いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月3日 日々の聖言

2014年09月03日 | 日々の聖言

「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、

御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」エペソ1:5 



イエス様の救いとは、私達を神の子にして下さることです。子であれば、全ての責任を親である

神様がもって下さいます。子は安心して親に任せておけばいいのです。これほど幸いなことはあ

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聖書からのメッセージ(310)「目を覚まして生きよ」

2014年09月03日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」25章1節から13節までを朗読。

 13節「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。

 これはイエス様がお話なさった譬え話です。10人のおとめが花婿を迎えに出ることになりました。婚宴が夜行われるので、彼女たちはともし火、あかりを用意して花婿の到着を待ちます。10人のうちの5人は思慮深い者、後の5人は思慮の浅い者と語られています。当時のあかりは油を使います。ともし火皿に布切れか何かの芯を置いて、火をともしますが、油が消費され、無くなってしまいます。思慮深い人たちは予備の油を用意したのです。ところが5人の思慮の浅い者たちは油の用意をしていなかった。すぐに来るだろうと思った。しかし、花婿の到着が遅れた。今のように、携帯電話もありませんから、来た時がその時です。いつになるか分かりません。待っていたが、到着しないので居眠りしてしまったのです。やがて花婿が到着し、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と言う声を聞いて、目を覚ましたところ、あかりが消えかけていた。思慮の深い者たちはすぐに予備の油を注いであかりを輝かす。ところが用意していなかった人たちは大慌てです。持っている人に「分けてくれ」と言ったけれども「二人に使う分だけはない。だから早く急いで買いに行きなさい」と言われて、出かけている間に花婿が到着してしまった。そこにいた者たちが婚宴の部屋に入って、「そして戸がしめられた」と10節の終わりにあります。戸が閉められてしまった。急いで帰って来た5人は「ご主人様、どうぞ、あけてください」と言うのです。ところが、ご主人の返事は、12節に「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と、非常に厳しい。情け容赦もない。考えてみると、知らないはずはない。ここに所属の人で迎えに出ているわけであるから、5人足らないから待ってやろうという親切心はないのかと思ってしまいます。

これは世の終わりの時、すべてのものが神様の前に裁かれるべき時がくる。その時のことを譬えているのです。いつ来るかは分からない。「終末」、「終わりの時」とよく言われますが、確かにそのとおりだと思います。すべて存在するものは必ず終わる時がある。終わらないものは無い。何百年も続いているからこれから先も続くかというと、千年たったもので消え去る、失われていくものもあります。何億年かかかって消えていくものもあるでしょうし、いずれにしても、時間の長い短いはあるにしても、必ずすべてのものは消え去る、終わる時が必ず来ます。

もちろん、私たちの人生も必ず終わる時が来るわけで、それはいつであるか私たちは分かりません。大抵自分の親が死んだ年を数えて、そのあたりが自分の寿命じゃないかと推測をします。でも、ここにいる方はそれを超えてしまって、生きていて申し訳ないと思っているかもしれませんが、私の知っている方は母親が80歳くらいで亡くなったそうで、自分もきっとそうなるに違いないと思い、「死んだら、こうしよう、ああしよう。死んだ後の人のためにどうしよう」と着々と準備をしていました。ところが、だんだんその年が近づいてくると、うつ状態に陥(おちい)りまして、元気がなくなってしまった。今でもそういう方がいらっしゃる。ある男性の方ですが、お父さんが73歳で亡くなったのです。今その方が69歳です。「おれの寿命はあと4年だ」と、家族にそう言うのです。「あと4年しかないから・・・・・・」と。「お父さん、そんなことはやめなさいよ、体に悪いから」とか「こういうことはやめなさい」と家族が言うと、「おれの寿命はあと4年やから、好きなように生きたい!」と言う。4年で終わってくれればいいのですが、その先残った場合どうするのかと思うのです。確かに終わる時が来るに違いないけれども、それがいつであるか、これは誰も分かりません。

このときもイエス様は、13節に「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」と。私たちのこの地上での命がいつ終わるのか、これは分かりません。それと同じように、私たちの住む地球も天体も宇宙も、すべてのものが終わる時、終末の時が来ることも、これは確かですが、それがいつであるか、私たちには分かりません。だから24章にイエス様がそのことについて少し語っています。

