私はそんなことを一度も頼んだことはない。勝手にしたのでしょう。そして、こっちに有難く思えと押し付けられて!」と、父と議論をしたことがありましたが、偉そうなことを言ったものだと今では思います。本当に、父の言うとおりです。私は親元を離れて、自分でやるぞ!おれはおれの力でやっていこうと思ったとき、いかに自分が力のない者であるか、不安と恐れのなかに置かれました。そして初めてイエス様の十字架は誰のためのものでもない。「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と、今日も主が許してくださる、許されて生きているのだ。このことを知ったとき、私は自分の体中のツッパリが抜けるといいますか、風船がフーッとしぼんでいくような思いがしました。なくて当然であった者、とっくに滅ぼされて当たり前であったものが、主が憐れんで、ご愛のゆえにイエス・キリストをこの世に送ってくださって、あの十字架に命を捨てて、私がまだ生まれもしないときに、私が願いもしない、それこそ「勝手にしやがって!」なんて偉そうなことを言っているそういう私のために、既にイエス様が「父よ、彼らを赦し給へ」と命を捨てて下さった。そして今日も、父なる神様の右にあってご自身の流し給うた血潮を携えて「父よ、彼を赦してください」と執り成してくださる。その主の許しによって生きているのです。自分が生きているのではなくて、許されて生かされている自分です。そのことを知らなかったわけではないのです。それは知っていたつもりです。でも、その方向が違っていた。「父よ、彼らを赦し給へ」と、私は「イエス様があのようにひどい仕打ちをされて可愛そうだ、気の毒だ。自分も皆から誤解されておる。だから、私は皆を許さなければいけない」と思った。「私は立派なのに、私はどこも悪くないのに、私のことを理解してくれない、評価してくれない、正しく自分を受け入れてくれない。あいつがいけない、こいつがいけない。私はイエス様と同じように迫害を受けている。ここはイエス様と一緒になって、自分も十字架にかからなければ」と思った。そんな偉そうなことを思っていた。だから、神様は「そうじゃない。お前こそが許されなければならないのだ。他人じゃない」。本当にそのとき目からうろこです。そうなると、他人のことをどうこう言えない。「あいつがいけない」とか「こいつがいけない」とか「こんなことをされたから、私はこんな被害を受けた」。「こんな取り扱いは不当だ」と思っているのは「自分が正しい」と思っているからです。そうではない、神様の憐れみによって罪を赦され、今日も生かされている。そして、自分のために生きるのではなくて、私たちのために死んでよみがえった方のために新しいいのちとなって生きる者と、神様は私たちを造り替えてくださる。これが私たちの受けている救いであります。