24章3節「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、『どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか』」。ここで弟子たちがイエス様に、終わる時が来ると聞いて、その時どんなことが起こるだろうか、それを前もって知る、予兆、前兆、そういうものが分かっていれば備えることができる。だからよく地震予知連絡会など、東海沖大地震の警戒だと言いながら、もう何十年か過ぎていますが、こういうことが起こったら大地震がくると、いろいろな方法で何とか知りたいと探っていますが、これは分からない。こういう方法だ、ああいう方法だと、いろいろなことを言いますが、一度として当たったためしがない。思いがけないときに、思いがけないことが起こります。

福岡での数年前の地震でもそうです。福岡に地震はないと長年言われてきました。福岡に来るまで、名古屋に住んでいました。名古屋は東海沖大地震の警戒区域です。ですから毎年9月1日の「防災の日」には大掛かりな訓練がされる。各家庭にそれぞれ防災用具という非常用具が用意されている。その中には乾パンであるとか、炭、懐中電灯であるとか、いろいろな道具が入った袋を用意する。家内は非常に用心深いほうですから、いつもそれを用意する。朝起きて地震になって、はだしだといけないからと言ってご丁寧(ていねい)に靴をベッドの横に置いている。それはほかの人も同じようなことをしているのです。年に一度、9月1日には自分たちが常備している緊急物資を点検する、あるいは入替えをすることをやっておりました。福岡に来まして聞いてみると、「へえ!何でそんなことをするの?」と周囲の皆さんから笑われたのです。私どもはだんだんとそれをしなくなって、火災保険を扱う方に聞いてみると、名古屋のほうでは地震保険は必ず入らなければいけない。これは義務化されています。ところが、福岡に来て「地震保険はどうなっていますか?」「え!そんなもの、ここでは要りませんよ」と言われたのです。「そうか。ここはそれほど安全な所か」と思ったところが、何とドカン!と来たでしょう。すると今になったら「また来るぞ」「また来るぞ」と、今度は、えらい早いなと思いますが、あそこに活断層、ここに活断層、言われてみると家の周囲あちらこちらに活断層があります。この辺でも遠賀川のあたりにあるらしいですよ。だから、北九州も大丈夫とは言えなくなってきた。日本中どこを見てもそうでしょう。つい昨日も北海道の方で地震があって、更にその後はサモアですか、南の島の方で地震があった。いろいろなことがいつ起こるか、これは分からない。

だから、弟子たちもここで「どんな前兆がありますか」と聞いています。それに対してイエス様が4節以下に「そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい。5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう』」。偽(にせ)キリストが登場するという。本当にそうです。自分がキリスト、救世主、救い主だと言う。そういうのがおりますね。それから6節に、「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう」と。いろいろな戦争が起こると。今はまさにそうです。今まで戦争が絶えたことがありません。ただ、この時イエス様は、6節後半に「注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない」と。「まだ終りではない」と。言うならば、終わりの始まりということでしょうか。7節以下に「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」。まさに現在の私たちの住んでいる世の中の姿であります。その前兆といえば前兆です。だからといって「まだ終りではない」とイエス様はおっしゃる。確かに世の終わりが近づいていることを知りますが、だから、それで終わりではないと。

その先32節以下に「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と。木々の変化、自然の変化によって季節を見分けます。ことに日本は春夏秋冬という四季がはっきりしていますから、こうなったらこうなる。日の暮れが早くなったり、日が長くなったりとか、あるいは木々の紅葉であるとか、新緑であるとか、雲の形、そういうものの変化によって季節ごとの前兆として、前もって感じ取ることができる。「もうそろそろ秋だな」とか、「木枯らしが吹き始めた。冬がやってくるぞ」と感じる。イエス様が言われたような事柄、戦争であるとか、地震であるとか、あるいは様々な不法、悪がはびこって世の中が乱れてくる。愛が冷えて国が国に、人が人に相逆らい、相戦い、相争うような時代になるという、まさにそれは世の終わりの時が近づいている、これは前兆である。だから、33節に「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。「人の子」とは主イエス・キリストです。終わりの時、救い主としてベツレヘムに生まれてくださった主が、今度は裁き主として、私たちすべてのものを裁かれる御方として来られると語られています。そして、34節に「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」。すべてのことが全部終わった後に、最後が来るのだとイエス様はおっしゃいます。ただ35節以下に「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と。どんなことがあっても変わらないものは神様の言葉、わたしの言葉だとイエス様はおっしゃいます。イエス様の言葉、言うならば、神様の御言葉は確かだから、その御言葉にしっかりと私たちがくっついていく時、世の終わりを通り抜いていくことができる。

今、いろいろな国が協力して計画している宇宙ステーションというものがあります。先だっても日本人の飛行士、若田さんでしたか、出かけて何十日間か滞在をいたしました。そこへ行くには何も着けないで手ぶらでスーッと行けるわけではない。宇宙に行きますと、宇宙空間は全くの真空状態ですから、人間は一瞬たりとも生きられません。ですから、いろいろな特殊な装備を付けたものを身にまといます。それに完全に囲まれるのです。あるいは宇宙船であるとか、そういう特殊な飛行物体の中に入らなければ生きられません。宇宙空間には様々なものが降り注いできます。放射線もありますし、太陽光もありますし、太陽の光に照らされたら何百度という高熱になります。地球は太陽が当たって、夏場になると36度か37度で「暑い」「暑い」と言いますが、それだってまだ地球は大気圏という空気があって、太陽光線を和らげるからその温度で留まる。ところが、そういう空気のない宇宙空間に行きますと、もろに太陽の熱をそのままに受けますから、それこそ焼け焦げてステーキになるかもしれません。だから、そういうものに耐えられるものに身を置くのです。そうすると命を全うすることができます。

イエス様が「わたしの言葉は滅びることがない」というのは、そのことです。何があっても、世の終わりの時が来ても滅びることのないイエス様の言葉の中に自分を置いていくこと。言うならば、イエス様の言葉が宇宙を遊泳する特殊な飛行物体にも負けない器です。私どもは弱い抵抗力のない者ですから、そこに入り込んで、その中に覆われてしまう。そうすると決して滅びることはない。全くそのとおりであります。何が来てもそれをつぶすことができない。だから「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」のです。イエス様が語った言葉、神様のお言葉の中に私たちが入り込んでしまう。そうすると、御言葉によって私たちが守られる。世の終わりの時が来ても恐れない。すべてのものが失われていくときにも、決して失われない。御言葉の力によって私たちが守られるのです。だから、私たちはいつもその神様のお言葉に絶えず自分を結び付けていくこと、これが力を得る秘けつであります。

そして、25章1節以下の10人のおとめの譬えであります。このうち5人は思慮深くてその備えをしていた。花婿が来まして、早速その婚宴の部屋に入ります。その後、戸が閉められてしまった。その時に、この主人が「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と、油を買ってやって来たあと残りの5人の人に言いました。これは何か厳しい過酷なようですが、やがて終わりに裁きの時が来ることです。すべてのものが終わって、すべてのものが滅び去っていく。その滅びの中に落ち込んでしまうかどうか。これは大変厳しい瀬戸際であります。あいまいさがない。だからここで「ご主人様、そう言わないで、あなたのためにこうもした、あれもした。私たちはあなたを知っているではないですか」と言っても無駄です。「そうか、そう言うなら、5人は無理だから、1人抽選で入れてやろう」とか、そんなあいまいなことはない。はっきりしています。

24章40節以下に「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」。ここに二人の者が一緒に畑にいる。同じ仕事をしている。Aさん、Bさん、どちらも見分けがつかない。している作業も同じだし、着ている物も似たようなものでしょう。どちらがどうか分からないけれども、しかし「そのとき」、人の子の現れる時、終わりの時、裁きの時には似たようであっても、「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」。そこにはっきりと分けられる。これは確かなことです。私たちはそのような神様の厳しいはっきりとした裁きの前に立つときが来るのだと言われています。その後「ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」。「うすをひく」とは、昔、田舎に行きますと石うすがありました。大きな石が二枚重なったもので、そこに穴が一つ開けてあって、麦だとか米だとか粉にする物を入れて回す。小さなうすだと一人でごろごろと回しますが、大きなものになるとお互い向かい合って、二人で引いて押して、引いて押してと、二人でやる。その作業をしているうちの、二人とも同じことをしていながら「ひとりは取り去られ、ひとりは残される」。これは実に厳しい選択です。ですから42節にも「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである」。「目をさましていなさい」とここで語られています。

そして、同じことが先ほどの25章13節に「だから、目をさましていなさい」と。これはこの集会中、居眠りをしてはいかんといっているわけではありません。「目をさましていなさい」とは、備えておきなさい。常に自覚していくこと、終わりの時がいつ来ても大丈夫なように絶えず心配りをする、自覚をすることです。眠ってしまっていると、いつ何が起こっても分かりません。何だかメリハリがない、ヌルッ過ぎてしまう。私も経験がありますが、昼間の疲れで、やれやれ朝の仕事も終わって、ちょっとテレビでもなんて座ったらウトウトとして、「何にも今日は用事がないな。テレビでも見よう」と、テレビだけがついていて、本人は眠ってしまう。ヒョッと気がついたら、あっという間に1時間2時間たってしまう。自覚していないと時間の経過すらも分からない。だから、常に「目をさましておく」。絶えず自覚して生きる。では、何を自覚するのか?それは、私たちがいつも神様のものとなっていること、救いにあずかった者であること、神様が求めておられることを自覚するのです。