 「マタイによる福音書」14章15節以下に「夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください』。16 するとイエスは言われた、『彼らが出かけて行くには及ばない』」。人が額に汗して働き、自分の生活の糧(かて)を得る。これが世間の生き方、世の中の生き方です。ところが、ここでイエス様が「そうではない。お前たちがやれ」とおっしゃった。「やれ」と言ったって、できないのです。多くの人は「五千人はチョット無理だけれども、一人や二人なら何とかしてやるわ」と思う。そこに落とし穴がある。自分たちでできるのだ、という思いがある。「五千人は無理かもしれない。一人二人なら……」あるいは「おれは5人ぐらいなら何とか面倒をみるぞ」と。自分ができるというところを、イエス様はここで「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃったのです。「できるのか?」と、イエス様が問われたのは、私たちの根本的な生き方です。皆さん、この年になるまで「長いこと生きたものだ」と思いますね。「私の努力のお陰。これだけ苦労したのに、見てご覧なさい、私はあの時あんなことがあった、こんなことがあった。あのなかも我慢してきた。あのなかも耐えてきた。私はただひたすら忍耐、忍耐、忍耐で、頭から足の先まで忍耐ばっかり」と思っている。ところが、家族から見たら「わがままな人やったね」と思われている。皆そのように、自分の力で何とか人生を生きていると思っている。それに対して、夕食を食べることを通して、ここでイエス様が語っているのは、人の生き方、人の存在が何によって立っているのか、人の業は遠く及ばないのだ。できないものなのだ。自分たちの努力で一生懸命にやったかもしれないが、それはあくまでも神様の憐れみである。先ほど申し上げましたように、本来神様に呪われて滅び去って当然の者が、ただ一方的な神様の憐れみとご愛のゆえに罪を赦されて生かされている。私たちはもはや自分の力で生きるのではなくて、私たちを生かしてくださる神様によって、一人一人が今日も食べる糧を与えられ、着る物を与えられ、働く健康を与えられ、住むべき場所を備えられ、どれ一つとって神様によらないものはない。それを私たちは忘れている。自分の力で獲得(かくとく)してきたように思う。「あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである」(3:9)と「マラキ書」に語られています。「神様のものをお前たちは盗んでいるじゃないか」と、全部これは神様のもの。だから、「それをここに持ってきなさい」とイエス様はおっしゃる。「これは私のものだ」「これは私が頑張った」「これは私が一生懸命やった」「これは何とか……」と思っている。それらのものをもう一度、主の、イエス様の所へ持って来る。一切をイエス様の手に委ねる。このときのパン五つと魚二ひき、これは生活の根本です。このときたくさんの人々がいましたが、食べる物はこれしかなかったのです。いうならば、唯一の糧のよりどころです。彼らにとって、これがなかったらその晩は食べられない、空腹で過ごさなければならない、生活の不可欠な、根本的で大切なこと。恐らく、おなかを空かした人たちが我先にとやって来て奪い合って、それを千切ってしまったら、弱い女の人や子供たちは食べられなくて……、今の世の中は、そういう生き方です。「自分の力で生きているなら、やってご覧」。できないでしょう、私たちは食べることに象徴(しょうちょう)された命のよりどころをイエス様の手に委ねなさいと。「それをここに持ってきなさい」。

イエス様は19節に「群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された」。イエス様の手に握っていただいて、神様の祝福を頂く。これが今私たちがすべきことです。いま持っているもの、健康や何にしろ、日々の生活、「自分は年金生活で、月々のわずかな年金しかない。これで何とか食いつないでいかないといかん。いつまで生きるか分からんが、あと10年やろうか20年やろうか、そうなったら困るな、うまくいくだろうか。経済状況を見ると……、年金は減らされるし、会社がJALのようにつぶれてしまったら、退職年金も減るやろうし、困ったな、どうするか」と悩む。「自分の手でやりなさい」と言われた弟子たちと同じです。できないのです。いま残されたわずかなものを自分の手で握っているのではなくて、これをイエス様の手に持ってきなさい、主の手にささげる。ささげる、というと、「え!取られるのか。イエス様から全部取られたらどうするね」と。ささげるというのは、今まで自分の心の中で「これは大切だ」「これはおれのものだ」と思っていたその心を切り替えることです。「イエス様、どうぞ、これはあなたが備えてくださったのです」と、まず感謝する。給料をもらったり、あるいは年金でもきたら通帳を開いて「幾ら入っとった。よしよし、今年はあれをしようか、これをしようか」と言うのではない。そうではない。頂いたら「神様、あなたがこのことをしてくださいました。私のような者を養ってくださって……、これは主のものです」と、まず神様に感謝し、主にささげるのです。心をささげるのです、頂いたものは自分が働いた当然受くべきものとしてではなく、神様が私たちに備えられた祝福の賜物であることを感謝して、主の手にささげて、「イエス様、こうして頂いたものであります。主よ、これをあなたの御手にささげます。このわずかなものですけれども、どうぞ、主よ、あなたの御心のままに導いてください」と。与えられたものの使い方の一つ一つのなかで、キリストの御思いに従う。イエス様の御心に従って、それを使っていく。自分のしたいこと、自分の好きなこと、自分の願っていた計画どおりにチャンチャンとやっていこうというのではなく、「これは神様のものなのだから、主のものをどう使っていくか。神様がいま私に備えられたものだから、これをこのことのために使うべきでしょうか。このことには必要でしょうか」と、常に「それは主のものです」と、イエス様の手に委ねる。「それをここに持ってきなさい」とおっしゃるイエス様の手に握っていただく、そうやって一つ一つ祈りつつ生活してご覧なさい。与えられたものを祈りつつ使ってご覧なさい。わずかと思えたものがひと月たって見ると、何と豊かな思いもかけないほどの恵みであったかと感謝できます。それがないと、ひと月終わって、「今月も足らなかったね」。具体的にどこにも足らないことはないのだけれども、心が乏しくなる。そして「もうちょっと、景気が良くなってくれんかな」「もう少し年金も増えてくれんかなぁ」と、物欲しげな心になる。そのいちばんの原因は、私たちが「たったこれだけ」と思えるものを、イエス様の手にささげないからです。まずイエス様の御手に自分の一切をささげて、神様の祝福を受ける。祝福にあずかる道を選び取っていく。これが大きな恵みです。そこの後を読んだらお分かりのように、5千人以上の人が満腹するほどに、有り余るほどに豊かな、豊かな体験をします。