だから、25章14節以下には「タラントのたとえ」をイエス様は語っています。5タラント、2タラント、1タラントを預けて、主人が旅に出て行きます。5タラントの人は5タラントをもうけます。2タラントの人は2タラントをもうけて、しばらくしてご主人が帰って来る。その清算をするときが来る。そのとき5タラントを預かった人は「ご主人様、喜んでください。5タラントをもうけました」と、2タラントの人はさらに2タラントを儲けて持って来ました。ところが、1タラントを預かった人は「ご主人、あなたは過酷な人ですから、これを土の中に埋めておきました。これはあなたのものですから」と、預かった1タラントを持って来た。ところが、「悪い怠惰な僕よ」と言われた。なぜか?主人が1タラント、2タラント、5タラント、それぞれの能力に応じて預けたのは、主人の意図、目的があるのです。それを果たしたかどうか。これが忠実であるか、怠惰であるかの大きな境目です。預かったから、そのままに減らしもしない、増やしもしない。全くそのままで返した。これでは何のためにご主人が預けたか、その意図を、目的を果たしていない。イエス様の尊い命をもってあがなわれ、救いにあずかった。それはただに私たちが自分の安心のため、言うならば、自分の利益のために救いにあずかったのではなくて、神様が私たちを救ってくださった目的がある。神様は私たちを滅びの中から救い出して、神の民、神の子としてくださった。その託されたタラント、神様が期待していることがある。それを果たす者となること、これが「目をさましていなさい」ということです。目をさましていないと、それを忘れてしまうからです。毎日の生活で、世の中の事柄に心を奪われ、思いが捕らわれ、神様の民であること、自分の身分を忘れる。神の子たる身分を授けたと言われ、神様は私たちが神の子と呼ばれるために大きなご愛を注いでくださった。それ程までして、神の子としてくださったのは、確かに私たちにとって誠に最高の幸いな身分であると同時に、神様が私たちに期待していることがある。私たちに願っていることがある。それは何か? 神の子供として、神様に仕える者として、神様の御心に私たちが日々従うことでしょう。私たちが絶えず神の子としての使命を全うしていくこと、これが「目をさましていなさい」ということです。私たちはそれを忘れて、この世の人と同じになってしまう。あるいは神を知らない者のごとく、日々を生きているならば、それは居眠っている状態。言うならば、予備の油を用意していない思慮の浅い女と同じなのだとイエス様はおっしゃるのです。だから、いつもどんなときにも、常に主を求めて、神様の救いにあずかった者として、それにふさわしい生き方はどういうことなのか? 私に求められていることはいったい何なのだろうか? そのことを絶えず、絶えず問いかけていく。神様に求めて、主の御思い、主の御心、そのことを確信していくことです。「そうだ、今このことは、神様が私に求められていること、私がなすべきこと。このことを通して、私は主に仕える者である」と、絶えず自覚していくのです。それが「目をさましていなさい」ということです。私たちのこの地上に残された生涯は、そのためのものであります。ただに私たちが五体満足、健康で元気で生きることが、私たちの目的ではありません。神の子として、尊いイエス様の命を代価としてあがなわれた者として自覚をもって生きる。私をあがなってくださった、私の所有者であり、主でいらっしゃる御方にどのように仕えているか、これが第一の課題であります。それを求めていくのです。自分の心のままに生きるのではなく、思いのままに日々を過ごすのではなくて、常に私は主のものです。「あなたはわたしのものだ」と、神様が私たちをあがなったと言われるのですから、その神様の救いにあずかった者として、日々、残された地上の旅路を「目をさまして」しっかりと自覚して、その目的にかなう者として一日一日を歩んでいくこと。これが私たちにいま求められていることです。やがてその終わりの時が来たときに、悔いのない人生の終わりを迎え、「ここまで主に仕えることができて感謝します」と。だから、私たちはこの地上にあって、なおいろいろな状況、事柄の中に置かれるでしょう。格別、年を取ってきますと、いろいろな不自由な状態、思いもかけない願わない状況や事柄の中に置かれますが、まさにそこでこそ「目をさまして」と自分を励まして生きることです。「自分の思いどおりでない」とか「願いどおりでない」と言ってつぶやくのではなくて、神の子として、あがなわれた者として生かされている使命、その目的がどこにあるかを絶えず自覚して、祈りつつ御言葉に結びつくことを努めていく。それがいま私たちに求められていることです。