私自身も、こうして献身に導かれ、牧会伝道をして、この福岡に遣(つか)わされて、今年で満25年になりますが、この25年の生涯を振り返ってみて、こんなに恵まれた豊かな人生はなかったと思っています。それまでだって、以前大学に勤めていたころは、それなりに収入はよかったのです。ところが、そのころは今ほどに豊かだったかというと、豊かじゃないのです。いつも乏しかった。「何だ、たったこれだけか」という気持ちがいつもありました。ところが、今はその当時の年収どころか、何分の1かになりましたが、でも実に豊かです。全部これは主のものですから、私がどうこうすることではない。いつも必要なときに必要なものを必要なだけ、神様は備えてくださって、一ヶ月、一年たってみて清算したときに「どうして、このように神様は恵んでくださったのだろうか」と驚くばかりです。神様のなさるわざというのはそうです。神様の手に持っていく。これが秘けつです。

18節に「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。皆さんが乏しくなって、あれをケチろうか、こっちをケチろうかと、ケチケチケチケチとなるとき、イエス様の所へ持っていかないからです。まず、神様の祝福にあずかる。この道を選び取っていきたいと思う。神様が祝福してくだされば、乏しいことがない。いや、それどころか有り余るほどに豊かな神様の御業を味わい知ることができる。この御言葉にありますように、「それをここに持ってきなさい」、イエス様の祝福、神様の祝福を求めようではありませんか。人からの報いや人から何かしてもらうことじゃなくて、神様は私を祝福してくださる御方です。

最後にちょっと触れておきますが、先々週、信徒会でヤコブとエサウとについて学びました。皆さんにもプリントが配られていると思いますが、あのなかでヤコブが求めたものは何であったか? 家督の権利が語られていましたが、実はいちばんヤコブが欲しかったものは、神様の祝福だったのです。祝福の民、「ガラテヤ人への手紙」には「信仰によってアブラハムと同じ祝福に私たちもあずかっているのだ」(3:8、9)と語られています。そのことをまた機会がありましたらお話をしたいと思いますが、実は私たちは祝福の民として選ばれているのです。その具体的な祝福を体験するには、まず「それをここに持ってきなさい」。イエス様の所へすべてを持って行って、「主よ、どうぞ、あなたのものです」とささげる。そして、今度はイエス様から頂いたものとして、神様が託してくださったものを御心に従って使っていきますならば、健康や時間や経済にしろ、どんなものでも豊かに有り余るほどの恵みのなかに主は恵んでくださいます。

今日も皆さんに主は「それをここに持ってきなさい」と待っておられます。皆さんが、「これはどうしようか、こんなに足らない。今晩困ったなぁ。これはすぐにありそうもないし、あそこはこうだし……」と悩むとき、それを主に持って来て、神様の祝福を受けたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。