スリヤの将軍ナアマンが病気のためにエリシャ先生の所へ来て祈ってもらう。「ヨルダン川で七たび身を洗いなさい」と言われて、身を浸しました。すっかり癒されてナアマン将軍は大喜びをしたのです。そして、自分が持ってきたいろいろな贈り物、謝礼をエリシャ先生にあげようとしたところ、エリシャ先生は「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」と言って断りました。この将軍は大変感謝して帰って行きました。ところが、不満だったのは召使のゲハジでした。彼はソッと、エリシャに内緒で後を追っかけて行く。そして将軍からいろいろな物をもらう。「預言者の仲間が来るから、その人たちにあげたいから……」とか言って、いろいろな物をもらう。ナアマン将軍は大変喜んで、「もちろん、それならどんどん持って行きなさい」と、運び手に部下までつけてくれて、持って帰りました。すると、家の近くになったとき、ゲハジが「もう、ここでいい。あなたたちは帰ってください」と言って、もらった物を家に運び込む。知らん顔をしてエリシャ先生の前に出た。すると、エリシャ先生が「ゲハジ、おまえ、どこに行っていたか」と「いいえ、どこにも行ってはいません」「いや、お前の行っていたのは分かっている」と。そのときに先生が言われたのは、「今は金(かね)を受け、畑をうけ、また様々な物を得るべき時であろうか。今は何をすべき時か、お前はよく分かっていない」と言われ、「だから、お前はナアマン将軍と同じ病気になってしまう」と言われ、とうとうゲハジは気の毒にも病気になってしまう。「今は主を求むべき時ではないか。あなたはいろいろな物を求むべき時なのか」と。

今はどういう時なのか。今は何をすべき時なのか。いろいろなことの中で絶えず、主を求めて、主の御旨に従う。主の御心にかなう者になっていきたい。そのために13節「だから、目をさましていなさい」と。いつも自覚して、絶えず力を尽くして、一日一日を「今日も全く主にお従いすることができました。神様、あなたの御心に従うことができました」と、心から感謝できるような一日を送りたいと思う。そのような日々を重ねていくとき、いつ何が来ても恐れません。「人の子よ、帰れ」と、主が私たちを天に召されるときが先になるか、あるいは終わりの時がくるのが先なのか、これは分かりませんが、どちらにしたって、もはや何も恐れることは要らない。神様が私たちを見ておってくださる、知っていてくださる。必ずそれに報いてくださる御方です。

タラントの記事にありますように、主人が帰ってきて「宜(よ)いかな、善なるかつ忠なる僕」(文語訳)と、「主人と一緒に喜んでくれ」と、そして、もうけたものまでも全部、その人に主人は与えてしまう。私たちもこの種の報いにあずかることができるようになりましょう。

 最後に、25章31節から40節までを朗読。

 これは終わりの時に神様がどのように報いてくださるかについての譬え話です。このとき、右と左に分けられます。そして右にいる人々に対して「祝福された人たちよ」と、王が祝福を与えてくださる。人の子、キリストが私たちにその恵み、報いを与えてくださる。それは実に小さなこと、本人がそうしたとは気づかないような事柄です。「いつ、いったい私はあなたのために何をしたでしょうか」と聞いています。私たちがしている小さなこと、誰のためとも知らないが、主のためにと、救いにあずかったものとしての自覚を持って生きた日々が、取るに足らない小さな目にも留まらないようなことであっても、その一つ一つを主は見ておられる。知っておってくださるのです。ですから、神様に大きなことをせよ、と言われてもできませんが、しかし、日々、小さな主に仕える業を積み重ねていきたい。やがてのとき、このように神様は私たちに報いてくださるからです。

 そのために今日という日がある。今日、今という時がある。「今は主を求むべきとき」。もう一度25章13節に「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。私たちにはその日その時がいつどうなるか分かりませんが、今、今日という時を、目をさまして、自覚して、神の子として、神様の使命に生きる者、神様が私たちをあがなって、立ててくださったその所に、私たちはそのような者として全力を尽くして生きて生きたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。